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海の竜騎兵1
作:雨宮雨彦



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 話というのは要するに、私の祖父が変人だったということに尽きる。祖父は軍人で、息子に跡を継がせたかったのだが娘しか生まれず、その後は孫に希望を託していたのだが、運悪くその孫も女の子だったのだ。祖父は今度こそ我慢できなくなり、「この孫娘が軍人にならぬ限り、自分の遺産は誰にも相続させない」と宣言してしまったのだ。私の両親は大あわてで作戦を練り、哀れな一人娘を人身御供に差し出すことにしたのだ。

 だから十二歳になったばかりの春、私は『海軍女子幼年学校』の門をくぐることになった。軍人になりたいなどとは思ったこともなかったが、他に方法がなかったのだ。ただ私と両親の間には密約があり、私がここにとどまるのは祖父が死んだその日までと決めてあった。祖父が死に、母がめでたく遺産を相続した日に、にっこり笑って退学することになっていたのだ。

 そういう事情だったから、入学後にどの兵科に所属するかなど、私にはまったく興味がなかった。説明もろくに読まずに、サインして書類を提出してしまった。楽ができそうな競争率の低い兵科を選んで希望したのだが、それが大間違いの元だったのかもしれない。希望通りの兵科に配属されることが決まったという通知をすぐに受け取ったが、それが私と竜騎兵の事実上最初の出会いだった。

 竜騎兵はとても小さな兵科で、一年生は私を含めて八人しかいなかった。入学後すぐに寮に入れられ、その日の夕食後に『竜騎兵とは何か』という説明を教室で聞かされたのだが、そのときの私の青ざめた顔ときたら、またとない見物だったに違いない。私は取り乱し、「こんなところ嫌だ。おうちに帰る」と泣きわめいた。だが教官たちは容赦なく私を寝室へ引きずっていき、ベッドに放り込み、毛布をかけ、ドアにバタンと閉めて行ってしまった。そのまま私を翌朝まで放置した。朝まで本当に誰もやってこなかったが、とうとう空腹に耐え切れなくなって私は自分から部屋を出、そのまま竜騎兵としての最初の授業を受けることになった。

 だが自分でも不思議なのは、何の予備知識もなく入学したにもかかわらず、竜騎兵という兵科がなぜか私にはとてもマッチしていたということだ。私はすぐに要領をつかみ、クラスで一番の成績をあげるようになった。自分でも鼻が高いのは、同期生の中で最初にクジラを与えられたのはこの私だったということだ。

 ただあのとき、運悪く養成牧場のクジラには余裕がなかった。だから一時的にということで、私には仮のクジラが与えられた。もうかなりの年寄りで、実際のところ何歳なのか誰も知らなかったが、別の新しい若いクジラが訓練過程を終え次第、私に与えられることになっていた。そのつもりで、私はゼノンと顔を合わせたのだ。

 ゼノンは巨大なマッコウクジラの雄で、体長は二十メートル近かった。竜騎兵部隊が創設されたころからの古参で、これまでにすでに三人の竜騎兵とともに生きてきたそうだったが、おそらく私が最後の相手になるだろうと思われた。

 ゼノンと最初に海に出たときのことを、私はとてもよく覚えている。それまでは学校内にある訓練用プールでしかともに泳いだことはなかったのだが、胸びれの直前に固定されたベルトに片手でつかまり、分厚いが敏感な皮膚を指先でちょんちょんとつついて合図を送りながら、私はゼノンとともに水門を出ていったのだ。春の終わりだが暑いといってもよいような日で、波は静かで、太陽が真上に出ていた。このあたりでは一般船の航行が禁止されているので、私たちは何に気がねすることなく海中を遊びまわることができた。

 竜騎兵の装備について、ここで少し話しておこうと思う。竜騎兵は、金属製の分厚い潜水服を身につけている。これがヨロイのようだから、こういう名がついたのかもしれない。だがこの潜水服は、人からうらやましがってもらえるような物ではない。格好よさとはまったく無縁で、ドラム缶に手足を生やしたようなものでしかなく、どう見ても怪物のようでしかない。重さは二百キロ以上あり、脱ぐのはともかく、一人では着ることもできない。この潜水服の上に丸いガラス窓がある大きなヘルメットをかぶり、このヘルメットからは空気パイプが長く伸びているが、これはクジラの身体をはいのぼって、背中にある吸気口から肺の奥深くへ達している。吸気口というのはクジラの鼻の穴のことだが、竜騎兵は空気の補給をクジラから受けるのだ。同じ息を吸っているといってもいい。竜騎兵部隊に所属しているクジラはみなこのパイプを手術で埋め込まれ、相棒になる竜騎兵に空気を分け与える呼吸法の訓練を受けている。

 一番おもしろかったのは、魚雷を発射する訓練だった。ベルトにくくりつけてクジラにも牽引できるように工夫された魚雷があり、それを引いて、港から数キロ離れた外洋に出るのだ。標的になる廃船はすでに浮かべられていた。ベルトから切り離した後、ゼノンに手伝わせ、私は照準を合わせた。そのために必要な機器はゼノンの背中にくくりつけてあった。水の中で苦労しながら私は暗算し、魚雷を調整して引き金を引いた。

 竜騎兵やクジラを傷つけないように、この魚雷はそっと静かに動き始めるように設計されていた。だが五十メートルも離れると猛然と加速し、あとは一気に突っ込んでいくのだ。目標に命中したときの海を震わせる爆発音、引き裂かれてちぎれていく船体の立てる音を、私は一生忘れることはないだろう。戦果を確認するため、私は少し近寄ってみることにした。標的は古くなった小型の漁船だったが、大きく穴の開いた船底を上に向け、裏返った姿勢でゆっくりと沈んでいくのを見ることができた。うれしくなって私は思わずゼノンに抱きついたが、彼は表情のない瞳でちらりと見つめ返しただけだった。

 そうやって私の訓練は続いたのだが、悪い知らせが届いた。クジラの養成牧場でちょっとした事故が起き、何ヶ月かの間閉鎖し、すべての訓練を中断しなければならなくなったのだ。それゆえ、私が正式に自分のクジラを受け取るのも何ヶ月かお預けになったわけだった。

 だが私は残念だとは思わなかった。私はゼノンをすっかり気に入っていたのだ。彼の動きはゆったりと重々しく、私は密かに信じていたのだが、彼も私のことが嫌いではないに違いなかった。毎日訓練に入る前、私はキッチンへ行って大きな魚を一匹受け取る。ハマチやタチウオの類だが、私がそれを手にぶら下げて近寄ってくるのを、ゼノンはプールの中からじっと見守っているのだ。そういう時、彼が目を細めていることに私は気がついていた。



 ゼノンを与えられた時点で、私はまだ三年生でしかなかった。本来なら訓練だけで、まだ実際の作戦には関わることのない年齢だ。だがある大きな事件が起き、そんなことは言っておれなくなったのだ。

 夜明け前のまだ真っ暗な時間だったが、寮のベルが鳴り、私たちはたたき起こされた。すぐに六年生がやって来て、「寝巻きのままでよいから、講堂へ集まるように」と言った。カーディガンをつかんで、裸足にスリッパばきのまま、私は階段を降りていった。

 講堂はもう生徒たちでいっぱいだった。校長や教官たちも全員がそろっていて、みんな緊張した顔をしていることに気がついた。私はすみっこの席に腰かけ、誰かが口を開くのを待った。校長が前に進み出て、話し始めた。

 話というのはこうだった。外洋で事故が起こっていたのだ。新兵を乗せた潜水艦が一隻、訓練航海に出ていたのだが、突然行方不明になったのだ。小型の船なので、乗員は七、八人しかいない。教官二名と残りは私たちと同世代の生徒たちだ。海中を航行中に機関室で小さな爆発事故が起こったが、何とか浮上することに成功し、SOSを発信した。だが無線機の調子が悪く、連絡はすぐに途絶えてしまった。しかし通信の内容から、教官たちはすでに死亡しているか、重傷を負っているものと思われた。

 もちろんすぐに捜索が始められ、ありったけの航空機と船舶が動員されたが、見つかったのは波の上を漂う油だけだった。潜水艦は沈没したと考えるほかなかった。船名はスタービューというのだが、小型とはいえ潜水艦には違いない。沈没しても、内部に閉じ込められた者たちはまだ生存している可能性があった。一刻も早く発見して引き上げなくてはならない。だが海は広い。SOSを発信した場所はわかっていても、そこからどこまで流されたかは見当もつかなかった。水面近くだけでなく、海は水中にも流れがあるのだ。それに乗れば、あっという間に十キロやそこら流されても不思議はない。

 スタービューを発見するには、一つでも多くの目が必要だった。正規の竜騎兵部隊はすでに捜索に加わっていた。だが念のため、訓練中の生徒も投入することが決定されたのだ。この学校には三十頭近くのクジラがいた。ゼノンもその中の一頭だった。ゼノンを連れて捜索に加わるように、私も命令を受けたのだ。

 仲のよい下級生に手伝わせて、私は準備を始めた。暖かい夏の夜だったのは幸いだった。でなければ竜騎兵部隊は投入されなかっただろうし、訓練生を投入するなど、さらにとんでもない話だ。

 潜水服やヘルメットを手押し車に乗せて運ぶ下級生たちを連れ、私はプールへ急いだ。この日は特別に魚を三匹も支給されていたが、私を少しでも疲れさせないでおくため、教官が代わりに運んでくれた。

 足音を聞きつけてゼノンはすぐに水面に顔を出し、私の手から魚を受け取って食べた。私はゆっくりと水に入り、潜水服を身につけはじめた。ヘルメットをかぶり、肩の部分をねじでしっかり固定した。防水紙に油性のインクで書かれた捜索海域の海図はすでに手渡されていた。パイプをつなぎ、私とゼノンは一つの息を吸うようになった。そばへ行き、私はぽんぽんとゼノンの胸びれをたたいた。

 上官のスピーチなどなかった。すぐに水門が開かれ、私たちは海へ出ていった。外はまだ真っ暗だった。高速艇が一隻、私たちの道案内をするために待機していた。ありったけのライトを点灯させているから、まるでイカ釣り船のようだ。

 汽笛を鳴らし、高速艇が動き始めた。一列になってついていき、私たちは外洋に出た。とたんに波が荒くなったが、私は平気だった。少々揺すぶられることを嫌うようでは、竜騎兵にはなれない。

 捜索海域に到着したのは、夜が明けるころだった。ゼノンの身体に固定されたベルトにつかまり、波に身体を預けてうとうとしていたのだが、拡声器越しの怒鳴り声で目を覚ました。いつの間にか高速艇がすぐそばに来ていて、教官がマイクロフォンをつかんで私をにらんでいた。

「スミス中等兵、ぼやぼやせずに早く潜れ。おまえの担当海域に着いたぞ。目を開けてよく探すんだぞ、この寝坊助が」

 教官の言葉は厳しかったが、なんとなく笑っているらしいのは、ここからでも見ることができた。私は手を振り、ベルトにつかまりなおした。目玉を動かして、ゼノンがこちらを見ていることに気がついた。このクジラには人間の言葉がわかるのではないかとときどき思うことがあった。合図を送って、私はゼノンを潜水させた。

 いつものように真下を向き、身体を垂直に立てて、ゼノンはまるで墜落するように潜水していった。マッコウクジラ独特の潜り方だ。ゼノンは特にこのやり方を好んだが、私も大好きだった。

 水中には太陽の光など届かない。深くなればなるほどそうだ。だから潜水を続け、深さが増すに連れ、まわりはどんどん暗くなっていった。真っ暗な中では、もちろん捜索などできない。だがこのあたりの海は浅く、せいぜい二百メートルほどしか水深がなかった。おまけに雲のない晴れた明るい日だ。目をこらし続ければ、何とか見つけ出せそうな気がした。もちろん、スタービューがこの海域にいればだが。



 海底は岩だらけで、まるで荒地のようにごろごろした眺めだった。ところどころに海草が生え、赤く飾られている。暖かい海だが魚は少なく、いても小型のものばかりで、岩や海草の間に群れ、私とゼノンの姿を見るとさっと隠れてしまった。大きなサメも何度か見かけたが、近寄ってくる様子はなかった。

 左右をじっと見渡しながら、私はゼノンをまっすぐに進ませた。割り当てられた海域をそうやってしらみつぶしに探していくのだ。海図を渡されたときから気になっていることがあった。この海域は大陸棚の端にあり、一部が海溝にかかっているのだ。陸地から平らにずっと伸びてきた海底が、そこからは崖のようにストンと垂直に落ち込み、千メートルを越える深さにまで達しているのだ。そういう深い場所にはどんな生物がいるのか、まだよくわかってはいなかった。教官たちも、海溝の上までは探す必要はないと言っていた。

 私とゼノンは進み続け、すでにかなりの面積を調べ終えていた。海溝へ落ち込む崖のへりが見えてきたのは、そのときのことだった。白っぽい岩の海底が終わり、ナイフで切ったかのように、その先は何もないのだ。黒々とした海溝が口を開けている。手前の浅い海には、数は多くないとはいえ海草や魚の姿を見ることができるにぎやかさがある。だがそれを一歩はずれると、その先は黒いだけで光一つ上がってこない穴が口を開けているのだ。その暗闇に目を向けるだけで、ぞっとするような怖さを感じないではいられなかった。あの中から黒い大きな手が伸びてきて、私をわしづかみにしてしまいそうな気がした。心臓の鼓動が速くなるのを感じないではいられなかった。

 合図を送り、私はゼノンの向きを変えさせようとした。ここでUターンをするが、捜索はまだ続くのだ。だが何かが見えたような気がしたのは、ゼノンが向きを変えかけた瞬間のことだった。私は身体をひねり、振り返ろうとした。それでベルトが引き戻されたのが不愉快だったのだろう。ゼノンはひれを止め、目玉をぎょろりと動かして私を見た。

 私は潜水艦を見つけていたのだ。スタービュー号かどうかはわからなかったが、小型の潜水艦であることは間違いない。私はゼノンを振り返らせ、ゆっくりと近寄っていった。

 潜水艦は海溝のへりに引っかかっていた。船体の後ろ半分が崖の上に突き出し、宙に浮いているのだ。ひどく不安定そうだ。ほんの小さなショックでも簡単にバランスを崩し、転がり落ちてしまうだろう。

 波を起こさないように注意しながら、私はゼノンをゆっくりと進ませた。懐中電灯を取り出し、スイッチを入れて光を向けた。船体に書かれた文字を読み取ることができた。スタービュー。

 ペンを取り出し、私は海図に印をつけた。ゼノンはクルクル回転する小さなスクリューを先端につけた長いケーブルを引きずっていて、ここまで来る間にそのスクリューが何回転したのかを示す計器の目盛りを読めば、自分がいる位置をかなり正確に知ることができた。

 私はじっと眺め、スタービューの状態やまわりの地形を頭に入れた。船体には穴も傷もないようだった。浸水はしていないように見える。私はゼノンに合図を送り、水面を目指した。ゼノンはじろりと目玉を動かし、ゆっくりと頭を上に向けた。ベルトをつかみなおし、私はその動きに身を任せた。

 身体の力を抜き、ゼノンはゆっくりと浮上していった。私も、老体に鞭打ってまで急がせる気にはならなかった。いくらもたたないうちに、私は水面に顔を出すことができた。腰に手を伸ばし、信号銃を手に取った。安全装置を外し、空に向けて引き金を引いた。

 大きな音がし、信号弾は真上に発射され、何百メートルか上空でパンと弾けた。まわりにいる船がこれを見て、すぐに来てくれるはずだった。

 波間に漂い、ゼノンの胸びれと遊びながら、私は待っていた。だが五分待っても何も起こらなかった。さらに五分待ったが、船は一隻も姿を見せなかった。何が起こっているのだろうと、私は不安を感じ始めた。

 後から聞かされたことだが、結論を言えば、少し離れた海域で別の事故が起こっていたのだ。捜索に加わっていた駆逐艦が二隻、操船ミスで衝突事故を起こしてしまい、あろうことか二隻とも沈没してしまったのだ。その救助のため近海の全ての船舶が動員されていて、私が打ち上げた信号弾には誰も気がついてくれなかったらしい。十五分待っても誰も姿を見せないので、事情はわからないままだったが、自分一人で何とかするしかないと私も決心するほかなかった。

 ゼノンの身体に取り付き、私は風船つきのブイを取り出した。風船にガスを入れ、いっぱいに膨らませた。この風船は長いヒモでブイに結び付けてあり、派手なピンク色をしているから、少々離れたところからでも見つけることができる。ブイは軽く、水の上にプカプカ浮いている。ブイの上に海図とメッセージを残し、私は再びゼノンにつかまった。合図を送り、潜行を始めた。

 スタービューはすぐに見つけることができた。見下ろしても、特に変わった様子はなかった。より詳しく状況を見るため、もっと近づいてみることにした。

 竜騎兵は常に身体をクジラに寄り添わせている。片手をいつも肌に触れさせているのだ。だからクジラの呼吸や鼓動の変化をすぐに感じ取ることができる。そしてこのとき、ゼノンの鼓動が突然速くなったことを感じ、私は驚かないではいられなかった。だが長く一緒に過ごしていると、それがエサや仲間を見つけた興奮によるものなのか、敵が近づいたことによる恐怖によるものなのか、すぐに区別がつくようになる。だがこのとき私が奇妙に感じたのは、ゼノンの感情の変化が、興奮と恐怖のいりまじったものだったということだ。

 わけがわからなかったが、私だって馬鹿ではない。何かが起こりつつあるのは確かなのだから、一旦その場を離れることにしたのだ。浮上するように合図を送ると、ゼノンの鼓動が少し収まるのが感じられた。さっきと同じように、ゼノンは浮上に取りかかった。

 だが私は、ゼノンを水面まで浮上させたのではなかった。水面までのなかば、スタービューを見下ろせる場所でゼノンの足を止めさせ、下を向いて様子を探ったのだ。やがて深海から、それが姿を現した。



 その姿が見えてきたとき、ゼノンの恐怖も見当違いのものではなかったのだと私も認める気になった。巨大なイカだったのだ。

 だが巨大といっても、生物学の本に載っているような常識的な大きさではなかった。マッコウクジラの主食は大王イカと呼ばれる大型のイカだったから、少々大きなぐらいでは私も驚きはしない。十数メートルのものなら日常見かけるし、ゼノンの大好物でもある。そのくらいのイカであれば、私も歓迎しただろう。海の中でゼノンに食事をさせることは、教官たちも禁じてはいなかった。経費の節約につながるので、むしろ奨励されていたぐらいだ。だがこのとき私たちが出会ったのは、そういうことが問題外に思えるほどのイカだったのだ。ちょっとした貨物船ほどの体長があり、それが深海の暗闇から薄紫色の姿を現し、スタービューに向かって泳いでいきつつあることに気づいて、私は青くならないではいられなかった。

 だがイカも、スタービューのそばを素通りするだけだとはじめは思われた。もちろんゼノンの存在には気づいていただろう。だが攻撃してくる気配を見せない限り、無視するつもりでいるようだった。あんな小さなクジラが襲いかかってくるはずはないとたかをくくっていたのかもしれない。私たちも、相手が何もしない限り手出しはしないつもりでいた。ゼノンだけでなく、私の鼓動もいっぱいにまで速くなっていた。

 突然、イカの視線がスタービューをとらえたようだった。これは何だろうという顔で、目玉をぎょろりと向けるのが見えた。皮膚の表面が緊張し、さっと色が濃くなるのがわかった。

 フイゴのように噴き出す水の向きを変え、イカはスタービューに頭を向けた。目の色が変わっているのは、ここから見ていてもわかった。あのバカ者は、スタービューを食べ物と勘違いしているのだ。

 腕を長く伸ばし、イカはスタービューに近寄っていった。腕の先が触れ、船体に吸盤を巻きつけた。それだけでスタービューがずるりと何センチか動いたような気がした。

 ためらっている余裕はなかった。私はゼノンの背中へ移動し、ベルトにしっかりとしがみついた。ゼノンが「冗談だろう?」という顔をしているような気がした。だが私は本気だった。大きく息を吸い込み、『突撃せよ』という合図を送ったのだ。

 だがゼノンは言うことをきかなかった。じっとしたまま、ヒレ一つ動かそうとしないのだ。

 もちろんそれは私にも理解できた。ゼノンだって、あんなイカを攻撃などしたくないのだろう。だが私はスタービューを助けなくてはならなかった。何度合図を送ってもゼノンは反応しない。この頑固な年寄りを相手に、私は別の手を考えるしかなかった。

 といっても、この手が本当に役に立つと本気で信じていたわけではない。教科書に載っている正規の方法でもない。ただ竜騎兵部隊に昔から伝わっている伝説のようなもので、私も先輩の口から冗談めかして聞かされたのに過ぎない。だが私には、それを試みるしか方法は残っていなかったのだ。

 背中を離れ、私はゼノンの鼻先へ降りていった。アゴの下にまわり、ボートのへさきのように大きな口を開かせた。杭のようにとがった太い歯が一列に並んでいる。その奥には長く大きな舌がある。私は、潜水服とヘルメットをつなぐねじをゆるめ始めた。隙間から空気の泡がぶくぶくと立ち昇っていく。私はヘルメットを完全に外してしまった。顔が水に触れ、潜水服の中も急速に水が満たしてゆく。私はかがみ、ゼノンの舌の先にそっとキスをした。

 ゼノンの身体がびくんと震えたような気がした。身体をねじり、ヒレをバタバタと動かした。私は口の中から出て、再びヘルメットを身につけ始めた。息を止めながらだから、のんびりしてはおれなかった。ねじをとめ終えると、ゼノンが強く息を吹き込み、水を潜水服の外へ押し出す手伝いをしてくれた。

 ゼノンはいまや奮い立ち、準備運動でもするように尾びれを動かし、興奮した馬のように胸びれを前後に動かしている。アゴを数回、開けたり閉じたりした。私は背中の上に戻り、もう一度突撃の合図を送った。今度は一瞬もためらわず、ゼノンは魚雷のように泳ぎ始めた。

 だが遅すぎたのかもしれない。イカはすでにスタービューにしっかりと取り付き、全体にくまなく腕をまわしていた。スタービューを生き物だと考え、絞め殺そうとしているのだろうかと思った。外国にはイカを好んで食用にする人々がいると聞いたことがあるが、そういう人々を全力で応援したくなるほど憎たらしい眺めだった。船体があげるきしみが、私の耳にまで聞こえてきた。あの中にいる者たちはどんな気持ちでいることだろう。

 近くまで行くと、イカとゼノンの大きさの違いをまざまざと感じなくてはならなかった。正直に言えば、私は後悔していた。これではナイフ一本で戦車に挑むようなものではないか。

 イカは、私たちが近づいていることにはまだ気がついていないようだった。獲物に夢中になっているのだろう。それだけが付け目であるように思えた。

 ゼノンは身体を上下さかさまにした。私からは見えなかったが、口を大きく開いていたに違いない。あと五十メートルというところでやっとイカは気配に気づいたが、もう遅かった。すれ違いざま、ゼノンはイカの目を攻撃したのだ。直径が一メートルを越える目玉だったが、とっさによけられてしまい、ゼノンはその少し上の部分をかみとったに過ぎなかった。振り向くと、それでも皮膚がざっくりとえぐられ、大きな穴が開いているのが見えた。ゼノンはすぐにUターンをし、二度目の攻撃を加えようとした。

 このときになってやっと、ゼノンが何を考えているのか私にも理解することができた。イカを殺そうとしているのではなく、ただ追い払おうとしているだけなのだ。殺すことなどとても不可能だと最初からわかっているのだろう。

 もう一度上下逆さまになり、ゼノンはイカに近寄っていった。急行列車のようなスピードだったが、こんなにまで大きく成長するにはかなりの年月が必要だったに違いない。それまでちゃんと生き抜いてこれたのは、かなり頭のよいイカだったからだろう。二度目の攻撃を、イカはさらりとかわしてしまった。

 私たちは肩透かしを食らってしまったわけだが、それだけではなかった。自分の身体の陰に隠すようにして、イカは最も長い腕を待機させていたのだ。非常に巧妙なやり方だったので、私もゼノンも、いざそれが尾びれに巻きついてくるまで気がつかなかった。急ブレーキをかけられたように、私たちは水中で停止してしまった。

 もちろんゼノンは暴れた。だがイカの腕は深く食い込み、ゆるむ気配もなかった。ベルトのように巻きつき、強く締め上げたのだ。

 ゼノンが悲鳴を上げるのを、私は初めて耳にした。大風に押されて大木がきしむような音だったが、そのことでも私はひどく驚き、身体が凍りつき、どうすればよいかわからなくなってしまった。ゼノンは暴れ続けた。私はしがみついていることしかできなかった。だがイカも腕を放す気配はない。それどころか腕をムチのようにうまく振って、ゼノンをぶんと放り投げるような動きをみせた。

 大きな遠心力を感じ、ゼノンとつながっている空気パイプがピンと伸びるのがわかった。ゼノンの身体には大きく弾みがつき、投げられた石のように水中を滑っていった。そしてその先では、大きな岩が待ち構えていた。

 ゼノンの身体がクッションになったので、私自身は大きな衝撃を受けることはなく、ケガもしなかった。だがゼノンはそうではなかった。骨が砕ける音が私の耳にまで届いた。

 ゼノンは一瞬失神したようだった。しかしすぐに目を覚まし、体勢を立て直そうとした。だが尾びれが動かせないことに気がついたのだろう。同時に苦痛にも襲われたのかもしれない。もう一度大きな悲鳴を上げた。

 イカの腕は離れていきつつあった。水中をさっと引き上げていくのだが、ゼノンの皮膚には、丸い吸盤の跡が白くいくつも残っていた。それほど強くつかまれていたのだろう。ゼノンはもはや、胸びれを使って泳ぐことしかできなかった。尾は見たこともない形に曲がってしまっている。イカは腕を全て引き戻してしまっているが、それでも油断なく目玉を動かしている。どこかで出血しているのか、パイプを通して送られてくる空気に血の匂いが混じり始めた。

 よろめくようにして、ゼノンはイカから離れていった。いかにも満足そうに、イカがスタービューに向かって再び腕を伸ばすのが見えた。いつの間にか私とゼノンは、真っ暗な海溝の上に差しかかっていた。見下ろすと黒々とした闇が、どこまで続くのか見当もつかないほど広く深く口を開けている。だが怖いとは思わなかった。ゼノンのことが心配で、それどころではなかったのだ。

 ゼノンは、かろうじて身体のバランスを保っているという感じだった。背中を離れ、私は鼻先へ泳いでいこうとした。だがその瞬間、とうとうゼノンはバランスを失ってしまった。転覆する船のようにゆっくりと裏返しになり、沈んでいき始めたのだ。

 こういう場合に備えた訓練を私は何回も受けていた。ゼノンの身体の下にもぐり、背中の吸気口に取り付こうとした。ゼノンはこのまま海底まで沈んでしまうだろうが、私まで巻き添えにされるわけにはいかないのだ。

 ゼノンは浮力を失いつつあった。真っ暗な海溝へ落ちていこうとしていた。あっという間に何十メートルも降下してしまったことだろう。あたりは本当に暗いが、竜騎兵は暗闇の中でも空気パイプを操ることができるように訓練されている。レバーに手を伸ばし、私はロックを外した。そして両手でつかんで、空気パイプをゼノンの身体から引き抜こうとした。

 だができなかった。固くはまったまま抜けないのだ。何度やってもだめだった。

 手を伸ばし、私は触れてみた。岩に衝突したときに接続装置が大きく変形し、パイプを強くかみこんでしまっていることがわかった。分厚い金属板が折れ曲がり、ワニの口のように食い込んでいるのだ。私の力などでは絶対に外れっこない。

 懐中電灯をつけ、私は深度計の目盛りを確かめようとした。だが自分の目を信じることができなかった。しかし間違いなく、針は四百を超えたところをさしていた。しかもまだまだ進みつつある。私は四百メートルを超える深さにいるわけだった。

 この深さでは潜水服を脱ぐことなど問題外だった。私は一瞬で押しつぶされ、死んでしまうだろう。ゼノンと一緒に落下を続けるしかなかった。電池を節約するために懐中電灯のスイッチを切り、真っ暗な中に身を任せるしかなかった。ゼノンとともに、私は海溝の底へ向かって沈み続けた。上を向いても、もう真っ暗なだけで何も見えなかった。



 この海溝がどこまで深いのか、私は知らなかった。まわりは本当に暗く、写真の暗室どころか、インクつぼの中に放り込まれたような落下が何分間も続いたが、あまりにも恐ろしくて、懐中電灯をつけて深度計を見る気にならなかったのだ。この潜水服は、計算上は千メートルの深さまで耐えられることになっていた。だが、これを着て実際にそこまで潜ったことのある者は一人もいないのだ。

 私たちは落下を続けた。いくらマッコウクジラでも、二時間あまりしか水に潜っていることはできない。それだけしか息が続かないのだ。すでに私たちは何分間水中にいるのだろうと思った。ときどき聞こえるかすかな声の様子から、ゼノンがまだ意識を持っていることは感じられた。だが身体の動きを完全に止め、無駄な消費をできるだけ抑え、少しでも多くの酸素を私に分け与えようとしているように思えた。

 水圧に耐えかね、潜水服がギシギシときしみ始めたような気がした。もしかしたら気のせいだったのかもしれない。だが私は確かに聞いたような気がした。潜水服が破れ、水圧に負けて水が侵入してくるときにはどんな気がするのだろうと思った。

 突然、ゼノンが歌い始めた。

 本当にそれは、歌と呼ぶのがふさわしかった。大きな身体に似つかわしくない甲高い声だが、あるリズムとメロディがあり、真っ暗な深海に響いた。悲しげではあるが美しくもあり、自分が置かれている状況も忘れて私は聞きほれた。そして不意に、ゼノンは私よりも二倍から三倍は長く生きてきたのだということに気がついた。その後半は竜騎兵とともにであろうが、少なくとも子供時代は海で自由に生きていたのだろう。

 ゼノンがどこの海で生まれたのか、私は知らなかった。だがどこかの海で母親から産み落とされ、すぐに水面に顔を出し、生涯最初の一息を吸い込み、地球の空気の味と匂いを感じたのだろう。その後すぐに母親の乳房にしがみついたのだろう。ゼノンの母とはどんなクジラだったのだろうという気がした。

 ゼノンと私は落下を続けた。いつの間にかゼノンは歌をやめてしまっていたが、その響きはまだ私の頭の中に残っていた。人生の最後に耳にするものとして、まったくふさわしいものだった気がした。気のせいでも何でもなく、潜水服がきしみ始めていた。手足の関節を包むジョイントがいつ破れ、キリようにとがった水流が浸入してきても不思議はなかった。それは私の身体をカミソリのように切り裂くだろう。そのあと空気が一気に押し縮められ、潜水服の中は圧縮されたエンジンの内部のようになるに違いない。その状態では、生きていることを期待するほうがどうかしている。

 奇妙な好奇心に駆られ、私は懐中電灯をつけ、深度計に目を向けた。針は千をこえ、文字盤の目盛りを振り切ってしまっている。私は感嘆の声を上げてしまったが、懐中電灯の光の輪が周囲に照らし出したものに気がついて、さらに驚いてしまった。いつの間にやってきたのか、すぐそばにもう一頭別のクジラがいたのだ。ゼノンよりもかなり身体は小さいが、あの四角い形はこれもマッコウクジラに違いない。くっつけるようにゼノンに頭を寄せ、黙りこくったままこちらを見つめていた。私は、ゼノンの身体から脈拍が消えてしまっていることに気がついた。胸にヘルメットを押し当ててみたが、心臓の音を聞き取ることはできなかった。ゼノンは死んでしまったのだ。

 私たちはゆっくりと海底に到着した。やわらかい泥が降り積もった真っ白な場所だ。敷きつめられた羽毛の上に降り立ったかのように、さっと泥が激しく舞い上がった。ゼノンはその中に半ば埋もれた。ゼノンはうつぶせになっていたので、私はその背中に乗る形になった。小柄なクジラも、ゼノンのすぐ隣に腹ばいになった。

 私の息はあと数分しかもたないに違いなかった。今はゼノンの肺の中にわずかに残った空気を吸っているのだ。電気を節約してももはや何の意味もないので、懐中電灯のスイッチは入れたままにしていた。巻き上げられていた泥がおさまり、隣にいるクジラをもっと観察できるようになった。若いというよりもまだ子供のクジラだ。親離れをした直後なのかもしれない。好奇心の強い丸い目で、私をまっすぐに見つめている。

 突然、あることに気がついた。あわてて立ち上がり、腰のナイフに手を伸ばした。馬乗りになって、ゼノンの背中に突き刺した。

 あの小さなクジラがなぜその邪魔をしなかったのか、私にはわからない。死んでいるとはいえ、私は仲間の身体を傷つけようとしていたのだ。だがクジラは邪魔をしなかった。私は手を動かし続けた。皮膚を切り裂くと、分厚い脂肪層が顔を出す。私は吸気口のまわりを切り開いていった。外科手術で埋め込まれた接続装置を取り外そうとしていたのだ。これが変形して空気パイプをかみこんでいるから、私は自由になることができないのだ。

 私が何をしようとしているのか、小さなクジラも気がついたようだった。突然身体を動かし、前へ進み出てきたのだ。私は驚き、警戒したのだが、その必要はないとすぐにわかった。クジラは空気パイプを口にくわえ、力を込めてぐいと引っ張ってくれたのだ。私はゼノンの身体を切る作業を続け、クジラは身体をねじりながら引き続けた。

 パイプは突然外れ、クジラは勢い余って、何メートルか後ずさりをしてしまった。だがすぐに私のところへ戻ってきた。口を開き、パイプを手の中に落としてくれた。私はそれをつかみ、彼の背中にはい上がろうとした。もう私の息はつきかけていた。クジラは身体を動かさず、私が背に乗りやすいようにしてくれた。私はベルトにつかまり、吸気口のそばへはって行った。ゼノンのものよりもずいぶん小さいが、銀色に光る接続装置がある。私はパイプを差し込み、コックを開いた。

 熱く湿っぽいが、酸素が十分に含まれた空気がヘルメットの中に飛び込んできた。私は胸いっぱいに吸い込むことができた。ゼノンとはずいぶん匂いが違うが、すぐに慣れることだろう。

 何度も深呼吸をしながら、私はクジラの背中をなでてやった。まだ本当に子供だ。くすぐったいのか、キキキと甲高い声を上げた。私は吸気口のまわりの皮膚に触れてみた。手術は最近行われたようだが、接続装置はしっかりと固定されている。傷もすっかり治っている。

 急に疲れを感じ、今から何をするにしろ、とにかく私は身体を休めなくてはならなかった。懐中電灯のスイッチを切り、クジラの背中に身体を横たえ、ほんの少しだけのつもりで目を閉じた。だが知らないうちに眠り込んでしまっていた。どういうわけか自分の家のベッドで眠っている夢を見た。それでも竜騎兵の端くれではあるのかもしれない。自分でも気がついていなかったのだが、私の手はクジラの身体に固定されたベルトをしっかりとつかんでいた。

 眠っている間にクジラは泳ぎ始め、水面へ向かったようだった。目を覚ましたときには水面近くを泳いでいた。急いでいる様子はないが、機嫌はよさそうだ。水面に背中を出すたびに、私は太陽の光を全身に浴びることができた。背中をなでてやりながら、このクジラに名をつけてやろうと思いついた。明らかに竜騎兵部隊用に改造されたクジラだからすでに名があるのかもしれなかったが、私には知るすべはなかった。私はチビ介と呼ぶことにした。マッコウクジラの子供といっても、普通のイルカなどよりははるかに大きいのだが、それでもゼノンと比べればおもちゃのようだったのだ。

 水面に顔を出すたびに見回したが、大洋の真ん中で、波と空以外は何も見えなかった。日は高く、もう昼近いかもしれない。

 突然チビ介が潜り始めた。ベルトにつかまったまま、私は引っ張られていった。だが深くは潜らず、チビ介は水面の少し下を進んだ。とても深い海で、目をこらしても海底は見えなかった。イワシの群れがさっと通り過ぎたが、チビ介は見向きもしなかった。潜水艦の姿が見えてきたのは、そうやって十分間ほど進んだときのことだった。薄青い水中に潜水している姿が突然見えてきたのだ。

 ヘルメットの中で、私は思わず歓声を上げた。友軍の潜水艦だと思ったのだ。スタービューの捜索に駆り出された中の一隻だと考えたのだ。だがすぐに奇妙なことに気がついた。船体の形に見覚えがなかったのだ。私だって、友軍の潜水艦の形はたいがいみな覚えていた。だがヒトリ国海軍にあのように四角張った潜水艦がいただろうか。そういえばセイルの形も奇妙だった。魚雷発射管の直径も違う。

 真相に気がついて、私は青くなった。これはヒトリ国ではなく、ハマダラカ国の潜水艦なのだ。

 ハマダラカ国の潜水艦については、私もちょうど学校で習い始めているところだった。そう思って見直すと、この形は教科書で写真を見たことがあるような気がした。

 チビ介は平気な顔で、ハマダラカの潜水艦へ向かって泳いでいく。もう距離はいくらもない。潜水艦のへさきにガラス窓がいくつか並んでいることに気がついた。水圧に耐えることができる丈夫そうな窓だ。チビ介は気楽そうに近寄ってゆき、その一つから中をのぞき込んだ。

 窓の中は薄暗かった。チビ介は鼻を押し付け、キキキと鳴いた。それを聞きつけたのか、黒い人影のようなものが動くのが見えた。

 若い男だった。顔を上げ、チビ介と目を合わせた。うなずいて手を伸ばし、何かのスイッチを押したようだった。

 だが突然、その男の表情が凍りついた。チビ介の背に私がいることに気がついたのだ。信じられないという顔で見つめ返してきたが、それは私も同じだった。このころには、潜水艦の船首部分は大きく口を開き始めていた。とがったへさきがオウムのクチバシのように上下に分かれるのだ。その内部は水が満ちているが、暗すぎてわからないが通路のようなものがある。だが私には、そこに何があるのか確かめている余裕はなかった。

 注意を引くために、私はチビ介の背中をぽんとたたいた。クジラに合図を送るやり方がハマダラカでもヒトリと同じだったのは幸運だった。チビ介は私の意図を理解し、すぐに全力で泳ぎ始めたのだ。潜水艦から離れ、再び大洋へ泳ぎ出たのだ。

 きっとハマダラカ海軍では、クジラには自分でエサを取らせるという方針なのだろう。一日に一度海に放し、満腹したら戻ってくるように訓練してあるのだろう。だがチビ介はまだ子供だ。満腹になっても、まだまだ遊びたりなかったのだろう。私の合図に従い、全速力を出したのだ。

 水面近くを行くように私は指示を出した。チビ介はすぐにいうことをきいた。ちらりと振り返ると、さっきの潜水艦がへさきのドアを閉じ、舵を切って追いかけてくるのが目に入った。あの一瞥で、私がヒトリ兵であることは見抜かれてしまったのだろう。ハマダラカ軍にすれば、私を生きて返すわけにはいかないのだろう。私は自国の近海に敵潜水艦を発見してしまったのだから。

 息を吸うためにチビ介が水面に顔を出したときに、私はまわりを見回した。だが海上にも空にも、船や飛行機の姿はなかった。本土や友軍艦隊からどのくらい離れた場所にいるのか、私にはさっぱり見当がつかなかった。

 水中に大きな音が響いたので、私はぎくりとした。聞き覚えのある不快な音だった。振り返るとやはりそうだった。あの潜水艦が魚雷発射管を開き、こちらに向けて一発発射したところだったのだ。

 白い空気の泡を派手に引きながら、魚雷は潜水艦を離れていく。目にしているものが信じられなかったが、事実は事実だった。私はチビ介に合図を送り、右へ進路を変えさせた。一度発射されたが最後、魚雷は途中で進路を変えることができないのだ。よけるのは難しくない。だがあの艦長はそれを見抜いていたに違いない。チビ介と私が右へそれ始めると、すぐにその方向へもう一発発射したのだ。

 私はひどく混乱した。それでも何とかチビ介に指示を出して、今度は真下に向けて進ませることができた。精一杯の急潜行だ。どこか離れた場所で、一発目の魚雷が爆発した。水を通して、強い音と衝撃が襲いかかってきた。私は両手に力を込め、ベルトにしがみついた。

 左右はともかく、潜水艦は上下にすばやく方向を変えることはできないだろうと私は思ったのだ。二発目の魚雷は私の頭上を通り過ぎてゆき、どこか遠くで爆発した。フル加速を始めていた潜水艦はうまくブレーキをかけることができずに、同じように真上を通り過ぎていった。私は船腹を眺めることになった。

 ちょっとしたことを思いついて、私は再びチビ介に合図を送った。スピードを落とさせ、潜水艦の腹の下を同じ方向へついていくようにさせたのだ。ごうごういうモーターの音が、水を通して鼓膜に響いてくる。手を触れることができそうなところまで、私たちは船腹に近寄っていった。大きなサメに張り付くコバンザメになったような気分だ。追跡をあきらめたのか、潜水艦はスピードを落とした。進路を変え始めたので、私たちもついていくことにした。

 磁石を見ると、潜水艦はほぼ真西に鼻を向けていた。大洋の中央の何もない場所へ向かっている。何のためにそんなところへ向かうのだろうと思った。

 明らかにチビ介は、ハマダラカ国が自国の竜騎兵部隊のために訓練したクジラだった。ヒトリ国では誰も思いつきもしなかったことだが、ハマダラカは潜水艦を改造し、自国から遠く離れた場所でも活動できるように竜騎兵部隊の母艦にしたのだろう。敵ながら賢いやり方だと思えた。

 だが彼らにも欠点がなかったわけではない。ハマダラカ人たちは頭がよく、何でも突き詰めて合理的に物事を進めるのだろう。機械相手ではそれでよいのかもしれない。だがクジラは生きている動物なのだ。ハマダラカ人たちはそれを見落としているような気がした。家畜として必要な世話だけを最低限行うということと、切り離せないパートナーとして一つの空気を呼吸しながら、一日の何時間かをともに水中で過ごすこととはまったく意味が違う。きっとハマダラカ兵たちはクジラを軍馬のように扱い、こき使っているのだろう。手からエサをやり、水の中でともに遊び、おなかをくすぐってやったりはしないのだろう。

 そう考えると、チビ介が潜水艦の内部に戻りたがるそぶりを見せない理由が理解できるような気がした。あそこへ戻っても、楽しいことは何もないのだろう。今も泳ぎながら目を上げ、背に乗っている私をちらちら眺めているのだ。そしてときどき、まるで含み笑いでもするようにキキキと小さく鳴く。チビ介にとっては、私はうまれて初めて手に入れた友人なのかもしれない。

 チビ介はゼノンほどには息が続かないので、ときどき水面に出なくてはならなかった。一旦潜水艦の背後に離れ、息を吸ってから再びその下に潜るのだ。だが今では、潜水艦はディーゼルエンジンを動かして走っていた。ガシャガシャとうるさいエンジン音を追いかけ、追いつくのは難しい仕事ではなかった。私たちは追跡を続けた。

 途中で何度か、チビ介に食事をさせてやらなくてはならなかった。そのために一キロほど離れなくてはならないこともあったが、それだけ離れてもチビ介の耳にはエンジン音がちゃんと聞こえているようで、すぐに見つけ出して追いつくことができた。チビ介は適当な魚の群れを見つけてはその中へ弾丸のように飛び込み、尾をめちゃめちゃに振り回した。ほとんどの魚はさっと逃げ去ってしまうが、それでも何匹かは尾でたたかれ、気を失ってぐったりしてしまう。チビ介はそれをさっと口にくわえるのだ。私にも一匹くれたので、水上に出て数分間休憩したすきにヘルメットを脱ぎ、生のままかじった。生のまま食べることができる魚や海草の見分け方は学校で習っていたのだ。ナイフでヒレを切り、ウロコと内臓を取り除き、私はかじりついた。

 そうやって私たちは半日追跡を続けた。コバンザメのように船底に張り付き、走り続けたのだ。潜水艦の目的地が見えてきたのは、太陽が水平線に沈んだころだった。エンジンの回転を落とし、浮上する気配を見せたので、私たちは少し距離をとった。圧縮空気を使ってタンクから海水を押し出す音が聞こえ、潜水艦はゆっくりと浮かび上がっていった。潜水艦が完全に停止したとき、勇気を出して、私も水の上に顔を出してみることにした。

 チビ介には水面下にとどまるように指示を出し、私は頭だけをそっと突き出した。よく晴れた波のない夜だった。潜水艦のエンジンがさらにゆっくりになったので、まわりの音を聞き取ることができるようになった。だから、まわりがいくつものエンジン音で満ち満ちていることにこのときやっと気がついたのだ。潜水艦のエンジンにかき消されて、聞こえないでいたのだろう。あまりのことにあきれてしまい、私はヘルメットの中で口をあんぐり開けることしかできなかった。私は敵艦隊の真ん中にいたのだ。












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