二、見聞
自ら希望した小雪を部屋に残し、蒼馬は俗術禁書と日の丸をつれて大学に向かった。
昼に授業を終えた蒼馬が真っ先に行ったのは
「高原研究室」。ノックもおざなりに彼は研究室へと足を踏み入れた。
「隆司さん、います?」
「おぉ、蒼馬か。どうした? 珍しいじゃないか」
高原隆司。蒼馬の父、梁汰の弟であり、民俗学研究室の助教授である。祖父の研究を継ぐようにして研究者になった彼だから、蒼馬は祖父の本であるという俗術禁書を持ってきた。
それを受け取った隆司は目を細めて、ゆっくりページを捲る。途中で、何度か確かめるようにページを戻し、全てを見終わった彼は蒼馬に向けて禁書を差し出した。それを受け取ると蒼馬は早速質問を開始する。
「じいさんもこれ持ってたんですよね?」
「…そうだね。頻繁ではなかったけど、小さい頃に恐い話と一緒にこれを見せられたな。軽いトラウマになるぞ、それは。しかし、お前だったとはな」
「何がです?」
「それが使える奴がってことさ。まぁ、欠番がいるけどな」
「あ、それ、小雪さ…、じゃない。雪乙女が言ってた」
「ほぉ、彼女がね」
「知ってるんですか?」
驚いてつい大声を上げると、隆司はそんないいもんじゃないよ、と手を振った。
「……彼女は俺の初恋の君だからな。すっかり騙されたよ。叶わないにもほどがある」
初恋が妖怪とはなんとも珍しい経験をしたものだ。
隆司はその当時を思い出したのか、窓の外をぼんやり見つめていた。しばらく声をかけるべきか迷ったが、その逡巡の間に隆司は思考を切り替えた。
「まぁ、いいやな。それで、欠番だけど、二項と二十四、三十八、それから四十六項がいない」
「そんなこと、分かるんですか?」
「あぁ、何、簡単なことさ。こいつらは皆生きてるからな。呼吸が感じられないのはいない証拠だ。つまり、今、狐火と雪乙女のページにも呼吸は感じられない訳だ」
言われて蒼馬は禁書の紙面に指を這わしてみたが、呼吸どころかなんの気配も感じることができなかった。
ふぅ、とため息を吐いて禁書を閉じた彼を見て、隆司は蒼馬がまだ分かるところにまできていないのだと悟った。
「まぁ、焦る必要はないよ。狐火がなんと言おうともね」
「……隆司さん、日の丸、…狐火のこと見えてるんですか?」
「あぁ、ばっちりな。いつも通りにくそ生意気な顔もな。お前の守護か。大変だぞ。頑張れ」
気の毒そうな視線を一身に浴びて、蒼馬はいたたまれなくなり、退出を申し出た。にやにやと笑みながら手を振る様子は死んだ祖父にそっくりだと彼は思った。
研究室を出た蒼馬は構内をぶらぶら歩きながら、肩車をした日の丸にいくつかの質問を試みる。
「日の丸、…お前、隆司さんに会った事あるか?」
『おぅ。あるな。だが、その時俺の姿が見えていたかどうかは知らんぞ』
「は? だって小雪さんの事は見えてたらしいじゃないか」
『そうだろうな。雪…、小雪は誠吾の守護だったから頻繁に呼び出されていたし、第一、俺たちは妖力を加減することができる。つまり、人に姿を見せるか見せないかは、自分で決められるんだ。ただ、今お前の前で隠れることはできないが』
「それはなんで?」
『……主人だからな』
言う声には覇気がない。初対面から生意気だった日の丸の様子に初めて可愛らしい部分を見て、蒼馬は顔がにやけるのが抑え切れずに、にやけたまま肩に乗った足を撫でていた。
『それよりお前、少し黙った方がいいぞ』
「ん?」
『言っただろう。人から姿を隠すことができると。今、周りの人間からは俺の姿は見えてないはずだ』
その言葉に蒼馬が周りを見回すと何人かはあからさまに彼から視線をそらした。日の丸が見えなければ、蒼馬は独り言を喋る可笑しな野郎にしか見えない。まじまじと見るのではない、但し、確実に感じられる視線に溜め息を吐いて、今度は極力小さな声を出した。
「それにしても、隆司さんはどうしてこれの欠番が分かったんだ?」
『隆司が言っただろう? 呼吸だと』
「それは分かったさ。そうじゃなくて、俺が分からなかったんだぞ? 隆司さんにそういう力があるなんて聞いたことない」
『別にお前に言う必要もないだろう?』
確かにそうだと思いながらも、蒼馬は納得出来ずに口をつぐんだ。何にせよ、隆司には何かありそうだと胸の内で呟き、彼は自宅への道を歩いた。
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自宅のアパートのドアを開けたとき、彼は自分が死んだのではないかと錯覚した。呼吸が止まり、身体はドアを開けたまま凍りついて動かない。
玄関には一組のミュール。ピンク色のそれは確かに、女物である。
「…おかえり、そうちゃん。ちょっと、説明してもらっていいかしら?」
玄関の開く音を聞き付けたのか、居間から瞳に強い光を宿す女が出てきた。彼女は満面の笑みを浮かべたまま、壁に手を置いた。その指が神経質そうに壁を叩く。叩く。叩く!
壁に穴が開くのも時間の問題のような気がして、蒼馬は大人しく対応をしてみる。
「…なんでございましょう。聡美お嬢様」
「からかわないで」
「からかってなんかないよ」
「どうだか。じゃあ、どうして私以外の女のコがここにいるの? しかも、あんな恰好で」
壁から手を離した聡美は居間の方を軽く顎で指し、腕組みをした。
彼女が言いたいのは小雪のことであろう。
さて、本当のことを話すとして、彼女は信じるだろうか。
「さて、何て言ったものかね。とりあえず、居間に行こう。飲み物は何がいい?」
「……ミルクココア。冷たいのがいい」
蒼馬のそっけない反応が彼女の不安を誘う。泣きそうになるのを堪えて彼女は静かに返した。
そんな彼女の心情を察したのか、蒼馬はそっと聡美の手を取って台所に向かった。
蒼馬が入れたのは、ミルクココアと緑茶が二つ。小雪は飲むかどうか分からないから、少量しか注いでいない。
「小雪さん、お茶飲めますか?」
『えぇ、頂くわ』
「そうですか。さっちゃん、座って」
警戒しているのか、蒼馬の背後に隠れていた彼女を前に押し出して座らせた。彼女は大事そうに両手でコップを持っている。
彼女を横目に蒼馬は鞄の中から俗術禁書を出し、十五項目を開いた。そして禁書を聡美の目の前に差し出す。
「さっちゃん、これが、彼女だよ」
『そう。雪女。昔話とかで聞いたことはない? 雪山で遭難した人間を殺すの』
「まさか…、嘘でしょ?」
「じいさんの遺産、だよ」
蒼馬は頭に乗っていた日の丸を抱き上げて、聡美の目の前に差し出す。
「日の丸、出ろ」
蒼馬の一言で、彼の掌が一瞬ぶれる。現れたのは首根っこを掴まれた狐だ。
「これが俺の守護なんだって」
『これって言うな! 失礼な奴め! …聡美嬢、驚かせてしまって申し訳ない。これも、こいつの運命なのだ。小雪のことは、まぁ、許してやってくれ。いつも、あの恰好だ』
掴まれたままそう、深々と頭を垂れて謝るのはちょっと滑稽だった。
可愛らしい容貌と古めかしい言葉遣いのギャップに聡美は堪えきれずに小さく吹き出してしまった。
『やっと笑われたな』
「ごめんね、びっくりさせちゃって。俺もきちんと説明できればいいんだけど、如何せん昨日のことだから、ね」
「ううん。大丈夫。そのかわり、小雪さんに手出しちゃ駄目だよ?」
聡美の真意を計り損ねて蒼馬は首を傾げたが、そんな彼を横目に、聡美は帰宅を宣言した。その顔はいつもの快活な彼女らしくて、蒼馬はほっと胸を撫で下ろした。
「じゃあ、また明日学校で。その時にまた色々聞かせて」
「送らなくて大丈夫?」
「うん、平気。小雪さん。そうちゃんのこと、よろしくお願いします」
『いいぇ、聡美ちゃんこそ道中お気を付けて』
「えぇ、ありがとう」
じゃあ、と手を振って出ていく彼女を玄関で見送って、蒼馬はゆっくりドアを閉めた。
「驚いただろうな」
『すぐに受け入れられるものではあるまい。……色々と時間が必要だろう』
『大丈夫よ。聡美ちゃんなら。あの子強いもの』
「自信満々っすね」
『ふふん、私の勘は良く当たるのよ。それより、蒼馬は聡美ちゃんを不安にさせないように知識もつけなきゃね。彼氏なんだし』
「えぇ、まぁ。……って、なんであいつが彼女だと?」
『分かるわよ。お互いのやり取りを見てたらね。付き合ってなくても、お互いのこと好きなんだな。って分かるわ』
「……完敗です」
蒼馬は両手を上げると居間に戻った。そこで机の上に置いてある俗術禁書が目に入り、瞬間ぞくりと身体が震えたが武者奮いだと感じていた。
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