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 話というのは要するに、私の祖父が変人だったということに尽きる。祖父は軍人で、息子に跡を継がせたかったのだが娘しか生まれず、その後は孫に希望を託していたのだが、運悪くその孫も女の子だったのだ。祖父は今度こそ我慢できなくなり、「この孫娘が軍人にならぬ限り、自分の遺産は誰にも相続させない」と宣言してしまったのだ。私の両親は大あわてで作戦を練り、哀れな一人娘を人身御供に差し出すことにしたのだ。

 だから十二歳になったばかりの春、私は『海軍女子幼年学校』の門をくぐることになった。軍人になりたいなどとは思ったこともなかったが、他に方法がなかったのだ。ただ私と両親の間には密約があり、私がここにとどまるのは祖父が死んだその日までと決めてあった。祖父が死に、母がめでたく遺産を相続した日に、にっこり笑って退学することになっていたのだ。

 そういう事情だったから、入学後にどの兵科に所属するかなど、私にはまったく興味がなかった。説明もろくに読まずに、サインして書類を提出してしまった。楽ができそうな競争率の低い兵科を選んで希望したのだが、それが大間違いの元だったのかもしれない。希望通りの兵科に配属されることが決まったという通知をすぐに受け取ったが、それが私と竜騎兵の事実上最初の出会いだった。

 竜騎兵はとても小さな兵科で、一年生は私を含めて八人しかいなかった。入学後すぐに寮に入れられ、その日の夕食後に『竜騎兵とは何か』という説明を教室で聞かされたのだが、そのときの私の青ざめた顔ときたら、またとない見物だったに違いない。私は取り乱し、「こんなところ嫌だ。おうちに帰る」と泣きわめいた。だが教官たちは容赦なく私を寝室へ引きずっていき、ベッドに放り込み、毛布をかけ、ドアにバタンと閉めて行ってしまった。そのまま私を翌朝まで放置した。朝まで本当に誰もやってこなかったが、とうとう空腹に耐え切れなくなって私は自分から部屋を出、そのまま竜騎兵としての最初の授業を受けることになった。

 だが自分でも不思議なのは、何の予備知識もなく入学したにもかかわらず、竜騎兵という兵科がなぜか私にはとてもマッチしていたということだ。私はすぐに要領をつかみ、クラスで一番の成績をあげるようになった。自分でも鼻が高いのは、同期生の中で最初にクジラを与えられたのはこの私だったということだ。

 ただあのとき、運悪く養成牧場のクジラには余裕がなかった。だから一時的にということで、私には仮のクジラが与えられた。もうかなりの年寄りで、実際のところ何歳なのか誰も知らなかったが、別の新しい若いクジラが訓練過程を終え次第、私に与えられることになっていた。そのつもりで、私はゼノンと顔を合わせたのだ。

 ゼノンは巨大なマッコウクジラの雄で、体長は二十メートル近かった。竜騎兵部隊が創設されたころからの古参で、これまでにすでに三人の竜騎兵とともに生きてきたそうだったが、おそらく私が最後の相手になるだろうと思われた。

 ゼノンと最初に海に出たときのことを、私はとてもよく覚えている。それまでは学校内にある訓練用プールでしかともに泳いだことはなかったのだが、胸びれの直前に固定されたベルトに片手でつかまり、分厚いが敏感な皮膚を指先でちょんちょんとつついて合図を送りながら、私はゼノンとともに水門を出ていったのだ。春の終わりだが暑いといってもよいような日で、波は静かで、太陽が真上に出ていた。このあたりでは一般船の航行が禁止されているので、私たちは何に気がねすることなく海中を遊びまわることができた。

 竜騎兵の装備について、ここで少し話しておこうと思う。竜騎兵は、金属製の分厚い潜水服を身につけている。これがヨロイのようだから、こういう名がついたのかもしれない。だがこの潜水服は、人からうらやましがってもらえるような物ではない。格好よさとはまったく無縁で、ドラム缶に手足を生やしたようなものでしかなく、どう見ても怪物のようでしかない。重さは二百キロ以上あり、脱ぐのはともかく、一人では着ることもできない。この潜水服の上に丸いガラス窓がある大きなヘルメットをかぶり、このヘルメットからは空気パイプが長く伸びているが、これはクジラの身体をはいのぼって、背中にある吸気口から肺の奥深くへ達している。吸気口というのはクジラの鼻の穴のことだが、竜騎兵は空気の補給をクジラから受けるのだ。同じ息を吸っているといってもいい。竜騎兵部隊に所属しているクジラはみなこのパイプを手術で埋め込まれ、相棒になる竜騎兵に空気を分け与える呼吸法の訓練を受けている。

 一番おもしろかったのは、魚雷を発射する訓練だった。ベルトにくくりつけてクジラにも牽引できるように工夫された魚雷があり、それを引いて、港から数キロ離れた外洋に出るのだ。標的になる廃船はすでに浮かべられていた。ベルトから切り離した後、ゼノンに手伝わせ、私は照準を合わせた。そのために必要な機器はゼノンの背中にくくりつけてあった。水の中で苦労しながら私は暗算し、魚雷を調整して引き金を引いた。

 竜騎兵やクジラを傷つけないように、この魚雷はそっと静かに動き始めるように設計されていた。だが五十メートルも離れると猛然と加速し、あとは一気に突っ込んでいくのだ。目標に命中したときの海を震わせる爆発音、引き裂かれてちぎれていく船体の立てる音を、私は一生忘れることはないだろう。戦果を確認するため、私は少し近寄ってみることにした。標的は古くなった小型の漁船だったが、大きく穴の開いた船底を上に向け、裏返った姿勢でゆっくりと沈んでいくのを見ることができた。うれしくなって私は思わずゼノンに抱きついたが、彼は表情のない瞳でちらりと見つめ返しただけだった。

 そうやって私の訓練は続いたのだが、悪い知らせが届いた。クジラの養成牧場でちょっとした事故が起き、何ヶ月かの間閉鎖し、すべての訓練を中断しなければならなくなったのだ。それゆえ、私が正式に自分のクジラを受け取るのも何ヶ月かお預けになったわけだった。

 だが私は残念だとは思わなかった。私はゼノンをすっかり気に入っていたのだ。彼の動きはゆったりと重々しく、私は密かに信じていたのだが、彼も私のことが嫌いではないに違いなかった。毎日訓練に入る前、私はキッチンへ行って大きな魚を一匹受け取る。ハマチやタチウオの類だが、私がそれを手にぶら下げて近寄ってくるのを、ゼノンはプールの中からじっと見守っているのだ。そういう時、彼が目を細めていることに私は気がついていた。



 ゼノンを与えられた時点で、私はまだ三年生でしかなかった。本来なら訓練だけで、まだ実際の作戦には関わることのない年齢だ。だがある大きな事件が起き、そんなことは言っておれなくなったのだ。

 夜明け前のまだ真っ暗な時間だったが、寮のベルが鳴り、私たちはたたき起こされた。すぐに六年生がやって来て、「寝巻きのままでよいから、講堂へ集まるように」と言った。カーディガンをつかんで、裸足にスリッパばきのまま、私は階段を降りていった。

 講堂はもう生徒たちでいっぱいだった。校長や教官たちも全員がそろっていて、みんな緊張した顔をしていることに気がついた。私はすみっこの席に腰かけ、誰かが口を開くのを待った。校長が前に進み出て、話し始めた。

 話というのはこうだった。外洋で事故が起こっていたのだ。新兵を乗せた潜水艦が一隻、訓練航海に出ていたのだが、突然行方不明になったのだ。小型の船なので、乗員は七、八人しかいない。教官二名と残りは私たちと同世代の生徒たちだ。海中を航行中に機関室で小さな爆発事故が起こったが、何とか浮上することに成功し、SOSを発信した。だが無線機の調子が悪く、連絡はすぐに途絶えてしまった。しかし通信の内容から、教官たちはすでに死亡しているか、重傷を負っているものと思われた。

 もちろんすぐに捜索が始められ、ありったけの航空機と船舶が動員されたが、見つかったのは波の上を漂う油だけだった。潜水艦は沈没したと考えるほかなかった。船名はスタービューというのだが、小型とはいえ潜水艦には違いない。沈没しても、内部に閉じ込められた者たちはまだ生存している可能性があった。一刻も早く発見して引き上げなくてはならない。だが海は広い。SOSを発信した場所はわかっていても、そこからどこまで流されたかは見当もつかなかった。水面近くだけでなく、海は水中にも流れがあるのだ。それに乗れば、あっという間に十キロやそこら流されても不思議はない。

 スタービューを発見するには、一つでも多くの目が必要だった。正規の竜騎兵部隊はすでに捜索に加わっていた。だが念のため、訓練中の生徒も投入することが決定されたのだ。この学校には三十頭近くのクジラがいた。ゼノンもその中の一頭だった。ゼノンを連れて捜索に加わるように、私も命令を受けたのだ。

 仲のよい下級生に手伝わせて、私は準備を始めた。暖かい夏の夜だったのは幸いだった。でなければ竜騎兵部隊は投入されなかっただろうし、訓練生を投入するなど、さらにとんでもない話だ。

 潜水服やヘルメットを手押し車に乗せて運ぶ下級生たちを連れ、私はプールへ急いだ。この日は特別に魚を三匹も支給されていたが、私を少しでも疲れさせないでおくため、教官が代わりに運んでくれた。

 足音を聞きつけてゼノンはすぐに水面に顔を出し、私の手から魚を受け取って食べた。私はゆっくりと水に入り、潜水服を身につけはじめた。ヘルメットをかぶり、肩の部分をねじでしっかり固定した。防水紙に油性のインクで書かれた捜索海域の海図はすでに手渡されていた。パイプをつなぎ、私とゼノンは一つの息を吸うようになった。そばへ行き、私はぽんぽんとゼノンの胸びれをたたいた。

 上官のスピーチなどなかった。すぐに水門が開かれ、私たちは海へ出ていった。外はまだ真っ暗だった。高速艇が一隻、私たちの道案内をするために待機していた。ありったけのライトを点灯させているから、まるでイカ釣り船のようだ。

 汽笛を鳴らし、高速艇が動き始めた。一列になってついていき、私たちは外洋に出た。とたんに波が荒くなったが、私は平気だった。少々揺すぶられることを嫌うようでは、竜騎兵にはなれない。

 捜索海域に到着したのは、夜が明けるころだった。ゼノンの身体に固定されたベルトにつかまり、波に身体を預けてうとうとしていたのだが、拡声器越しの怒鳴り声で目を覚ました。いつの間にか高速艇がすぐそばに来ていて、教官がマイクロフォンをつかんで私をにらんでいた。

「スミス中等兵、ぼやぼやせずに早く潜れ。おまえの担当海域に着いたぞ。目を開けてよく探すんだぞ、この寝坊助が」

 教官の言葉は厳しかったが、なんとなく笑っているらしいのは、ここからでも見ることができた。私は手を振り、ベルトにつかまりなおした。目玉を動かして、ゼノンがこちらを見ていることに気がついた。このクジラには人間の言葉がわかるのではないかとときどき思うことがあった。合図を送って、私はゼノンを潜水させた。

 いつものように真下を向き、身体を垂直に立てて、ゼノンはまるで墜落するように潜水していった。マッコウクジラ独特の潜り方だ。ゼノンは特にこのやり方を好んだが、私も大好きだった。

 水中には太陽の光など届かない。深くなればなるほどそうだ。だから潜水を続け、深さが増すに連れ、まわりはどんどん暗くなっていった。真っ暗な中では、もちろん捜索などできない。だがこのあたりの海は浅く、せいぜい二百メートルほどしか水深がなかった。おまけに雲のない晴れた明るい日だ。目をこらし続ければ、何とか見つけ出せそうな気がした。もちろん、スタービューがこの海域にいればだが。



 海底は岩だらけで、まるで荒地のようにごろごろした眺めだった。ところどころに海草が生え、赤く飾られている。暖かい海だが魚は少なく、いても小型のものばかりで、岩や海草の間に群れ、私とゼノンの姿を見るとさっと隠れてしまった。大きなサメも何度か見かけたが、近寄ってくる様子はなかった。

 左右をじっと見渡しながら、私はゼノンをまっすぐに進ませた。割り当てられた海域をそうやってしらみつぶしに探していくのだ。海図を渡されたときから気になっていることがあった。この海域は大陸棚の端にあり、一部が海溝にかかっているのだ。陸地から平らにずっと伸びてきた海底が、そこからは崖のようにストンと垂直に落ち込み、千メートルを越える深さにまで達しているのだ。そういう深い場所にはどんな生物がいるのか、まだよくわかってはいなかった。教官たちも、海溝の上までは探す必要はないと言っていた。

 私とゼノンは進み続け、すでにかなりの面積を調べ終えていた。海溝へ落ち込む崖のへりが見えてきたのは、そのときのことだった。白っぽい岩の海底が終わり、ナイフで切ったかのように、その先は何もないのだ。黒々とした海溝が口を開けている。手前の浅い海には、数は多くないとはいえ海草や魚の姿を見ることができるにぎやかさがある。だがそれを一歩はずれると、その先は黒いだけで光一つ上がってこない穴が口を開けているのだ。その暗闇に目を向けるだけで、ぞっとするような怖さを感じないではいられなかった。あの中から黒い大きな手が伸びてきて、私をわしづかみにしてしまいそうな気がした。心臓の鼓動が速くなるのを感じないではいられなかった。

 合図を送り、私はゼノンの向きを変えさせようとした。ここでUターンをするが、捜索はまだ続くのだ。だが何かが見えたような気がしたのは、ゼノンが向きを変えかけた瞬間のことだった。私は身体をひねり、振り返ろうとした。それでベルトが引き戻されたのが不愉快だったのだろう。ゼノンはひれを止め、目玉をぎょろりと動かして私を見た。

 私は潜水艦を見つけていたのだ。スタービュー号かどうかはわからなかったが、小型の潜水艦であることは間違いない。私はゼノンを振り返らせ、ゆっくりと近寄っていった。

 潜水艦は海溝のへりに引っかかっていた。船体の後ろ半分が崖の上に突き出し、宙に浮いているのだ。ひどく不安定そうだ。ほんの小さなショックでも簡単にバランスを崩し、転がり落ちてしまうだろう。

 波を起こさないように注意しながら、私はゼノンをゆっくりと進ませた。懐中電灯を取り出し、スイッチを入れて光を向けた。船体に書かれた文字を読み取ることができた。スタービュー。

 ペンを取り出し、私は海図に印をつけた。ゼノンはクルクル回転する小さなスクリューを先端につけた長いケーブルを引きずっていて、ここまで来る間にそのスクリューが何回転したのかを示す計器の目盛りを読めば、自分がいる位置をかなり正確に知ることができた。

 私はじっと眺め、スタービューの状態やまわりの地形を頭に入れた。船体には穴も傷もないようだった。浸水はしていないように見える。私はゼノンに合図を送り、水面を目指した。ゼノンはじろりと目玉を動かし、ゆっくりと頭を上に向けた。ベルトをつかみなおし、私はその動きに身を任せた。

 身体の力を抜き、ゼノンはゆっくりと浮上していった。私も、老体に鞭打ってまで急がせる気にはならなかった。いくらもたたないうちに、私は水面に顔を出すことができた。腰に手を伸ばし、信号銃を手に取った。安全装置を外し、空に向けて引き金を引いた。

 大きな音がし、信号弾は真上に発射され、何百メートルか上空でパンと弾けた。まわりにいる船がこれを見て、すぐに来てくれるはずだった。

 波間に漂い、ゼノンの胸びれと遊びながら、私は待っていた。だが五分待っても何も起こらなかった。さらに五分待ったが、船は一隻も姿を見せなかった。何が起こっているのだろうと、私は不安を感じ始めた。

 後から聞かされたことだが、結論を言えば、少し離れた海域で別の事故が起こっていたのだ。捜索に加わっていた駆逐艦が二隻、操船ミスで衝突事故を起こしてしまい、あろうことか二隻とも沈没してしまったのだ。その救助のため近海の全ての船舶が動員されていて、私が打ち上げた信号弾には誰も気がついてくれなかったらしい。十五分待っても誰も姿を見せないので、事情はわからないままだったが、自分一人で何とかするしかないと私も決心するほかなかった。

 ゼノンの身体に取り付き、私は風船つきのブイを取り出した。風船にガスを入れ、いっぱいに膨らませた。この風船は長いヒモでブイに結び付けてあり、派手なピンク色をしているから、少々離れたところからでも見つけることができる。ブイは軽く、水の上にプカプカ浮いている。ブイの上に海図とメッセージを残し、私は再びゼノンにつかまった。合図を送り、潜行を始めた。

 スタービューはすぐに見つけることができた。見下ろしても、特に変わった様子はなかった。より詳しく状況を見るため、もっと近づいてみることにした。

 竜騎兵は常に身体をクジラに寄り添わせている。片手をいつも肌に触れさせているのだ。だからクジラの呼吸や鼓動の変化をすぐに感じ取ることができる。そしてこのとき、ゼノンの鼓動が突然速くなったことを感じ、私は驚かないではいられなかった。だが長く一緒に過ごしていると、それがエサや仲間を見つけた興奮によるものなのか、敵が近づいたことによる恐怖によるものなのか、すぐに区別がつくようになる。だがこのとき私が奇妙に感じたのは、ゼノンの感情の変化が、興奮と恐怖のいりまじったものだったということだ。

 わけがわからなかったが、私だって馬鹿ではない。何かが起こりつつあるのは確かなのだから、一旦その場を離れることにしたのだ。浮上するように合図を送ると、ゼノンの鼓動が少し収まるのが感じられた。さっきと同じように、ゼノンは浮上に取りかかった。

 だが私は、ゼノンを水面まで浮上させたのではなかった。水面までのなかば、スタービューを見下ろせる場所でゼノンの足を止めさせ、下を向いて様子を探ったのだ。やがて深海から、それが姿を現した。



 その姿が見えてきたとき、ゼノンの恐怖も見当違いのものではなかったのだと私も認める気になった。巨大なイカだったのだ。

 だが巨大といっても、生物学の本に載っているような常識的な大きさではなかった。マッコウクジラの主食は大王イカと呼ばれる大型のイカだったから、少々大きなぐらいでは私も驚きはしない。十数メートルのものなら日常見かけるし、ゼノンの大好物でもある。そのくらいのイカであれば、私も歓迎しただろう。海の中でゼノンに食事をさせることは、教官たちも禁じてはいなかった。経費の節約につながるので、むしろ奨励されていたぐらいだ。だがこのとき私たちが出会ったのは、そういうことが問題外に思えるほどのイカだったのだ。ちょっとした貨物船ほどの体長があり、それが深海の暗闇から薄紫色の姿を現し、スタービューに向かって泳いでいきつつあることに気づいて、私は青くならないではいられなかった。

 だがイカも、スタービューのそばを素通りするだけだとはじめは思われた。もちろんゼノンの存在には気づいていただろう。だが攻撃してくる気配を見せない限り、無視するつもりでいるようだった。あんな小さなクジラが襲いかかってくるはずはないとたかをくくっていたのかもしれない。私たちも、相手が何もしない限り手出しはしないつもりでいた。ゼノンだけでなく、私の鼓動もいっぱいにまで速くなっていた。

 突然、イカの視線がスタービューをとらえたようだった。これは何だろうという顔で、目玉をぎょろりと向けるのが見えた。皮膚の表面が緊張し、さっと色が濃くなるのがわかった。

 フイゴのように噴き出す水の向きを変え、イカはスタービューに頭を向けた。目の色が変わっているのは、ここから見ていてもわかった。あのバカ者は、スタービューを食べ物と勘違いしているのだ。

 腕を長く伸ばし、イカはスタービューに近寄っていった。腕の先が触れ、船体に吸盤を巻きつけた。それだけでスタービューがずるりと何センチか動いたような気がした。

 ためらっている余裕はなかった。私はゼノンの背中へ移動し、ベルトにしっかりとしがみついた。ゼノンが「冗談だろう?」という顔をしているような気がした。だが私は本気だった。大きく息を吸い込み、『突撃せよ』という合図を送ったのだ。

 だがゼノンは言うことをきかなかった。じっとしたまま、ヒレ一つ動かそうとしないのだ。

 もちろんそれは私にも理解できた。ゼノンだって、あんなイカを攻撃などしたくないのだろう。だが私はスタービューを助けなくてはならなかった。何度合図を送ってもゼノンは反応しない。この頑固な年寄りを相手に、私は別の手を考えるしかなかった。

 といっても、この手が本当に役に立つと本気で信じていたわけではない。教科書に載っている正規の方法でもない。ただ竜騎兵部隊に昔から伝わっている伝説のようなもので、私も先輩の口から冗談めかして聞かされたのに過ぎない。だが私には、それを試みるしか方法は残っていなかったのだ。

 背中を離れ、私はゼノンの鼻先へ降りていった。アゴの下にまわり、ボートのへさきのように大きな口を開かせた。杭のようにとがった太い歯が一列に並んでいる。その奥には長く大きな舌がある。私は、潜水服とヘルメットをつなぐねじをゆるめ始めた。隙間から空気の泡がぶくぶくと立ち昇っていく。私はヘルメットを完全に外してしまった。顔が水に触れ、潜水服の中も急速に水が満たしてゆく。私はかがみ、ゼノンの舌の先にそっとキスをした。

 ゼノンの身体がびくんと震えたような気がした。身体をねじり、ヒレをバタバタと動かした。私は口の中から出て、再びヘルメットを身につけ始めた。息を止めながらだから、のんびりしてはおれなかった。ねじをとめ終えると、ゼノンが強く息を吹き込み、水を潜水服の外へ押し出す手伝いをしてくれた。

 ゼノンはいまや奮い立ち、準備運動でもするように尾びれを動かし、興奮した馬のように胸びれを前後に動かしている。アゴを数回、開けたり閉じたりした。私は背中の上に戻り、もう一度突撃の合図を送った。今度は一瞬もためらわず、ゼノンは魚雷のように泳ぎ始めた。

 だが遅すぎたのかもしれない。イカはすでにスタービューにしっかりと取り付き、全体にくまなく腕をまわしていた。スタービューを生き物だと考え、絞め殺そうとしているのだろうかと思った。外国にはイカを好んで食用にする人々がいると聞いたことがあるが、そういう人々を全力で応援したくなるほど憎たらしい眺めだった。船体があげるきしみが、私の耳にまで聞こえてきた。あの中にいる者たちはどんな気持ちでいることだろう。

 近くまで行くと、イカとゼノンの大きさの違いをまざまざと感じなくてはならなかった。正直に言えば、私は後悔していた。これではナイフ一本で戦車に挑むようなものではないか。

 イカは、私たちが近づいていることにはまだ気がついていないようだった。獲物に夢中になっているのだろう。それだけが付け目であるように思えた。

 ゼノンは身体を上下さかさまにした。私からは見えなかったが、口を大きく開いていたに違いない。あと五十メートルというところでやっとイカは気配に気づいたが、もう遅かった。すれ違いざま、ゼノンはイカの目を攻撃したのだ。直径が一メートルを越える目玉だったが、とっさによけられてしまい、ゼノンはその少し上の部分をかみとったに過ぎなかった。振り向くと、それでも皮膚がざっくりとえぐられ、大きな穴が開いているのが見えた。ゼノンはすぐにUターンをし、二度目の攻撃を加えようとした。

 このときになってやっと、ゼノンが何を考えているのか私にも理解することができた。イカを殺そうとしているのではなく、ただ追い払おうとしているだけなのだ。殺すことなどとても不可能だと最初からわかっているのだろう。

 もう一度上下逆さまになり、ゼノンはイカに近寄っていった。急行列車のようなスピードだったが、こんなにまで大きく成長するにはかなりの年月が必要だったに違いない。それまでちゃんと生き抜いてこれたのは、かなり頭のよいイカだったからだろう。二度目の攻撃を、イカはさらりとかわしてしまった。

 私たちは肩透かしを食らってしまったわけだが、それだけではなかった。自分の身体の陰に隠すようにして、イカは最も長い腕を待機させていたのだ。非常に巧妙なやり方だったので、私もゼノンも、いざそれが尾びれに巻きついてくるまで気がつかなかった。急ブレーキをかけられたように、私たちは水中で停止してしまった。

 もちろんゼノンは暴れた。だがイカの腕は深く食い込み、ゆるむ気配もなかった。ベルトのように巻きつき、強く締め上げたのだ。

 ゼノンが悲鳴を上げるのを、私は初めて耳にした。大風に押されて大木がきしむような音だったが、そのことでも私はひどく驚き、身体が凍りつき、どうすればよいかわからなくなってしまった。ゼノンは暴れ続けた。私はしがみついていることしかできなかった。だがイカも腕を放す気配はない。それどころか腕をムチのようにうまく振って、ゼノンをぶんと放り投げるような動きをみせた。

 大きな遠心力を感じ、ゼノンとつながっている空気パイプがピンと伸びるのがわかった。ゼノンの身体には大きく弾みがつき、投げられた石のように水中を滑っていった。そしてその先では、大きな岩が待ち構えていた。

 ゼノンの身体がクッションになったので、私自身は大きな衝撃を受けることはなく、ケガもしなかった。だがゼノンはそうではなかった。骨が砕ける音が私の耳にまで届いた。

 ゼノンは一瞬失神したようだった。しかしすぐに目を覚まし、体勢を立て直そうとした。だが尾びれが動かせないことに気がついたのだろう。同時に苦痛にも襲われたのかもしれない。もう一度大きな悲鳴を上げた。

 イカの腕は離れていきつつあった。水中をさっと引き上げていくのだが、ゼノンの皮膚には、丸い吸盤の跡が白くいくつも残っていた。それほど強くつかまれていたのだろう。ゼノンはもはや、胸びれを使って泳ぐことしかできなかった。尾は見たこともない形に曲がってしまっている。イカは腕を全て引き戻してしまっているが、それでも油断なく目玉を動かしている。どこかで出血しているのか、パイプを通して送られてくる空気に血の匂いが混じり始めた。

 よろめくようにして、ゼノンはイカから離れていった。いかにも満足そうに、イカがスタービューに向かって再び腕を伸ばすのが見えた。いつの間にか私とゼノンは、真っ暗な海溝の上に差しかかっていた。見下ろすと黒々とした闇が、どこまで続くのか見当もつかないほど広く深く口を開けている。だが怖いとは思わなかった。ゼノンのことが心配で、それどころではなかったのだ。

 ゼノンは、かろうじて身体のバランスを保っているという感じだった。背中を離れ、私は鼻先へ泳いでいこうとした。だがその瞬間、とうとうゼノンはバランスを失ってしまった。転覆する船のようにゆっくりと裏返しになり、沈んでいき始めたのだ。

 こういう場合に備えた訓練を私は何回も受けていた。ゼノンの身体の下にもぐり、背中の吸気口に取り付こうとした。ゼノンはこのまま海底まで沈んでしまうだろうが、私まで巻き添えにされるわけにはいかないのだ。

 ゼノンは浮力を失いつつあった。真っ暗な海溝へ落ちていこうとしていた。あっという間に何十メートルも降下してしまったことだろう。あたりは本当に暗いが、竜騎兵は暗闇の中でも空気パイプを操ることができるように訓練されている。レバーに手を伸ばし、私はロックを外した。そして両手でつかんで、空気パイプをゼノンの身体から引き抜こうとした。

 だができなかった。固くはまったまま抜けないのだ。何度やってもだめだった。

 手を伸ばし、私は触れてみた。岩に衝突したときに接続装置が大きく変形し、パイプを強くかみこんでしまっていることがわかった。分厚い金属板が折れ曲がり、ワニの口のように食い込んでいるのだ。私の力などでは絶対に外れっこない。

 懐中電灯をつけ、私は深度計の目盛りを確かめようとした。だが自分の目を信じることができなかった。しかし間違いなく、針は四百を超えたところをさしていた。しかもまだまだ進みつつある。私は四百メートルを超える深さにいるわけだった。

 この深さでは潜水服を脱ぐことなど問題外だった。私は一瞬で押しつぶされ、死んでしまうだろう。ゼノンと一緒に落下を続けるしかなかった。電池を節約するために懐中電灯のスイッチを切り、真っ暗な中に身を任せるしかなかった。ゼノンとともに、私は海溝の底へ向かって沈み続けた。上を向いても、もう真っ暗なだけで何も見えなかった。



 この海溝がどこまで深いのか、私は知らなかった。まわりは本当に暗く、写真の暗室どころか、インクつぼの中に放り込まれたような落下が何分間も続いたが、あまりにも恐ろしくて、懐中電灯をつけて深度計を見る気にならなかったのだ。この潜水服は、計算上は千メートルの深さまで耐えられることになっていた。だが、これを着て実際にそこまで潜ったことのある者は一人もいないのだ。

 私たちは落下を続けた。いくらマッコウクジラでも、二時間あまりしか水に潜っていることはできない。それだけしか息が続かないのだ。すでに私たちは何分間水中にいるのだろうと思った。ときどき聞こえるかすかな声の様子から、ゼノンがまだ意識を持っていることは感じられた。だが身体の動きを完全に止め、無駄な消費をできるだけ抑え、少しでも多くの酸素を私に分け与えようとしているように思えた。

 水圧に耐えかね、潜水服がギシギシときしみ始めたような気がした。もしかしたら気のせいだったのかもしれない。だが私は確かに聞いたような気がした。潜水服が破れ、水圧に負けて水が侵入してくるときにはどんな気がするのだろうと思った。

 突然、ゼノンが歌い始めた。

 本当にそれは、歌と呼ぶのがふさわしかった。大きな身体に似つかわしくない甲高い声だが、あるリズムとメロディがあり、真っ暗な深海に響いた。悲しげではあるが美しくもあり、自分が置かれている状況も忘れて私は聞きほれた。そして不意に、ゼノンは私よりも二倍から三倍は長く生きてきたのだということに気がついた。その後半は竜騎兵とともにであろうが、少なくとも子供時代は海で自由に生きていたのだろう。

 ゼノンがどこの海で生まれたのか、私は知らなかった。だがどこかの海で母親から産み落とされ、すぐに水面に顔を出し、生涯最初の一息を吸い込み、地球の空気の味と匂いを感じたのだろう。その後すぐに母親の乳房にしがみついたのだろう。ゼノンの母とはどんなクジラだったのだろうという気がした。

 ゼノンと私は落下を続けた。いつの間にかゼノンは歌をやめてしまっていたが、その響きはまだ私の頭の中に残っていた。人生の最後に耳にするものとして、まったくふさわしいものだった気がした。気のせいでも何でもなく、潜水服がきしみ始めていた。手足の関節を包むジョイントがいつ破れ、キリようにとがった水流が浸入してきても不思議はなかった。それは私の身体をカミソリのように切り裂くだろう。そのあと空気が一気に押し縮められ、潜水服の中は圧縮されたエンジンの内部のようになるに違いない。その状態では、生きていることを期待するほうがどうかしている。

 奇妙な好奇心に駆られ、私は懐中電灯をつけ、深度計に目を向けた。針は千をこえ、文字盤の目盛りを振り切ってしまっている。私は感嘆の声を上げてしまったが、懐中電灯の光の輪が周囲に照らし出したものに気がついて、さらに驚いてしまった。いつの間にやってきたのか、すぐそばにもう一頭別のクジラがいたのだ。ゼノンよりもかなり身体は小さいが、あの四角い形はこれもマッコウクジラに違いない。くっつけるようにゼノンに頭を寄せ、黙りこくったままこちらを見つめていた。私は、ゼノンの身体から脈拍が消えてしまっていることに気がついた。胸にヘルメットを押し当ててみたが、心臓の音を聞き取ることはできなかった。ゼノンは死んでしまったのだ。

 私たちはゆっくりと海底に到着した。やわらかい泥が降り積もった真っ白な場所だ。敷きつめられた羽毛の上に降り立ったかのように、さっと泥が激しく舞い上がった。ゼノンはその中に半ば埋もれた。ゼノンはうつぶせになっていたので、私はその背中に乗る形になった。小柄なクジラも、ゼノンのすぐ隣に腹ばいになった。

 私の息はあと数分しかもたないに違いなかった。今はゼノンの肺の中にわずかに残った空気を吸っているのだ。電気を節約してももはや何の意味もないので、懐中電灯のスイッチは入れたままにしていた。巻き上げられていた泥がおさまり、隣にいるクジラをもっと観察できるようになった。若いというよりもまだ子供のクジラだ。親離れをした直後なのかもしれない。好奇心の強い丸い目で、私をまっすぐに見つめている。

 突然、あることに気がついた。あわてて立ち上がり、腰のナイフに手を伸ばした。馬乗りになって、ゼノンの背中に突き刺した。

 あの小さなクジラがなぜその邪魔をしなかったのか、私にはわからない。死んでいるとはいえ、私は仲間の身体を傷つけようとしていたのだ。だがクジラは邪魔をしなかった。私は手を動かし続けた。皮膚を切り裂くと、分厚い脂肪層が顔を出す。私は吸気口のまわりを切り開いていった。外科手術で埋め込まれた接続装置を取り外そうとしていたのだ。これが変形して空気パイプをかみこんでいるから、私は自由になることができないのだ。

 私が何をしようとしているのか、小さなクジラも気がついたようだった。突然身体を動かし、前へ進み出てきたのだ。私は驚き、警戒したのだが、その必要はないとすぐにわかった。クジラは空気パイプを口にくわえ、力を込めてぐいと引っ張ってくれたのだ。私はゼノンの身体を切る作業を続け、クジラは身体をねじりながら引き続けた。

 パイプは突然外れ、クジラは勢い余って、何メートルか後ずさりをしてしまった。だがすぐに私のところへ戻ってきた。口を開き、パイプを手の中に落としてくれた。私はそれをつかみ、彼の背中にはい上がろうとした。もう私の息はつきかけていた。クジラは身体を動かさず、私が背に乗りやすいようにしてくれた。私はベルトにつかまり、吸気口のそばへはって行った。ゼノンのものよりもずいぶん小さいが、銀色に光る接続装置がある。私はパイプを差し込み、コックを開いた。

 熱く湿っぽいが、酸素が十分に含まれた空気がヘルメットの中に飛び込んできた。私は胸いっぱいに吸い込むことができた。ゼノンとはずいぶん匂いが違うが、すぐに慣れることだろう。

 何度も深呼吸をしながら、私はクジラの背中をなでてやった。まだ本当に子供だ。くすぐったいのか、キキキと甲高い声を上げた。私は吸気口のまわりの皮膚に触れてみた。手術は最近行われたようだが、接続装置はしっかりと固定されている。傷もすっかり治っている。

 急に疲れを感じ、今から何をするにしろ、とにかく私は身体を休めなくてはならなかった。懐中電灯のスイッチを切り、クジラの背中に身体を横たえ、ほんの少しだけのつもりで目を閉じた。だが知らないうちに眠り込んでしまっていた。どういうわけか自分の家のベッドで眠っている夢を見た。それでも竜騎兵の端くれではあるのかもしれない。自分でも気がついていなかったのだが、私の手はクジラの身体に固定されたベルトをしっかりとつかんでいた。

 眠っている間にクジラは泳ぎ始め、水面へ向かったようだった。目を覚ましたときには水面近くを泳いでいた。急いでいる様子はないが、機嫌はよさそうだ。水面に背中を出すたびに、私は太陽の光を全身に浴びることができた。背中をなでてやりながら、このクジラに名をつけてやろうと思いついた。明らかに竜騎兵部隊用に改造されたクジラだからすでに名があるのかもしれなかったが、私には知るすべはなかった。私はチビ介と呼ぶことにした。マッコウクジラの子供といっても、普通のイルカなどよりははるかに大きいのだが、それでもゼノンと比べればおもちゃのようだったのだ。

 水面に顔を出すたびに見回したが、大洋の真ん中で、波と空以外は何も見えなかった。日は高く、もう昼近いかもしれない。

 突然チビ介が潜り始めた。ベルトにつかまったまま、私は引っ張られていった。だが深くは潜らず、チビ介は水面の少し下を進んだ。とても深い海で、目をこらしても海底は見えなかった。イワシの群れがさっと通り過ぎたが、チビ介は見向きもしなかった。潜水艦の姿が見えてきたのは、そうやって十分間ほど進んだときのことだった。薄青い水中に潜水している姿が突然見えてきたのだ。

 ヘルメットの中で、私は思わず歓声を上げた。友軍の潜水艦だと思ったのだ。スタービューの捜索に駆り出された中の一隻だと考えたのだ。だがすぐに奇妙なことに気がついた。船体の形に見覚えがなかったのだ。私だって、友軍の潜水艦の形はたいがいみな覚えていた。だがヒトリ国海軍にあのように四角張った潜水艦がいただろうか。そういえばセイルの形も奇妙だった。魚雷発射管の直径も違う。

 真相に気がついて、私は青くなった。これはヒトリ国ではなく、ハマダラカ国の潜水艦なのだ。

 ハマダラカ国の潜水艦については、私もちょうど学校で習い始めているところだった。そう思って見直すと、この形は教科書で写真を見たことがあるような気がした。

 チビ介は平気な顔で、ハマダラカの潜水艦へ向かって泳いでいく。もう距離はいくらもない。潜水艦のへさきにガラス窓がいくつか並んでいることに気がついた。水圧に耐えることができる丈夫そうな窓だ。チビ介は気楽そうに近寄ってゆき、その一つから中をのぞき込んだ。

 窓の中は薄暗かった。チビ介は鼻を押し付け、キキキと鳴いた。それを聞きつけたのか、黒い人影のようなものが動くのが見えた。

 若い男だった。顔を上げ、チビ介と目を合わせた。うなずいて手を伸ばし、何かのスイッチを押したようだった。

 だが突然、その男の表情が凍りついた。チビ介の背に私がいることに気がついたのだ。信じられないという顔で見つめ返してきたが、それは私も同じだった。このころには、潜水艦の船首部分は大きく口を開き始めていた。とがったへさきがオウムのクチバシのように上下に分かれるのだ。その内部は水が満ちているが、暗すぎてわからないが通路のようなものがある。だが私には、そこに何があるのか確かめている余裕はなかった。

 注意を引くために、私はチビ介の背中をぽんとたたいた。クジラに合図を送るやり方がハマダラカでもヒトリと同じだったのは幸運だった。チビ介は私の意図を理解し、すぐに全力で泳ぎ始めたのだ。潜水艦から離れ、再び大洋へ泳ぎ出たのだ。

 きっとハマダラカ海軍では、クジラには自分でエサを取らせるという方針なのだろう。一日に一度海に放し、満腹したら戻ってくるように訓練してあるのだろう。だがチビ介はまだ子供だ。満腹になっても、まだまだ遊びたりなかったのだろう。私の合図に従い、全速力を出したのだ。

 水面近くを行くように私は指示を出した。チビ介はすぐにいうことをきいた。ちらりと振り返ると、さっきの潜水艦がへさきのドアを閉じ、舵を切って追いかけてくるのが目に入った。あの一瞥で、私がヒトリ兵であることは見抜かれてしまったのだろう。ハマダラカ軍にすれば、私を生きて返すわけにはいかないのだろう。私は自国の近海に敵潜水艦を発見してしまったのだから。

 息を吸うためにチビ介が水面に顔を出したときに、私はまわりを見回した。だが海上にも空にも、船や飛行機の姿はなかった。本土や友軍艦隊からどのくらい離れた場所にいるのか、私にはさっぱり見当がつかなかった。

 水中に大きな音が響いたので、私はぎくりとした。聞き覚えのある不快な音だった。振り返るとやはりそうだった。あの潜水艦が魚雷発射管を開き、こちらに向けて一発発射したところだったのだ。

 白い空気の泡を派手に引きながら、魚雷は潜水艦を離れていく。目にしているものが信じられなかったが、事実は事実だった。私はチビ介に合図を送り、右へ進路を変えさせた。一度発射されたが最後、魚雷は途中で進路を変えることができないのだ。よけるのは難しくない。だがあの艦長はそれを見抜いていたに違いない。チビ介と私が右へそれ始めると、すぐにその方向へもう一発発射したのだ。

 私はひどく混乱した。それでも何とかチビ介に指示を出して、今度は真下に向けて進ませることができた。精一杯の急潜行だ。どこか離れた場所で、一発目の魚雷が爆発した。水を通して、強い音と衝撃が襲いかかってきた。私は両手に力を込め、ベルトにしがみついた。

 左右はともかく、潜水艦は上下にすばやく方向を変えることはできないだろうと私は思ったのだ。二発目の魚雷は私の頭上を通り過ぎてゆき、どこか遠くで爆発した。フル加速を始めていた潜水艦はうまくブレーキをかけることができずに、同じように真上を通り過ぎていった。私は船腹を眺めることになった。

 ちょっとしたことを思いついて、私は再びチビ介に合図を送った。スピードを落とさせ、潜水艦の腹の下を同じ方向へついていくようにさせたのだ。ごうごういうモーターの音が、水を通して鼓膜に響いてくる。手を触れることができそうなところまで、私たちは船腹に近寄っていった。大きなサメに張り付くコバンザメになったような気分だ。追跡をあきらめたのか、潜水艦はスピードを落とした。進路を変え始めたので、私たちもついていくことにした。

 磁石を見ると、潜水艦はほぼ真西に鼻を向けていた。大洋の中央の何もない場所へ向かっている。何のためにそんなところへ向かうのだろうと思った。

 明らかにチビ介は、ハマダラカ国が自国の竜騎兵部隊のために訓練したクジラだった。ヒトリ国では誰も思いつきもしなかったことだが、ハマダラカは潜水艦を改造し、自国から遠く離れた場所でも活動できるように竜騎兵部隊の母艦にしたのだろう。敵ながら賢いやり方だと思えた。

 だが彼らにも欠点がなかったわけではない。ハマダラカ人たちは頭がよく、何でも突き詰めて合理的に物事を進めるのだろう。機械相手ではそれでよいのかもしれない。だがクジラは生きている動物なのだ。ハマダラカ人たちはそれを見落としているような気がした。家畜として必要な世話だけを最低限行うということと、切り離せないパートナーとして一つの空気を呼吸しながら、一日の何時間かをともに水中で過ごすこととはまったく意味が違う。きっとハマダラカ兵たちはクジラを軍馬のように扱い、こき使っているのだろう。手からエサをやり、水の中でともに遊び、おなかをくすぐってやったりはしないのだろう。

 そう考えると、チビ介が潜水艦の内部に戻りたがるそぶりを見せない理由が理解できるような気がした。あそこへ戻っても、楽しいことは何もないのだろう。今も泳ぎながら目を上げ、背に乗っている私をちらちら眺めているのだ。そしてときどき、まるで含み笑いでもするようにキキキと小さく鳴く。チビ介にとっては、私はうまれて初めて手に入れた友人なのかもしれない。

 チビ介はゼノンほどには息が続かないので、ときどき水面に出なくてはならなかった。一旦潜水艦の背後に離れ、息を吸ってから再びその下に潜るのだ。だが今では、潜水艦はディーゼルエンジンを動かして走っていた。ガシャガシャとうるさいエンジン音を追いかけ、追いつくのは難しい仕事ではなかった。私たちは追跡を続けた。

 途中で何度か、チビ介に食事をさせてやらなくてはならなかった。そのために一キロほど離れなくてはならないこともあったが、それだけ離れてもチビ介の耳にはエンジン音がちゃんと聞こえているようで、すぐに見つけ出して追いつくことができた。チビ介は適当な魚の群れを見つけてはその中へ弾丸のように飛び込み、尾をめちゃめちゃに振り回した。ほとんどの魚はさっと逃げ去ってしまうが、それでも何匹かは尾でたたかれ、気を失ってぐったりしてしまう。チビ介はそれをさっと口にくわえるのだ。私にも一匹くれたので、水上に出て数分間休憩したすきにヘルメットを脱ぎ、生のままかじった。生のまま食べることができる魚や海草の見分け方は学校で習っていたのだ。ナイフでヒレを切り、ウロコと内臓を取り除き、私はかじりついた。

 そうやって私たちは半日追跡を続けた。コバンザメのように船底に張り付き、走り続けたのだ。潜水艦の目的地が見えてきたのは、太陽が水平線に沈んだころだった。エンジンの回転を落とし、浮上する気配を見せたので、私たちは少し距離をとった。圧縮空気を使ってタンクから海水を押し出す音が聞こえ、潜水艦はゆっくりと浮かび上がっていった。潜水艦が完全に停止したとき、勇気を出して、私も水の上に顔を出してみることにした。

 チビ介には水面下にとどまるように指示を出し、私は頭だけをそっと突き出した。よく晴れた波のない夜だった。潜水艦のエンジンがさらにゆっくりになったので、まわりの音を聞き取ることができるようになった。だから、まわりがいくつものエンジン音で満ち満ちていることにこのときやっと気がついたのだ。潜水艦のエンジンにかき消されて、聞こえないでいたのだろう。あまりのことにあきれてしまい、私はヘルメットの中で口をあんぐり開けることしかできなかった。私は敵艦隊の真ん中にいたのだ。



 もちろん私はひどく驚いていた。ハマダラカの艦隊であることは間違いないだろう。この艦隊が何をしようとしているのかはわからなかったが、ヒトリの国益に大きく関わることなのは間違いないだろう。私は一刻も早く司令部に通報しなくてはならなかった。だが今いる位置がどこなのか、私には見当もつかなかった。星の角度から緯度や経度を測定する方法はあるが、必要な道具はゼノンと一緒に海の底だ。

 チビ介に合図を送り、私は水面をそろそろと進み始めた。場所がわからないのなら、せめて船の数を数えようと思ったのだ。

 驚いたのは、空母が三隻もいることだった。それを七隻の中型巡洋艦が守っている。潜水艦も八隻いる。その内の三隻は潜水空母だったから、ヒトリの沿岸まで潜水してゆき、浮上して偵察機でも飛ばすつもりなのだろう。軽巡洋艦に守られた補給艦が四隻いるのも目についた。そして最後に艦隊の最後部にいる船の正体に気がついたときには、思わずため息が出た。超大型の戦艦だったのだ。私の胴回りほどもある大砲が、ハリネズミのようにいくつも突き出している。きっと陸地を艦砲射撃するのが役目なのだろう。

 要するにこれは、かなり本格的な攻撃作戦だということだった。星空にきらりと光るものが見えたので目をこらすと、数機の偵察機だった。どう見ても演習ではない。

 コトコトと速く打ち始めていた私の心臓は、今ではアクセル全開のエンジンのようになっていた。耳の中でじんじんと耳鳴りでも始まりそうな気がした。私は、戦争が始まる瞬間を目撃しようとしていたのだ。

 艦隊の規模と船の数は頭に入れた。チビ介の背中にそっと触れ、潜水するように指示を出そうとした。人の声が聞こえてきたのはそのときだった。

「おまえ、そんなところで何をしてるんだ?」

 私は驚いて振り返った。数メートル後ろに小さなボートがいた。男が一人乗っているだけだが、船から船へ何かの荷物を届けるところなのだろう。ボートの上には荷物らしい木箱がいくつか乗っているのが見えた。

 私は急いでチビ介を潜らせた。チビ介はよく言うことを聞いたが、自分の間抜けさと失敗の大きさに気がついて、私は地団駄踏みたいような気分だった。あの男は、私を目撃したことをすぐに上官に報告するだろう。上官は艦隊指令に伝え、艦隊指令は攻撃開始時刻を予定よりも早めるかもしれない。いや、ヒトリに防御を固めるすきを与えないために、きっと早めるだろう。

 私はチビ介を深く潜らせた。懐中電灯を一瞬だけつけて磁石を眺め、頭の中に海図を思い描いた。真北へ向かうのが、ヒトリ本土へはおそらく最も近いルートだろう。だがすぐに気がついた。ハマダラカの艦隊指令もそう考えて、私の行方を追って北側を重点的に捜索するだろう。なら別の方角へ向かうほうが賢いかもしれない。私は南へ向かうことにした。

 ヒトリ本土からは遠く離れてしまうが、南には定期航路がある。ヒトリの港へ出入りする貨物船や客船が多く通る場所だ。そこで何かの船に拾い上げてもらい、司令部には無線で通報するのだ。

 もう一度磁石を確かめ、私はチビ介に指示を出した。水面から百メートルほどの深さまで潜り、チビ介は元気よく進み始めた。真っ暗なばかりで何の音も聞こえず、光も目に入らなかった。私は何度かチビ介を浮上させ、空気を吸わせた。

 私の緊張が伝わっているのか、チビ介も遊びたがらず、まじめにまっすぐ泳ぎ続けた。だが二時間も進むと、さすがに二人とも疲れてしまった。艦隊からはもう十分離れたように思えて、少し休憩をすることにした。チビ介の足を止めさせ、リラックスしてよいと合図を送った。

 様子を見るために懐中電灯をつけると、チビ介はとたんに身体を曲げて振り返り、私と目を合わせた。顔のそばへ泳いでいき、アゴの下をなでてやった。チビ介は目を細め、力を抜いてヒレをだらんとさせた。そのまま背中まで丸めてしまったが、私はしたいようにさせた。気がつくとチビ介は目を閉じ、眠り込んでしまっていた。ほっとため息をつき、懐中電灯をしまい、私も目を閉じた。十メートルほどの深さのところで、私たちは眠りに入ってしまった。

 クジラは水に潜ったまま眠ることができる。息を吸う必要が出てくると、目を覚ますことなく浮上して空気を吸い、またもとの深さに戻る。これを自動的に繰り返すことができる。眠ったまま私もその動きを何度か感じたが、特に何も思わなかった。いつものことだったからだ。

 もともと私は寝つきがよく、一旦眠り込むと目を覚ましにくいたちだった。目覚まし時計も一つだけでは不十分で、ベッドのそばにはいつも二つ並べてあるほどだ。だがそんな私でも、そばで爆雷を使われたのでは、目を覚ますのは一発で十分だった。

 被害を受けるほど近くではなかったが、身体全体で衝撃を感じ、大きく揺り動かされた。鼓膜がじんじんした。チビ介も目を覚まして、私の指示を待たずに全速力で泳ぎ始めていた。私は引きずられていった。水面近くを行くので、私の身体は白い波を立てている。見上げると一機の飛行機が見えた。灰色に塗られたハマダラカの偵察機だ。こんな方角にまで捜索の手を広げていたのだ。

 まわりは明るく、日が昇った直後のようだった。初めて気がついたのだが、これだけ陸地から離れると海水は驚くほど透き通っていて、これでは水中にいる私とチビ介を見つけるのは難しい仕事ではなかったに違いない。そんな中で漂いながら眠っていたなど、なんと馬鹿な話だろう。

 偵察機は二つ目の爆雷を投下した。私とチビ介の鼻先だった。深く潜水させるために、私はチビ介に合図を送ろうとした。だがその前に気が変わった。やられるばかりでうんざりしていたのかもしれない。といっても、何か武器があるというわけではなかった。武器に似た形をしているものといえば、腰にある信号銃ぐらいのものだ。私はそれを抜き、狙いもろくにつけずに偵察機めがけて引き金を引いた。パンと大きな音がした。あたったかどうかさえ確かめずに、私はチビ介を垂直に潜らせた。

 もちろん、あてずっぽうに撃って敵に命中するはずはないし、もともと信号弾とは打ち上げ花火のようなものだ。命中しても何の損害も与えることはないだろう。だが私は、何か反撃しないではいられなかったのだ。ただこれで、二発しかない信号弾を撃ち尽くしてしまったのも事実だった。そのことで気がくさくさした。

 私たちは垂直に潜行を続けた。その後も偵察機は爆雷を投下し続けたのかもしれないが、よくわからなかった。深く潜ると何の音も聞こえなくなった。私たちは再び南へ進路をとった。いつ敵に発見されるかと私は気が気ではなかったが、チビ介は平気な顔で、特に緊張した様子はなかった。

 ほんの短い時間何度か休憩を取るだけで、私たちは泳ぎ続けた。午後遅くなるころ、水が温かくなってきたことを感じて、私はほっとした。熱帯から流れてくる暖流に出くわしたのだ。するともうここは定期航路の上だということになる。チビ介の足を止めさせ、私たちは流されるままになった。水面に顔を出し、船が通りかからないかとただ見張っているだけでよかった。

 だがこれが通りかからないのだ。私は目が疲れてしまった。耳をすませたが、エンジン音が聞こえてくることもなかった。青い空に白い雲があり、時々とんでもなく高い空を鳥が飛んでいくのが見えるだけだった。何の成果もないまま、日が暮れて真っ暗になってしまった。それでも私はまだ見回し続けていたが、本当にくたびれてしまった。どうしようもなく、少しの間休むことにした。前の夜と同じようにして、私たちは眠り込んだ。



 奇妙な夢を見た。私は蝶になり、クモの巣に引っかかっているのだ。クモはもう私を見つけ、舌なめずりをしている。だがおかしなクモで、糸の上を歩いて近寄ってくるのではなく、糸で網のように私を包んで、自分のそばへ手繰り寄せようとするのだ。

 クモは太い木の枝に身体をしっかりと落ち着け、手繰り寄せ続ける。私の身体は、ずるりずるりと引き上げられてゆく。クモは舌なめずりを続け、手をゆるめる気配はない。網の中にチビ介も同じように引っかかっていることに気がついた。チビ介の重たい身体をよくクモの糸で支えることができるものだという気がした。不快そうにチビ介が悲鳴を上げた。そこで私は目を覚ました。

 目を覚ましても、夢の中とよく似た光景が目の前に広がっていることに気がついて、ひどく驚いた。混乱してわけがわからなくなったが、男たちの鋭い言葉を耳にし、見回しているうちに状況がわかってきた。

 これは漁船だった。南の海に出て、大きな網を使って魚をとる船だ。今も網を海に広げ、その後ウインチで引き上げて、とった魚を甲板の上に降ろそうとしていたのだろう。だが漁師たちにとって不運だったのは、場所が悪かったのか魚はほとんどかかっておらず、網の中は空っぽだったということだ。しかしその代わりに、別の大きな獲物が二匹かかっていた。それが私とチビ介だ。

 きょとんとして、私は男たちを見下ろしているしかなかった。チビ介が不愉快そうに暴れたので、背中をなでてなだめてやらなくてはならなかった。ウインチの音が大きくなり、私たちはそっと甲板の上に降ろされた。男たちが駆け寄り、網をほどいてくれた。水のない場所に置かれて、不満そうにチビ介がキューッと鳴いた。

「あんた誰だ?」男の一人が言った。服装から見て船長のようだ。他の男たちは口をぽかんと開けて眺めている。私は潜水服を脱ぎ始めた。ヘルメットを脱ぐのは、男たちが手伝ってくれた。

「あんた誰だ?」船長がもう一度言った。

「海軍の竜騎兵よ。無線機を使わせて。緊急事態なの」

「何のことだい?」

「ハマダラカがヒトリに戦争を仕掛けようとしているのよ。海の真ん中で大部隊を見たわ」

 信じられないのか、男たちは顔を見合わせている。

「ねえ早くして。国家の緊急事態なのよ」私はいらいらしてきた。潜水服から完全に抜け出した。

「でもなああんた」船長が言った。「この船には無線機などないのだよ」

「なんですって?」

 私は見回した。そして船の小ささに気がついた。乗組員数人の小型帆船で、甲板も狭く、チビ介が乗っているおかげで斜めに傾きかけている。

「他に船はいないの?」私は船長を振り返った。

「いないよ。この船だけだ」

 私はまわりを見回した。船べりの向こうは真っ黒な海が広がっているだけだ。星以外には光一つ見えない。ため息をついて、私は座り込んだ。男たちはあきれた顔をしている。悲しそうな顔をしたチビ介と目が合った。「このクジラを水の中に戻してやってくれる?」

「ああ、いいとも」乗組員たちはほっとした顔をした。彼らもマッコウクジラの凶暴さは話に聞いているのだろう。すぐに仕事に取りかかった。網をフックに引っ掛け、再びウインチを巻き上げる用意を始めた。チビ介に近寄り、私は空気パイプを引き抜いた。頭をぽんぽんとたたいてやった。

 漁師たちはチビ介をていねいに持ち上げ、ゆっくりと海に戻した。網を外してやると、チビ介はせいせいしたという顔で泳ぎ始めた。船の隣に並び、ついてくる様子だ。私は船長を振り返った。「海図を見せて。相談があるの」

 私は狭い船室へ案内された。バスの運転台ほどの広さしかない。すみに小さなテーブルがあり、日に焼けた海図が広げてある。船長は鉛筆で印をつけた。「今いるのはこのあたりだよ」

「一番近くにある無線機はどこ? 軍の基地はない?」

「基地なんかないよ。無線機があるのはこの島だな。小さな無線局がある」船長は海図上の一点を指さした。

「方角は? 距離はどのくらい?」

 船長は物差しを当てた。「三十キロほどだな。西北西だ」

 私は海図を目に焼き付け、操縦室を飛び出した。

「おい」船長が追いかけてきた。「どうするつもりなんだい?」

「その島へ行くのよ。急がないといけないわ」

「どうやって?」

「クジラに乗っていくわ。この船よりもはるかに速いもの」

「これはどうするんだい?」船長は私の潜水服を指さした。甲板の上にごたごた積み上げてある。

「悪いけど、預かっておいてよ。後で取りに来るわ」

「しかし…」

「時間がないのよ」

「待てよ。五分くらいはあるだろう?」そばへやってきて、船長は私の腕をつかんだ。乗組員の一人に命じて、水と食べ物を持ってこさせた。

「ありがと」私はそれを立ったままガツガツやった。その間、別の乗組員が船倉へ降りてゆき、魚を何匹か持って上がってきた。水面へ投げると、チビ介は一口で食べてしまった。

 潜水服から外した懐中電灯と磁石だけを持って、私は海に飛び込もうとした。

「待つんだ」船長が再び呼び止めた。

「どうしたの?」

「これを持っていくといい」ズボンのポケットから、船長は小さなナイフを取り出した。十五センチほどのものだが、柄はサメのキバでできている。装飾に細かい模様が彫りこまれている。船長は私に手渡した。

「これはなに?」

「島の無線局長はオレの弟だ。それを見せれば親切にしてくれるだろう。『あんたの兄ジョンストンから渡された』と言えばいい」

 私はにっこりした。「わかったわ。ありがとう」

 ナイフを腰に差し、私は今度こそ水に飛び込んだ。すぐにチビ介が近寄ってきて、私はベルトにつかまることができた。磁石を眺め、私は指示を出した。チビ介は、さっと魚雷のように泳ぎ始めた。潜水服を着ていないので、深く潜ることはできなかった。チビ介と空気パイプがつながっているわけでもない。だがずいぶん軽くなっているから、スピードは出せるはずだった。

 私たちは波をけたてて進んだ。島の姿が水平線にぼんやりと浮かび上がってきたのは、夜が明けるころだった。思っていたよりも小さな島だった。ころんと丸く、まるで子ガメが水に浮いているようにしか見えない。だが近づくにつれて島らしくなってゆき、海岸沿いにある家々を見分けることができるようになった。石でできた古めかしい白い建物だ。

 このあたりには軍の基地はないと船長は言っていた。それだけ本土から遠く離れているということだろう。ハマダラカの船などが近づくこともあるのかもしれない。そして私の想像は正しかった。

 海図を見たせいで、島の地理も頭に入っていた。港は島の北側にある。だからチビ介と私は、海岸に沿ってずっとまわっていかなくてはならなかった。やがて小さな港が見えてきた。天然の入り江を利用したもので、三日月のように丸い形をしている。白い砂でできたひとけのない岬が防波堤の代わりをしている。入り江の中央に巡洋艦がいるのが見えたとき、私は喜びのあまり声を上げ、チビ介の背中をぽんとたたいた。チビ介もうれしそうに、胸びれで軽くたたき返してきた。もう安心だと思った。あの巡洋艦の艦長にかけ合って、司令部に通報してもらえばいい。

 入り江の中に入り、私たちは一直線に近寄っていった。へさきのとがったスマートな船で、船体は長く幅は狭く、いかにもスピードが出そうだ。私はうっとりと見上げ続けたが、それもマストに掲げられた国旗を目にするまでのことだった。あの旗を見間違えるはずはなかった。これはハマダラカの船なのだ。

 あわてて水に潜り、私はチビ介をUターンさせた。水が透き通っているので甲板からも丸見えなのに違いなかったが、チビ介をせかして、見つかる前に入り江の外に出ることに成功した。岬の向こう、巡洋艦からは見られない場所まで行ってから水面に浮かび上がった。「何をしているのだろう?」とチビ介が不思議そうな顔で見ているような気がした。

 チビ介を水中で待たせ、人のいない岬に一人で上陸した。砂の上に足跡を残してしまうのが気になったが、茂みの中まで歩いていき、町の方角を眺めた。

 とても小さな島だから、町も一つしかなかった。屋根の上に無線のアンテナが立っている家が一軒あり、あれが無線局だろう。巡洋艦は兵を上陸させているようで、制服を着て銃を持った男たちがあちこちで気楽そうに話していたり、タバコを吸っていたりするのが見える。住人の姿は見えないが、きっと家の中にとどまるように言われているのだろう。

 町の様子を頭に入れ、数えられる限り兵士の数を数えてから、私はチビ介のところへ戻った。水底に沈んで、チビ介はおとなしく待っていた。私が水に入るとすぐに気づき、すうっと近寄ってきた。私も水底まで沈み、握手でもするように胸びれに触れた。チビ介は機嫌よく見つめ返してくる。何が起こっているのか理解しているはずはないが、私が深刻そうな顔をしているのはわかるのだろう。甘えてこないので私はおなかの下に潜り、少しくすぐってやった。楽しそうなキキキという声を聞いて、私も少し気が楽になった。

 息を止めたまま、私は水の中で考え続けた。苦しくなると浮かび上がり、息だけ吸ってすぐに水中に戻った。そして考えを決めた。チビ介に合図を送り、ベルトをつかんで外洋へ向かわせた。島から見られることはないと納得できる距離まで離れてから、私はチビ介を浮かび上がらせた。背中にまたがり、私は東南東の方向に目をこらした。

 船の姿が見えてくるまで、十五分ほどしか待つ必要はなかった。すぐにチビ介を泳ぎ始めさせ、ゆっくりと近寄っていった。

 もちろん見覚えのある船だった。ジョンストン船長の漁船だ。操縦を乗組員の誰かに任せ、船長はへさきに出て島の方角を眺めていたので、私は波の上に精一杯背伸びをし、手を振った。船長はすぐに気づいてくれた。

 私の話を聞いて、船長たちはひどく驚いた顔をした。だが怒りも感じているようで、興奮して顔が赤くなっていた。

「それは本当のことか?」船長たちは何度も同じ質問を繰り返した。

「ええ、今見てきたところよ」

「くそう」

 甲板に座り、私たちは相談を始めた。だが何の知恵も浮かばなかった。そのうちに日まで暮れ始めた。水面に顔を出して、ときどきチビ介がクククと鳴くので、そのたびに船べりから顔を出して、鼻面をなでてやらなくてはならなかった。するとチビ介はうれしそうに尾びれを見せ、すっと水中に消える。私は船長たちのところへ戻り、相談の続きをした。だが何もまとまらなかった。

 とうとうあたりは真っ暗になってしまったが、入り江から姿を現した船の影に最初に気づいたのは、漁師の一人だった。「おい、あれを見ろ」

 私たちは振り返った。黒い壁のように見える岬の陰から、ハマダラカの巡洋艦がゆっくりと姿を現すところだった。明かりはすべて消してあるが、月の光に浮かび上がるシルエットは見間違いようがなかった。エンジンの音が低く聞こえてくる。

「何をするつもりだろうな」船長が言った。

「島を離れようとしているのだろう。もう用は済んだのかな?」漁師の一人が言った。

 私は突然気がついた。「ヒトリとハマダラカの間で戦闘が始まったんだわ。だから本土へ通報されることを恐れる必要がもうなくなったのよ」

 男たちは顔を見合わせていた。それ以上は何も言わずに船べりを乗り越え、私は海に飛び込んだ。すぐにチビ介が現れ、肩を差し出して私をつかまらせた。さっと泳ぎ始めたので、島へ向かうようにと指示を出した。

 巡洋艦とすれ違うときには、深く潜ってやり過ごした。スクリューが水をかき混ぜる音とエンジン音が水中に満ちている。入り江の入口を、私たちはロケットのように通り抜けていった。だがチビ介が突然足を止めたのは、そこからいくらも進んでいないときだった。凍りついたように尾の動きを止め、胸びれを左右に大きく広げて急ブレーキをかけたのだ。振り落とされそうになって、私はしがみついた。

 私はチビ介の瞳をのぞき込もうとした。チビ介が何を考えているのかわからない。心臓の鼓動を探ることを思いついた。手を伸ばしてみると、驚くほど速く打っていた。チビ介は身体を固くしている。敵が近くにいるのだと、やっと私は気がついた。

 息をつくために、チビ介から離れて一度水面に顔を出した。ちらりと振り返ると、巡洋艦はもう小さくなって、船尾だけが遠くに見えていた。私はチビ介のところへ戻った。それをじりじりしながら待っていたのだろう。私がベルトにつかまるとすぐに胸びれを動かし、チビ介はゆっくりと後ずさりを始めたのだ。

 敵の正体が見えないのだから、後ずさりをやめさせたものかどうか、私には判断がつかなかった。私を肩につかまらせたまま、チビ介は入り江を出ていこうとしていた。数秒後、二つのことが同時に起こった。チビ介が突然身体をきつく曲げ、外洋に鼻を向け、弾かれたように泳ぎ始めたのだ。本当の全速力だ。そして、とうとう敵も姿を見せたのだ。

 だが最初、私にはそれが何なのかよくわからなかった。月と星の光しかない海の中なのだ。私の目には、白く丸い何かの模様のようなものが一瞬ひるがえるのが見えただけだった。

 チビ介は外海に向かって駆け続けた。私に息をつかせるためにときどき水面に出なくてはならず、そのたびにスピードが落ちた。水中でも目を開け、私は振り返り続けたが何も見えなかった。だがその次に水面に顔を出したとき、同時にそいつも水上に姿を見せた。何万年も海の中で狩りを続けてきた本能のせいだったのかもしれない。水の上に全身を見せ、弧を描いてジャンプしたのだ。

 見たことがないほど大きなシャチだった。さっき一瞬白く見えたのは、その首の後ろの白い部分だったのだ。背びれを高く立て、大きな波を起こしながら、再び水の中に消えた。

 一瞬のことではあったが、すべてを見て取るには十分だった。あの凶暴な動物をよく手なずけたものだと思ったが、あのシャチも胸の部分にベルトが巻かれ、背中の吸気口には接続装置が取り付けられ、そして肩のところには竜騎兵がいたのだ。生まれてはじめて、私は敵国の竜騎兵と遭遇したわけだった。

 このシャチは大きく、チビ介の二倍はあった。体力も速力も段違いだろう。私は目を血走らせていたに違いないが、頭の裏側では冷静に計算を始めていた。あの竜騎兵は潜水服を着ている。その重さがない分、私たちに有利さがないわけではない。

 シャチはゆっくりと距離をつめてくるようだった。突然思いついて、私はチビ介に合図を送った。それを受け取り、理解するだけの冷静さはチビ介も持ち合わせていた。チビ介は方向を変え、波の上でさっとカーブを描いた。

 すでに巡洋艦は、まったく脅威ではない距離にまで遠ざかっていた。あの竜騎兵は、味方の船にも知らせずに入り江の中で待ち伏せていたのかもしれない。私がこの海域を泳ぎ回っていることはハマダラカの司令部も知っているわけで、私を捕まえるために竜騎兵を各所に配置して待っていたのかもしれない。

 風の弱い日なのでジョンストンの船は足が遅く、目をこらしても、遠くにうっすらと影が見えているだけだった。ジョンストンはすべての明かりを消して航行していた。あそこに船がいると知らない限り、見つけることはできないだろう。

 波の上で口を大きく開き、私は精一杯の空気を吸い込んだ。そうしておいて、「深く潜って進め」とチビ介に合図を送ったのだ。チビ介は言われたとおりにした。潜水服を身につけないまま、私は水中深く潜っていった。

 だがいつまでも息が続くわけではない。苦しくて我慢しきれなくなると、合図を送ってチビ介を浮上させた。肺いっぱいに空気を吸い込み、もう一度潜水させた。水中では私は、できるだけ抵抗にならないように身体を伸ばし、力を抜いてだらりとさせた。まるでチビ介の背中に海草が引っかかっているような眺めだったかもしれない。竜騎兵の潜水服は金属製で重く、表面は岩のようにゴツゴツしている。水の抵抗も何もあったものではない。いくら力の強いシャチでも、その差を埋めるのは簡単ではなかっただろう。

 水面に顔を出すたびに、ジョンストンの船はどんどん近づいてきた。チビ介は一直線に走っている。このまま船の真下を通過することになるだろう。あと百メートル。

 船まであと二十メートルというところで、私はチビ介に合図を送った。理解してくれるのか自信はなかったのだが、チビ介はちゃんとわかってくれた。

 シャチとその竜騎兵はひどく驚いたかもしれない。すでに距離はかなり詰まっていたのだ。すぐ目の前で起こったような気がしたかもしれない。ヒトリの竜騎兵の間では『爆撃』と呼ばれていたのだが、私は泳ぎながらチビ介に糞をさせたのだ。おしりからミルクのように白いものが噴出し、水をにごらせた。煙幕の一種と言えるかもしれない。

 目の前で糞をされて、よける暇もなくその中に頭を突っ込む羽目になって、にこにこしていられる者はいない。シャチもその竜騎兵も一瞬で頭に血が上ったに違いない。だが私はそれが狙いだった。白いにごりが彼らを包んだ瞬間に、私はチビ介の身体から離れたのだ。さっと沈み、チビ介の下へと深く潜った。チビ介の姿はすぐに遠ざかり、一瞬遅れて、シャチと竜騎兵も私の頭の上を通り過ぎていった。私には気づきもしなかったようだ。

 チビ介を離れる直前、私は別の指示も出していた。この場をまっすぐに通り過ぎ、少し離れた場所で大きな円を描いて、またこの場所に戻ってこいという内容だった。この指示を受けたクジラは、半径数百メートルの円を描いて、ぐるりと戻ってくるように訓練されている。

 敵が完全に通り過ぎたことを確かめてから、私は水面に向かった。手を振って声を上げると、すぐに船長は気づいて、縄ばしごをおろしてくれた。それをつたって、私は甲板にはい上がった。私が言うことを、船長たちはすぐに理解してくれた。何も言わずに身体を動かし始めた。

 私のいなくなったチビ介は、がぜんスピードを増したに違いない。軽々とシャチを引き離してしまったことだろう。シャチはさらに必死になってあとを追っただろう。そしてチビ介は大きく円を描き、ぐるりと回って再び船に鼻を向けたのだ。甲板の上では私たちが待ち構えていた。

 船べり越しに、私は海をのぞき込んだ。月光が斜めに差し込んでいるので、波の下をかろうじて見透かすことができた。私は片手を上げ、船長たちに合図を送る用意をした。船長たちはすでに網をスタンバイして待ち構えている。大きく丈夫な網で、さっき私とチビ介が引っかかったものだ。網の端は太いロープにつながり、ウインチで巻き上げることができる。

 チビ介の影が水中に見えてきた。一直線にかなりの勢いで近づいてくる。チビ介が船の真下を通り抜けると同時に、私は合図を送った。船長たちは、網をさっと水中に沈めた。

 暗い夜の海でのことだ。網はまず目には見えなかっただろう。見えたとしても、全速力で走っているシャチなのだ。竜騎兵を乗せたままそうそう方向転換などできるはずはない。大きな衝撃があり、網がぐっと強く引かれた。水の中でバシャバシャと大きなしぶきが上がりはじめたが、暴れれば暴れるほど網は深く食い込んでいったことだろう。シャチと竜騎兵は、すぐに身動きもままならなくなったに違いない。

 船長が合図を送り、ウインチを巻き上げ始めた。ずっしりと重い中身を包んだまま、網は引き上げられていった。

 漁師たちが笑い声を上げた。船長も、うれしそうに私の肩をぽんとたたいた。長い漁師生活の中でも、これほど大きな獲物を引き上げたことは一度もないのだろう。網が破れ、ウインチも壊れてしまうのではないかと思えたほどだ。

 体中からぽたぽたと水をたらしながら、ハマダラカ兵とシャチは不機嫌そうにこちらを見下ろしていた。だが私には、彼らの仏頂面を眺めている暇はなかった。すぐに水の中に戻り、チビ介と一緒に再び島へ向かったのだ。今度は誰にも邪魔をされることはなかった。入り江を横切り、チビ介を砂浜に乗り上げさせた。ベルトから手を離し、私はバシャバシャと駆け出した。

 屋根の上にアンテナがあるので、無線局はすぐに見つけることができた。入口の扉は開いたままで、その前で数人の島人たちが小声で何かを話していた。ほっとした表情に見えるが、私の姿を見るとさっと緊張したようだった。

「あんた誰だ?」頭はすっかりはげているが、黒いひげを濃く生やした男が言った。手足は短いが、いかにもがっしりした体格をしている。船長から聞いたのとそっくりの容貌だ。私はポケットに手を入れ、預かってきたナイフを取り出した。

「なぜそんなものを持っている?」無線局長は不思議そうな顔をした。

「私は海軍の竜騎兵なの。大至急司令部に通報しなくてはならないことがあるの。これを見せればあなたが無線機を使わせてくれるだろうとジョンストン船長が言ったわ」

「兄貴が?」

「ええ」

「兄貴は今どこにいる?」

「あそこよ」振り向いて、私は海を指さした。ジョンストン船長の船が岬をまわって姿を見せたところだった。

「よし、こっちだ」無線局長は手招きをし、私を建物の奥へ連れていってくれた。無線機の電源スイッチを入れ、用意を始めた。

「よかった」私は息をついた。「ハマダラカの連中に無線機を壊されてしまったかもしれないと心配してたの」

「やつらもそこまではしなかった。この部屋に入るキーを取り上げられただけだったよ」

「なぜこの島を占領したのか、理由を言ってた?」

「いや、一言もなかった。水兵たちにもそれとなくきいてみたが、無駄だったよ。かなりきつく口止めされているようだった」

「そうなの」

 無線機の調整を終え、局長は私にマクロフォンを手渡した。手の中で握りなおし、つばをゴクンと飲み込み、深呼吸をして私は話し始めた。局長は専用の周波数を知っていたので、私は司令部と直接話すことができた。また偶然にも、マイクロフォンをとってくれたのは私の知っている人物だった。通信部の技官で、無線機の使い方の講義をするために私の学校へも何度かやってきていた。私はすぐに顔を思い浮かべることができた。

「スミス中等兵か?」技官は言った。

「はい、中尉殿」

「殿は要らん。今どこにいる?」

 私は事情を説明した。長い説明になってしまったが、中尉は黙って聞いていた。説明を終えて私が口を閉じると、こんな返事が返ってきた。

「おまえが怠け者だとは思わんし、最大限の努力をしたことは認めるが、通報としてはいささか遅すぎたな」

 身体の力がすべて抜けてしまうような気がした。「やっぱり手遅れだったんですね」

「ハマダラカの巡洋艦はその島からも去ったのだろう? 秘密を守る必要がなくなったからさ」

「戦闘はどうなったんですか?」

 無線機の向こうから笑い声が聞こえてきたので、私はひどく驚いた。局長も不思議そうな顔をしている。漁師たちと一緒にジョンストン船長もやってきていたが、同じような表情をしている。

「スミス中等兵」中尉は言った。「戦闘はなかった。我々はハマダラカからの攻撃を事前に察知して、防備を固めることができた。不意打ち作戦は不意打ちでないと意味がないからな。我々がてぐすねひいて待ち構えているのを見て、ハマダラカ艦隊はUターンして帰っていったよ。あいつらも馬鹿じゃないさ」

「どういうことなんですか?」

「どうもこうも中等兵、おまえは戦争の勃発を防いだんだよ。国へ戻ってみろ、おまえを歓迎して大騒ぎになることだろうよ」

「でもなぜ?」

「それは帰ってからのお楽しみだ。今からその島へ迎えの高速艇を出す。ゆっくり待っていろ。チビ介とかいったな。そのクジラも連れて戻れ。戦利品だ」

「でも中尉…」

「これで通信を終わる。ゆっくり休め。たぶん同意すると思うが、もしおまえの学校の校長が同意を渋っても、おれがおまえの昇進を申請してやる。楽しみにしてろ」

 それだけ言って、通信は切られてしまった。わけがわからなかったが、私もマイクロフォンを置くしかなかった。その夜は船長の家に泊めてもらうことができた。出された料理を気がすむまで食べて、何日かぶりにベッドの中で眠ることができた。ただ一つがっかりしたのは、ハマダラカの竜騎兵とシャチのことだった。やはりいくらなんでも重すぎたのだろう。私が島を目指して船を離れた直後、大きな音を立てて突然網が破れ、彼らは海の中へ落ちていったのだ。そのまま姿を消したから、今ごろはもう遠い外海のどこかだろうと思われた。

 高速艇が姿を見せたのは、翌日の昼過ぎだった。砂浜に出てチビ介と遊んでいるときに、岬の先端をまわって入ってくる姿が目に入ったのだ。クジラを輸送するための水槽を備えたタイプだとすぐにわかった。私はざぶざぶと水に入り、チビ介と一緒にそばへ泳いでいった。

 水槽の入口を開く作業はすでに始まっていた。チビ介と一緒にその中に入り、すぐに入口が閉められた。ハシゴをつたって私が甲板に上がると、艇長が出迎えてくれた。背筋を伸ばし、私は敬礼をした。「竜騎兵訓練生三年、スミス中等兵であります」

 艇長は黒いプラスティックのふち取りのあるメガネをかけた男だったが、同じように敬礼を返してくれた。「乗船を歓迎する。スミス中等兵か。あさってにはスミス伍長になっているぞ」

「でもあの、一体何があったんですか?」

 艇長は笑った。「後で教えてやる。今はとにかく島の連中にお別れを言ってこい。あそこで待っているぞ」

 高速艇は桟橋に接岸しつつあった。桟橋には私の潜水服が運んでこられていて、すぐに積み込み作業が始まった。島の人たちにお礼を言い、高速艇は走り始めた。エンジンを全開にするとグイとへさきが持ち上がり、波の上に白く長い線を引いた。

 艇長がやってきて、私に新聞を見せてくれた。昨日発行されたものだった。私の顔写真が大きく印刷されている。それを読んで、やっと事情を飲み込むことができた。

 チビ介と一緒に海の真ん中で眠りについていたとき、私はハマダラカの偵察機から攻撃を受けた。頭の上に爆雷を落とされたのだ。無駄とはわかっていたが私は信号銃を手にし、偵察機に向けて一発反撃した。その後すぐに私たちは潜水したので、何が起こったのか知ることはなかったのだ。

 だが水上ではこんなことが起こっていたのだ。何万分の一かの確率だろうが、信号弾は偵察機の空気取り入れ口に命中し、その内部で爆発したのだ。信号弾のカケラはエンジンの中へ飛び込み、一瞬でエンストさせてしまった。エンジンの止まった飛行機は墜落するしかない。海面に不時着し、パイロットたちはゴムボートで脱出した。そのまましばらく漂流したが、運良くヒトリの船が通りかかり、助け上げたというわけだった。この船は私を捜索するために出されていたらしいが、とにかくいい場所にいてくれたものだった。

 救助されても、偵察機のパイロットたちは自分たちの任務については沈黙を守ったが、念のためということでヒトリ全軍に警戒命令が出され、そこへハマダラカの艦隊が姿を見せたというわけだった。私が残したブイが手がかりになってスタービューも発見され、乗組員たちも救出されていた。

 高速艇が本土へ帰りつくまでの間、私は何度も水槽へ降りてゆき、チビ介を退屈させないようにした。身体をあちこち調べ、幸いにも小さなものばかりだったが、傷を見つけるたびに手当てをした。水兵たちもおもしろがって、冷蔵庫から魚を持ってきては水槽に投げ込んで、チビ介が一口で食べてしまう様子を見物していた。



 艇長が言っていた通り、上等兵を通り越して、私は伍長に昇進した。チビ介は正式に私のクジラとなった。今では訓練校のプールにすっかりなじみ、他のクジラたちとも仲良くやっているようだ。

 上級生たちは、自分たちよりも階級が上の下級生ということでやりにくそうにしているが、私の知ったことではない。ささやかれ始めているのは、卒業後私たちは少尉として正式の軍務につくことになるのだが、すでに伍長である私をそのときにどう取り扱うか、司令部が頭を悩ませているらしいということだ。もしかすると私は中尉として任官することになるかもしれないという噂まであるが、私自身は信じていない。

 祖父がなくなったのは一昨日のことだ。葬儀は昨日済んだところだ。そして今日、母は正式に遺産を相続することができた。もう私には、この学校に残る理由はないわけだった。今すぐ退学届けを提出してもかまわない。

 だが私は決心がつかない。もしかしたらこのまま軍人になってしまうのではないかという気がする。軍人という職が、私にはかなり合っているようなのだ。急いで決める必要はない。もうしばらく考えてみると両親には伝えてある。それにしても…

 話はすべて、私の祖父が変人だったというところから始まっているのだ。


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