序、俗術禁書
三月のうららかな春の日、学生という身分に分類される者はまだ春休みという名目で遊びほうけているというのに、伊上蒼馬<イガミ ソウマ>は大学の図書館で唸っていた。
「見付かんねぇな。どれもこれも都市伝説ばっかり」
彼がいる棚のカテゴリーは「怪奇/伝承」。手に持っている本は上から「怪」「水木しげる」「遠野物語」だ。
そう、何を隠そう彼はオカルトマニア!……、ではなく、この大学の文学部に所属する三回生だ。専攻が民俗学で卒論のテーマに近い書物を探していくと、上記の三冊が目に入ったのだ。
ちなみに卒論のテーマは「現代における人と妖との関係」について。何故そのテーマにしたのかは長くなるから割愛する。
蒼馬は人知れずため息を吐き、三冊を閲覧コーナーの机に置く。予備調査の心持ちで読み始めると途端に閲覧コーナーにいた女生徒たちがいろめきたった。
彼はそう黙っていれば美形なのである。茶色に染まった髪が風になびき、細身のフレームの眼鏡が彼の知的さを高め、そして、瞳は少し細められて彼の鋭さを際立てている。加えて静謐な雰囲気の中、節ばった長い指がページをゆっくりと捲る。
厳かな空気さえ漂う彼に女子たちが羨望の目を向けないことがあろうかっ!!
しかし、だがしかし、それも、彼が黙っている間だけなのだ。元来の男らしい大雑把な性格が全てを台無しにしてしまう。
そうしてしばらく黙って読んでいた蒼馬だったが、内容が合わないのか、つまらなかったのか、本を閉じて席を立った。
そのまま三冊を片手に掴んで今来た道を引き替えした。その雄々しいこと、女子たちは厳かな雰囲気をぶち壊した本人にため息を吐いて、皆各々の勉強に戻っていった。
そうして手に持った本を二冊棚に戻し、三冊目、と振り返ったところでふと、蒼馬の目に一冊の本の背表紙が飛び込んできた。
片手で本を返しながら、目線だけは、しっかりと背表紙を追っていた。
その本は背表紙自体が酷く変色しており、それだけでは題名が読めない。蒼馬は両手で慎重にその本を取り出した。
古めかしい黒縁の表紙の上方部に右から「俗術禁書」と横書きに書かれていた。出版されたのも相当昔なのだろう。
蒼馬はその本を開こうとして表紙に手を掛けたが、
「ん? 開かない」
それもそのはず、表紙の中ごろに表から裏に掛けて汚れた白い紙が貼ってあったのだ。しかも、良く見てみるとその紙の表面にはなにやら文字が書いてある。
「もしかしなくても、これお札だよな?」
普通の人間ならば、ここでそれには触らない。だが、蒼馬はなんの躊躇いもなく、札の端を持ち上げた。
途端に札が燃えて、彼は本を落としてしまった。本の角が床にぶつかる音がやけに響く。はっと周りを見回すと、全員の視線が蒼馬に向いている。まさか、本まで燃えてしまったか、と恐る恐る下を見てみると表紙には燃えたような後は何処にもなく、ただそのままの姿で床に寝そべっていた。
「何もないんかよ。マジびびった」
本を拾い上げ、表紙を開けると今度は縦に「俗術禁書」と書かれている。著者名は無しだ。次のページには目次。一から五十までの妖怪の名前が書き連ねてある。
次に開いたのは五ページ目。
「第四項、…狐火」
呆然とした気持ちで題目を声に出した。見開きで一項ごとに紹介がなされている。第四項は狐火。月明かりの下で炎を吐く狐の姿が描かれている。その様子をじっくりと観察していた蒼馬だが、不意にかの狐と目が合ったような気がした。突然の寒気が蒼馬を襲った。
「…わぉ、鳥肌」
無意識に腕を擦ったが、一向に寒気は治まらない。食い入るように挿絵を見つめてた。
「わっかんねぇな。まぁ、いいか。借りてこう」
小汚い本を一冊だけ持って、蒼馬はカウンターまで行った。そこにいたのは年若い女性。彼女は本を受け取ると、裏表を見て、ちょっと動きを止めた。彼女は振り返って、後ろの倉庫にいた眼鏡を掛けた女性に声をかけた。
「あら、伊上くん。いらっしゃい」
「お世話様です。館長さん。で、これなんですけど」
「あれ、これ、バーコードないね。……うん? あ、これ、伊上教授の寄贈品じゃない。じゃあ、これはあなたのものだわ。もし、あなたが見つけたら、そのまま渡すように言われていたのよ。初めての貸出しよ。そして最後の、ね」
「じいさんが、そんなことを?」
戸惑いながらも、本をしまう。上手くいきすぎて恐い気もする、と呟きながら、図書館を後にする。
外はまだ寒く、冷たい風が吹いている。やっぱり恐い気がするよ、と呟いた言葉は風に飛ばされ、どこかへ消えていった。
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彼のこの不安が、見事に的中するとは、あの本が、これから始まる騒動の一連の原因になろうとは、この時の蒼馬にはまだ知る術がなかった。
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