あなたの『宝物』はなんですか?
お金? 食べ物? 恋人?
きっと答えは人によって違うはず。
けど、子を持つ私の宝物はもちろん『我が子!』
名前は、拓
今年の春に小学二年生になったばかりの自慢の我が子! サラサラの髪にくりっとした瞳。 可愛いくて可愛いくて堪らないわ!
子供嫌いだったはずなのにタクを産んでから変わった。
私の人生はタクが全て。
タクの為なら何でもできるわ!
だって、愛しい我が子だもの。
『我が子がオッサンに見える件について』
――ジュージュー
フライパンから油の跳ねる音が耳を擽る。肉の焼ける香ばしい香りが鼻を掠め、蓋を開けるとコンガリ良い具合に焼けた――
「また、ハンバーグか……」
その一言に私はハッとして振り返る。すると、そこにはネクタイを解きながら食卓の皿を不満そうに見つめる夫の姿があった。
一体、いつ帰って来たのか気付かなかったけど、まぁいつもの事。存在感ないしね。
「あら、お帰りなさい。父さん。だってタクが食べたいって言ったんだもの。それより靴下とブラウスは床に置かない! ここで着替えない!」
火を止めて、ハンバーグを皿へと移しながら声を掛ける。無神経にリビングで着替える父さんの姿に一気に気分が悪くなる。
昔はそれなりに格好良かったのに最近は一気に老けてしまった。顔に疲れが出ているし、少しお腹も出てきている。すっかりオジサンになってしまった。
父さんは、へいへいと不満そうに声を漏らしながら脱いだ物を洗濯機へ持って行った。
まったく、子供じゃないんだから言わなくても気付いてほしいわ!
腹の中でそう呟く私と裏腹に父さんは何食わぬ顔で戻ってきてはドカッとソファーに腰を下ろし「母さん! ビール」と言っている。
でも、私は聞こえない振りをした。だって、私はあなたの母さんではないから。
私の息子はタク。ただ一人!
腹の中でそう言いながら、私は包丁で野菜を刻む。
けど、今日は帰りが遅いわ。
……何かあったのかもしれない。
もしかして、事故に遭ったのかもしれない。
じゃなかったら通り魔に襲われたのかも。
ううん、私に似て超可愛いから誘拐されたのかも……
有り得るわ! 十分有り得るわ。
そんな事を考えたせいか心配で心配で堪らない。
頭に不吉なタクの姿が目に浮かぶ……。嫌な汗が肌を伝う。居ても立っても居られない。
「母さん、ビール……」
「うっさいわね! タクが誘拐されたのに!」
キッと睨みつけると何の話しだよ? とぼやきながら父さんはソファーから腰を上げ、渋々、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。
何て、薄情な奴なの?
タクが誘拐されたのに缶ビールを飲むなんて……。
やっぱり男親はダメね。
母親である私がタクを守らなくっちゃ!……
そう決意した時―……
「なーミエル……」
「ただいまー」
玄関のドアが開き、可愛いタクの声がする。父さんが何か言おうとしてたけど気にしない。
つか、気にしてらんない。
だってタクが帰って来たんだもの!
「タク、お帰りなさい。」
私は包丁をまな板の上に置き、タクが居る玄関へと小走りで向かう。
「今日は、帰りが遅いのね。母さん心配したわ。」
「だって、今日塾で抜き打ちテストがあったんだもん!あー! お腹空いた。」
靴を脱ぎながら元気な声を漏らすタク。
それだけでも可愛い。
タクの姿に、存在に癒されるわ。
やっぱり我が子が一番可愛い。
「そう、大変だったわね。あ、ご飯出来てるわよ。今すぐ用意するわね」
笑顔を浮かべてタクの上着と荷物を全部を受け取る。
タクは当たり前の様にスタスタ歩いてリビングに向かっていた。
これが我が家の日課。
基本、タクは何もしない。
正確には、何もしなくていいのだ。
だって、学校と塾で精神的にも身体的にも疲れているから。
だから、家庭を守る私が支えてあげなくては。
「タク。はい、どうぞ」
タクが席に着いたのを見計らい私はご飯とおみそ汁、それから大好物のハンバーグを並べる。
「ママありがとう」
――なんて言葉を返す事はまず、ない。
タクは当然の如く黙々とハンバーグを食べていた。
でも、それでいいの。
大好きなタクが私の料理を食べてくれるだけで満足。
「あー母さん、俺も飯…」
「ご自分でどうぞ」
ぴしゃりと言い放つ。
「……………」
その返答に父さんは暫く黙り込んだ。
が、スゴスコと台所に向かい自分の茶碗に白米をよそった。
私は何食わぬ顔で箸を進める。
これ、いつもの事。
基本、父さんには自分の事は自分でさせている。
当たり前でしょう!
私は家政婦じゃないんだから!
◇◇◇◇◇
「ふぅ―…」
深夜11時半。家事が終わって、ようやくゆっくり椅子に座る事ができる。
お気に入りのマグカップにミルクたっぷりのコーヒーを入れる。
リビング全体にコーヒー特有の香りが広がる。
専業主婦の私にとってこの時間が至福。テレビから流れるアナウンスの声が心地良い。
この時間を過ごす為に私は日々頑張っていると言っても過言じゃない。
「あーさっぱりした〜」
私の至福の時間に風呂上がりの父さんが現れ、一気に雰囲気がぶち壊れる。
ランニングシャツとチノパン姿で髪をタオルで拭いながら私の向かいに座る。
一気に不快指数度が上がる。「ちょっと! 父さん! 髪は洗面所で乾かして下さいっていつも言っているでしょ!!」
毎日、同じ事を言っているのになんで身につかないのかしら?
「スマン、スマン」
そう言いながら席を立とうとしない。
口だけなのは、いつもの事。もう声を掛けるのが面倒になり、私は溜め息をついてテレビを見ながらコーヒーを口に運ぶ。
特に会話をする事がなく、リビングにはニュースを読み上げるアナウンサーの声が響く。
「今週は、花粉が非常に多く花粉症の方には辛い一週間となるでしょう」テレビからそんなアナウンスが流れる。
花粉症かぁ……そういえば、最近、やたらと目が痒いわ……。
もしかして、私も花粉症かしら?そう呟きながら私は目を擦った。
「なぁー…ミエル?」
「はい?」
私が一人そう自問自答していると向かいの席にいる父さんが声を掛けてきた。
またビールかと思い素っ気ない返事をして、父さんに視線を向ける。
と、いつにも増して真剣な表情を浮かべていた。
「何? そんなおっかない顔して」
「あー…いや、その……」
何か言いにくい事なのか、やたら口ごもる。
正直、イライラする。
「あー…その、なぁ……」「何?」
父さんは、昔からこう煮え切らない。
「だから、なぁ!」
一体何がだからなのか分からない。なかなか話そうとしない父さんを余所に私は欠伸を手で隠しながらテレビに目を戻す。
「だから、そのタクの事なんだが……」
「キャア!! ペン様!」
いつの間にか、ニュースは終わり、韓流スターのペン・ヨジュ様がテレビ画面に映る。キラキラ白く輝く歯爽やかな笑顔。もっさりした髪。
私の目はすっかりテレビに釘付け。ペン様の存在に父さんの存在を忘れていた。
「で、父さん話しって……?」
ハッとして振り向いた先には、からっぽの椅子。
どうやら、見兼ねたらしく布団に入ってしまったのだろう……。
何なんだったのかしら?
私は一人、首を傾げた。
けど、あまり気に止めなかった。
◇◇◇◇◇◇
「か、痒い!」
この日、私の目は異常なまでの痒みに襲われた。
父さんもタクも平気だったのに……。なぜ、私だけ?
そんな疑問を抱きながら私は目をゴシゴシと擦った。
しかし、痒みは全く治まる事もなかった。
目を擦り過ぎて腫れぼったいしヒリヒリ痛い。何より、瞼がやたら重い。
はぁー完璧に花粉症だわ。
辛いわ。買い出しに行くのも辛い。
それよりもこの目をどうにかしないと……
―――ピンポーン!
私が目薬を探そうと立ち上がった時、玄関の方から呼び鈴の音が鳴り響く。あいにく、父さんもタクも仕事や学校で家には私しかいない。
こんな姿で出たくなかったので居留守を使った。
が……
「ママ〜! 開けてー」と可愛い声が聞こえて来た。間違いないタクの声。
きっとタクの事だ。何か忘れ物をして戻ってきたのだろう、私はガチャっと鍵を回しドアを開けた。
「タク? なんか忘れ物したの?」
「……こんにちは……」
愛しいタクの声が確かに、聞こえたはずなのにドアの前に立っているのは、タクと背丈は変わらない小柄で小太りな男が立っていた。けど、くぐもった低いハスキーボイス。声からして大分歳を取っている気がする。だけど、黒い帽子をまぶかに被っているから顔が見えない。
あ、怪し過ぎる……!
私は、急いでドアを閉めようとしたが足を挟んできた。
「奥さん……私、怪しい者じゃないんで警戒しないで下さいよ」
いや、十分怪しいから……
「あ、……すみません。今忙しいので……」
会釈してドアを閉めようと試みるが……
「旦那さんもお子さんも学校や仕事に行って、朝のバタバタラッシュから開放されたこの時間が忙しい? どーせ、ワイドショー見ながら一息とか言ってせんべいでも摘むだけでしょ?」
「っ!……」
な、何故、それを……?私は腫れぼったい目をそいつに向けた。
そもそも、この人なんなの?
「おや? 酷い顔ですねー。いくら専業主婦とは言え最低限のメイクはすべきだと思いますよ」
真っ赤に腫れた目を吊り上げて睨んだ私を見てそいつはポツリと呟いた。「っ! あんたねぇ、酷い顔って……! これは花粉症で! てか、さっきから失礼よ! それに何の用よ? セールスはお断りしてるんでお引き取り下さい!」
軽く目を擦り、腕を組んでそいつを見下す様に睨み付けた。
「あ、申し遅れました。私こーゆー者です」
そう言って名刺を差し出す。
「心のすき間お埋めします……喪黒福蔵」
って笑う○ールスマンかよ!
「あ、間違えました……それは、コスプレ用です……」
そう言って名刺を奪い取る。「こーゆー者です……」
もう一度、名刺を差し出す。
「フラワーエンジェル社……花野くしゃみ……」
うさんくせぇ……! 絶対偽名だ!
「私、花粉症にお困りの方の元に我が社の薬を――」
「あ、結構です!」
説明中にも構わずに私はドアを閉めようとしたがドアを強く引っ張られた。
「まだ話し中ですよ……? それに今回は、我が社の創立記念として無料サンプルを配布中なんですよー」やたら顔を近付けて話すそいつに薄気味悪さを覚える。
「はぁ……」
顔を逸らしながら受け答えをする。
「奥さんの様に花粉症でお困りの方に我が社の目薬なんていかがでしょ? 何、お代は要りません。」
そいつはそう言って私に目薬を差し出した。私は恐る恐るそれを受け取った。
緑色の蓋した小さなプラスチック製の容器に入ったごく普通の目薬。
――よし、こいつが帰ったら捨てよう!
私は、ありがとうございますっと愛想笑いを浮かべドアを閉めようとした。
が、また足を入れて来た。
「くれぐれも捨てようなんて考えないで下さいね……」
「は、はい……」
――読まれてる……! 何なの? この人?
「捨てるだなんて……オホホホッ、しませんわよ……そんな事」
笑顔を引き攣らせながら言葉を返す。
――プルルルッ!
その時、リビングの方から電話の音が鳴り響く。
「あ、ごめんなさい……」ラッキーと思いながら私は、そいつに会釈をし、背を向けた。
「そうですか? なら良いですが……それと一つ忠告しておきますが……」
背を背けたにも関わらずそいつは口を開く。
「……甘やかすのと愛するのは違いますよ? 今のままじゃお子さんロクな大人になりませんよ?」
ポツリと呟く様に言った言葉なのにそれは私の耳にはっきりと届いた。
「なっ?」
足を止め、バッと振り向いた。が、振り向くと、そこにはもうそいつは居なかった。
◇◇◇◇◇
そいつが居なくなってすぐ、私は貰った名刺と目薬をテーブルの上に置いた。
さっきのセールスマンは、一体何だったのかしら?
バリバリと煎餅を食べながら考える。
テレビからワイドショーが流れる。私の至福時間なのにすっきりしない。
「ハァ……」
溜め息を吐きながら名刺を見つめる。淡いピンク色した名刺。やたら可愛らしくて怪しい……。しかし、目薬は至って普通。
「……けど、なぁ……」
だからと言ってあんな怪しい奴から渡されたら目薬を使う気にはなれない。そんな事を考えながら目薬を見ていた。
すると、テレビから大好きなあの人の声が響く。
「ペン様!」
顔をバッと上げて、視線をテレビに向けた。
その瞬間――…
「か、痒い……!」
またあの異常な痒みが私の目を襲う。瞼を開ける事すら出来ない程痒い。私は手の甲でゴシゴシ擦ったが一行に治まらない。むしろ、痒みはどんどん酷くなる。
痒くて痒くて堪らない。
私はあまりの痒みにさっき貰った目薬の事を思い出した。
怪しい……けど、仕方ない。私は手探りで目薬に手を伸ばし、両目にさした。
透明な雫が両目に落ちた途端、今までにない清涼感を感じた。
「あれ?……」
二、三度瞬きをして瞳を開く。さっきまでの激しい痒みが嘘みたいに引いていた。それより、頭まですっきりした。気のせいかも知れないが視力まで良くなった気がする。
それからその後、あの激しい痒みに襲われる事もなく家事に勤しむ事が出来た。
◇◇◇◇◇◇
「ふぅー今帰ったぞー」
夕方、6時。ここ最近タクより父さんの方が早く帰ってくる。
どうしてかしら? 旦那が先に帰ってくるだけで不快感に襲われるの? けど、そう感じるの私だけじゃないわよね?
真っ直ぐリビングにやってきて背広を脱ぎ始める。
「ちょっと父さん! ここで脱がないでって言ってるじゃない!」
キッチンでタクの大好きな鳥の唐揚げを揚げながら父さんにぴしゃりと言い放つ。
高温の油でパチパチ音を立てながらこんがりキツネ色に変わる鳥肉。
香ばしい醤油の匂いが玄関まで包み込む。
「……唐揚げ、か……今日もタクの好物か……?」 しかし父さんは顔をしかめてぼやく。その表情からは匂いだけで、胃もたれしそうだと語っている。
そう言っては脱ぎ散らかした物を洗面所へと持って行った。
なによ? だってタクが食べたいって言ってたんだもの! 悪い? 自分の子の好きな物を作って?
親なら子供を喜ばせたいって思うでしょう?
鼻息を荒くしながら、油を切った唐揚げを皿に盛りテーブルに置いた。
それより、タクはまだかしら? 最近帰りが遅くて心配だわ。やっぱり塾まで迎えに行くべきかしら?
口元に手を当て、時計を見つめる。 長い針はもうちょっとで2を指そうとしていた。
塾の先生に電話しようかと思ったその刹那――
「ただいまー」
玄関から可愛いタクの声が聞こえて来た。
さいばしを置き、タクの元へ駆け寄った。
もちろん満面の笑みで。
「お帰りなさい、タ…………ギャアァァァーッ!」
タクに視線を向けた瞬間、私は絶叫した。顔中の血の気は一気に引き、眼球が飛び出しそうな程目を広げて……。
だって、私の目の前には、見ず知らずの男が立っているから。しかも、若い男じゃない! ボールの様に真ん丸の頭。そこに髪の毛は、かなり少ない。てか、頭皮まる見えと言っても過言じゃないくらい寂しい頭。もやしの様にヒョロッとした髪の毛が冷やす程度生えている。どこからがおでこのなのか分からないがキラッと煌めく程脂ギッシュな頭部。不健康そうな青黒い唇の周りを青ヒゲが縁取る。
けど、不可解な事にそのオッサンは、今朝、私が選んだ服を着ている。アニメキャラクターの絵がプリントされた青いパーカーに、デニム地の半ズボンを履き、深緑のランドセルをしょっている。その姿は、まるで小学生そのものだ。
何より……、
「ママ?」
声は、私の愛しいタクの声……。しかし、外見はどう見てもむさ苦しいオッサン……。どういう事なの? これは? 意味が分からないわ!
「い、いやあぁぁぁーー!」
私は、そのオッサン小学生から逃げる様に後退りをした。が思う様に歩けず、数歩下がったところで尻餅を着いてしまった。
「ミエル? どうした?」 ランニングシャツ姿の父さんがひょっこり顔を出す。
「……あ、あなた……タクが……」
私は震える指でタクを指差した。
「ん? タク?」
そう繰り返しては父さんは玄関に佇むオッサン小学生を見つめた。
しかし、次の瞬間――
「タクがどうかしたか?」
眉を潜めて聞き返してくる。
はぁぁっ?
「どうかしたかって……この顔見て分かんないの!?」
どう見たってオッサンじゃない!
「顔……?」
訝しげな表情でオッサン小学生を見据える父さん。
「別に、普段と変わらないが……」
頭を掻きながらそうぼやく。
どういう事なの? 父さんには、オッサンに見えないの? てか、これタクなの? 私にだけタクがオッサンに見えるの?
そんな結論が出た途端、急に眩暈がし、私の意識はブレーカーが落ちた様に途切れた。
◇◇◇◇◇
あの夜、私は気を失ったまま眠ってしまった様だ。
気が付くと私は寝室のベットに横になっていた。
身体を起こして、辺りに目を向ける。モスグリーンのカーテンからは朝日が差し込む。今日もいい天気な様だ。いつもと変わらない景色。いつもと変わらない朝……。
そうよ、昨日の出来事は夢よ! 私の可愛いタクがむさ苦しいオッサンに見えるだなんて、夢!
私はそう言い聞かせ、ベットから出てリビングへと向かった。
――ジューッ
程よく温めたフライパンにしっかり掻き混ぜた卵の液を流し込む。耳を刺激する音が静かなリビング中に広がる。テレビから流れるアナウンサーがニュースを読み上げる声と混ざる。
大体、この音に父さんもタクも起きる。二人とも寝起きが良いから助かる。
「おはよー…」
案の定、大きなあくびをしながらボサボサの髪をした父さんがリビングにやってきた。ボリボリとお腹を掻くのは父さんの癖。
「ママ、おはよ……」
その後、可愛いタクの声が響く。いつも眠たい目を擦りながらボゥーとして佇むタク。柔らかな髪は寝癖でボサボサ。けれど、その姿は、毎朝私の心に癒しを与えてくれる。きっと、今日もそんな風に立っているのだろうと想像しながら焼き上がったオムレツを皿に盛ってタクに目をやった。
「おはよ、タ……ぎゃああぁぁぁぁーっ!」
――ガシャーン!
思わず、皿から手を離してしまった。オムレツの乗った皿がフローリングの床に叩き付けられた。耳をつんざく音が静かなリビングに響き渡る。
「………………」その後は、不気味な程の沈黙が訪れる。ニュースを読み上げるアナウンサーの声だけが淡々と流れる。
「ミエル?」
「ママ?」
父さんは目を点にしてポツリと呟く。タクは心配そうに私の顔を覗き込む。
「い、いやぁぁぁぁ!」
けど、私は思いきり後退りをしてタクから逃げる。しかし、すぐにシンクが背に当たり、溶き卵が入ったボウルを落としてしまった。ベシャっと音を立てて床に横たわる。「? 昨日からどうした? ミエル?」
父さんも私の様子がおかしいのに気付き、不思議そうに首を傾げる。
どうしたって? そんなの私が聞きたい! タクが……私の愛しいタクがオッサンに見えるなんて!
昨日見たあのむさ苦しいオッサン。タクのお気に入りのブルーのパジャマを着ている。腐ったたらこの様な分厚い唇で“ママ”と呼ばれるかと思うと鳥肌が立つ。
「……ゴメン……気分悪いから私、寝るわ……」私はゆっくりした動作で立ち上がり父さんに告げた。
“後はテキトーにやって”と付け加えて……。
◇◇◇◇◇◇
「はぁ……」
あの後、父さんとタクは何とか無事に仕事と学校に出たらしい。テーブルの上とキッチンは凄まじい事になっているが……。
私が朝食を途中で放棄した後、どうやら父さんが朝食を作ろうと奮闘したらしい。が、見事に失敗。フライパンに焦げた卵がガビガビになってこびりついている。とりあえず、何か食べようとなってヨーグルトとコーンフレークで凌いだらしい。全て食べ散らかしたままなのでその時の状況が鮮明に浮かぶ。
足元がぬるっとするのはさっき私が落とした卵の液。ボウルもそのまんま。不可解な事に掃除機が出しっぱなし。何故?
「もぅー! 床くらい拭いてよ」
って事は割った食器もそのまんまだろう……
そうぼやいたがシンクの脇に小さなビニール袋が添えてあった。
「あ、食器……」
その中には、割れた食器が入っていた。割った食器はちゃんと片付けてくれたんだ。丁寧に掃除機まで掛けて……。
「ふーん……」
あの人、意外に頼りになるわ……いつも頼りない感じけど……
私がそう思った時、電話がなった。
「はい。尾山です。」
「もしもし? ママ?」
タクからだ。けど、大体予想はつく。
「あのさ、家に体操着忘れちゃったの……それで、1時間目に使うからすぐ必要なの。だから、今すぐ持ってきて!」
私の家からタクの通う学校は30分くらい掛かる。 今が8時半過ぎ。1時間目が9時に始まるから頑張って行けばギリギリ間に合う。
だが……
「そう? けど、ママ届けに行かないわよ。忘れ物したらいつもママが持ってきてくれるだなんて思わないでくれる? 忘れ物したタクがいけないのよ! 自分で何とかしなさい」
そう突き放す様に言って私は一方的に電話を切った。
以前の私なら自転車をかっ飛ばして届けに行っただろう。しかし、あんな見苦しいオッサンの為に何故私が? タクだと分かっているのにあの容姿がどうしても受け入る事が出来ない。
受話器を置いた後、私は散らかり放題のリビングとテーブルの片付けを始めた。
◇◇◇◇◇
「今帰ったぞー。」
なんだかんだで時刻は、夕方6時。お決まりの様に父さんが先に帰って来た。
「お帰りなさい。父さん」
「っ!」パタパタと駆け寄る私を見て父さんは目を見開いた。
「……何?」
「いや、別に……てか今日の夕食は何かな?………ってぶり大根か!」
スタスタとリビングに向かい食卓の皿に目を落とす父さん。そこに並んだ食材に父さんは嬉しそうな声をあげる。
無理もない。今日は父さんの好物ばかり用意したから。ぶり大根に高野豆腐。納豆。焼き海苔。沢庵に白米とみそ汁。
久しぶりに和食メニューが我が家の食卓に並ぶ。「嬉しいな!」
父さんは顔を綻ばせて椅子に座る。今日なんかあったの? と聞いてくる。
「別に、たまには和食が食べたくなったからよ……」 私は素っ気ない返事で返す。本当は今朝の食器を片付けてくれた事が嬉しくて、たまには父さんの好物を出してやりたくなったから……。そんな事口が裂けても言えないけど……
しかし、父さんの好物は……
「ただいまー」
玄関からタクの声が響く。いつもなら出迎えるが、あの姿かと思うと恐くて直視出来ない。
「ママただいまー!」
私が出迎えに行かない事が不審に思ったのかタクはランドセルを廊下に放り投げリビングにやってきた。
「お帰りなさい。タク。ご飯出来てるから早くランドセルしまってきなさい。」
背を向け、ぴしゃりと告げた。
「なんでぇ? 面倒臭いからママがやってよー」
拗ねた様な口調でタクは言い放ち、プイと顔を背けた。
「って……げっ! 今日の夕飯、魚〜? サイアク〜! 食べたくない!」
食卓に並んだメニューを見てタクは嫌そうに言い放った。そう、タクと父さんの好みは正反対なのだ。
「タク、ぶり大根旨いぞー一口食べてみろ」
上機嫌な父さんは宥める様にタクに声を掛けるがタクは
“ヤダ!”の一点張り。
「僕、今日の夕食食べたくない! ママー、今から違うの作ってよー! 今日のメニュー僕が食べれるのないよー!」私の元へ駆け寄っては服を引っ張るタク。ちらっと盗み見るようにタクに視線をやるが、やはり、私にはオッサンにしか見えない。
ハゲたオッサンが駄々をこねる姿は不快極まりない。
「そう……。食べたくないなら何も食べたくていいわ。けど、今日の夕食はこれだけよ?」
冷たく言い放つ私にタク……オッサンは目を潤ませ、口を大きく開けて泣きわめいた。
「あと、よろしく……」
父さんにそう告げて私は、リビングを後にした。
◇◇◇◇◇◇◇
「最近、どうした?」
深夜、11時。あの後、タクは暫く泣きわめいていたらしいが夕食をちゃんと食べたらしい。
父さんはタクと一緒に風呂に入った後、タクを寝かし付けてくれた。泣き疲れていたのかすぐに寝たよと苦笑しながら真向かいの席に座る。
「ゴメン……」
私は額に手を置き、俯きながら呟いた。
「謝る事はないさ。ミエル、君は、今まで頑張り過ぎてたんだよ。僕も君がタクに対する態度、気になっていたが、今日の件はタクに取っていい薬になったと思うよ。甘やかすばかりが愛じゃないからね。時には突き放す厳しさも必要だと思うからね。」
父さんはそう諭すよう柔らかい口調で私に言った。
どうやら、父さんは私が、タクから“子離れ”してるように見えるらしい。
実際は違うのに……。タクが……我が子が、オッサンにしか見えないから気持ち悪くて受け入れられないから冷たくしているだけなの……。
私は、母親失格です。
◇◇◇◇
来る日も来る日も私の瞳にはタクがオッサンに映る。
もうあの可愛いタクには会えないの? 一生このままなの? あの、おぞましい姿の我が子が私に甘えてくる度に嫌気がさす。
そのせいか、私は厳しい声色で彼の要求を拒んだ。
「ママー歯磨いてー」
「今、手が離せないから自分でやって」
「ママー、一緒にお風呂入ろう」
「タク、あなたもう二年生でしょ? お風呂くらい自分で入りなさい。」
「ママ……お部屋暗くて怖いから一緒に寝ていい?」
「絶対に嫌」
こんな調子で私は彼の要求を拒んでいた。
さすがに良くないと感じている。けど、どうしても受け入れられない……。
「ミエル、最近タクに対して厳し過ぎないか?」彼が寝静まった後、父さんが心配そうな様子で私に声を掛ける。
「君がタクの為に突き放しているのは解るがあんまりやり過ぎるのは―……」
「違うっ! 違うの……私、私……」
真向かいに座る父さんを直視出来なくて私はテーブルに目を落とす。
「今、あの子が可愛く感じないの……」
ポツリと呟いた言葉。それと同時に涙が零れた。
その言葉を聞いて、父さんは何も言わなかった。きっと、何て言葉を掛けて良いのか分からなかったんだと思う。
そしてこの時、私達の会話を彼に聞かれていたなんて私は思いもしなかった……。
◇◇◇◇◇◇
タクがオッサンに見える様になってから七日が経過した。
やはり、今もタクがオッサンに映る。どうすればいいの? 私、病気なのかしら?
――ジュー。
この日は、土曜日。小学校は休みである。けれど、タクは家に居ない。別に、追い出したワケじゃない。今から2時間前に友人のヒロキくんの家に遊びに行ってくる。と言ってタクは家を出た。
顔を見たくないという理由から私はすんなり承諾した。しかし、相手の家の迷惑にならないよう12時には帰ってくるように告げた。
しかし、12時半過ぎてるのにタクはまだ帰って来ない。私は焼きそばを炒めながら時計に目をやる。ベーコンや玉ねぎ、ソースの匂いが鼻を掠めた。
火を止め、箸を置き、私は受話器を持ちヒロキくんの家の電話番号を押した。
受話器を耳に当て、呼び出し音が鳴り響く。二回コールがなったところで繋がった。
――プルルルッ ガチャ!
「はい、もしもし」
「あ、もしもし尾山ですが……」
「あら、タクちゃんのママ! こんにちは」
ヒロキくんのママはやたら声がでかい。それは、受話器を耳から離さないと鼓膜が破れそうな程。
「こんにちは、いつもお世話になっております。あのぅー、うちのタクまだそちらにお邪魔してます?」
「え? タクちゃん? 今日来てませんけど……」
血が凍った。その一言に。
けど、心配掛けてはいけないと思い、私は冷静な振りを装い電話を切った。
でも、居ないってどういう事? ならタクは今、どこにいるの?
私はタクの携帯に電話を掛けた。プルルルと電子音が近くから聞こえる。私は受話器を耳に当てながらその音が聞こえるに足を進めた。
その音色は、タクの部屋から聞こえる。嫌な予感がする。タクの部屋に入り辺りを見渡す。すると、やはり案の定、携帯を持って行ってない。机の上に置いてある。
「どうして?……」
いつも外に出る時は必ず持って行くのに……
私はタクの携帯電話に手を伸ばした。
「ん? 何これ?」
と、携帯の下に一枚の手紙が置いてある。――ママへ……―
タクの字でそう綴ってある。
私は持っていた受話器をタクの机に置き、その手紙を読んだ。
――ママへ
……いつもわがまま言ってごめんなさい。ママ大好きです。さようなら
拓
汚くバランスの悪い字。字がやたら大きいタクの字。
どうやら、私の態度の変化にタクも何かしらを感じ取っていたんだ。
私、気付きもしなかった……。一体、どんな気持ちでタクはこれを書いたんだろう……。そう考えたら、胸が締め付けられる様に痛くなった。
タクは何も悪くない……。
私がタクを振り回したのだ……
それに、この手紙どういう意味……?さようならって……
その瞬間、タクの携帯が突然鳴り響いた。
「タク!?」
私は直ぐさま通話ボタンを押し、携帯を耳に当てた。
「やぁ……こんにちは」
ところが電話の向こうから聞こえる声は、いつかの怪しげなセールスマン。
てか、なんで……、
「あんた、タクの携帯の番号知ってるのよ?」
父さんがタクの携帯番号知ってるかどうかすら怪しいのに……
「まぁ、そんなのどうでもいいじゃないですか?」
そいつは、クスクス笑い話しをごまかす様に話題を振ってきた。
「それより、花粉症の方はいかがです?」
「はぁ?」
花粉症……? そういえば、私、目が痒くてこいつから無料サンプルとかで……――
「あっーーーー!! あの目薬のせいよ!」
そうだ! あの日、目薬を刺した日から私の瞳にはタクが脂ギッシュな醜いオッサンに映る様になった。
「……元から怪しいと思ってたけど、あんた、何が目的よ?」
声のトーンを下げ、見えない相手を睨む様に目を吊り上げた。
「心外ですなー、私はしがない善良なサラリーマンですよ……? 花粉症にお困りのお客様を昼夜お助けしたいと考えているだけなのに……」
「なら――…」
タクの件は、どういう事よ? とまくし立てようとしたがそいつが口を挟む。
「けど、醜いオッサンになった我が子は愛しくないですか?」
「え?」
その言葉に私の表情が曇る。
「大好物なメニューから苦手なメニューに変えたり、お風呂も添い寝も拒否ったり……そりゃあ、まぁ、タクくんも家出したくなりますね?」「な、なんで……? タクが家出したって……」
私は携帯電話を強く握りしめて電話の向こうの人物に問い掛けた。
「でもまぁ、奥さんの気持ちも分からなくないです。我が子が自分より老けたハゲの醜いオッサンに見えれば拒みたくなりますよね? 我が子とは似ても似つかないオッサンから“ママ”と呼ばれるの気持ち悪いですよね?」
「それは………」
言葉が見つからない……。……だって、言う通りだから……気持ち悪くて仕方なかった。
でも…――
「それなら、タクくんが家出してよかったじゃないですか?」
その一言に私の中で何かが、プチっと切れた。
「……って、なによ?……“よかった”って何よ? タクは私の自慢の息子よ! ハゲでもオッサンでも私の大事な一人息子なの! 好き勝手な事言わないでよ!」
感情が高ぶり過ぎて声が震えているのが自分でもわかった。
顔が熱い。目頭も熱く涙が溢れ出てくる。久しぶりに怒鳴った気がする。
しかし、怒鳴りつけられた人物は嬉しそうな声色でこう告げた。
「それなら、良いんです。あ、それから―……」
――タクくんなら公園に居ましたよ……
それを聞いた私は、飛び出す様に家を出た。家の鍵も掛けずに……。
「タク!」
私は息を切らしながら公園まで走った。運動不足の私にはかなりキツイ。脇腹が痛い。けれど、そんなの関係ない!
公園に着くとタクはブランコに座っていた。
「ママ……」
俯いていたが私の声に気付いたのか顔を上げた。
一人泣いていたのだろう。鼻も目も真っ赤。
「タク! ごめんなさい……」
私はそんなタクの元へ駆け寄り強く強く抱きしめた。
「ママ……?」
タクは戸惑った様子で呟いた。
「タク、ごめんね……ママがいけなかった……寂しい思いをさせてごめんね」例え、醜いオッサンでもタクはタク。私の愛しい宝物。胸を張って言える。
「ママ……ボクの事嫌いになったんじゃないの?」
ポツリと呟くタク。その声は悲しげに揺らいでいて私の心を締め付ける。
「嫌いになったりしないわよ……タクはママの宝物だもの」
ぎゅうっと我が子を強く抱きしめ、私は答えた。
「ママ……ボクもごめんなさい……ママに頼り過ぎて甘えてた……」
タクは顔を上げ、私を見つめた。気付かなかったけど、そこには、久しぶりに見たタク本来の姿。
「これからはボク、もっとしっかりするね」
けれど、久しぶりに見た我が子はどこか頼もしく逞しい顔つきに見えるのはきっと気のせいじゃない。
「そうね、一緒に頑張ろう!」
ニコッと私は泣きながら微笑んだ。タクもニッと笑い笑顔を見せてくれた。
あの日を境に、タクは少し変わった。自分の身の回りの物は自分で用意をする様になった。嫌いな食べ物もちょっとは食べる様になり、タクは少しずつ私から離れていく。少し寂しく思うけど、大丈夫。タクと共に私も成長していくから……
子育ての難しさと楽しさ、私は、改めて実感した。
けれど、例え我が子が醜いオッサンに見えても私はありのまま、その子を受け入れ、愛したいと思う。
けれど、愛し過ぎない様に気をつけて……。
あなたの宝物は何ですか?
お金? 恋人? それとも……?私の宝物は、タク……我が子です。
fin |