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西域よりの使者

作者:回天 要人
こちらの作品は和風小説企画への参加作です。
企画サイトはこちらです↓↓↓
http://wafuukikaku.web.fc2.com/
 倭国に水稲耕作が広まっておよそ300年。大方のクニが農耕によって暮らしを作っている時分に、まだまだ昔の様式を重んじて生活する集団があった。その集団は未だに狩猟・採取・漁労といった大昔の方法を主流に食生活を営み、十数人程の人々が一家族のような暮らしをしていた。彼らは川や海など水辺近くを点々と移動しながら暮らしており、一所に定住しなかった。シカやイノシシを追い、サケやマスを獲り、土器で煮炊きをし、骨や石で針や刃、鏃を作る。男は成人すると抜歯をし、女は成人すると他の集落へ嫁ぐ。明確な身分差はなく、人々は協力しあってその日その日を生きていた。


 *


「ヒスイ~、まだ血ぃ止まらないのかぁ?」
 紀元前94年・倭国北部。大昔の生活様式を重んじ、点々と住む場所を変える集団の一つが、一週間ほど前にその場所に到着したばかりだった。その集団には子供が8人、成人した男が5人、女が6人居た。5人居る成人男性のうちの一人は、つい昨日成人の儀式を終えたばかりで、抜歯した歯茎からまだ血が止まらないのだった。歯茎が痛み、腫れ上がっている為に、昨日から水の一滴も口にしていないヒスイは、疲れた顔をして苦笑する。ヒスイに容態を尋ねた男は、先輩として彼の面倒を見てやろうというのか、言葉も発さないヒスイに近づき、ヒスイの唇を無理やりに押し上げた。ヒスイは覚悟していたのか、残った歯で懸命に食いしばり痛みを堪えたが、少しのうめき声があたりに響き渡った。
「大丈夫!?」
 ヒスイの悲鳴に慌てた様子で家を飛び出したのは、ヒスイを産んだ母親だった。そろそろ集団の中で最年長になりそうな中年の女は、顔に皺を深く刻んでヒスイの顔を覗きこむ。ヒスイの唇に男の手が触れているのを見て、女は乱暴にその手を振り払った。
「やめておくれ!あんたの汚い手で傷に触れたりしたら、治りが遅くなるじゃないか!」
「汚い手って、ちゃんと水辺で洗ってるぜ?」
「いいや、あんたのことだ。適当に洗って、乾かす間にその辺の砂や土に触れちまってるに違いないよ!」
 女にそう言い切られた男は、図星を指されたのか、顔をしかめてぶつぶつと聞き取れない文句を言った。ヒスイは過保護な母親にうんざりしながら、重い口を開く。
「ニチルに粘土を届けないと。母さんと兄さんは仕事に戻ってくれ。」
 ヒスイが口を開いたことで、二人の言い争いは納まり、女は再び家の中へ戻り、男の方は女が姿を消したことを幸いに、その場で舌をベロリと出した。
「お前の母さん、まだお前を子供だと思ってるみたいだな。」
 ヒスイより二つか三つ年上の男は、ヒスイの後をついてくる。どうやら、粘土運びを手伝うつもりのようだった。その証拠に、男は両の肩をグルグルと回した。
「仕方ないさ。昨日の今日で急に子供を大人扱いできるわけもない。」
 そう言ってヒスイはため息を吐き、肩をすくめた。
「それにしても、お前ももう十三だろう。儀式の前に心がまえは出来てるもんじゃないのか?」
 男はヒスイに話しかけながら、粘土を掘るのに使えそうな木の枝を拾う。長さは男の腕の前腕ほどで、太さも丁度男の手で握り締められるくらいの棒切れだった。
「あの人はどうやら自分の子供が成人するたびに過保護にならずには居られないらしい。自分が老いていくのが怖くて、俺たちを子供扱いする。」
 ヒスイも男に習って木の枝を拾った。軽く手のひらに叩きつけ、強度を確かめる。パンパンという乾いた音が石と岩の山へ反響した。
「ふうん。お前が最後の砦ってわけか。あの年じゃ、もう新しい子供は無理だろう。」
 男は手にした棒切れを空に放って、再び片手で受け止めた。先ほど顔を合わせたばかりのヒスイの母親の顔を思い浮かべ、からかいの気持ちを込めて卑しく微笑む。
「そうだな。次の赤ん坊はニチルが嫁いで、別の女が俺たちの集落へやってくるのを待つしかない。」
 ヒスイたちのように一定の範囲内を移動しながら暮らしている集団はいくつかあった。集団は成人した娘を交換しあい、互いの集団の血を混ぜた。近隣集団の中にはヒスイの姉やヒスイの甥・姪が大勢居る。
 二チルというのはヒスイの居る集団の中で上から二番目に大きな子供で、あと一年も経てば成人する娘だった。歳が近いこともあり、ヒスイは二チルと仲がよい。また、互いの家を別宅と思わず気軽に行き来していた為、母や父は違うものの、ニチルはヒスイにとって妹のような存在だった。ヒスイはニチルがいつか嫁ぐ日のことを考えて、その日が待ち遠しいながらも、寂しさも拭えないと思った。
 ふと、林の隙間から天を眺めると、煌々と輝くヒルノメがヒスイの目に飛び込んだ。あまりの明るさに、ヒスイは思わず顔をしかめてしまう。
「それはそうと、兄さんはここで粘土掘りなんてしてていいのか?家だってまだいくつか作らなきゃならないし、今度の場所は海が近いから、漁にだって出ないと。」
 ヒスイは話題を変えて前を歩く男に話しかけた。その最中も時折言葉を切りながら、溜まった血や唾を地面へ吐き捨て、痛みに顔をしかめていた。
「長やみんなに怒鳴られたら手伝うさ。俺もたまには暇が欲しい。」
 男は適当な岩の斜面を見つけると指で土の質を確かめ、丁度よい粘り気を認めると木の枝で掘り始めた。
「俺は暇なわけじゃないぞ。歯が治ったらすぐにでも海へ行きたいくらいだ。」
 ヒスイは土を掘る男の横顔をしかめっ面で睨みつけながら、同じように木の枝で土を掘り始めた。男は笑いながらヒスイをなだめ、彼の勤勉さを称えた。ヒスイは男につられて笑みを零した。


 *


 ヒスイが成人の儀式を終えて一月後。ヒスイの歯茎の傷も癒え、集団も新しい家と土地に慣れてきた頃、耳寄りな情報が寄せられた。
「西の大陸から使者が派遣され、我らの土地にも農耕が伝えられた。しかし残念ながら我らの集落には未だその技術が伝わっていない。」
 集団の長である老人が、口ひげを擦りながら言う。ヒスイは成人して初めて、男たちの話し合いに参加した。ヒスイの左隣には義理の兄が、その左隣にはそのまた兄が座り、義理の兄のそのまた兄の左隣にはヒスイの父が座っていた。ヒスイの父の横にはヒスイの父の兄が座り、ヒスイの父の兄の隣には長の老人が座っている。長の隣にはヒスイが膝を抱えて座っていた。男たちは中央に火を焚きながら、円になって集まっていた。
「農耕とともに鉄や銅といった製錬技術も伝わっているようです。石よりも遥かに切れ味がよいとか。」
 長の言葉を補足するように、ヒスイの父が付け加えた。ヒスイの父は母よりも歳若く、集団の中ではまだまだ若手だ。
「我らも早く教えを乞いたいものだ…。近隣の集落では南の地域にならってクニを作ろうという話が出ていると聞きます。この際、我々も彼らと一緒に一つのクニをつくろうではないですか。今までもほとんど身内と同じようなものでしたから、きっと上手くやっていけるでしょう。」
 ヒスイの父は尚も続けた。男たちはヒスイの父に賛同し、ヒスイも父の言葉に頷いた。ヒスイが躊躇いなく頷いたのは、近隣の集落と一つのクニを作れば、ニチルが誰かの家に嫁いだ後も、今までのように気軽に会うことができるのではないかと思ったからだ。また、面と向かって会うことはできなくても、ニチルが同じクニに居ればその安否は確認できるはずだと思った。なぜだかヒスイは、ニチルだけは行く末を最後まで見届けたいという思いがあった。それを思うと、ヒスイは自分の母親が自分に対して過保護になる気持ちがわかるような気がした。身近に居る誰かの行く末を見届け、幸せになって欲しいと思う気持ちは家族愛のようで、少し違うともヒスイは思った。
「わしもそれを考えていた。わしがこの集団の年長であるうちに、クニを作ろうと思う。」
 長の言葉で、その日の話し合いは終幕した。明日から本格的に集団同士で話し合いが行われクニが作られていくのだろう。ヒスイは他人事のようにぼんやり思いながら、家まで父と共に歩いた。帰り道の道中で父は嬉しそうな顔をして、ヒスイにこう言った。
「ヒスイ。明日はシカを獲ってこよう。近隣の集落に手土産として持っていくんだ。」
「シカ狩りか…。俺は海の方が好きだけれど。」
 ヒスイは父にそう言った。ヒスイは泳ぎが得意で、魚を獲ることが上手い。かと言って、弓や槍も下手ではない。すばしっこく、山での動きにも慣れている。
「ヨルノメの動きが不穏だと、ニチルが言っていただろう?海はヨルノメに属す。山はヒルノメに属す。これ以上魚を獲れば、ヨルノメに祟られてしまうよ。」
 父はそう言って苦笑した。ヒスイは夜空を見上げて、ヨルノメを見た。黒い空に浮かぶヨルノメは淡い光で辺りの山や海、人々を照らした。時折雲に隠れて見えなくなったり、日によって欠けていたりするけれど、ヨルノメは毎日、黒い空で淡い光を放っていた。その日のヨルノメは綺麗な円を描いていて、光も普段より別段明るい気がした。
「ヒルノメの機嫌がいいときは山のものを頂く。それで自然と均衡を保つんだ。」
 父はヒスイにそう言って微笑んだ。しかしヒスイは納得のいかない顔をして、眉をしかめる。せっかく歯茎の傷が癒えたのに、海へ出られないのは不満だった。
「俺、ニチルのところへ行ってくる。今日はヒルノメの機嫌がいいけれど、明日にはヨルノメの機嫌がいいかもしれないだろ?行って、ニチルにお告げがないか、聞いてくるよ。」
 父が返事を返す前に、ヒスイは走り出していた。父に手を振りながら、全速力でニチルの家まで駆けていく。ヒスイの姿はあっという間に暗闇へ掻き消えた。


 *


 ニチルにはヒルノメとヨルノメの声を聞く力があった。この集団の人々はニチルが聞いたヒルノメとヨルノメのお告げを元に、漁に出るのか、山へ狩に行くのか決めていた。ヒルノメはめったなことでは姿形を変えないが、ヨルノメは頻繁に姿を変えてしまう。ヒルノメやヨルノメが姿を変えることを人々はヨルノメが機嫌を損ねたとか、人に例えて形容した。いつからそんな風習が根付いたのか、ヒスイは知らなかったが、今のところニチル以外の誰一人としてヒルノメとヨルノメの声を聞くことは出来ないことだけは知っていた。ニチルの前はニチルの母がお告げを聞いていたが、ニチルの母は昨年病に倒れ、再び目を開けることはなかった。
「ヒスイ兄さん。」
 ヒスイがニチルの家まで駆けている道中で、暗闇からヒスイを呼ぶニチルの声が聞こえてきた。ヒスイは突然名を呼ばれて、あやうく気が動転しかけたが、冷静になって声の主の居場所を探した。すると、草むらからニチルが姿を現した。
「ニチル!どうしてそんなところに。」
「兄さんが来るような気がして、こっそり家を抜け出したの。兄さんは自分が成人したってこと忘れてるんじゃない?」
 言われてみて、ヒスイは気がついた。成人した男性は同じ集落といえども、軽々しく他人の家を訪ねてはいけない。まして夜更けに若い娘の家を訪ねるなど、許されることではない。成人してしばらく経ったが、自分はまだまだ子供の気分なのだと、ヒスイは思い知らされた。
「ああ、そうか。母さんが子供扱いするもんだから、成人したこと忘れてた。」
 ヒスイは照れ隠しに髪を掻くと、苦笑を浮かべた。ニチルはそんなヒスイを見て、愛らしい笑顔を浮かべる。ニチルは特別美人というわけではなかったが、艶やかな黒髪が美しい小柄な娘だった。大人しく、つつましいニチルは手先が器用で、木の実や草花の採取よりも土器を作る方が得意だった。
「夜更けに一体どうしたの?」
 ニチルはヒスイに尋ねた。二人は草むらの影に腰を下ろし、ヨルノメの淡い光を浴びた。
「お告げを聞いていないかと思ってさ。父さんは明日シカ狩りに行こうって。俺は海へ行きたかったんだけど。」
「そうね…。残念だけれど、ヨルノメの機嫌はこれから悪くなる一方でしょう。なんだか海もざわめいている気がして…わたしは海へ行くのはおすすめしないわ。」
「海が、ざわめいている?」
 ニチルは自分の意見をヒスイに述べた。ヒスイは首をかしげながら、ニチルの言葉を繰り返した。
「何かよくないものが、わたしたちに近づいている気がするの。」
 ニチルは不安そうに膝を抱えなおした。ヒスイはニチルを元気付けようと、頭をめぐらせた。
「なぁ、ニチル。昔の話だけど、俺がお前にやった針ことを覚えているか?」
 ニチルはヒスイが急に昔話を始めたことに戸惑った表情を見せたが、ふと頬を弛ませて言った。
「シカの骨で作った縫い針のことでしょう?よく覚えてるわ。」
 そう言ってニチルは、指先でヒスイにもらった針の形を示した。それは長さにして約五センチメートルほどだ。白い骨で出来た滑らかな針だったとニチルは静かに呟いた。
「あの針が、どうかしたの?」
 ニチルはキョトンとした顔をして、左隣に居るヒスイを見上げた。ヒスイはニチルの方へ顔を向け、照れくさそうに笑った。
「実はあの針、骨は骨でもシカの骨じゃないんだ。」
「え?」
 ニチルは途端に目を見開いた。
「ほら、あの頃はまだ俺たちも小さかっただろ?コロコロ住む家も場所も変わるもんだから、俺はどこにどんなものがあるのか把握しきれてなくてさ。」
「…まさか兄さん。」
 ニチルは何かに勘付いたようだった。表情からは焦りと狼狽が見てとれる。ニチルがごくりと唾を飲み込むと、ヒスイは小さく頷いた。
「テッキを連れて行ったんだ。あの日の俺はテッキと一緒に野山を駆け回っていた。草むらで戯れていたら、テッキが急に鼻をひくつかせて、岩場の方へ駈けていったんだ。」
 ヒスイは苦笑交じりだった。一方ニチルは両の手で自分の頬を押さえて、信じられないと言った風に首を左右に振った。
 テッキと言うのはヒスイやニチルが幼いころに飼っていた犬のことだ。テッキはその当時すでに老犬で、もう何年も前に亡くなっていた。
「岩場でテッキは地面を掘り始めた。その様子があまりに必死に見えたもんだから、俺も一緒になって地面を掘った。テッキが欲しがるものが何なのか、見てみたくて。」
 ヒスイは過去の記憶を思い出しているのか、目線を空に彷徨わせてふと遠い目をした。ヒスイの口元には笑みがこぼれていたが、ニチルは難しい顔をして、唇を引き結んでいた。
「掘り進めると、そのうち白い骨が出てきた。なんだ、テッキはここに骨を埋めといたのかって、そのときは思ったんだけど、」
「ああ、兄さん。なんてことを……。」
 ニチルは、もう聞きたくないとばかりに耳を塞いだ。ヒスイはばつが悪そうに髪を掻いた。
「しょうがないだろ?当時は気がつかなかったんだから。あの岩場がまさか昔は墓場だったなんて…そういえば掘れば掘るほど骨は出てくるし、おかしいなあとは思ったんだ。テッキは一体どこから骨を持ってきたんだろう、うまいことやるなあって、」
「私、今すぐ小箱からあの針を持ってくるわ…!今から返しに行きましょう、兄さん!」
「えっ?今から?」
 ニチルはその場ですっくと立ち上がると、睨みつけるようにヒスイを見下ろした。
「兄さんは松明の用意をして頂戴。お願いよ。そんな話を聞いてしまったら、私は気になって眠れないわ!」
 ニチルはそう言うと家の中へと駆け戻った。ニチルを元気づけるための昔話のつもりが、逆に大きなショックを与えてしまったようだった。ヒスイは慌てて、ニチルが駆けていった方へ声を張る。
「ニチル!そんなに慌てなくたって大丈夫だよ!あの骨、地殻変動で地表に出てきたものだって…、」
「昔の人の骨だからって、軽く見てはいけないわ!もしかしたら、あなたのご先祖様かもしれないわよ!」
 ニチルは暗闇の中でそう叫んだ。先祖とまで言われると、さすがにヒスイも悪いことをしたという自覚が芽生え始めてきた。遥か昔の過去の人の骨を、元は生きていた人間だったと想像するのは容易ではない。今の今まで罪悪感など湧いてはこなかったのだが。
 ニチルは行きと同じく、駆け足で戻ってきた。二人はヒスイの持つ松明の明かりを頼りに、幼い頃のヒスイと犬のテッキが駆け回ったという野原へ出かけた。しばらく互いに言葉を発することはなく、ニチルは道中ずっと気難しい顔をしたまま唇を噛んでいた。ヒスイはそんなニチルを見て冗談の一つでも言ってやろうと思ったが、おどけて茶化したりすれば真面目なニチルをまたしても怒らせるのではないかと考え直し、黙ったままで居ることにした。辺りには二人の足音と、風のざわめきだけが響いていた。
 程なくして目的地へたどり着いた。今度のヒスイは惑うことも無く、かつて墓地として使われていたという岩場近くまでたどり着くことが出来た。岩場の手前に広がる野原は、数年前と同じようにさまざまな草花を咲かせていた。辺りは暗く、松明の明かりが照らす範囲しか見ることは叶わなかったが、見える範囲だけでも桃色や白色、赤色などの明るい色の花が見えた。
「穏やかな野原…。きっとこの人達が埋葬されたときは、あの岩山も同じように穏やかな野原だったのでしょう。」
 ニチルはそう静かに呟いた後、野原の一角で人骨の針に祈りを捧げ始めた。地面へ跪いて、布の中へ大事に仕舞った針を取り出し、低く低く己の頭を垂れた。ヒスイはニチルの頭上で松明を照らしながら、そのままの姿勢で瞑目した。
「ごめんなさい…。兄さんはまだ幼かったの。決して、悪気があってあなたを針にしてしまったわけではないの。許してください。」
 ニチルは両手で地面を掘り、針を土へと埋めた。
「ヒルノメの加護を、どうかこの方に。」
 ニチルは呟く。ヒスイも同じ言葉を続けて口にした。
「ヒルノメの加護があらんことを。」
 針をニチルに渡してから、何年たっただろうか。知らずにしてしまったこととは言え、今更許してくれと言うのも虫が良いように思えたが、ヒスイは余計な雑念を極力はらって、素直な気持ちで瞑目し続けた。


 *


 朝になった。夜更かしのおかげで日が高く昇り始めた頃になって、ヒスイの目蓋は閉じたり、開いたりを繰り返していた。
「顔でも洗ってきなさい。」
 眠そうなヒスイの様子を見かねて、ヒスイの父はそう言った。父はヒスイの夜更かしに気がついているのかも知れないが、それについてはあえて触れてはこなかった。
 ヒスイは父の言葉に素直に頷いて、川へ行くことにした。ヒスイたちの集団は河口付近に住居を構えている。ヒスイは川の向こうに広がる青い海を眺めながら、川原への獣道を草を踏みしめ進んでいった。
「これがざわめいている海か……。」
 昨夜ニチルが言ったとおりであるならば、この青い海はもう少し荒れているなり白波が立っているなりしていてもよいはずだったが、ヒスイの目には、相変わらずただ穏やかに波打つ海がヒルノメに照らされて煌々と輝いているようにしか見えなかった。
 そう思ったら、途端に海へ潜りたい心地がした。ニチルの言葉は覚えていたが、こんなに穏やかなのだから、少しくらい海へ行っても大丈夫だろうと思った。ヒスイは自分の判断で、海へと進路を変えた。川原へ続く獣道を外れて、道なき岩場をピョンピョンとシカのように跳ねていく。ヒスイの身の丈の倍はありそうな岩でさえ、ヒスイは軽々とよじ登り、その岩の頂上から草の大地へ一気に飛び降り、軽やかに着地する。多少の小石や小枝は意に介さない。
 ヒスイは適当な崖に目標を定めると、一気に駆ける速度を速めた。崖の端へ残り三歩の距離まで行くと、ヒスイは歩幅を変えて大股で地面を蹴った。
 ザザァッ!
 空気が、ヒスイの身体を押し上げる。ヒスイは多少なりとも、鳥になった心地がした。風という名の抵抗を全身で受け止め、頭から海へ飛び込む。
 ドォォンッ!
 轟音が聞こえた。海の中で泡が弾ける。ヒスイの目の前は白い泡で埋め尽くされた。飛び込んだ際の衝撃が、ビリビリとヒスイの手足、皮膚の感覚を麻痺させる。ヒスイは舌に感じる塩気を確かめ、うっすらと目を開いた。痛みが走り、目に映る景色が歪むのはほんのつかの間のことで、海に慣れ親しんだヒスイの目はすぐにいつもの視覚を取り戻した。
 いつもどおりの海に思えた。ニチルが言うような不穏な気配も感じられない。穏やかな海だった。
ヒスイはひとしきり海中で手足を伸ばし終えると、光の射す海上へ顔を上げた。
 ザバァッ!
 飛沫が飛び、辺りに波紋が広がった。小さな波紋は波に飲まれて消えていく。
「なんだ、いつもと同じじゃないか。」
 ヒスイは呟く。正直、拍子抜けした。ニチルが真剣な顔をするものだから、本当に何かおかしいのではないかと思ったが、今のところいつもと違う点は見受けられない。
 ヒスイは安心して再び海を泳ぎ始めた。しばらく海面に浮かんでいたかと思うと、そのまま背中から海へ身体を沈めて、光を眺めながら潜ってみたりする。自分の頭上を小魚が通りすぎていった。手を伸ばせば掴み取れそうな位置で泳ぐ魚たちは、ヒスイをまるで警戒していない。むしろ仲間と思い、歓迎するかのようにヒスイの周りに集まってきた。いつものように魚たちと戯れるヒスイは、それがいつまでも続くのだと思っていた。
 変化が起きたのは、次の瞬間だった。穏やかな時間が、突如として切り裂かれた。
 ジャシュッ!!
 突如、海中へ何かが突き刺された。ヒスイと魚は、それを避けるように身体を反らせた。
「ッ!?」
 ヒスイにはそれが何かわからなかった。それは鋭利な枝のように細く長い棒だった。しかし枝とは明らかに素材が違っている。木の枝にはない光沢、灰色とも白色とも思えないその色。見た事がない、少なくとも、ヒスイたちの周りにはないものであることだけはわかった。
 突き刺された棒は、一瞬の後、海上へと引き上げられた。ヒスイは棒の行方を追うように、身体を浮上させた。
 ザバァッ!
娯娘ユイニャン様!』
 ヒスイが海面へ浮上すると、聞きなれない言葉が聞こえてきた。
娯娘ユイニャン様!』
『そんなに叫ばなくっても、聞こえているわ、虓虎シャオフー。』
 ヒスイの頭上で誰かが会話していた。ヒスイは思わず顔を声のする方向へ向けたが、そこには船の外壁が上へ上へ伸びているばかりで、人の姿は確認できない。声からしてわかることは、会話を交わす二人がまだ歳若い少女と、青年だということだけだった。
 ヒスイが浮上した先には巨大な船が一艘浮かんでいた。丸太をくりぬいた小さな船しか目にしたことのないヒスイは、その船の構造に驚きを覚える。どう木材が組み合わさっているのか、一目見ただけでは理解ができない。木材の継ぎ目も、それとはわからないくらいにきっちりと噛み合っており、一繋がりに見えた。
 巨大な船の上からは人間の気配がした。無数の足音や船が僅かに軋む音が、ヒスイの耳へ届く。ざっと数えただけでも、10人は乗っていると思われた。ヒスイたちとは違う、知らない言葉を話す人間が、何人もこの船に乗っているのだ。
『大きな魚の影が見えたから、あなたたちのために獲って差し上げようと思ったの。』
『魚?こんな浅瀬に?』
 すると、船の上から青年の顔が突き出された。青年が船から身を乗り出したらしい。
 ヒスイは穏やかな波に揺られながら、立ち泳ぎをして姿勢を保った。船から突き出た青年の顔を見て、ヒスイはまたも呆然としてしまう。身なりの整った黒髪の青年で、頭の上で髷を結っている。日に焼けた褐色の肌に、力強さを感じさせる弓形の眉。人を射殺すような鋭い目。こちらを見ながら、なにやら驚いたような表情を作っている。
 ヒスイは、自分とは違う何かを、この青年に感じていた。
『人間ではないですか!』
 青年は声高に何か叫んだ後、すぐさま頭を引っ込めた。ヒスイは訳がわからず、海上で首をかしげた。
すると、今度は入れ替わりに白い肌の少女が船の上から顔を覗かせた。
『あら、本当だわ。』
 少女は何か呟いた後、ヒスイに向かって話しかけた。
『あなた、倭国の人間でしょう?そんなところで泳いでいたら、船の下敷きになってしまうわよ。』
 少女は青年と同じように、黒い髪を頭の上で結んでいる。切りそろえられた前髪と、つりあがった大きな目、顔に施された化粧がとてもよく似合っている。身にまとう衣装は何やら艶やかな素材で出来ている。質の良さは感じさせるが、飾り気のない黒布だった。
 少女はつんと澄ました顔をしてヒスイに言う。しかし言うやいなや、ヒスイからは興味が遠のいたのか、海面に目線を泳がせた。
「……何言ってるんだ……?」
 ヒスイはそう呟いていた。だが少女は、ヒスイの呟きなど全く聞いていない。少女は明後日の方向を見ながら、再び煌く棒を振りかざした。
『船の下敷きになる前に、あなたの銛で串刺しになるところでしたよ。』
 棒を振りかざした少女の腕を、先ほどの青年が片手で鷲掴みにする。少女の手から棒を抜き取ると、今度はもう一方の腕で、少女の肩を船の上へ引き戻した。
 少女の姿がヒスイの位置から見えなくなると、青年は再び船から身を乗り出した。なにやら気難しい顔をして、眉根に皺が刻まれている。青年は一息飲んだのち、静かに口を開いた。
「我々は西の大陸より参った、ナンナンの民だ。この国を調査させてもらいたい。君の村はすぐ近くにあるのか?」
 驚いたことに、今の今までわけのわからない言葉を発していたはずの青年が、ヒスイにも通じる言葉で話し始めた。ナンナンやら村やら聞きなれない単語を発してはいるが、ヒスイたちと同じ言葉で話している。
「………言葉が…、わかるのか?」
 ヒスイは戸惑いつつも、青年に尋ねた。
「ああ。私はそのために船に乗っている。この国へ、我々の文化や技術を伝えるためにやってきた。この倭国にはすでに何人も私たちの仲間が入国している。北方の未開の地へ派遣された船はまだ少ないが、南へ行けば鉄器の技術に貨幣の制度、船や住宅、村組織の成り立ちまで私たちの伝えたやり方で事は運んでいる。」
 青年の語る言葉の中には、ヒスイには聞きなれない単語も混じっていた。しかし全くわからない話ではない。なぜなら昨晩、父や長たちが言っていた「西域から派遣された使者」の話を思い出したからだ。鉄や銅の精錬技術で、質のよい武器や道具が作れる、それらの技術を教える人間は、西の大陸からやってくる。
 集団の皆は、近隣の集団と一つになってクニを作ろうと企てている。もし西の大陸からやってきたという彼らを連れて帰れば、今後自分たちがクニをつくるにあたって、よい助言が得られるかもしれない。
なにより、二種類の言葉を話す青年と、白い肌の少女が気になる。少女が振り回していたあの棒は一体なんだろう。ヒスイは彼らのことをもっとよく知りたいと思った。


 *


 ヒスイが皆の元へ帰ると、父や長たちは西の大陸からの使者を丁重にもてなした。クニをつくろうと思っていた矢先に、大陸から到着したばかりの人間が現れたのだ。幸先がよいと集団は盛り上がった。
「私はシャオフー、こちらはナンナングンの豪族・ユイニャン様。」
 シャオフーは宴の席で改めて名を名乗る。集落の皆はシャオフーの一言一句、すべてがありがたいとばかりに聞き入った。
「我々の言葉は、どこで学ばれたのですか?」
 長がシャオフーに尋ねた。
「ナンナンです。倭国に…この国へ渡って、ナンナンへ帰ってきた者から学びました。あなた方は知らないかも知れないが、我々の仲間は300年も昔からこの国とナンナンを行き来しています。もちろん、この国からナンナンへ渡る方も居ます。」
 長やヒスイの父、義理の兄たちはシャオフーとユイニャンを取り囲んで大盛り上がりだ。南方の様子やナンナンとやらの話、あらゆることを聞いては歓声を上げていた。
 宴の席の隅の方、松明の明かりも届かないような薄暗い場所で、ニチルは西域からの客人を見つめていた。皆を遠ざけるような二チルの様子に気がついたヒスイは、話の輪から抜け出して二チルの側へ歩いて行った。
「どうしたんだ、ニチル。」
「………兄さん、」
 ニチルは浮かない顔をしている。一度ヒスイを見上げて微笑んでみせたが、すぐに俯いて膝を抱えてしまう。
「どうしてかしら…。よく知りもしないのに、あの方たちが何かよくないもののように感じて仕方がないの。」
 ニチルは力なく呟く。ヒスイはニチルの隣に腰を下ろし、ぼんやりと空を見つめるニチルの横顔を、じっと見つめた。ユイニャンとは違い、日に焼けたニチルの顔。目鼻立ちもユイニャンに比べれば目立つようなものではない。その上、今日のニチルは悲しげで疲れたような顔をしていた。
「西の大陸からの使者が、俺たちの生活を豊かにしてくれるらしいじゃないか。隣の集落に嫁いだ姉さんだって、大陸の教えで始めた畑や水田を手伝ってるって聞いた。苦労はするらしいけれど、管理さえすれば葉が赤く色づく頃には実りが得られるし、山に行って捜し歩くより楽だって話だ。鉄器だって土器より便利らしいし、いいこと尽くしじゃないか。」
「確かに、技術はすばらしいと思うけれど…。」
「じゃあ、何が心配なんだ?ちょっと偉そうだけど、あの人たちは悪人に見えなかった。」
 そう尋ねられたニチルは「どうしてかしらね…。」と呟いたきり黙りこんでしまう。
「………明日はどっちだ?」
 ヒスイは話題を変えた。明日の狩は海と山のどちらへ行けばよいのか、二チルに尋ねる。するとニチルは途端にハッとなって、
「そうだった…。私にはお役目があるんだもの、いつまでも沈んでいられないわよね。」
 と言うなり、その場ですっくと立ち上がった。右手を握り締め、傍らに座すヒスイを見下ろしながら、
「明日は山の方がいいと思うわ。ヒルノメが昇っているうちに、行って帰ってきて。」
 と、可憐な笑顔で告げた。
「わかった。」
 ヒスイはニチルの笑顔に安心して、大きく頷いた。


 *


 翌朝、ヒスイは父や兄たちと山へ出かけた。
「あの子を一人にしてよかったのか?」
 ヒスイは獣道を歩きながら、列の一番後ろを歩く客人を振り返った。
 西の大陸からの使者・シャオフーもまた狩について行きたいと、男たちとともに山へ入っていた。
 あの大きな船の中で、ヒスイたちと同じ言葉を話せるのはシャオフーだけだった。山道は危険だからと、ユイニャンは集団の女にまかせて来たのだが、今頃彼女はどうやって集団の皆と意思の疎通を図っているのだろう。
「昨夜の歓迎振りなら、誰も彼女をただで放ってはおかないだろう。言葉など無くとも、あの方ならどうにでもする。」
 シャオフーはユイニャンのことを心配などしていないようだった。むしろ、やっと開放されたとでも言いたげに大きなため息を吐く。
「ふうん。一人だけ船から連れ出したから、何か思うところでもあるのかと思ったけど。」
 素っ気の無いシャオフーの態度に、ヒスイは首をかしげた。
「あの方はナンナンの上層からの預かり物、私は彼女のお目付けだからな。勝手気ままに旅を始めて、必ず無事にナンナンへ帰れると思っているお気楽なお嬢様だ。船に残した仲間だけでは、彼女のわがままに付き合いきれない。が、言葉の通じない人々に取り囲まれては、いつもの調子でわがまま放題というわけにもいかないだろう。」
 シャオフーは言いながら左の肩をぐるりとまわした。ヒスイはその返事になおも首をかしげてしまう。
「…君はユイニャン様が気になるのか?残念だが、彼女は止めておいた方が得策だぞ。」
「な、!」
 ヒスイはその場でぴたりと歩みを止めた。シャオフーは苦笑を浮かべてヒスイの頭をポンと一つ叩いた。そうして、立ちつくすヒスイを残してさっさと先へ進んでしまう。
「気にはなるけどな、俺が気になるのはあんたたち二人のことだ。ユイニャンだけが気になるわけじゃない。」
「言い訳などしなくていい。」
 弁解しようとするヒスイの言葉を、シャオフーは真面目に聞こうとはしない。しかしヒスイは尚も弁解を続けた。
「ただ、物珍しいから気になるんだ。俺たちとは何もかも違う。身なりも、文化も技術も、振る舞いの一つ一つすら、」
「変わらないさ…。発達が早いか遅いか、ただそれだけのこと。君たちもいずれ、我々のように独自の文化を育て、ハンよりも国を発展させるかもしれない………。」
 ふと、シャオフーが歩みを止めた。ヒスイは数歩遅れてシャオフーの背に追いついた。
 先へ進む父や兄たちが、林の奥で武器を構え始めた。石の鏃で作った弓だ。ヒスイは集団の男たちの狩を視界に捕らえつつ、その場で立ち尽くすシャオフーの背を見続けた。
「一つ、話しておこう。」
「え?」
 シャオフーはヒスイに背を向けたまま、ふと呟いた。
「皇帝リウチョーが倭国へ人を寄越すのは己の勢力範囲を広げたいが為…。ハンのやり方を教え込んで、自分に都合がいいように倭国を懐柔したいだけだ。我々のことを知りすぎてはいけない。リウチョーの策に嵌まるな。でないと、彼女のように悲しい人間になってしまう。」
「……彼女?」 
 ヒスイは静かに聞き返す。シャオフーはゆっくりとヒスイを振り返った。
「ユイニャン様だ…。」
「ユイニャンは……、悲しい人間なのか?」
 シャオフーはゆっくりと頷いた。
「自分はリウチョーから使命を受けて倭国に来たと信じているが、実際は違う。私たちは倭国へ追いやられただけだ。ハンに居ては邪魔者だから。」
「どうして、邪魔者なんだ。」
「我々がチョソンの民だからだ。リウチョーはチョソンを滅ぼした。我々の王を殺した人間を、これからは新たな王として認めなければならない。認めるのは、難しいことだ。憎く思い、怨む方が自然だ。だから倭国へ飛ばした。生きてたどり着くかもわからない遠い異国へチョソンの民を追放した。我々が今ここにいるのはそういう経緯だ。旅を楽しんでいるのはユイニャン様だけだろう。残りの者は皆、虚無感を抱えてここにいる。」
 ヒスイは片手で頭を押さえた。シャオフーの言う、聞きなれない単語のおかげで理解が遅れる。
「……、ちょそん?」
 混乱した様子のヒスイを見て、シャオフーは苦笑した。
「すまない、難しい話だったか。いいんだ…。今の話は、忘れてくれ。」
 忘れろというならなぜ聞かせたのだと、ヒスイはシャオフーにしかめっ面をしてみせたが、頼まれずとも明日には綺麗に忘れているような気がした。
「ヒスイ!!行ったぞ!ヒルノメの真下だ!」
 シャオフーとの会話が一段落ついたかと思えば、ヒスイの父がヒスイに向かって叫び声をあげていた。集団の男たちの鏃は、どうやら外れてしまったらしい。獲物は彼らから遠のいて、林の向こうへ消え入りそうだ。若く艶やかな、黄金色のシカだった。
「わかった!」
 ヒスイは父の声に返事を返す。
「………。」
 威勢のいい返事をしたかと思えば、ヒスイは貝のように口を閉じた。身じろぎ一つ、瞬きの一つすらせずただその場で立ち尽くす。何を見つめているのか、ヒスイの瞳は一点を見つめたまま微動だにしない。瞳ではシカの姿を捉えていないのかもしれない。不可解なヒスイの行動にシャオフーは首をかしげる。
そして刹那の後、ヒスイの手が矢筒に伸びた。無駄の無い精錬された動きで矢を取ると、素早く構え、
 バスッ
 ヒスイが纏う空気が変わった。塞き止めた水が一気に流れ出るように、溜め込んでいた気を一気に開放する。木々の隙間を一瞬で見定め、獲物までの一本道へ矢を放つ。
 瞬く間の出来事だった。シャオフーは驚き、目を見開いた。自分が剣を鞘から抜いて構えるほどの時間で、ヒスイはその倍以上の作業をこなしているのではないか。慣れているのだろうとは思ったが、それでもヒスイは狩の能力に長けている。今の動作だけでもそのことがよくわかった。
 ヒスイの放った矢はシカの脳天をついた。シカはその場でフラフラとよろけた後、地面へ身体を横たえた。
「道具にも勝るな…。」
 シャオフーは呟く。ヒスイには、どんなに便利な道具を持ってしても敵わないだろう。まだ歳若いヒスイの能力に恐れすら感じる。倭国の北方に、自分たちに勝る者がいようとは。
 獲物の側へ寄った男たちは、その場で鹿の血抜きをして木の枝に鹿を括りつけた。このまま枝を肩に担いで、皆の元へ帰るのだろう。
「もう帰るのか。」
 帰り支度をする皆を見て、シャオフーはヒスイに耳打ちした。集団の男たち全員で出てきたというのに、獲物は若い鹿一頭。正直、拍子抜けした。
「たくさん獲っても食べきれないだろ。」
「食べきれないなら売り払えばいいだろう。」
「うる?なんだそりゃ。」
 ヒスイは声をあげて笑った。馬鹿にされたようで、シャオフーは面白くない。だが、屈託無く笑うヒスイに、自分とは違う価値観があるように思えた。
「ああそうだった。」
 笑いが収まると、ヒスイは思い出したとばかりに呟いた。長や父たちがすでに集落へと道を引き返し始めていたが、ヒスイは慌てて彼らに背を向ける。
「ヒルノメの加護があらんことを。」
 獲物の鹿が死したその場所で、ヒスイは膝を折った。ニチルがしていたように地面へ頭を付け、ヒルノメに祈る。土の上にはまだ鹿の血や毛皮の一部が残っている。ヒスイは辺りの地面を素手で掘り、それらの上に土をかけてやった。


 *


 シャオフーらが乗っていた船から、残りの使者が下りてきた。残りの皆は若者から壮年まで幅広い年齢だったが皆男ばかりだった。
「あの船に乗っていた女はユイニャンだけだったのか?」
 ヒスイはあるときシャオフーに尋ねてみた。
「ああ。本当なら、彼女は倭国へ来るはずではなかった。あちらが勝手に乗り込んだんだ。」
「何のために?」
 ヒスイが聞き返すと、シャオフーの眉間には皺が刻まれた。
「リウチョーの為だ。ナンナンが任をまかされた時から、彼女は要らぬやる気を見せている。」
 ユイニャンが陶酔するリウチョーとは、どんな人物なのだろう。ヒスイはリウチョーのことも詳しく知りたくなったが、シャオフーはリウチョーの話をすると気難しい顔になる。そんな顔をされると、尋ねたくとも尋ねにくくなってしまう。その上シャオフーは、連日長たちに連れられて近隣の集団を巡ってばかりいる。朝出かけて、帰りはヨルノメが昇り始めた頃になる。食事もそこそこに倒れるように眠るのが常だ。シャオフーは時折、馬が欲しいとぼやいていた。
 シャオフーが駄目ならばユイニャンに直接聞きたい気もしたが、彼女とは言葉が通じない。もどかしい気持ちをどこで発散させようかと思案していると、
『嫌よ!構わないでったら!虓虎シャオフーに文句を言ってやるんだから!』
 ユイニャンらに貸し与えた家屋から、ユイニャンの怒鳴り声が聞こえてきた。集団の皆は何事かと家屋を見つめたが、言葉の壁に阻まれて事情がわからない。とにかくユイニャンが凄まじい勢いで怒っているのだけは確かだ。金切り声とはまさにこのことだろう。
『倭国は視察に行くだけだって言ったじゃない!どうしてハンに帰らないことになってるの!?』
『お役目を果たすまでは、戻るなとの命です。』
『それは何?私に倭国で一生を過ごせという意味?劉徹リウチョー様がそんなことをおっしゃるわけが無いわ!虓虎シャオフーが意固地になって帰らないと言い張ってるんでしょう!?』
娯娘ユイニャン様、お静かに…、』
『これが喚かずにいられると思って!?どうせ叫んだって誰も言葉を理解できないじゃない!虓虎シャオフーはどこ!?また外を出歩いてるの!?』
 ユイニャンと使者たちが言い争っていたかと思うと、いきなりユイニャンが家屋から飛び出してきた。大きな目を更に大きく見開き、キョロキョロと辺りを見回す。両腕が、誰かに縋るように空中を彷徨っていたが、誰もユイニャンに手を差し伸べはしない。
『誰か、虓虎シャオフーの居場所を知らないの!?』
 たまらずユイニャンは周囲の者に訴えたが、皆首をかしげ、眉根を寄せて困ったような顔をするばかり。
 そのうちに、ユイニャンを家に連れ戻そうと、使者の男が家屋から出でて、ユイニャンの体を押さえ込もうとした。
『やめて!私に触れないで!』
 ユイニャンは男の腕を振り払おうと四肢をばたつかせる。ユイニャンの爪が使者の男の腕や顎に傷を作っていった。
「嫌がってるじゃないか!シャオフーを呼べって言ってるんだろ!呼んでやれよ!」
 穏やかでない使者たちの様子を見て、ヒスイはいつの間にかユイニャンたちの前に躍り出ていた。詳しい話はヒスイにも理解できなかったが、ユイニャンが何度もシャオフー、シャオフーと繰り返すのを見て、とにかくシャオフーに用事があるのだろうと見当をつけた。ヒスイの言葉もまた大陸からの使者たちには通じなかったが、シャオフーという単語だけは通じたらしく、
『あなた、虓虎シャオフーの居場所を知っているのね!?』
 ユイニャンが途端に瞳を輝かせて、両腕でヒスイにすがり付いてきた。ヒスイに抱きつくようにして、男の腕から逃れようとするユイニャンに、ヒスイは心の臓が跳ね上がる思いがした。
「シャオフーならまだ寝てるんだろ。昨日も歩き通しだったみたいだし……。」
 ユイニャンの顔が間近に迫る。ヒスイはユイニャンの瞳から目をそらしたくなったが、あまりの眼力にそうすることも躊躇われた。今ユイニャンから目を反らせば、彼女とは一生分かり合えない気がした。
『お願いよ!虓虎シャオフーのところへ連れて行って!』
 ヒスイから離れる気配のないユイニャンに、使者たちは呆れ顔だ。もしかしたら彼らが船で旅をしている間中、今のような癇癪が幾度も起きていたのだろうか。「またか」と使者たちの顔には書いてある。
しばらくして諦めたのは、ユイニャンを止めようとした使者の男たちだった。ユイニャンはヒスイに縋りついたまま、男たちの気配が消えるまでじっとそのままの姿勢で居た。
「シャオフーのところへ行けばいいんだろ?わかったから、いい加減離れろよ。」
 周囲が常のざわめきを取り戻した頃、ヒスイは両手でユイニャンの肩を押し戻した。するとユイニャンはその場へへたり込むようにして地面に座った。
『気が抜けちゃったのかしら…、足が立たないわ。』
 ユイニャンが照れを交えた顔をしてヒスイを見上げた。よく見れば、ユイニャンの瞳には僅かに涙が浮かんでいた。興奮のあまりにじみ出てきたらしい。
「なんだ、立てないのか?」
 ユイニャンの様子を見て、ヒスイは状況を察した。ユイニャンに手を差し伸べて片手を握る。片腕一本でユイニャンの体重を引き上げ、彼女の腕を自分の肩へ回した。
「ほら、支えてやるから、ちゃんと歩け。」
『………。』
 自分を支えようとしてくれるヒスイに、ユイニャンは目配せする。するとヒスイも視線を感じて、ユイニャンの瞳を見つめ返した。黒曜石のような漆黒の瞳に、ヒスイの顔が映っていた。
『ありがとう。』
 ヒスイにはユイニャンの言葉は理解できなかったが、きっと礼を言われたのだろうと思った。





 シャオフーの元へ知らせが来たのは、ヒスイとユイニャンがシャオフーの寝泊りする家へたどり着くよりも早かった。
『申し訳ありません。つい口が滑って、娯娘ユイニャン様に真実を…。』
『申し上げたのか。楽浪ナンナンへは戻れないと。』
『はい。そんな話は聞いていない、王がそんなことを言うはずがないと大変お怒りのご様子で…喚かれました。』
 シャオフーに知らせに行ったのは、いち早くユイニャンを止めようとした男だった。ユイニャンに引っ掻かれた傷が痛むのか、時折腕や顎をさすっている。
「そして、全ては私のせいだとでも言ったのだろう。あのわからずやは。」
 シャオフーは部下に聞こえないように倭国語で悪態をつく。聞き返した部下の言葉は黙殺した。
『それで、娯娘ユイニャン様は私を探して怒鳴り歩いておられるのか?』
『いえ、倭国の少年と、こちらへ向かっておられます。喚きもせず、いつもよりご冷静なのです。こちらへ着く頃には、頭が冷えてらっしゃるとよいのですが。』
『…翡翠ヒスイか。面白い少年だな、彼は。案外、娯娘ユイニャン様と似合いかもしれないぞ。』
 シャオフーがそう言って笑うので、部下もまたつられて愛想笑いを返した。
『まぁ、いい。言ってわからなければその時はその時だ。知られてしまったのなら、真実を懇々と諭すしかないだろう。下がれ。』
『失礼致します。』
 シャオフーの許しを得ると、部下の男は速やかに家屋から出て行った。一人きりになったシャオフーは右手で額の辺りを押さえこみ、深いため息を吐いた。





「シャオフー!居るんだろう!?」
 ヒスイは家屋の外から、シャオフーに声をかけた。傍らには自分の足で歩けるようになったユイニャンが俯いて立っていた。
「ユイニャンが呼んでるぞ!」
 返事のないシャオフーに向かって、ヒスイは声を張り上げた。
「大声を出さずとも聞こえている。」
 すると程なくしてシャオフーが家屋から出てきた。疲れた顔をして、僅かに怒っているような表情だった。シャオフーはヒスイとは一度も視線を交わさないまま、俯いたユイニャンを見下ろした。
「すまない。世話をかけたようだな。」
 そう言いながらも、シャオフーはユイニャンに視線を落とすばかりで、ヒスイの方は見もしない。
「別に、俺は何もしてない。」
 ピリピリとした空気感に、ヒスイはその場を離れがたくなる。もし二人きりにしてしまえば、何か間違いが起こるのではないかという気がする。ヒスイが二人の周りをうろうろと彷徨っていると、ふいにユイニャンが顔を上げた。
『あなたは、馬鹿だわ。』
 顔を上げたユイニャンは、シャオフーを睨みつけていた。
『十四年も前の話をまだズルズルと引きずって…女々しいわ。』
 ユイニャンは微動だにしないシャオフーの胸倉を掴んだ。
『お得意の文句で言い返しなさい。聞いてあげるわ。』
 ユイニャンは不敵に微笑んだ。挑発されたシャオフーは冷静を装いながらも、眉間に深く皺を刻んで言い返す。
『………あなたが生まれた十四年前、十三の私は劉徹リウチョーに国を滅ばされた。母国を失った者の気持ちが、あなたにわかるはずがありません。』
『ええ、わからないわ。あなたが愛する朝鮮チョソンも、右渠王ウゴワンが亡くなった経緯も、昔を知らない私にはわからない。』
 勝ち誇ったような笑みを浮かべるユイニャンに対し、シャオフーは冷たい怒りで満ちていた。話はわからないが、雰囲気だけで寒気がしそうだとヒスイは思った。
劉徹あちらは今、西域に夢中でしょう…。倭国のことなど関心はない。あなたを倭国へ送り出したことこそ、劉徹リウチョーのあなたに対する気持ちのほどが窺える。』
劉徹リウチョー様が私に関心のないことくらい、ずっと前から知ってる。』
『ならばなぜ、劉徹リウチョーに陶酔するのです?』
 ユイニャンは一瞬、傷ついたような顔をした。そして次の瞬間、燻っていた怒りの炎が再加熱したように、
『あなたがわからずやだからよ!』
 犬歯をむき出して叫んだ。
ハンに帰らないなんて、許さないわ!あなた、本当に倭国に骨を埋めるつもりなの!?』
『帰りたくばあなた一人で帰ればいい。船は海に浮いていますよ。』
 シャオフーは端的に吐き捨てる。その態度に、ユイニャンの怒りはさらに燃え盛る。
 とうとう両腕で胸倉を掴んだユイニャンは、冷たい瞳のままのシャオフーを前後に揺さぶる。腕力が足りないのか、怒りが心頭しているのか、ユイニャンの腕はぶるぶると震えていた。
『十四年、十四年よ!どうしてあなたはいつまでも自分に苦痛を強いるの!?楽になったっていいじゃない!』
 訴えるユイニャンに、シャオフーは沈黙する。しばらく思案した後、開いた口は、
『なれるのなら、とっくになっていた…。』
 力のない、呟きのような言葉を紡いだ。
 抗おうともしないシャオフーを見て、ユイニャンは腕から力を抜いた。突き放されるように胸倉を開放されたシャオフーは、家屋の壁にもたれかかる。
『…………ッ。』
 嗚咽が漏れ聞こえた。ユイニャンの目元には煌く雫が溢れんばかりに溜まっていた。
涙を見られたくないのか、ユイニャンは闇雲に駆け出した。砂を踏みしめる足音が遠ざかり、ユイニャンの姿も見えなくなった頃、ヒスイは静かに口を開いた。
「……追わないのか?」
 問いかけに返事はない。
「事情はわからないけどな、ユイニャンは傷ついた顔してたぞ。」
 返事がないばかりか、シャオフーは黙って家屋へ戻っていった。ヒスイは煮え切らない気持ちのまま、ユイニャンの背を追いかけることにした。追ってどうなるとは思わないが、追わなければならない気がした。





 ユイニャンは岸壁に居た。地面へ座り込んだと思えば、天を仰ぐようにしてその場に寝転んだ。
『…………。』
 ユイニャンの視界は歪んでいた。にじみ出てくる涙で、空と雲が交じり合う。甲高い鳴き声を上げる鳶も、青と白の渦に飲まれていった。
「なあユイニャン、」
 ユイニャンの頭上でユイニャンの名を呼ぶ声が聞こえた。ユイニャンは自然と、そちらに視線を巡らせていた。するとそこには、漆黒の髪を靡かせ、こちらを覗き込んでいる少年が居た。左右の犬歯を抜いたのか、少年が口を開くと不自然な歯の隙間が見えた。
「涙を消す方法を教えてやろうか。」
 少年は歯の欠けた口でニッと微笑む。
 ユイニャンは顔をしかめてヒスイに告げた。
『女性が泣いているのよ?放って、見て見ぬ振りをするのが礼儀でしょう?』
 一応諭してはみるが、言葉の通じないことはユイニャンも知っていた。
「さあ、立って、走るんだ!」
『ちょ、ちょっと!』
 ヒスイはユイニャンの言葉に聞く耳を持たない。それは言葉がわからないという理由だけではなかった。ヒスイは己がしたいと思ったとおりに動いた。ユイニャンの意思などお構いなしだ。幼い子供のようにユイニャンの腕を引き、無理やりに立たせると、いつもの調子で崖へ向かって駆け出した。
『ちょっと待って!早すぎるわ!足が追いつかない!』
 ユイニャンは何度も躓きそうになりながら、必死にヒスイの駆ける速度についていこうとした。
「もうすぐだ!もうすぐ、鳥になれる!」
 岸壁の先には海が広がっている。ヒスイは海を見て、さらに駆ける速度を加速する。
 崖からの踏み切りの一歩と同時に、ヒスイはユイニャンの腕を思い切り引いた。ユイニャンは駆け足の勢いに増して、ヒスイに腕を引かれたことで、つんのめるように崖から身を投げ出した。
『きゃあああああ!!!』
 ユイニャンは悲鳴を上げた。一方ヒスイは慣れたもので、空中で四肢を広げ、笑顔で鳥の真似をする。
 ドオォォォンッ!
 耳を突き抜ける轟音。顔や身体にまとわりつく無数の泡。塩気が瞳に入り込み、視界を歪ませる。衝撃のおかげで、考えごとや悩みなど消し飛んでしまう。ヒスイは何か辛いことがあれば、いつも海で悩みを消し去っていた。
「あはははは!!」
『痛いわ!何なのよ、もう!』
 海上へ顔を上げた二人は、互いを見ながら笑ったり、怒ったり。
「ヒルノメが沈む。」
 気がつけば、あたりは赤く染まっていた。普段は青いはずの海が、真っ赤に変化している。
『綺麗。』
 ユイニャンはヒルノメに魅了されていた。その目に涙はもうなかった。
「今度はシャオフーも連れてこようか。」
『シャオフーにも味わわせてやりたい。大地の力、自分がどれだけ小さなことに縛られているのか、きっと思い知るわ…。』
 互いに言葉を発してはいたが、相手に自分の言葉が通じているとは思っていない。言葉は無くとも、二人の心はどこかで通っていた。





 大陸から使者がやってきて、しばらく経ったある日のこと、ニチルとユイニャンがヒスイの家を訪ねてきた。
「兄さん、種を撒くのよ。」
 ヒスイはニチルにそう言われて、ポカンと口を開いた。
「たね?」
「この小さな粒よ。大陸の食物なのですって。」
 ニチルは自分の両手を器にして、種を持っていた。ニチルの手のひらの中の小さな種を覗き込んだヒスイは、これが食べられるものになるのかと、疑問に思って腕を組んだ。
 一方ユイニャンはモジモジしながら、ニチルの背に隠れるように立っていた。何やら照れた顔をしてヒスイを見ている。
 ヒスイはユイニャンの目配せに気がついた。ユイニャンの姿を上から下まで眺め、
「あの服、止めたのか?」
 と、ユイニャンに尋ねた。
 今日のユイニャンはニチルやヒスイが着ているのと同じ、麻の貫頭衣だ。髷を結っていた髪は左右に下ろされ、耳の辺りでそれぞれまとめられている。煌びやかな装飾も、いつもの化粧もない。格好だけを見れば、今のユイニャンはまるで昔からヒスイたちの集落に住んでいたかのようだった。
『似合うかしら?』
 ユイニャンは一瞬ふわりと微笑んだ。しかし照れるのか、すぐにニチルの両肩に両手をついて、姿を隠そうとする。
「着てみたそうだったから、私のものを貸してあげたの。やっぱり美人は何を着ても愛らしいわね。」
「へぇ。」
 ヒスイは感嘆の声を上げた。衣服のことも驚いたが、ニチルと仲が良さそうなことに驚いた。ニチルとユイニャンはまるでヒルノメとヨルノメのように真逆の印象だ。気が合うとは思わなかった。
「種撒きの手伝いに、隣の集落からヒスイ兄さんの姉さまもいらしてるわ。」
「姉さんが?」
 ヒスイの姉は三年ほど前に隣の集落へ嫁いでいた。既に子供も生まれ、立派に母になっている。快活で口の良く回る女だった。
「長たちの話し合いもそろそろまとまるみたい。クニは向こうの平原に作るらしいわ。」
「そうか…いよいよ固まってきたのか。」
 シャオフーは毎日長たちと出歩いていた。ようやく山歩きにも慣れたのか、倒れるように眠ることは少なくなったが、やはり疲れた顔して、ヒスイと会うと目をそらした。ヒスイとシャオフーはあの日からまともに会話を交わしていなかった。
「行きましょう。皆が待ってる。」
 ニチルが微笑んで言った。ヒスイは頷き、三人で畑に向かうことにした。





「ヒスイー!」
 ヒスイの姉が、ヒスイの姿を見つけて遠くから手を振った。彼女は畑の中で屈んで作業をしていたらしく、衣服の端が泥で汚れていた。ヒスイは姉に返事を返すように大きく手を振り返した。
 すでに耕された大地が、あたり一面に広がっていた。集落の男たちや近隣の集落から手伝いに来たと思われる者たちが、それぞれ畑に散っている。木の枝を加工して作った鍬を持ち、畝を作っているようだった。
「うわぁ……。」
 ヒスイはそう呟いて、しばらく周囲の様子に見とれていた。
 掘り返された土の香りがする。畑のまわりに広がる緑と、耕された土の色がくっきりと境界線をつくり、畑の空間だけが異質なものに見える。けれど、決して不快な異質さではない。なんとも言えない「作られた空間」がヒスイの心を捉えた。
「ニチル、種は持ってきた?そこの畝に穴があるでしょう?少しずつ入れて、土をかけて頂戴。」
「はい。姉さま。」
 ヒスイの姉はニチルに指示を出す。そしてふと、二チルの隣で立っている見慣れぬ少女に目を留めた。
「あら、あんた、ニチルのお友達?どこの集落の子だったかしらねぇ…、この辺の子ではないわよね?」
 話しかけられたユイニャンは小首をかしげるばかり。
「いやだわ、姉さま。この方は大陸からいらっしゃった使者様よ。ユイニャン様と言うの。」
「使者様?」
 ヒスイの姉はそれを聞いて、中腰になってユイニャンの顔を覗きこんだ。
「へぇ、美人なのねぇ。」
 感嘆の声をあげるヒスイの姉同様に、ユイニャンもまた思う。
翡翠ヒスイにそっくりね。』
 ヒスイという単語を聞きつけた姉は、自分の顔を指差し、次に呆けているヒスイを指差した。ユイニャンは大きく頷き、返事を返す。姉はにっこりと微笑むとヒスイをこちらへ手招いた。
「同じ顔だと言ったんだろう?そうさ、あたしとこの子は姉弟だからね。成人したから顔つきもちょっとは男らしくなると思ったのに、あんたはまだまだ変わらないわね。」
 ヒスイの姉はヒスイの首へ豪快に腕を回した。姉がそのまま畑へ降りて行こうとするので、ヒスイは姉に引きずられるようにヨタヨタと歩く羽目になった。
「で、どっちがあんたのお気に入りなの?」
「え?」
「ニチルと、あの子だよ。あんたが前々からニチルに気をかけているのは知ってたけど、あの大陸の子もなかなかじゃないか。チラチラとあんたを見てばかりいるし。」
「ユイニャンが?」
 言われてみて、ヒスイはユイニャンを振り返った。ユイニャンはニチルと一緒に種撒きを始めたところで、白い両手で土を掘っていた。
「まぁ、あんたはあの父さんの子だからねぇ。玄人の女をあてがわれてお終いになる気もするけれど。」
「姉さん!」
「はいはい。口を閉じろって言うんだろ。わかってるよ。」
 ヒスイの姉は舌をベロリと出して、ヒスイの首を開放した。
「あんたは水汲みだよ。男たちを回すから、川に行って待ってなさい。」
 姉はそう言うと、駆け足で元居た位置へ戻っていった。姉は畑の中で邪魔になる石や岩を取り除く作業をしていたらしく、戻るなり両腕で抱えるほどもありそうな大岩を畑の隅へ次々に移動させて行った。





 言われたとおり、川へやってきたヒスイは、川辺で岩に腰掛けると足先で水を弾き始めた。後からやってくるはずの男たちはまだ姿を見せない。
「ヒスイ。」
 すると、草むらから意外な人物が出てきた。ヒスイが着くよりも前に川辺にいたのだろうか。
「シャオフー!どうしたんだ、そんなところで。」
 会えば視線をそらす毎日であったのに、シャオフーから話しかけてくるとは珍しい。
「今日は大騒ぎだな…。皆で何をやってる?」
「〝たねまき〟だそうだ。こんな小さな粒が、食べ物になるらしい。向こうの方で、皆で土を掘り返してる。たねを土に埋めるって。」
 ヒスイは水の底にあった川原の小石をすくい上げ、シャオフーに見せる。石はニチルが持っていた種と同じくらいの大きさだった。
「ふぅん…。人手は足りているのか?力が欲しければ我々も手を貸そう。」
「本当か?」
 ヒスイはあの広い土地に水を撒くのなら、人手はあって越したことはないと思った。手伝いはどんなものでも欲しい。
「…それは?」
 シャオフーはヒスイの側に置いてある土器を指差した。
「ああ、水を汲むから器を持ってきたんだ。こういうの、集落の女たちが作るんだ。ニチルなんて手先が器用だからうまいんだ。」
 ヒスイが差し出した土器は、シャオフーには奇怪に見えた。装飾と思われる縄模様や渦状の突起が器の周りを取り囲んでいる。日常的に使用するには使いづらそうで、何かの儀式で使用するような飾り物の器にすら見える。
「それ、何を模しているんだ?」
「ヒルノメとヨルノメ、らしい。本当は俺にもよくわかんない。」
「ヒルノメとヨルノメ?」
「あれさ。」
 ヒスイは片手で影を作り、天を見上げた。今日は快晴で雲ひとつない。天に浮かんでいるのは輝きを放つヒルノメだけだった。
「ニチルには声が聞こえるらしい。ヒルノメと、暗くなってから顔を出す、ヨルノメの。」
「………へぇ。不思議な信仰だな。ニチルは巫女か。」
 しかし、巫女というには他の者と差異がない。この集落には身分がなかった。誰もが平等で対等だった。身体的に弱い部分を持つ者、幼い子供や年老いた者を気遣い、手助けすることはあっても、だれかを崇めたりはしない。
 王やら国やら、力の渦の中にいたシャオフーには理解し難い話だった。軍や武力という実際の力ではなく、月や太陽から声が聞こえるなど本人の思い次第で力とは言えないこともあるだろう。しかしこの集落の人々はニチルのお告げを聞き、狩に出る。力ある者からの指示ではなく、ヒルノメとヨルノメという特別な何かから指示を受けて。
「倭国はまるで時が止まっているようだ。私たちが介入することで、穏やかな時が壊れそうな気がする。」
 シャオフーはまたも気難しい顔をした。
「………そうかな。」
 ヒスイは先ほど畑で見た光景を思い出していた。
「皆、変わっていくもんじゃないかな。実際、俺たちは今変わってる。あんたたちだって、そのうちこの土地に馴染んでいくさ。」
 そう言って、自然と視線をシャオフーの方へ向けようとした。向けかけて、ヒスイははたと気付いた。ここ数日、シャオフーには避けられてばかりいる。また避けられたらと思うと、ため息を吐きたくなってしまう。
「…………。」
 結局、ヒスイは躊躇ったが、ゆっくりと視線を上げることにした。
 シャオフーはヒルノメを仰いでいた。ヒスイがしたように片手で影を作って。
「…変われる、だろうか。」
シャオフーの呟きに、ヒスイは即座に答えた。
「変わるよ。シャオフーも見に来ればいい。きっとわかる。」
 そう答えたヒスイを、シャオフーは視線だけで見た。にこやかな笑顔を浮かべるヒスイにつられて、シャオフーの頬も弛む。
 ヒスイは器に水を汲むと、勢いよく走り出す。
「あんたも水汲んできてくれ!この器じゃ一日かかっても追いつかないから!」
 ヒスイはシャオフーに向かって叫んだ。シャオフーは了承の意なのか、ヒスイに手を振り返した。





「この植物は、なんと言う名なの?」
 ニチルがユイニャンに尋ねた。ユイニャンは傍らに立つシャオフーを見上げた。
『なんと言う植物か、と尋ねています。』
『稲よ。そう言って。』
 ユイニャンは短く答える。シャオフーは通訳が面倒なのか、ユイニャンにはわからないように小さなため息を吐いたが、
「稲と言います。秋には稲穂を付け、あたり一面黄金色に輝く。穀物の一つです。」
 と、解説も交えてニチルに告げた。シャオフーが鋭い目でニチルを見下ろすので、ニチルはわずかに肩をすくめ、おびえたような顔をした。
「ニチル。睨んでるわけじゃないよ。元々怖い顔なだけだ。」
「ええ、わかってはいるんだけれど。」
 ヒスイは笑顔でニチルの肩を叩いた。
 するとシャオフーは屈んでニチルに視線を合わせた。
「申し訳ない。怖がらせるつもりは、」
「い、いいえ!私こそ、勝手に怯えて、ごめんなさい……。ずっと、集落の皆しか知らなかったから、大陸の方に壁を感じているだけなの。あなたのせいではないわ。」
 皆の会話が理解できないユイニャンは、シャオフーの衣服を引っ張る。
『彼女、なんと言ったの?』
 シャオフーに耳打ちをして、ユイニャンは尋ねた。
『……、私が不躾に見下ろした為に、日散ニチルは私に恐れを感じたようです。彼女はどうやら、大陸の人間が苦手の様子です。』
『本当!?それじゃあ、私のことも恐ろしいのかしら!?私はもう、友達になれたと思っていたのだけど。』
 聞いてみてくれとユイニャンの目が訴えていた。シャオフーは咳払いを一つすると、ニチルを見つめて言った。
「ユイニャン様は自分のことも恐ろしいかと尋ねておられます。大陸の人間が苦手なら、自分にも恐れを感じるのかと。」
 するとニチルは大げさに頭を振った。
「そんなことないわ!私、ユイニャンとは仲良くなれたと思っていたの。」
 シャオフーは、ニチルの言葉をユイニャンに伝えた。ユイニャンはほっとした顔をして、ニチルに手を差し出した。ニチルとユイニャンは互いに顔を見合わせながら手を取り合った。
「なんだ。やっぱり、シャオフーの顔が怖いだけじゃないか。」
 ヒスイはそう言ってシャオフーをからかう。シャオフーはばつの悪そうな顔をしたが、ヒスイに言い返すことはしなかった。
「ヒスイ!手が空いてるならこっちを手伝って頂戴!」
 ニチルとユイニャンが握手を交わし、ヒスイとシャオフーが笑顔と苦笑を浮かべていると、ヒスイの姉が泥に塗れた顔でそう言った。
「今行く!」
 ヒスイが威勢のいい声で返事をする。
「私も行くわ!」
 次いでニチルも、ヒスイの姉に叫び返した。
 田畑は形になっていた。朝から集落の者たち総出で作業を行ったおかげで、荒地に美しい畝が並び、田に水が引かれた。方々に散った人々は、皆泥で汚れていたが清清しい顔をしていた。
『皆、変わっていくわ。彼らがああして動き始めたように、画期はいずれやってくるのよ。』
 ユイニャンは田畑を見つめながら呟いた。
 一瞬の間の後、シャオフーは聞き返す。 
『……あなたが変わったことも、画期が来たからですか。』
 シャオフーはユイニャンの格好を上下に眺めた。
『そうね……。言葉がわからない代わりに、少しでも倭国の民の気持ちを理解したいと思ったの。同じ格好をすれば、倭国の民が、あのようにおおらかな理由がわかるかと思って。そう思っていたところで、日散ニチルがこの衣装を貸してくれたのよ。』
『おおらか、ですか。』
 シャオフーはクスリと笑った。ユイニャンは意図を勘繰って眉間に皺を寄せる。
『あら、何かおかしいことでもあるかしら?』
『いいえ。』
 シャオフーは言葉を切った。自分の意見をユイニャンに告げるべきか迷っていた。
『言って御覧なさい。怒ったりしないわ。』
『………。』
 つい数日前、ユイニャンに胸倉をつかまれ怒鳴られた記憶が蘇る。あの、短気できれやすいユイニャンが「怒ったりしない」とは信じがたい。
 が、シャオフーは自分の考えをつらつらと話し始めた。
『倭国の民はおおらかなのではありませんよ。彼らは単に、無知なだけです。』
『…まぁ、冷たい言い方ね。』
 ユイニャンは確かに激怒はしなかったが、僅かに眉根を寄せていた。自分の意見が否定されたことに増して、シャオフーの言い方が倭国の民を貶しているように感じられたからだ。
『無知と言っても倭国の民に、学がないだとか、劣っているだとか、そのような意味で申しているのではありません。彼らは少数人数で集落を作り、土地を点々とする。その日その日を生きていくことに一生懸命で、己の手の届く範囲しか関与し得ない。無知になるのも必然でしょう。』
 ユイニャンは片眉を引き上げた。なるほどと言いたいのかもしれない。
『争いや陰謀など、知りもしない…。羨ましい人々だ……。』
 シャオフーは呟きのあと、大きなため息を吐いた。
『……私、思うことがあるの。』
 ユイニャンは言う。
翡翠ヒスイの歯に気がついた?彼らは成人したら牙を抜くそうじゃない。あの行為…、私には「何ものにも牙を剥かない」と彼らが誓っているように見えたの。』
 確かに、とシャオフーも思った。
『倭国の人々は、自らも気がつかないうちに、争いを避けているのではないのかしら。少数で生きるのも、集落の人々が皆家族のように過ごせるのだと、肌で知っているからではないかしら。』
『倭国が、そのように作られたものだと?』
『そう…。何か、神がかりな力によって、計られている。だとすれば、私たちも神の意に従わざるを得ないのかもしれないわ。倭国で過ごせば過ごすほど、私たちも彼らのように穏やかになっていく……。』
『…………。』
 シャオフーは「それはあなたの希望では…。」という言葉を飲み込んだ。もしうっかり告げてしまえば、本当に激怒されかねないからだ。
『そう考えてみれば、時がすべてを解決してくれると思わない?』
 楽観的なユイニャンにシャオフーは何とも返事ができなかった。
『私ね、あなたを無理やり変えようと思うことはやめたの。無理をしたって、自然には敵わないもの。自然があなたを変えてくれるまで、私は待つことにしたの。倭国に居たいのなら、いつまで居たってかまわない。むしろ今は倭国の方が、あなたを変えてくれそうな気さえする。』
『何故?』
 シャオフーが聞き返すと、ユイニャンはふわりと微笑んだ。
『ここに居れば、あなたは重宝されるから。翡翠ヒスイの集落とその近隣とを橋渡しするのにあなたの助言が必要でしょう?そのうちあなたは私にも倭国語を教えなければならないし、きっと翡翠ヒスイたちだって私たちの言葉を知りたがるでしょう?その上、この田畑のめんどうも見なければならないし、いずれ町を作るのだとすれば作るものは山ほどある。あなた、眠る暇もないわよ?』
『…それは、恐ろしい未来ですね……。』
 肩を落とすシャオフーに対し、ユイニャンは常の勝ち誇ったような笑みを零す。
『忙しく動き回っていればそのうち気分も変わるわ。画期って案外そういうものよ。』
 たかだか十四の小娘に人生の画期を諭されるとは。そうは思っても、シャオフーは口にはしなかった。なぜなら、自分の感情を爆発させることしか知らなかったはずのユイニャンが、冷静に会話をしていることに驚きを覚えたからだ。知らない間に、ユイニャンは変わっていた。倭国を見守る神とやらは、早くもユイニャンの心に作用したのだろうか。
 そう考えると、自分はなんと幼いままなのだろう。十三のあのときから、何も変わらない。母国が恋しいと嘆いてばかりいる。こんな自分では情けなくて、倭国の民に楽浪の知恵を伝承するなどできそうにない。本当にこのままでよいのだろうか……。
娯娘ユイニャン様。』
 シャオフーは、その場を離れようとしたユイニャンの背に声をかけた。ユイニャンは無言でシャオフーを振り返る。
『倭国の民が神に見守られ、神の意思で動くとするなら、私にとっての神とは、あなたかも知れません。私が惑う時、何度でも私を諭してくださる神です。その神の元でなら、私は自然と自分を変えられるように思います。』
 ユイニャンは呆けたような顔になった。何と言われたのか理解できないとでも言いたげな、きょとんとした表情だ。
 そして、呆けた表情は次第に苦笑へ変わっていく。
『………気がつくのが、遅いのよ。』
 盛大なため息を一つ吐き、ユイニャンはふんぞり返る。
『あいにく私は出来た神ではないから、時にあなたを怒鳴りつけることもあるでしょう。覚悟なさい。』
 シャオフーは苦笑する。
『………御意。』
 ユイニャンは照れ隠しに駆け出した。ヒスイやニチルの元へ。





 大地で稲穂が揺れていた。青から黄金色へ色づき始めた稲もある。稲穂は人々に風の訪れを告げる。さらさらと音をたて、赤子を眠りに着かせる。
 ヒスイたちのクニの中央には一際高い物見櫓が建っていた。宴や話し合いの度に人々は櫓の周りに集まった。櫓に登ることは少ないのだが、それはクニが穏やかな証拠だとシャオフーは言う。
 実りの季節はすぐそこに迫っていた。収穫した食物を仕舞う倉庫も、男たちの手によって建てられた。田畑を取り囲んで家が立ち並び、夜明けと共に人々は田畑に出て仕事を始めた。
 ヒスイはと言うと、相変わらず得意の狩で獲物をとる毎日だ。獲物はクニの皆で分けていた。ニチルのお告げをもとに、日ごと海や川、山を駆け巡っている。
 ドオォォォン!
 視界を遮る無数の泡が、ヒスイの身体にまとわりついた。慣れ親しんだ塩気は、僅かな痛みをもたらすだけ。瞳が海に慣れる頃には、あたり一面に小魚の姿を眺めることができた。穏やかな凪、海草も僅かに揺れるばかりで、小魚たちは元気に泳ぎまわっている。ヒスイは手足を動かして水を掻く。小魚と同じ速さで、群れの一員に加わる。魚たちは逃げるどころか、ヒスイの側に集まってくる。ヒルノメが波に反射して、海の底を明るく照らす。ゆらゆら揺れる光の波は、ヒスイの身体に斑模様を写しては去る。息が続かなくなるまで、ヒスイは海にもぐり続けた。
 ザバァッ!
 海上に顔を突き出したヒスイは、藻が生え貝の巣となった船に目を留めた。ユイニャンやシャオフーら大陸からの使者達が乗ってきた船だ。
朝鮮チョソンの船…。』
 ヒスイは憶えたての言葉で呟く。
 この海であの船と出会わなければ、今のヒスイは居なかっただろう。
「掃除したら、乗れるようになるかな。」
 ヒスイは再び海へ潜った。魚たちには目もくれず、ぐんぐんと水を掻くと、あっという間に船の側まで近づいた。そして、船の外壁に片手をつき、へばりついている藻を払う。
 この船はどんな旅を経てここへやってきたのだろう。西の大陸は遥か彼方だ。倭国から眺めることはできない。
 いつか、行ってみたい。朝鮮チョソンハン、西域のさらに西、大宛ターワンまで。
「兄さぁーん!畑を手伝って頂戴―!」
 大陸を心の目で見つめていると、岸壁の上から、ヒスイを呼ぶニチルの声がした。
「わかったー!」
 ヒスイは海上で叫び返す。腕を振ってニチルに合図を返した。





 海は凪ぐ。
 朝鮮チョソンの船は緩やかに上下を繰り返す。
 ヒスイが騎馬で西の大地を駆けるのは、まだ先の話だ。



<終>
最後までご覧頂きありがとうございます!


ヒスイは海が好きな子ですが、田植え以前に海水浴って、寒いだろッと、執筆後に気付きました…(しかも北国て)
好きなら水温は関係ないのさ!そうなのさ!(えぇ)

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