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さまよえる大学生

異世界で単位を取得する(物理)

作者: はいあか

1.

 人事を尽くして天命を待つとは言うものの、人事を尽くさなかった者はいったいなにを待てばいいのだろうか。

 努力は報われる? 天は自ら助くる者を助く?

 では、努力もせず自らを特に助けることもせずに過ごしてきた人間は、どうやったら報われると言うのだ。

 頑張る者ばかりが救われ、怠惰な者は運命にすら袖にされる。そんな不公平があってなるものか。平等を謳うのであれば、努力家も、怠惰な人間も、みな平等に救われるべきだ。

 真面目な学生ばかりに幸福の訪れるこの世は間違っている。

 今どき、小学生の運動会だって「せーの」でゴールテープを切るのだ。

 大学生の単位だって、教授たちが「せーの」で平等にばらまくべきなのだ。


 ○


 まずは私が必修の単位を落としたことについて、弁明も釈明もしないことを宣言しよう。

 私はたしかに勉強を怠った。試験に向けての勉強時間は、およそ一時間にも満たないだろう。

 それに対し、友人がなくて過去問をもらえなかったことも、試験前の講義に自主休講したため、範囲が分からなかったことも言い訳とはしない。

 この状態のまま試験に挑めば、単位を落すのも必然である。実際、私が試験用紙に書く事が出来たのは、自らの名前と学生番号、教授への嘆願である。

 勉強はしなかった。しかし単位は欲しい。大学に蔓延る底辺大学生たち全ての叫びを書き連ねた。


 結果はあまりに非情なものだった。

 魂の底からの主張は退けられた。


 張り出された試験の及第者一覧の中に、私の番号はなかったのだ。


 ○


 すでに天命が出た後で、いかにして人事を尽くすべきか。

 自室にて真剣に思案し、留年とプライドを脳内ではかりにかける。ここで叶うともしれない希望を抱き、焼けた鉄板を抱えて教授の元へ土下座しに行くか。もしくは誇り高く前を向きつつ後ろ向きな、もう一年の在学を取るか。

 答えの出ない問題に直面し、私は深い思索に沈みこんだ。

 半日、いや丸一日。脳内では侃々諤々の議論が繰り広げられた。おおよそ意味のない主張を私がすれば、別の私が無意味な反論をする。私の思考は跳躍し、現実は逃避し、浮き足は立っていた。

 そうした、食事の他は休むことのない長い瞑想の果てに、私は聞くはずのない声を聞いた。


 ――単位が欲しいか?


 声、と言うよりはもっと概念のような存在だった。音としては認識できない。耳から聞こえるものではなく、頭に直接響いてくる。


 ――単位が欲しいか?


 底のしれない、不気味な「声」だった。

 まるで悪魔に問いかけられているような――。

 いいや、まさか。おそらく幻聴かなにかだ。あまりにも単位が欲しくて、そんな「声」が聞こえた気になっているのだ。

 なにともなく肝が冷え、私は自分自身にそんな言い訳をした。恐ろしいものなんて何もない。だいたい、神や悪魔が単位について問いかけてなど来るものか。

 これは私の内なる声。単位を求め過ぎた結果なのだ、と私は苦笑した。

 単位が欲しいか? その答えは決まっている。

「欲しくないはずがない」

 そう、呟いた瞬間だった。


 ――そうか。


 低い声が響き渡った。脳裡に? ――いや、今度は確かに「響いた」。

 空気を震わせ、四畳半一間の部屋に「声」が反響する。耳から確かに侵入する振動。私はこれが幻ではないのだと確信した。


 ――そうか、そうかそうかそうかそうか。


 部屋中の空気が震える。そうか、と繰り返す声は次第に大きく、愉悦を含みだした。まるで私を追い詰めるかのように、耳を塞いでも聞こえ続ける、「そうか」。

 声の振動が壁に伝わり、本棚が揺れた。天井から下がる電球が揺れる。積み上げた本の山が崩れ、中から埋めておいたホモエロ同人誌がのぞく。男同士のたぎる汗同様、私も脂汗を浮かべてその場にうずくまった。声が止まない。

 揺れは次第に大きくなり、万年床に膝をつく私の足元さえ危うくした。声はもはや雑音。テレビの砂嵐のように、意味のない音として絶えず響き続ける。上下左右の区別なく、私の三半規管を狂わせる。

 なにが起こっている?

 困惑に虚空を見上げたとき、再び意味のあるものとして、声が聞こえた。


 ――そうか。ならば与えてやろう。


 その声と同時に、私の足元が消えた。


 ○


 目覚めれば、私は見知らぬ世界にいた。

 乾いた風が吹き抜け、冴え渡る緑が美しい世界。

 小高い丘の上で目覚めた私の手には、一本の抜き身の剣が握られていた。幅広の刃は重量感のある金属光沢を持っているが、重さは感じられなかった。柄は手に吸いつくような握り心地で、まるで私のためにあつらえられたかのようだ。

 いや――間違いなく私のためにあつらえられたのだ。

 奇妙なほどにすんなりと、私は確信した。まるで脳に知らない記憶を植えつけられたようだ。非常識な、あり得ないことではあるけれど、私は「知っている」。


 あの不気味な「声」に導かれ、私はこの世界にやって来たのだ。そして、私はこの剣を手に果たさねばならない使命がある。


 ――――この世界のどこかにあるという「単位」を見つけ出し、取得しなければならない。

 剣でもって単位を仕留める。それが、今期落とした必修単位の救済――ひいては留年の阻止に繋がるのだ。




2.

 それから私は、単位の手掛かりを探して町々を渡り歩いた。

 中世で時が止まったような世界には、どこまでも続く草原と、むせ返るほど濃い緑の森、そして点在する小さな町があった。

 町に住む者は様々だ。私たちと変わらない人間もいれば、背丈が倍もある巨人もいる。逆に、子供と間違うような小人もいるし、喋る獣や二足歩行する爬虫類もいる。

 はじめは驚いたが、今ではもうだいぶ慣れた。単位の情報を求め会話をするうちに、彼らの多くは牧歌的で、平和主義な人々が多いと気付き始めたのだ。

 無論、時には危険なこともあった。森には凶暴な獣が潜む。街道には盗賊が出る。

 そんな時、私は剣を振るうのだ。この世界に落ちた私に、唯一与えられた武器――――私の身を守り、いずれは単位を切るための、白刃の剣を。


 自らのために剣を抜き、肉を切ることも血を浴びることも、しばらくすれば慣れてきた。

 果たしてこの世界で、無抵抗に死んだならばどうなるのだろうか。そう考えることも時にはある。目的を果たせなければ、永遠に元の世界には帰れないのでは、と不安になることもある。

 しかし、その度に私の中の、知らない記憶が囁くのだ――神か悪魔かもしれないあの「声」で。

 ――死は恐れるものにあらず。

 ――真に恐れるべきは、単位に挑むことなく逃げること。

 ――帰るべき時は必ず訪れる。だから今は、恐れずに行け!


 ○


 小人族の町で、私ははじめて同志に会った。

 情報を求め、酒場を訪れたときだ。


 小振りな酒場は、まるで幼稚園のようであった。テーブルも椅子も、入り口からカウンターから、なにからなにまでが小さい。腰掛ける客たちは幼い容姿ながらも陽気に酒を飲み交わし、カウンターでは店主と値切りの客が罵声を飛ばしあっている。

 私が店に入ると、一瞬だけ喧噪がやみ、物珍しそうな視線が集中する。あまり旅人のない酒場なのだろう。沈黙のあとは、私への好奇の視線とひそひそとした囁きが聞こえてきた。気分は同学年のいない講義の再履修だ。あまりいい気がしない。

 居心地悪く店内に踏み出すと、赤ら顔をした小人が近寄ってきた。

「ねえちゃん、あんた旅人だね?」

「ああ」と答えると、小人はにやり、と幼い顔つきに似合わない笑みをうかべた。

「『単位』を探しているんだろう?」

 私は黙って小人を見下ろした。小人はしゃべり続ける。

「俺は『単位』のありかを知っているぜ」

「……本当に?」

「嘘は言わねえ。俺はこの町で情報を売って食ってるんだ。今までも何人も旅人を送り出したぜ。戻ってくるかはそいつ次第だがな」

 さて、と小人がげびた笑い声を上げる。これが園児であれば保育士卒倒ものの品のなさである。

「知りたいか?」

「……知りたい」

「それなら対価を払うんだな」

 対価? と問う前に、私は小人の視線に気づいた。じっとりとした目つきで剣を見つめている。

「この剣は……」

「金になりそうじゃねえか。いいだろう? 剣なんていくらでもある」

「しかし」

「その剣でなければ、情報はやれねえな。『単位』のありかが知りたくないのか?」

 知りたい。

 そう言いかけて、私は口をつぐんだ。

 確かに、剣はこの世界でも買うことができる。多少の金は、旅をするうちに手に入れることができた。私の目的は単位を取得すること。剣の一本で単位のありかがわかるならやすいものだ。

 だが、なにかためらわせるものがある。なぜ――?

「ねえちゃん、早く決めな。俺は別に、情報を売らなくたっていいんだぜ?」

「……私は」

 せかす小人に、迷う口を開いたときだった。

「やめときな」

 店の奥から静かな声がした。見れば壁際で小さな椅子に腰掛けた一人の男――小人ではない男が、私たちを鋭く睨んでいた。男の傍らには、私が持つものと同じ、一本の剣が立て掛けられている―――――。

「剣を手放しちゃいけねえ。これは単位をしとめるのに必要なものだ。この剣なしに単位に挑むのは、筆記用具なしに試験に挑むようなものだぜ」

 腕を組む男は明らかに異様だった。小人たちとの体格差だけではない。その目に宿る虚ろな光。努力を怠り、引きこもり続けたと見て取れる貧相な体。興味のあること以外にはてをのばそうとしない身勝手な風体。そのくせ往生際の悪そうな顔つきは――まさに単位を求め、底辺であがく大学生の姿だった。

「あなたは……私と同じ……」

 私のつぶやきに、男はうなずいて見せた。

「見てすぐにわかったぜ。お前が俺の仲間だということがな。お前は……俺と同じ顔つきをしている」

 思わず頬をなでる。いったいどんな顔をしているというのだろうか。

「同志として警告してやる。他人の言うことを簡単に信じるな。ホイホイ言うことを聞くようじゃ、後輩に代返を頼まれるような便利な人間になっちまうぜ」

「ちくしょう。そりゃねえよ、あんちゃんよお。せっかくの飯の種が」

 小人は忌々しげに吐き捨てた。その表情から、私は自分がだまされていたのだと悟った。


 ○


 男は自らを「六年生」と名乗った。

「休学を挟んでいるから大学には七年いるが、実質は六年だ。そこを間違えるな。一年の違いは大きい」

 しかとうなずいた。かくいう私は未だ四年。無い内定である。

「なるほど、新入りだな? 俺はもうこの世界に二年間、期末試験の度に来続けている。わからないことがあったら何でも聞いてくれ」

 男はそう言って、自慢げに剣を示した。私の剣とは少し形状が違い、男の貧弱さを表すような細さがあった。

「どうして私に親切にしてくれるのですか?」

「なに、単位の取得はチームワークだからな。仲間がいて困ることはない。お前も四年ならわかるだろう。同級生がいたときの試験と、一人の試験の違いを」

 かくして、私の旅は二人旅になった。


 ○


 それから旅は続いた。私たち同様の旅人も数人見た。ともに旅をすることもあれば、別れることもあった。喧嘩別れや、目的を異にしての決別、そして――悲しい別れもあった。


 ○


「あの『声』はなんだったんだろうね」

 鈴の鳴るような声でそう言った彼女の姿が思い出される。

「単位の神様かなあ。それとも……あたしたちみんな物理の単位を落としているし、案外物理の神様だったりして」

 物理化学の単位を落とした五年生の彼女。いつも明るく元気で、ともに旅をしていたインドア派の私たちを勇気づけた彼女。


 バイトのし過ぎで一年留年、二年目を危うくした彼女は、今はもういない。


 ○


 単位の手掛かりを追い、深い森を三人で駆けていた。

 六年生、五年生、そして私。一向に見えてこない単位の影を求め、焦燥と不安を覚えている時だった。

 今度こそ。今度こそ単位にたどり着くはず。

 この時の私たちは、そんな一縷の望みを抱いていた。いくつもの偽情報に惑わされ、無為な努力を繰り返し続けてきた。精神的な疲労ももはや限界だったのだ。


 森の奥に、単位たちの住処がある。醜悪な獣たちに守られて、ひっそりと暮らしている。袂を分かった八年生から、餞別にと送られた情報だ。

 私たちは信じていた。たとえ道は分かれても、単位を求めともに戦った事実は消えない。同じ目的のため、信頼しあっていた仲間なのだ。

 そう思って、光の差さない森に分け入った。四方から感じる獣たちの凶暴な視線に神経を尖らせ、剣を握りしめた。なにを犠牲にしても、単位を得る。そのために獣を切り伏せた。

 どれほど血を浴びてもかまわない。そう信じていられたのは、いつか手にする単位を夢見ていたからだ。


 森の最奥。魔獣の群をけちらした先に、それはあった。

 木々が途絶え、穏やかな光の差すそこには、木製の小屋が一つ。一目見て廃墟と分かった。木肌が腐り落ち、屋根が沈んでいた。窓ガラスは割れて、風が吹くたび破れたカーテンが揺れる。

「ここが……単位の……?」

 呟いたのは六年生だった。彼の瞳には早くも失望の色が見て取れた。

「単位は……単位はいないのか? 俺たちの苦労はなんだったんだ!?」

「な、七年生さん、落ち着いてください」

「六年生だ!」

 取り乱し始めた六年生をなだめようとするが、逆に一喝されてしまうだけだった。無理もない。期待していた分だけ失望も大きいのだ。彼が取り乱さなければ、私が同じことを叫んでいただろう。

「四年生ちゃん、七年生さん……まだ、まだもう少しだけ調べてみよう? ね、もしかしたらなにか手掛かりがあるかもしれないでしょ!」

 そう言ったのは五年生だった。彼女は相変わらず明るい調子だったが、無理に元気づけようとしてくれているのは私にも分かった。期待をしていたのは、彼女も同じなのだ。ことさら明るく笑った後に、かすかに唇を噛んだのを私は見逃さなかった。


 小屋を一回り調べて、見つけたのはたった一つの墓だった。

 小屋の裏手、日陰にひっそりとおかれた小さな墓石。そして、そこに刻まれた碑文。それがすべてだった。


 ――この講義は教授引退のため、廃止となりました。



 ――――期待するだけ、失望も大きいのだ。

 もしかしたら、もっとも期待していたのは彼女だったのかもしれない。


 私たちは墓石の前で立ち尽くしていた。

 風が吹き、影が揺れる中、誰もなにも言わず、動かなかった。言葉をなくし、碑文を読み、絶望だけを感じていた。

 心の中に冷たい悲しみが満ちる。この世界に私たちを呼んだのは悪魔に違いない。期待し、あがき、そして絶望する様を見て楽しんでいるのだ。勉強する以外の方法で、どうにかして単位を得たいという大学生たちをあざ笑っているのだ。これを悪魔と言わずして、なんと呼ぶのだろうか。


 そうして何時間過ぎただろう。

 がらん、と重たい音がした。鈍くなった感覚が音を拾い、目を向ける。

 私の横で五年生が、剣を手放し放心していた。剣の白い刃が彼女の足下できらめく。それを、彼女は見ようともしない。

「五年生さん……?」

「…………もういや」

 私の問いには答えず、彼女はささやいた。

「もう、いや」

 震える声だった。呆然と彼女を眺めていると、その瞳かがうるみ、涙の滴がこぼれた。それは見る間に滂沱の涙となり、同時に彼女は叫んだ。

「もういや! どうして、どうしてこんなにがんばったのに!」

 両手で頭を押さえ、彼女は膝をついた。「おい」とあわてたように六年生が声をかける。しかし、彼女には届かない。

「バイトもがんばったのよ! 試験問題だって集めたし、それなのに! こんなにがんばっても、勉強をしないと意味がないって言うの!?」

 彼女の魂の叫びが、森にこだまする。私たちの心を代弁する、すべての底辺大学生たちの嘆きだ。

 だが、その嘆願に応えるものはない。この世界に連れ出した物理の神――悪魔でさえも。

「そんなことなら……」

 彼女はうずくまり、両手で顔をおさえた。

「単位なんて……いらない……」

「五年生!」

 六年生が彼女を叱りつけた。彼女の肩をつかみ、揺さぶる。しかし彼女は首を横に振るだけだ。

「今年の単位はいい……もう一度留年した方がまし……」

「五年生、だめだ。撤回しろ! 諦めたら駄目だ!」

 六年生の声は届かない。

 私もなにか、激励の言葉をと彼女を見つめたとき――――気づいた。彼女の足下にあった剣。白刃の剣が、おかしい。

 剣先が黒く染まっていた。獣の返り血――ではない。まるで錆か染みのように、一点の汚れを作っている。

 一点?――いや、違う。

 先ほどまでほんの僅かであった染みが、じわりと広がっている。まるで剣を飲み込むように少しずつ、染みが大きくなっている。

 まがまがしさに私は後ずさった。触手を広げるアメーバ? 感染を広げるウイルス? 不気味で不吉な印象が、私を飲む。

「がんばりたくないの……もう」

 彼女が呟いたとき、剣はもう黒に染まっていた。

「単位なんていいから……元の世界に帰りたい。帰って成績表を破りたい。卒業なんて、できなくていいの!」

 彼女の叫びに呼応するように、剣が崩れた。

 それはまるで灰が散るように。あまりにもあっけなかった。

 黒く染まった剣の残骸が、風に巻かれて浮き上がり、空気に溶けて消える。それだけだ。

「五年生、さん……」

 私はかすれた声を上げた。悲鳴だったかも知れない。


 朽ちた剣の灰を追い、視線を上げた私の瞳に、五年生の姿が映る。

 剣と同じく、体の端から黒く染まっていく五年生。彼女の長い髪も、耳の先も、指も、足も、次第に黒ずんでいく。服も肌も無関係に、飲み込んでいく。

「五年生さん、その体……」

「……なに、これ」

 私の声に反応して、彼女は自分の体を見下ろし、そう言った。

「なにこれ!? あ、あたしの体! いや、いやあ!!」

 彼女は悲鳴を上げ、自分の体を抱いた。両手で力強く腰を抱きしめた――が、その黒ずんだ手が崩れ落ちる。ほろほろと朽ちていくさまは、まるでガラス細工の薔薇。蚊取り線香の残りの灰。冷蔵庫の奥で腐らせてしまったきゅうりのようだ。形を保ったままの崩壊は、見ている私にも、彼女自身にも、とてつもない恐怖を与えた。

「やだ! た、助けて……四年生ちゃん、七年生さん……」

 五年生は、すでに半ばまで朽ちた腕を伸ばし、救いを求めた。真っ直ぐに向けられた腕の断面は黒く、今もなお少しずつ崩れ続けている。

 六年生は唇を噛み、彼女から目を逸らした。私は彼女の伸ばした腕をつかむこともできず、呆然としていた。

「助けて……いや……お願い……」

「……無理だ」

「七年生さん……」

「剣が消えたら、もうこの世界にはいられない。お前は、単位を落としたことを認めてしまったんだ…………そして俺は……六年だ……」

「そんな。いや、いや……! 助けて、たすけ、たす――――」

 彼女の悲鳴は途切れた。黒い汚染は体から、彼女の顔まで浸食したのだ。すでに腕はなく、体も半ば失い、口を動かすたびに、声の代わりに灰が舞う。

 落とした単位は返らない。あがき続けなければ、単位を得る資格もない。諦めれば全てが終わる。そのことを、私はまざまざと見せつけられた。

 彼女の濡れた瞳が私を見る。だが、それですら見る間に黒く塗りつぶされた。

 もはや彼女は瞬かない。涙もこぼれない。全身が黒に染まった彼女は、重力に逆らわず、ゆっくりと崩壊して消えた。

「――――ちくしょう! また……!」

 七年生が呻いた。悔しさがこぶしを震わせる。痛むほどに奥歯を噛んでいるのだと、横で見る私にも分かった。

「どうして、諦めちまうんだ……!」

 私は天を仰いだ。森を照らす太陽は、場違いなほどに眩かった。

 単位の取得とは――かくも険しいものなのか。

 私たちの嘆きを嘲笑う、悪魔の声が聞こえた気がした。


 ○


 その後、六年生から聞いたことだ。

 私たちに与えられた剣は、単位取得の意思の表れ。試験の出席にも相当するものだ。その出席()を投げ出した五年生に、単位取得の資格はない。試験に出ても来ない学生に、いくら甘い教授でも単位を渡しはしないだろう。

「……五年生さん、どうなってしまったんですか?」

「現実に戻っているよ」

 六年生は暗い顔で言った。

「どうして、わかるんです?」

「……俺もかつては経験したことだ。どうして勉強をしなかったというだけで、これほど頑張らなくてはいけないんだ。もう、単位なんていい。諦める、と」

 はは、と彼は自虐的に笑った。

「それをもう、二年は繰り返した。試験のたびに、この世界であがくことを、二年。その結果がこのざまだ。……どこかで単位を仕留めないと、何度もこの世界で苦しみ続けることになるんだ」

 六年生の笑顔は悲しげだった。

 それは仲間を失ったことに対する悲しみだけではない。

 かつての自分自身と五年生を重ねた悔しさ。いずれは、再び五年生が味わわなくてはならない苦痛。そして、この先も続く、自らに課された試練。

 その全てに対する深い嘆きだった。




3.

 私たちの旅は終わらない。

 単位を追って、あれからどれほど旅を続けただろうか。何度も諦めたくなった。神を呪った。悪魔を恨んだ。教授を憎んだ。剣先が黒くなる幻覚さえ見るようになった。

 それでも私と六年生は、互いに励まし合い、単位を探し求めていた。


 ○


 湖畔の小さな町を、私たちは訪れた。

 この町の外れにいる、長老と呼ばれる男に会いに来たのだ。

 長老。あるいは情報通。単位にもっとも近くて遠い男。幻の十二年目――幾多もの名を持つ人間。この世界における生ける伝説だと、六年生が教えてくれた。

「大学の最長老だ。俺も実在するとは思っていなかったが……」

 彼自身、半信半疑で言った。その伝説が住むという、湖畔の小屋に向かう道すがらだった。

 森に隣接した湖は、青々とした緑と空を映し込み、きらめいていた。水辺には船が並べられ、町の男達が数人、釣りに出ていた。それを横目で眺めつつ六年生は続ける。

「彼には分からないことはないらしい。試験の過去問は十一年分持っているし、出たことのない講義はない。しかし、取ったことのない単位は数えきれないほどある。……不思議な男だ」

「……待って、でも、大学には八年しかいられないはずでは?」

「いられるんだ。裏技――休学を利用すれば、十二年」

「休学……」

 私は俯いた。大学によって多少の違いはあるだろうが、留年を含め、正規で大学にいられるのは八年。休学は最大で四年取ることができるため、単純計算では確かに十二年いられるだろう。

「だ、だけど、休学は連続して一年以上は取れないはず。普通に大学生活を過ごしていたら、休学の四年は使い切れるはずが」

「……使い切ったんだ。長老は、計画的に休学を差し挟み、十二年間も大学にいた。恐ろしい男だろう?」

 私は無言で震えた。これから出会うのは、同じ大学四年次でありながら、八年の年月の差を持つ男なのだ。生ける伝説――まさに、その言葉が似合う。

「長老なら、きっと単位の居場所を知っているはずだ。今度こそ……今度こそ!」

 六年生の強い語調に、私の歩みが強張る。それは期待と、緊張のせいなのかもしれない。


 ○


 小さな桟と、古びた一隻の船。その隣に、私の四畳半よりもなお小汚く、狭い小屋があった。腐りかけの小屋の壁には、私たちと同じ白刃の剣が一本、無造作に立てかけられていた。

 それこそが長老の住処だ。あまりにも貧相で、あまりにも目立たず、ただの物置かと見紛うその小屋に長老などと言う大人物が住んでいるとは、私には信じられなかった。

 だが、私たちの訪問に応え、招き入れたその人物を見て、私は確信した。

 これまで見たどんな人物よりも無気力で、どんな人物よりもあきらめが悪い顔をした男。歳はそれなりであるが、学生らしい苦労知らずの雰囲気は抜けきらず、麻雀に明け暮れる不健康な色白の肌と、無意識に人を恐れる対人恐怖症の片鱗が見え隠れする。

 間違いなく、この男こそが最底辺。ヒエラルキーの底辺にあると自負する、私や六年生たちよりもなお下位にある、逆ピラミッドの逆頂点にいる男――――まさしく彼が、幻の十二年生。伝説としてその名を知らしめる、長老という人物であった。


「お前たちが来た理由は知っているよ」

 長老は、狭苦しい小屋で正座をする私たちに、そう言って苦笑した。万年床に小屋の半分を奪われ、ちゃぶ台ひとつ出せないありさま。無論、客人に茶を出す気遣いもない。それこそが最長老らしくあり、また、どこか親近感を抱かせた。

「単位の居場所だろ? 知っているよ。俺は何でも知っているんだ。教授の好きな酒の銘柄から、行きつけの店、出した本、言われて喜ぶ褒め言葉まで、なんでもな。教えてほしいなら、教えてやるよ」

「本当ですか!?」

 六年生が興奮して言うと、長老は少し怯え気味に肩を強張らせた。すでに同級生が卒業、院進学していても卒業。博士課程に進んでいてさえ、大学を移っている可能性がある。そんな孤独な男に、刺激を与えてはならないのだ。

 六年生は自らの失敗に気づき、再び座りなおした。

「教えていただけませんか、長老」

「……ああ、もちろんだ。俺は別に、隠しゃしねえよ」

 胸に手を当て、心を落ち着かせるように長老は言った。

「湖の畔の森に、単位は住んでいるよ。あんまり警戒することもねえ。森には兎くらいしかいねえし、足元が危ういほど深くもねえ。少し歩けば、たぶんすぐに見つかるはずだぜ」

「そんな場所に……単位が……?」

 意外そうに六年生が言う。

 私も同感だった。これまで、単位を追って火の中水の中。険しい山も越えたし、暗い洞穴も抜けた。幾多もの獣を切り伏せ、血を浴びてきた。それでも見つからなかったのだ。

「単位って言うのは、案外そういうものなんだ」

 長老は私たちの表情を眺め、これまでの年月を感じさせる深いため息をついた。

 達観したような、穏やかなその表情に、私は彼が長老として親しまれている理由を見つけた気がした。


 すぐにでも出発しよう、と六年生が言う。すでに長老の小屋を辞し、外で見送られているときだった。

 六年生は興奮を抑えきれず、「行くぞ」と言って一人で歩き出してしまった。

 私はその後ろ姿を眺めてから、もう一度だけ長老を窺った。少しだけ、気になっていたことがある。

「……長老は、単位の居場所を知っていて、仕留めにはいかないのですか?」

 私の問いに、長老は口元を歪めた。苦々しい、迷いのある視線で私を見て、笑うような表情を浮かべる。

「俺には無理だったんだ」

「無理?」

「あの単位は……俺には仕留められねえ。俺はもう、諦めたんだよ……」

 長老は俯きがちに私を見やった。なにかもの言いたげな視線に、私は困惑した。

「……なあ、俺の剣あるだろ? あれはまだ、白いままか?」

 ふと、思い出したように長老が言った。剣なら小屋の壁に立てかけてある。何気なく見やると、曇りなく真っ白な刃が目に映った。

「白いですよ。私と同じ、真っ白」

「そうか……俺はまだ、諦めきれねえんだな……」

 私の答えに、長老は物憂げに視線を伏せ、そのまま目を閉じた。決して、剣の方を見ようとはしない。

 まるでもう二度と単位が手に入らないと知っていて、諦めきれない大学生のように。

 現実を直視せず、夢うつつを追い続ける数多の底辺学生のように。


 ○


 長老の言葉通り、森は旅の終着点とは思えないほどに穏やかだった。

 木漏れ日が緩やかで、鳥の鳴き声が響き渡る。風は心地よく私たちを撫でた。これまでの旅で、もっとも心安らかになれる気がした。

 本当に、こんなところに単位があるのだろうか。今までの緊張感や恐れは、いったいなんだったのだろう。

 口にこそ出さないが、おそらく六年生も同じことを考えていたはずだ。


 穏やか過ぎる不安に駆られながら、しばらく森を歩いた先に、私たちはついに求めていたものを見つけた。

 山小屋を思わせる丸太づくりの家。森の木を切り倒して作られた、小さな畑。扉の横には確かに「単位の家」と書かれている。

 単位はいる。間違いなく、ここに。

 剣を握る手に力がこもる。探し求めていた単位。それさえ仕留めれば、私は留年をせずに済む。

 力んでいるのは、六年生も同様だった。彼は息をのみ、不健康そうな顔を不健全に歪め、足を踏み出した。


 ○


 ドアベルを鳴らすと、出てきたのは小さな兄妹だった。

 丸い瞳が特徴的な、可愛らしい人間の兄妹だ。兄は十程度だろうか、生意気そうな光を目に宿している。妹はその三つほど下だろう。兄の腕をきゅっと掴んで、不安そうに私たちを見ている。

「はい。ここは単位の家です。どちらさまですか?」

「……お前が、単位?」

 あまりにも意外すぎて、六年生は呆然と言った。私も彼の一歩後ろで兄妹を見下ろす。

 この二人が単位なのだろうか。いや、そもそも単位とは、どんなものなのだろうか。漠然と、生きた獣のようなものと考えていた。

 しかし、それが人型であるとしたら?

 それを、仕留めるというのだろうか。この剣で?

 呆気にとられる私たちとは対照的に、兄妹は私たちの剣を見つけるや否や、子猫のような警戒心を見せた。

「……もしかして、単位を狩りに来た人ですか?」

「あ、ああ」

 思わず、どちらともなしに肯定してしまう。と、兄の方が勢いよく扉を閉め、叫んだ。

「帰ってください! ここに単位はいません!」

「ま、待て!」

 慌てて六年生が閉まりかけた戸に手をかける。

「単位がいるのか、ここに!」

「いません!」

「いるんだな!?」

 いくら脆弱な引きこもりといえど、大人の男の力に子供は敵わない。六年生は、兄が必死で抑える扉を押し開けた。兄は勢い跳ね飛ばされ、扉の前で転がった。

 扉からのぞき見る山小屋は、手狭だが清潔な雰囲気が窺えた。玄関から短い廊下を経て、奥にひとつ部屋があるのが見える。単位がいるとしたら、あそこだろう。

 玄関で転がる兄に、妹が駆けよった。心配そうに兄の背を撫でてから、彼女はキッと私たちを睨んだ。

「だめ!」

 そう言って、彼女は両手を広げ、玄関に立ちふさがった。まだ幼い少女だ。私も、興奮している六年生さえ、押しのけるのはためらわれた。

「どいてくれ……! 俺は単位が欲しいだけなんだ」

「あげない!」

「教授みたいなことを言うな……ちくしょう、ここまできて!」

 六年生は歯噛みした。私だって同じ気持ちだ。この奥に単位がいるのは間違いない。あくまで抵抗するのなら――私だって覚悟を決める。

 息をのみ、私は足を踏み出した。そのときだった。


「やめなさい」

 奥の部屋から、そう声が聞こえた、落ちついた響きのある、女性のものだった。

「無茶をしないでって言ったのに、あなたたちったら!」

「おかーさん!」

「お母さん!」

 部屋から出てきた女性を見て、兄と妹はそれぞれ声を上げた。

 駆け足で女性に向かう妹。ようやく身を起こし、その場で私たちを睨みつける兄。そして、動けない私たち。

 立ち尽くす私たちの前へ、女性の方がやってきた。歳は三十半ばだろうか。優しそうな瞳をしている。彼女は瞬きをしながら私と六年生を見比べ、儚げな笑みを浮かべた。

「はじめまして。私が物理の単位です」

「あなた……が……?」

「はい。あなたたちは大学生ですね。単位を取りに来たのでしょう?」

「あ、ああ……」

「ではどうぞ」

 女性は両手を広げ、無抵抗な姿を見せた。なにか奥の手を隠している――にしても、あまりにも無防備すぎる。彼女がなにかするよりも先に、剣を突き刺すだけの自信もあった。

「……なにを企んでいる?」

 戸惑いを押し隠すように六年生は言った。手はしっかりと、剣の柄を握りしめている。

 長い間追い求め、やっと見つけた単位なのだ。逃したくはない。今すぐにでも仕留めたい。

 だが――こうして人間の姿をした単位を見て、無感情に剣を振るうことができないのだろう。

「企むなんて。だって単位は、取得されるためにあるんですから」

「お母さん!」

 兄が顔を上げ、泣きそうな顔で女性を見た。彼女は優しく兄を見下ろした。

「そんな顔しないで。いつかはこの日が来るって、ちゃんと教えたでしょう?」

「いやだ。それでもいやだよ、お母さん」

「おかーさん!」

 兄が女性の手を握り、妹が腰に抱きついた。女性は困ったように兄妹を見下ろして、それから私たちに視線を戻した。

「……ごめんなさい。この子たち……きちんと言い聞かせますから。だから、ほんの少しだけ……私たちだけで別れの時間をいただけませんか? 逃げたりなんてしませんから……私は、取得されるための単位ですもの」

 私は六年生と顔を見合わせた。六年生はもう、言葉も出ないようだった。今の状況を前に、自分がどうすればいいのか見当もつかないらしい。

 その気持ちはよくわかる。求めていた単位の、人間らしい姿を目の当たりにして、冷静でいられる者はいないだろう。

「いいですよ」

 だから、私が答えた。私と六年生の迷いを振り切るように、はっきりと告げた。

 私の意思も、きっとこの瞬間に固まったのだ。

「いくらでも待ちます。ご家族だけで、ゆっくりと過ごしてください」

 それだけ言うと、放心した六年生の腕を取り、私は玄関を去った。

 あれほど渇望していた単位の家の扉が閉まる。小屋の前に立ちつくす私たちに、一陣の風が吹き抜けた。

 何気なく自らの手にある剣を見やると、小さな黒い染みが一点、落ちていた。


 ○


「……いいのかよ、お前」

 六年生が私に言った。

「いいんです、七年生さん」

「六年生だ」

「どうせ、七年生になるんじゃないですか、あなたも」

 私は六年生の剣を見下ろして、笑った。

 彼の剣にも黒い染みが滲んでいた。

「仕方ないだろ……あんな単位、どうやって取れって言うんだよ」

 苦々しく言うと、彼は空を見上げた、上天気だった。まるで悪魔が笑っているようだ――いや、物理の神だろうか。とんだ悪趣味な神もいたものである。

「ああー、また留年か……」

 彼は両腕を空に伸ばし、口元を歪めて言った。その横顔には、吹っ切れたような笑みが浮かんでいた。


 ○



 こうして私は留年した。




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[良い点] ヽ(´ω`)ノ 大学に行けるだけスゴいんだよ~ 苦難の中、楽しい物語をつくってくれる頭脳が素晴らしい✨ はいあかさんの文章大好きです❤️
[良い点] いとも簡単に現実を超えるテンション。あと読みやすいです! [気になる点] これは森見氏ですな?
[良い点] タイトルからは想像もできない感動の(?)ストーリー。 聖女の方でも思いましたが、冴えない男に対する的確かつ容赦ない描写力。 [一言] 昨日物理化学をあきらめたばかりの自分にはタイムリーな小…
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