挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
暴君ユーベル迷いナく. 作者:霧山病

第一章[迷い人のバチカル]

しおりの位置情報を変更しました
エラーが発生しました

ブックマークしました。

設定

更新通知 0/400

設定を保存しました
エラーが発生しました

カテゴリ

ブックマークへ

以下のブックマークを解除します。
よろしければ[解除]を押してください。

ブックマークを解除しました。

4/55

1-3/少女と暴君

 レーツェルという少女は、現実離れしているほどの規格外な魔力を持っている訳でも、不気味な笑顔を常に浮かべている訳でもなければ、人魔対立の終幕を人類の勝利にするべく異界より召喚された勇者という訳でもない、平々凡々な少女である。
 言ってしまえば彼女は掃いて捨てる程いるその他大勢の有象無象の一人に過ぎないのだ。容姿に優劣をつけるとするなら確実に優れていると言えるが、他に特徴と呼べるものを言うとするなら、少しばかり一部の発育が著しいということだろうか。
 強力な魔法が使えるはずもなければ、腕利きの戦士であるはずもない。商才なんてもっての他だ。時には非道な行いを是としてでも、自らに利益を齎そうとする金の亡者共。そんな奴等の中に割り入る度胸など彼女にはないし、そもそもが先に述べたように、レーツェルは商才など待ち合わせてはいないのだ。

 それがどうして、世界全土に悪名を轟かす災厄のユーベルの専属担当者などになっているのか。にこにこと憎たらしい笑顔を浮かべるトイフェルと、苛立ったように険しい表情なユーベル。そんな二人の間に挟まれながら、レーツェルは遠い目をして思い返す。


 ――あれは、そう、今から三年前、当時十四才だったレーツェルが、近所の知り合いに誘われてギルドカウンターの受け付けで働きはじめてからしばらく経った時のことだった。
 ギルドの受け付けと言えば探索者に劣らないほど人気な職種の一つである。仕事内容と言えば事務仕事が主であり、命の危険を犯す心配はない。そのくせして、給金が多いのだ。流石大陸各所に支部を持つ巨大組織の本部と言えば良いのか、労働の対価が出し惜しみされることがまずない。
 癖の強い探索者連中に辟易とする時もあるが、正規職員である以上身の安全はギルドが保証してくれる。故に手癖の悪い暴漢に怯える必要もなければ、何かしらの争い事に巻き込まれる事もそうない。
 十二分の給金と、安全。この二つが両立しているだけで、ギルドの受付嬢が何故人気の職種と言われているのかわかるだろう。しかしそれだけではない。ギルドの受付嬢達は、他にも様々な恩恵を受けることが出来る。例えば宿屋や服飾店、肉屋や八百屋など、セントラルタウン内の色々な店舗を割安で利用出来るし、探索者が持ち帰ってきた迷宮由来の魅力的な素材、魔導具などを相場より安く買い取ることも出来る。

 そういった魅力溢れる職種がギルド受付嬢なのだ。腕っぷしに自信がある訳でもないレーツェルが勤めるには打ってつけだ。高給金、身の安全、各種恩恵。どれをとってもレーツェルにとって過不足はなく、だからこそ近所に住まう知り合いの誘いに付いて行ったのは当然のことだったのかもしれない。
 近年は彼の悪名高き災厄のユーベルの台頭に肖るように、その頭角を現した犯罪者一歩手前の荒くれ者集団――グリードの存在もあって、治安に乱れが生じている。
 水面下で緩やかに拡大していく不穏な気配に、レーツェルもまた不安を感じていた一人だ。ギルドの正規職員になることで身の安全を固めようという考えもあり、ギルドの受付嬢として勤勉に働くことに否応はなかった。
 しかしそうやって自らの立場を確立させたレーツェルに、不運が訪れる。グリードに先んじられたギルドにとって、必要なことであるのはレーツェルにもわかっていた。ああ、しかし何故自分なのか。レーツェルは嘆かずにはいられない。

 その頃すでに迷宮都市内に恐るべき災厄として名を広めていたユーベル。シュランゲ商会や貴族お抱えの私兵団、果ては大国ナルシスや当時三大パーティの一角であったブラッドナイトが率いる一部パーティの連合と単身で対峙し、ただ生き延びるだけでなく多大な損害を与え続けてきた生粋の規格外であるユーベルと、何かしらの繋がりを持ちたいと思ったのはグリードだけではない。
 ギルドもまたそうだった。ユーベルは迷宮探索においても他者を寄せ付けぬ戦果を上げていた。彼が迷宮から持ち帰る物品は、文字通り前人未到の領域にある貴重な物ばかりだ。迷宮探索でユーベルが齎す利益はギルドにとっても無視出来ないもので、であるならばより親密な関係を作り、相互の利益を高めようとするギルドの意向は間違ってはいないものだろう。

 しかしレーツェルは否定する。そんな考えは間違っていると、生憎と大声で叫ぶのは憚れたので、内心でこっそりとだが。

 ギルドはユーベルとの繋がりを密にするに辺り、まず彼専属の担当受付嬢の採用を決定した。一部の探索者達を相手に専属の仲介人として受付嬢を担当させるという制度は、元からあったものである。三大パーティの一角である赤竜騎士団やその他の有力パーティとの応対は、特定の受付嬢が一手に引き受けている。
 だがレーツェルは強く思うのだ。仮に、百歩譲って個人であるユーベルに対し専属の担当受付嬢が用意されるのは認めよう。彼が齎す利益は確かに甚大だ。これを無視できないギルドの気持ちも、わからなくはない。
 しかし何故、ユーベルの担当となったのが自分なのか。ギルドマスターから直々にそう伝えられてから、早三年。今でもレーツェルにはわからない。どうして極平凡なか弱げな少女でしかない自分が彼の悪名高き暴君との応対を一手に引き受けなければいけないのか。あまりにも訳がわからなさすぎて、レーツェルは泣きそうだった。
 レーツェルに絶望を与えたギルドマスターは、不思議なことに見た目は童女でありながら千年近くを生きる偉大な魔法使いであるという。彼女は何かしらの恨みでもあるのか。当時すでに発達を遂げていたレーツェルの胸部を、親の仇でも見るように睨んでいた。レーツェルはまたしても泣きそうになった。何故、こうまで剣呑な眼差しを受けなければいけないのか。訳がわからない。

 後日、迷宮探索を行っていた件の暴君ユーベルが帰還したという報せを受け、ギルド本部にある応接室で顔合わせをしようとした時のことだ。出来れば彼にはこのまま一生を迷宮の中で過ごしてほしかったという願望を直隠しながら、ユーベルが待っている応接室の扉に近付くレーツェル。
 一歩一歩と足を進めるごとに、どうしてか震えが強くなる自分の体をレーツェルは不思議に思った。どうしてこんなにも自分は震えているのだろう。嫌なことでもあったの? そう、あるのね。この先に進むのが嫌なのね。わかるわ。諦観を滲ませそんな事を考えるレーツェルだったが、いつまでも待たせていてはいけない。何せこれより相対するのは彼の悪名高き災厄のユーベルである。市井の噂では、彼の者は無垢な少女の悲鳴が大好きで、しかも純潔の乙女の血肉を貪ることをそれ以上に好む悪魔の化身のような極悪人であるという。

 気分を害して不興を買ってはいけない。あくまでも自分の身の安全はギルドが保証してくれているはずだが、相手はあのユーベルだ。今まで頼りにしていたギルドの威光も、彼を相手にしては朧気な灯火にしか成り得ない。
 これから先で自分の身を守るのは他の誰でもないこのレーツェル自身であるのだと、彼女は固い覚悟を決め、いざ応接室の扉を開いた。
 設計者のセンスだろうか。数々の調度品が調和を成す見事な景観の室内であるが、中央に据え置かれたソファーに行儀悪く座り込む少年のせいで、部屋全体に禍々しい障気が漂っているように思える。
 レーツェルは回れ右したくなる気持ちを抑え、吃りながらも何とか声を掛けた。彼女はその時の自分の勇気がとても尊いものであったと確信している。気分はさながら、魔王に挑む勇者だ。決して敵わないと知りながら、絶望に立ち向かう小さな勇気。それが尊いものでないとするならば、勇者はきっと世に謳われるような英雄ではなく力を持っただけの俗物であろう。
 しかし現実は無情。そもそもが彼女は勇者などではなく、一介の受付嬢に過ぎない。あえて役柄を与えるとするなら村人だろうか。そんな彼女が魔王に立ち向かって勝利を収めれられるはずはなく、であれば先日のギルドマスターの視線が可愛く思えるほどの剣呑な眼差しをしたユーベルの前で、小さな勇気を無惨に散らされるのも仕方のないことだったのだろう。
 レーツェルは言った。

「お待たせしました。こ、この度ユーベルさんの迷宮探索をサポートすることになりました。担当受付嬢、レーツェルと申します……」

 言い切った。レーツェルは謎の達成感に包まれながらも、しかし油断はしない。ユーベルの一挙一動を注意深く観察しつつ――とはいかず、顔を俯かせてはいたが。
 一言足りとも聞き逃さないと言わんばかりに集中して、ユーベルの言葉を待つレーツェル。視線を向ける事は不可能だ。うつむいている今もレーツェルに降り注ぐ剣呑な眼差し。あれと目を合わせて平静を保っていられる自信がレーツェルにはなかった。

 あれは人を殺す目だ。人殺しの目付きではなく、人を殺す目。目と目が合った瞬間、心臓を鷲掴みにされたようなショックに耐えられず過呼吸に陥って意識を落とすかもしれない。レーツェルはそう予感した。最悪の場合はショック死も有り得る。
 ユーベルが何をせずともよりいっそう強く怯えるレーツェル。彼は彼女の全体をじろりと見渡したかと思うと、僅かな沈黙の後に言い放つ。レーツェルは思わず、絶望せずにはいられなかった。

「どんな奴が来るかと思ったら、乳がでかいだけのただの女かよ。待って損したぜ。時間が勿体ねーったらありゃしねぇ」

 続けて、「失せろ。目障りだ」と邪険に付け加えたユーベル。叶うならレーツェルもそうしたい。今すぐ回れ右して全速前進したいのだ。しかしそうはいかない。ギルドの受付嬢としてこの場に赴いた以上、逃亡は即ち職務の放棄と同義である。
 レーツェルは考える。もしこの場で逃げ出したらどうなるのか。まずギルド職員として、今後も変わりなく働き続けることは不可能だろう。ギルドとしてはグリードに先んじられて二の足を踏むこととなった事柄であるが、ユーベルとの繋がりを密にするのは必須のことである。
 それは相互の協力関係の向上のためでもあるが、まず第一に、ユーベルという極大の暴力をグリードに傾倒させないために必須のことなのだ。
 もし彼の悪名高き災厄のユーベルが今後もグリードとの交流を続けていくとして――その果てに他三大パーティは発言力を無くし、実質グリード一強の時代が来るかもしれない。
 そうなると、最早グリードに見境はないだろう。今でさえ身の程を弁えず好き勝手やっている下衆共だ。彼等を抑え付ける勢力が減ったとなれば、ますます付け上がるのは想像に難くない。
 このまま行けば、やがて彼等の横暴はギルドであっても収拾の付けられない規模になってしまうだろう。ユーベルという理不尽そのものを背景に、グリードは己の欲望のままにここセントラルタウンを食い物にする。その憶測は探索者やギルド職員の間のみならず、市井の話の場でも上げられるほどにセントラルタウンに深く浸透しているものだ。

 勿論、必ずしもそうなるとは限らない。しかしそれでもレーツェルがこの場で逃げ出す事が、ギルドとユーベルの間にある溝をより深める結果に繋がるのは確実だろう。
 だから逃げない。逃げられない。どうして私がとギルドを経営する幹部達の選考基準に疑問を強めながらも、すでに決定されている現実を覆すことなどただの少女に過ぎないレーツェルには出来る訳もなかったのだ。

 レーツェルは考える。どうすればユーベルに取り入る事が出来るのか。先の懸念はギルドとして、またセントラルタウンに住まう住人の一人としてのものだ。しかしレーツェルには、それを差し引いてもまず第一に考えなければいけない事がある。危ぶまれなければいけない事がある。それ即ち、自身の身の危険。
 目前の暴君の不興を買ってしまえば、果たして自分はどうなるのだろう。死ぬのか。それとも死ぬのか。あるいは死ぬのか。いやいや死ぬしかないってどういうこと? パパ、ママ、この人なんだかスッゴい殺る気満々の目をしてるの。ね、なんでだろうね? 怖いよ。私、早くお家に帰りたいよ。

 きゅっと心臓が縮まった錯覚を受けて、レーツェルは思わず嘔吐きそうになる。きりきりと悲鳴を上げる胃の痛みに、数時間前に腹の中へ収めた母お手製の朝食をぶちまけたくなった。
 応接室の扉を開けたままその場で震えるレーツェル。背を向ける形で首だけをこちらに向けるユーベルは、レーツェルの様子を鬱陶しそうに眺めている。膝を立ててソファーに座り込む彼は終いには貧乏揺すりをはじめ、小さく舌打ちすらつきはじめた。その度にびくりと肩を跳ねさせるレーツェルは、ただ座っているだけの少年がどうしてこうまで恐ろしく思えるのか。他人事のように不思議に思った。

 年齢は差して変わらないはずである。当時十四才であるレーツェルに対し、ユーベルはその一つ歳上。十五才である。
 僅か一年の差。たったそれだけで、人はこうまで恐ろしい存在に成り得るのか。そんな訳はない。ユーベルが特殊なのだ。レーツェルが親の下ですくすくと過ごしている間、彼はシュランゲ商会を筆頭とした大規模組織と抗争を続けていた。
 逃亡に次ぐ逃亡。闘争に次ぐ闘争。日々の糧を得るために、他者から奪い奪われる毎日。そんな荒んだ生活を過ごしていれば、ユーベルが――かつて平和な現代日本において過ごしていた健全な精神が歪んでも、不思議ではないことだ。

 レーツェルは意を決して、俯かせていた顔を上げた。そうすれば肩越しにこちらを見詰めるユーベルと目が合う。やはり恐ろしい。レーツェルに向けられるユーベルの視線は鮮烈な赤色とは掛け離れた、どす黒く澱んだ血のような色だ。
 その瞳に湛えているのは何であろう。疑心か、敵意か、はたまた殺意か。喜びや親しみといった正の感情の一切を廃した眼は、ただ冷酷な輝きでもって無感動にレーツェルを見据えていた。
 これに取り入る? そんな無茶な。と、レーツェルは思わず緩んだ尿道に戦々恐々としながら、それでもギルドの意向に沿い震える唇を何とか動かした。

「う、失せろ、と申されましても……この度五十階層の突破を成し遂げたユーベルさんに専属の担当者がいないまま、という訳にもいきません。私としても身に余る光栄ではありますが、未熟な身ながら、誠心誠意ユーベルさんの助けになれればと思いまして……だから、その、どうか末永きお付き合いを、よろしくしていただきたい……です」

 こうまで言い切ったレーツェルは、見る人によっては命知らずとも勇気ある者とも言われるだろう。何せ相手はあのユーベルだ。彼を相手に無力な少女の身でありながら言い募った事は、レーツェル自身が思う以上に凄いことだ。
 下手に出ながらの態度に、ユーベルも何かしら思うことがあったのだろうか。あくまでも気に食わなさげではあったが、彼は「ふん」と荒い鼻息を吐いた後、自身が座るソファーの対面に置かれた同じ意匠のソファーを視線で指し示した。
 レーツェルはホッと安堵の息を吐く。どうにか対話まで持っていく事は出来そうだ。これから彼女はユーベルの担当者として、彼との繋がりを強めていかなければいけない。苦難の道ではあろうが、これでギルドとユーベルの間にある架け橋が少しでも強固になれば、その苦難も報われるというものだろう。

 そうして始まる事となるレーツェルとユーベルの関係だったが、彼女が思う以上にユーベルの担当者という立場は最悪のものだった。

「おい、(アマ)、座れ」

「あっ、はい」

「……おい、何をしてる? どうしててめぇはソファーに座ろうとしてやがる」

「えっ、だってユーベルさんが、座れって……」

「はぁ? んだてめぇ頭がたけぇんだよ。床だ。床に座れ。てめぇが俺と同じ目線でものを語れると思ってんのか? 乳がでけぇだけの能無しが。てめぇみたいな糞女は、俺の足元で這いつくばるのがお似合いなんだよ」

 まず、ユーベルのレーツェルに対する扱いが最悪だ。彼はレーツェルを奴隷か何かだとでも勘違いしているのだろうか。そう疑ってしまうほどに彼の言動はレーツェルの人としての尊厳を踏み躙る悪辣なものだった。
 とは言えレーツェルに拒否権はない。ギルドの正規職員でありながら、ギルドに所属する一探索者相手に拒否の姿勢を示せない。それはユーベルが単なる一探索者ではなく、単身でありながら三大パーティを越える大きな利益をギルドに齎す規格外であるから――というのも要因の一つではあるが、それ以上に、単に、ただシンプルに、レーツェルは逆らう気が起きないほどユーベルという存在を恐れていたからだ。

 レーツェルはその後、ユーベルとの顔合わせを無事――五体満足で終わったのだ。無事だ。誰が何と言おうと無事である――済ませてから、一人とぼとぼと両親と三人で住まう実家に向かう。その道中、涙が止まらなかったのは致し方ないことだ。ちなみに言うなら、応接室の床は固かったらしい。

 それはともかくとして、これからあの暴君と二人三脚で過ごしていかなければいけない。そう考えるだけであまりものショックに意識が遠退いてしまうレーツェルだったが、不幸はそれで終わらない。
 「ただいま」と力なく自宅に入り込んだレーツェルだったが、彼女を迎えたのは両親からの「おかえり」の言葉ではない。耳が痛くなるほどの静寂だった。

 どこかに出掛けているのか。そう考えるレーツェルだったが、それにしても様子がおかしい。レーツェルは未だ十四才の少女である。彼女の家庭は出来た父親と優しい母親の存在もあって、セントラルタウンに住まう一般的な家庭よりも些か裕福で、尚且つ家族の仲が良かった。辛い事があれば励まし合い、幸せな事があれば共に喜び合う。レーツェルにとってこの家は、そんな暖かな場所であったのだ。
 知り合いの誘いを受けギルドの受付嬢として働きはじめたのも、少しでも両親の負担を減らそうと思い立ったが故だ。その事を話した時、父も母もレーツェルの事を心配していた。「無理はしなくて良い」と言い放つ彼等だったが、それでも家族の負担を少しでも減らしたいと伝えれば、両親は娘の成長に感じ入ることでもあったのか。涙ぐみながらレーツェルの門出を祝った。
 そこは、この家は、彼女にとって暖かな日向のような場所だ。この家にいる間、レーツェルは辛い事を忘れられる。何かあれば励ましてくれる父がいる。慰めてくれる母がいる。そう――そのはずであったのに。

 自宅に漂う静寂に違和感を覚えて、住まい慣れた家宅の中を見て回る。するとどうだろうか。ない。レーツェルの記憶にあった父の書斎。その中身が――数々の書物が、一切合切なくなっている。今日の朝、母親が朝御飯を作っていた調理場に向かってみれば、調理器具と食器の大半が見当たらなくなっている。
 しかしどうしてだろう。レーツェルのものだけは残っていた。全体的に桃色のいかにも女の子が好みそうな茶碗は、この前母親が買い換えてくれたばかりのものだ。側面にはレーツェルと彼女自身の名前が書かれている。しかしその横にあった両親の茶碗がない。どうしてだろう。何でだろう。嫌な予感に気付かない振りをして、レーツェルはその後も家の中を探索する。
 とはいえレーツェルの家は平民の家庭が住まうに相応の建物である。広大な屋敷という訳でも、入り組んだ城という訳でもない。全てを見て回るのに時間は然程掛からなかった。

 その結果、わかった事がある。レーツェルは思わず、両親の私室で膝を着き、打ちひしがれた。やはりなかったのだ。何が? 両親の私物が、である。

 よろよろと力ない足取りで床の間に赴けば、見ない振りをしていた書き置きが目に入った。意を決してそれを開くレーツェルだったが、書き置きを読んで悟ったのは両親の家出――あるいは、夜逃げや蒸発とでも言うべきか。そんな、無情な現実であった。
 それから数日経てども、両親は帰ってこない。あの日の朝まで一緒に仲良く暮らしていたはずなのに、いったいどうしてこうなったのか。いくら考えようと、レーツェルに心当たりはなかった。

 彼女の不幸はまだ終わらない。彼女が交流を持っていた知人達全員が、ある日を境に急に態度を余所余所しいものに変えたのだ。そしてそのある日とはそう、両親が家出をした当日である。
 あまりにも唐突な変化に疑心暗鬼に陥り掛けていたレーツェルだったが、全ての元凶がその日にあると確信した彼女は嫌そうな顔をする知り合い――レーツェルに受付嬢として働く誘いを持ち掛けた近所のお姉さんに、問い詰めた。

「もう、わからないままは嫌なんです。私が悪い事をしたなら、謝ります。だから、お願いです。教えてください! あの日、何があったのか……」

 涙を湛えて言い募る彼女の姿を、流石に気の毒に思ったのだろう。先輩受付嬢でもある近所のお姉さんは同情的な視線をレーツェルに投げ掛けながら、それでも出来るだけ関わりたくないと言うように手短にその答えを伝えた。

「だって貴方、あの日、あの、災厄のユーベルの、担当者になったんでしょ? 皆が怖がって逃げて行っても、仕方がないわ」

 レーツェルは声を大にして否定したかった。仕方がなくなんてない。だからお願い。私を一人にしないで!
 しかしやはり現実は無情。そそくさと踵を返す先輩受付嬢は、そもそもがこの職を紹介したのは自分であるはずなのに、レーツェルの現状を助けようともせず知らん振りだ。
 ユーベルと繋がりを持つ相手と関わるのがそんなに怖いのか? レーツェルはそう不満をぶちまけたくなったが、彼女自身怖くないとは言い切れないので、悶々とした気分を晴らす事は出来なかった。

 そうしている間にも日々は過ぎていく。両親がどことも知れない場所へ旅立ってから早一年。同僚である受付嬢仲間は、やれどこそこのパーティがイケメンばかりだ。やれ赤竜騎士団の若きホープ、疾風のヴィント・ホーゼに抱かれたいだとか、男はナンセンス、時代は銀閃乙女に所属する御姉様方々との百合だとか、そんなくだらない話で毎日盛り上がっている。

 レーツェルには関わりのない事だ。彼女にはこんなくだらない話を自然体で出来る相手などいない。ユーベルの担当者となったその日、レーツェルに友人と言える間柄の知り合いはいなくなったのだ。改めて考えると泣きたくなってくるレーツェルだったが、そうすると余計に惨めになる気がして彼女は何とか涙を耐えた。もう泣かないと、彼女は誓ったのだ。孤独となったあの日の、弱い自分とはお別れを告げたのだ。だから泣かない。そう、泣いたりなんかしない!
 例えどんな仕打ちを受けようとユーベルの担当者として勤めてやる。見事ユーベルとの繋がりを強固にした時、泣きを見るのは自分を捨てた貴方達なのだ。そんな暗い考えさえ持ちはじめたレーツェルだったが、しかし彼女の決意は脆い。

 レーツェルより数ヵ月後に受付嬢となった後輩が、どうやら新米探索者と良い仲らしい。その事を話題に職場で囃し立てられる後輩を遠巻きに眺めるレーツェルだったが、彼等がセントラルタウンの街中を仲睦まじく歩いている姿を見た時は思わず溢れた涙を止める事など出来なかった。
 彼女を取り囲う環境を見れば言わずとも察せられる事ではあるが、レーツェルには男っ気がない。からっきしだ。
 誰が彼の悪名高き災厄のユーベルの担当者と仲良くなりたいと思うのだろうか。あの日の前まではレーツェル自身の整った容姿もありそういった輩に声を掛けられる事も少なくはなかったが、ユーベルの専属担当者となってからはそんな事は皆無だ。
 異性の知り合いが一人もいない。という訳ではない。レーツェルは専属担当者として、彼の悪名高き災厄と顔を合わせているのだ。そんじゃそこらのぼんくらとは文字通り格の違うユーベルと、だ。そんな受付嬢は私以外にいないだろう。どうだ。凄いだろう。凄いでしょう。凄いと言って! レーツェルはそうやって何度も自分を励まそうとするが、成功した試しは一度もない。
 空しくなって、彼女は泣いた。

 燃え尽きた灰のような色合いの髪に、血のようにどす黒く澱んだ紅瞳。常に浮かべている無愛想な顔付きを度外視すれば、容姿は整っている方だと言えるだろう。その上で単身で一国を相手取るほどの高い戦闘力を誇り、それに由来するセントラルタウン内での大きな発言力、資産を持っている。それだけ考えればユーベルは結構な有望株ではないのか。そう意識改革をしようとした事もある。
 だがダメだ。そもそもが国を相手に単身で立ち向かうってなんだ。彼は本当に人間なのか? いくら考えても、レーツェルに答えは出なかった。確かに彼は人間だ。人間という種族の一人だ。だがしかしそれ以上に、化け物なのである。


 ユーベルの担当受付嬢となってから早二年。レーツェルは十六歳となったが、誰からも誕生日を祝われてはいない。誕生日プレゼント? そんなものは生きていく上で必要ないものでしょ。と強がってみたは良いが、結局彼女は泣いていた。
 しかしレーツェルの涙など気にした様子もなく時は過ぎていく。好んで長期探索を行うユーベルは、あまり地上に長居することはない。地上で住まう期間より迷宮の中で過ごす時間の方が多いほどだ。
 レーツェルにとっては不幸中の幸いだろう。おかげで彼女はユーベルとの対話を最小限に抑えられている。しかし最小限と言ったように、皆無とはいかない。その日レーツェルは、地上に帰還したユーベルから迷宮探索の成果報告を受けていた。
 何でも、ついに地下迷宮第六十階層の突破を終えたらしい。相変わらず一人で、だ。つくづく化け物染みている。
 第四十階層の突破だけでも当時の三大パーティが力を合わせ、多大な犠牲を出しながらも成し遂げた事だと言われているのに、どうしてこの一歳年上の少年は無傷で六十階層を攻略してくるのか。それは単にユーベルがそれだけ規格外であるという話でしかないのだが、レーツェルにしては納得がいかない。ユーベルがこんなにも化け物染みているから、彼女は両親から逃げられ、友人をなくし、ロマンチックな出会いの尽くを奪われたのだ。

 しかし不思議と全ての元凶であるユーベルを前にして、レーツェルが怒りや恨みといった負の感情を抱いた事はない。レーツェルは、そんな事を考えただけでもあまりもの怖じ気に失禁しそうになってしまうのだ。そうである以上そういった負の感情を無意識のうちになかった事にする精神的な動きは、彼女の尊厳を守るために必要な働きだったと言えるのかもしれない。

 彼女はその日も、従順にユーベルの足元に這いつくばった。逆らう? 阿呆な事を言わないで。死んじゃうよ? 私、死んじゃうよ? 彼女はユーベルへの反抗が自身の死に直結すると信じて疑わなかった。だから媚びる。媚びへつらう。
 そうする度にユーベルの機嫌はよりいっそう悪くなっていくのだが、必死なレーツェルがそれに気付いた様子はない。

「ユ、ユーベルさん、第六十階層の突破、誠におめでとうございます。ユーベルさんの活躍のおかげで、我々ギルドも益々の躍進を遂げる事が出来ております……」

「ふーん。で、何だ? お礼に裸躍りでもしてくれるのか? くっだらねー媚び売ってる暇があるなら、まずその震えを何とかしたらどうだよ。糞女が」

「も、申し訳ありません……。ですがユーベルさんがご所望とあれば、このレーツェル、如何様な辱しめも受ける所存です……」

「……けっ、誰がてめぇなんぞに盛るかよ。ばぁか」

 勿論、レーツェルに露出狂の素質がある訳ではないし、恋仲でもない相手に喜んで素肌を晒すほど彼女の尻が軽い訳でもない。
 しかしレーツェルは思うのだ。仮にユーベルが心の底から彼女の裸躍りを見たいと思っていたとして、レーツェルが嫌だと逆らった場合に、それでもユーベルが無理強いしようとすればレーツェルに逆らう事など出来るのだろうか。
 いや、出来まい。体の自由など魔法一つでユーベルのものとなる。結末が同じなら、不興を買うだけの反抗にどれだけの意味があろうか。本来レーツェルの後ろ楯となるはずのギルドも、ユーベルを相手にしては頼りない。彼は誰にも届かない頂に居座る正真正銘の怪物なのだ。それこそ気紛れ一つで都市の一つを焦土に変えるようなとんでもない規格外なのである。
 そんな暴力の権化を目前にして、怯える体はどうしようもない。震えの止まらない体を強張らせながら、それでもレーツェルはユーベルに従順だった。
 とは言えユーベルには、そんなレーツェルへ気を使う様子はない。彼女への対応は杜撰の一言に尽き、まるで奴隷か何かを相手にしているような酷い扱いだ。

 だから、それはきっと気紛れだったのだろう。レーツェル自身そう思っている。床に膝を着くレーツェルへ向け、ユーベルは何かを投げつけた。

「あっ、あの、いったいこれは……?」

 慌ててそれを受け取るレーツェル。寄越されたのは、見事な装飾の施されたペンダントだ。中央には魔石だろうか? ユーベルの魔力光と同色の、赤い輝きを湛えた石が嵌め込まれている。
 素人目に見ても高価な代物であるとわかるそれは、何でも今回の第六十階層攻略で得た魔導具の一つであると言う。

「第六十階層のフロアボス、リッチキングがドロップした魔導具だ。装備者への敵対行動に反応して、自動で魔力障壁を展開してくれる」

 唐突にそんな大層な代物を渡されても、レーツェルにはどうする事も出来ない。第六十階層のフロアボスがドロップしたものとなれば、その性能は類似する効果を持つ既存の魔導具とは比べようもないほどに高いものなのだろう。
 死霊王の首飾りという不吉な名を関するペンダント型の魔導具は、地上では文字通り二つとない唯一の代物である。その価値は計り知れない。レーツェルは思わずこんなものをぽんと投げ寄越すユーベルの正気を疑った。
 売れば屋敷の一つや二つ、楽に買えるだろう。レーツェルは恐れ多いので受け取れないと渡されたペンダントを返そうとするが、ユーベルは強引にそれをレーツェルに持たせた。

「てめぇが他の奴等に舐められたら、てめぇが担当する俺まで舐められちまうだろーが。臆病な兎みてーな性格はどうしようもないのかもしれねぇけど、せめて自分の身ぐらい守れるようにしとけ」

 ともすればレーツェルの身を案じているようにも聞こえる言葉だったが、やはりレーツェルはこれが気紛れ以外の何にも思えなかった。
 気紛れではなかったとするなら、陰謀だ。渡されたペンダントは本当は呪いの代物で、身に着けた途端、レーツェルの身に様々な不幸が降り立つようになる。だとかで、苦しむレーツェルをユーベルは嘲笑うのだ。
 そんな勘繰りは死霊王の首飾りを首へ掛けた途端に消え失せる。どうしてか力が漲るような感覚に思わず目を瞬かせた。体の調子の変化に疑問を浮かばせるレーツェルに向け、ユーベルは自然な動作で足を振り抜いた。
 跪くレーツェルの頭は、応接室のソファーに座るユーベルの丁度腰辺りの高さにある。足を振り抜けば楽にレーツェルの頭に直撃するだろう。唐突な暴行にレーツェルは反応を示せず、短い悲鳴を上げるだけだ。
 しかしユーベルの蹴撃がついにレーツェルへ到達せんとしたその瞬間。気が付けばユーベルとレーツェルの間を遮るように現れた半透明の幕――魔力障壁に、彼女の頭を蹴り抜こうとした蹴撃が弾かれる。
 突然の事態に平静なままのユーベルとは打って変わり、レーツェルはあまりもの恐怖に錯乱気味だ。彼女しか知り得ぬことではあるが、その時彼女はちょっと漏らした。何がとは言わないが、ちょろっとだけだ。

「今みてぇに、魔石に蓄えられた魔力を使って勝手に身を守ってくれるって代物だ。これならどんくさいてめぇでも自分の身ぐらいは守れるだろ」

「えっ、あのっ、そのっ、ちょっと、え、今、私蹴られてっ。あれ、あれっ……あっ」

 再び言うようではあるが、何がとは言わない。幸いにも洪水ではなかったということだけ、伝えておこう。たった今ユーベルが無造作に放った蹴りが鋼鉄のゴーレムを容易に粉砕する威力だったと知れば、レーツェルの漏水は噴水に変化していたのだろうが。

 ともあれそんな突発的な凶行に身を晒しながらも、レーツェルは忍耐強くユーベルとの関係を続けていく。
 ユーベルと深い繋がりを持つグリードの悪漢共から「姉さん」と呼ばれることには流石に辟易としたが、彼我の立場上強くは指摘出来ない。
 たまたま不運にもユーベルの担当者となったレーツェルに対し、グリードは頭領のトイフェルを筆頭に率先してユーベルとの仲を深めている。彼等の不興を買えば、それがユーベルの気分を害する事に繋がる可能性もあるのだ。姉さん呼ばわりしながらも裏では「ユーベルの旦那の玩具」だとか「便器」だとか、考えるにも恐ろしい想像をしていると知っても、レーツェルに否定する勇気はない。

 そうして、苦節三年。どうしてか日に日に態度を冷たくするギルドマスターの圧力に耐えながら、孤独に過ごし続けた今をもっても、レーツェルにはやはりわからなかった。

「ほら、さっさと歩けよぼんくらが。ギルド本部に行くぞ」

「あっ、はい。すいません。今行きます。ごめんなさい。ごめんなさい……」

 地下迷宮入口前の広場にて、彼女は今日も暴君に付き従う。ついに七十階層の突破を成し遂げたのだろう。しかしその疲労を窺わせない無傷のユーベルに急かされて、トイフェルとの会話を打ち切った彼の背中を追うレーツェル。
 彼女にはやはり、どうして平々凡々な自分がユーベルの専属担当者などやっているのか。訳がわからなかった。
『6/22追記』
一部加筆修正しました。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ