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ながれぼし
作:有瀬里希


 蒸し暑い夜だった。
 深夜、私は一人でふらふらと家を抜け出し星空の下へと向かった。体中がひどく火照っていて、とても眠れそうになかったからだ。
 夏の夜気は昼間の熱の残滓を色濃く残しているが、星空は冴えた青白い光を放っている。私は癒されたような気持ちになり、鼻歌なんぞ歌いながら夜の徘徊を続けた。もう少しこの空の下を歩いていたい。
 しばらく行くと、家々の谷間にある空き地に行き当たった。はて、こんなところに空き地などあっただろうかと考えてみるが、どうにも思い出せそうない。しかし昼と夜では景色の見え方が違うから、昼間は見落としていただけかもしれない。
 不意に空き地の方からガサリと音がした。
 目をやると緑色の光が二つ宙に浮いている。
「ひえっ」
 私は情けない悲鳴を上げた。冷たい汗が一気に毛穴から噴き出してくる。
 蛍ではなさそうだ。まず光の色が違うし、動き方が妙だ。緑の光は二つ規則正しく並んで、まっすぐに平行移動してこちらに近づいてくる。妖怪か幽霊かそれとも小さな宇宙人の侵略かと馬鹿馬鹿しい考えまでが頭をよぎった。
「……なんだ、脅かすなよ」
 よくよく見るとなんてことはない。猫だ。夜の闇と同じ色をした猫がじっとこちらを見つめている。
 私はすぐに先ほどまでの陽気な気分を思い出し、猫の方へと近寄っていった。雑草を踏み分けるさくさくという音が響く。その間も猫は逃げずに、緑の瞳でじっとこちらを凝視していた。
「おいで」
 草地にしゃがんで手を伸ばすと、猫はひらりとこちらへ近づいてきた。ずいぶん人になれているようだ。
 さらりとした毛並みに触れてみる。
「いいこだ」
 黒猫は気持ちよさそうに目を細めた。呼吸に合わせて上下する背中からは、かすかな温もりが伝わってくる。
 猫の手触りに満足して、私は立ち上がった。生ぬるい風が吹き抜けていく。引き寄せられるようにして私は空を見上げていた。
 家々の屋根にぽっかり切り取られて、そこには雲一つ無い星空があった。濃い藍色の空に無数の星が瞬いている。目を凝らしていると、今までは見えなかった小さな星まで見えてくる。星の光は一定ではないのだ。強く、弱く、強く、弱く。それぞれの速さで幽かな明滅を繰り返している。まるで海のようだ。星の瞬きは寄せては返す波に似ているような気がする。
「りゅうせい!」
 脈絡のない思考は甲高い声によってかき消された。
 ぱたぱたと足音をたてて一人の子どもが走ってくる。年は十歳に満たないくらいだろうか。白っぽいパジャマ姿で、足下は薄っぺらいサンダル履きだ。どうやら音の正体はこいつらしい。
「りゅうせい」
 子どもは私の前で立ち止まると、もう一度同じ名前を呼んだ。足下で黒猫がにゃあと鳴く。
「りゅうせいっていうのはこの子のことかい?」
 流星、だろうか。なかなかおしゃれな名前だ。
「そうだよ」
 子どもはまっすぐに私の目を見て答えた。なぜだか訳もなくぎくりとする。薄暗い中で子どもの真っ黒な瞳だけが妙に光って見えた。心の奥底まで見透かされてしまいそうな、そんな気がする。
 いや、こんな小さい子相手に何を考えているんだ、私は。
 空き地の外にある心許ない街灯の光と、星明かりだけではこの子が男の子なのか女の子なのか判断するのは難しそうだ。こんな時間にもかかわらず連れの大人の姿はない。
「きみは、この猫を探しに来たの?」
「うん」
 子どもはそっと黒猫を抱き上げた。猫はされるがまま子どもの腕の中に収まる。おとなしい猫だ。
「一人で?」
「そうだよ」
「こんな時間に、怖くないのかい?」
「大丈夫だよ。星の子だもの」
 子どもの声が楽しそうに弾んだ。
「ほしのこ?」
「そうだよ」
 それきり子どもは黙り込んでしまった。猫を抱えて黙ってこちらを見上げている。私はなんとなく落ち着かない気分になった。用が済んだのなら帰ればいい。どうしていつまでも人の顔を見ているのだろうか。私の顔に何かついている、というのも考えがたいし、知り合いにこれくらいの年齢の子どもはいなかったはずだ。それに星の子とは一体何だろう。
子どもはまだ黙っている。まるで何かを待っているようだ。
 何か言わなければ、そんな義務感に駆られる。
「きみは……」
「なに?」
 まっすぐに子どもは聞き返してくる。
 まずい。沈黙に耐えかねて何も考えずに口を開いてしまった。
「あ、あの、そうだ。きみは、男の子かい、それとも女の子? あ、いや、こう薄暗いとよく見えなくてね」
 変な汗をかいている。
「どっちでもあるし、どっちでもないよ」
「え?」
「星の子だからね」
 また星の子だ。私はとっさに言葉を失った。
「おじさんは何をしているの?」
「わたしは、その、散歩をしていたんだ」 なんだか自分の言葉が言い訳じみて聞こえる。こんな時間にうろついている子どもも心配だが、こんな時間にふらふらしている中年の男は不審者だろう。思わず私は弁明じみた言葉を続ける。
「今夜は暑いだろう。だから、眠れなくてね。夜の散歩をしていたんだ。ほら、今日は星が綺麗だから」
「そっか」
 自称星の子はゆったりとした動作で空を見上げた。
「きれいだね」
 私もつられて星空に目を向ける。少し方の力が抜けた
「ああ、本当に」
 私たちの遙か遠くで瞬く星々。宝石箱をひっくり返したような、などという陳腐な表現しか浮かばない自分が憎らしい。
 昔から特に意識して星空を見上げたことのない私だが、こうしていると奇妙に懐かしい気分になる。
 悪くない。これからはもっと、夜空を見上げることにしよう。
「ねえおじさん、知ってる?」
「なんだい」
 静かな星の子の声に、私は空を見上げたまま答えた。
「あの星空は死者の眠る海なんだよ」
「死者?」
 この子はまた、突然何を言い出すのだろうか。
「うん、そう。死んだ人はね、星になって空の海に還るんだ。そして残してきた人たちを見守りながら眠るの」
 死んだらあの空の星になる。昔私の母親が話してくれたことがある。よくあるおとぎ話だ。この子も親からそういう話を聞いたのだろうか。
「そうか」
「だけどね、たまに落っこちちゃう星があるんだ。それが流星。空から落っこちた星は自分じゃ戻れないから迷子になっちゃうんだ」
「それは、困ったね」
 自分でも冴えない合いの手だと思う。
「そう。だからそんな迷子の星を探して、空に返してあげるのが星の子の仕事なんだ」
 星の子。何かのごっこ遊びの一種だろうか。それともアニメか何かの影響なのかもしれない。残念ながら私は知らないが。
 星の子は一生懸命言葉を続ける。
「空から落ちてきた流れ星はね、熱くなっちゃってるんだ。すごく速いから、空気とこすれて、熱。ま、なんとか熱で……」
「摩擦熱、かい」
 ずいぶん難しい言葉が出てきたものだ。「うん。それ! そのまさつ熱のせいでそのままじゃ空に還れないんだ」
「どうして?」
 私はこのごっこ遊びに付き合うことを決めた。それはこの自称星の子があまりに目を輝かせて語るからかもしれないし、単にさっきまでの陽気な気分がそうさせているだけかもしれない。どちらでもいい。この星空の下にはこんなお伽噺も悪くない。
「空は海だもん。海に熱い石を落としたら沸騰しちゃうでしょ。他の星がびっくりするといけないから、星の子は流星が冷めるのを待つんだ。ねえ、おじさん知ってる?星はね冷たいんだよ」
 星の子は、その男の子か女の子かわからない整った顔でにっこりと笑った。どちらにしてもかわいらしい子だ。こんな時間に一人でいることがますます心配になってくる。
「さわってみて」
 突然星の子は腕の中の猫を私の方へと差し出してきた。
 理由もわからないまま、とりあえず私は猫の頭に触れる。
「え?」
 驚いて一瞬手を引っ込めた。なめらかな手触りは相変わらずだったが、黒猫は驚くほど冷たかった。まるで氷にでも触れたようだ。間違っても生きているものの体温ではなかった。さっき触れた時は確かに温かかった。それなのに、なぜ。
「冷たいでしょ? この子はもう冷めたんだよ。だから星空に還れるんだ」
 星の子に抱かれて、黒猫はにゃあと鳴いた。
「きみは……」
 星の子はにっこりと微笑んだ。透明な、世界の何もかもを見通すような笑顔だった。
「おじさんはどう?」
 黒猫は星の子の手の中でだんだんと輪郭を失っていく。夜に溶けるようにして、最後には緑色の小さな光になった。
「もう、冷めた?」
 私は何も答えることが出来なかった。星の子は胸元に緑の光を抱えて、私の言葉を待っている。
 眠れない暑い夜。妙な体の火照り。見覚えのない空き地。そして、あの満点の星空に感じた奇妙な懐かしさは。
 ああ、そうか。
 私は……
「還ろう。おじさん」
 星の子は少し背伸びをするようにして私の額に触れた。小さくて温かい手だった。いや、ひょっとしたら私の方が冷たいのかもしれない。
「ああ、帰ろう」
 掠れた声で答える。あの星空に還れるのだ。あの数え切れない光の一つに戻る。私はとても満たされた気分になった。
 星の子は満足そうに笑って、小さくおやすみなさいと呟いた。


 雑草の茂った空き地の真ん中に、子どもが一人立っている。胸元に小さな緑と橙の光を抱えて、星空を見上げている。
 薄暗い光の下では子どもが男の子か女の子かはわからない。白っぽいパジャマ姿で、足下はサンダル履きだ。
 子どもは小さく一言「よし」とつぶやいて、空中に一歩足を踏み出した。何もないはずの空間を踏みしめて、もう一歩進む。すたすたと、まるで見えない階段でも登るような軽やかな足取りで空へと近づいていく。
 子どもの頭上にはどこまでも果てのない星空が広がっていた。大きさも明るさもばらばらな星たちが、それぞれの光を放ちながら眠っている。寄せては返す波のような終わりのないリズムで、地上に生きるものたちを見守り続けている。

 END














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