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暴君ユーベル迷いナく. 作者:霧山病

第三章[誰が為のシェリダー]

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3-7/生死狂宴

「ヴィいんとぉ……てめぇ、地獄から帰ってくるには早いんじゃねぇのかぁ? ここにてめぇの居場所はねぇ。今すぐ地獄に戻してやる……!」

 地獄に住まう悪鬼の如くおどろおどろしい音色の言葉。濃厚な殺意。血のようにどす黒い瞳を鈍く光らせる憤怒の焔。彼の悪名高き暴君が放つ常人であれば束の間に失神するであろう重圧を受けて、しかしヴィントは変わらず笑みを浮かべていた。
 彼の心の中は今、途方もない愉悦で満たされていた。どうして己が今再びセントラルタウンの大地に立っているのか。そんな疑問すら些事だと思えるほどに強大な至福感。「ああ」――熱い吐息を溢して、ヴィントは己へと鋭い眼光を向けるユーベルの姿を見詰めた。

 災厄のユーベル。かつて童子姿の怪物(モンスターチャイルド)と呼び恐れられたおぞましき忌み子。ズューデン市街での無差別殺害事件(・・・・・・・)を契機に各地で数々の惨劇を作り出し、数えきれないほどに多くの命を奪い取った罪人。
 そう、そして己の故郷を襲い、過去の安寧を、現在の平穏を、未来の栄光を――己が手にしていたはずの何もかもを塵芥へと変えた憎き仇敵。
 冷徹な殺意で覆い隠されたユーベルの動揺をヴィントは見抜いていた。強靭な敵意の下に秘められた戦慄をヴィントは察していた。
 どうしてなのか。そんなことはわからない。それでもヴィントにはわかるのだ。理解出来たのだ。暴君という虚偽の仮面で取り繕われたユーベルの本心が。脆く儚い脆弱なユーベルの有り様が。
 自身の行った凶行が、恨めしい暴君の心に傷を付けた。苦しいのだろう。痛むのだろう。大切な――あるいは大切だった者を再び目の前で亡くして、苦悶のあまりみっともなく慟哭を上げたいのだろう。

 その姿を、心の底から声高に嘲りたい気分だった。ヴィントは口にする。醜悪な弧を描く唇を殊更歪ませて、健気にも毅然とした態度を崩さないユーベルを嘲笑う。

「くくっ、おかしい……おかしいなぁ。地獄は現実(ここ)に他ならないぞ? 弱きが食われ、強きが食らう……だとするならばその小娘がより強き者である俺に何をされようと、それは致し方のない必然だろうに、くっ、はっは! おかしい! やっぱりおかしいさ! 何だその様は……災厄とさえ呼び恐れられる者が何という体たらく! ざまあみろ! これが奪われる者の痛みだ! 弱者の苦痛だ!」

 呼気を吐き出し嘲りを口にするたび、ヴィントの昂りは際限なく高まっていった。これが愉悦。これこそ快楽。理不尽を振り翳す者だけに与えられる至高の快感。
 なるほど、これは癖になりそうだ。ヴィントは靄がかかる思考の片隅でそうぽつりと呟いて、改めて目前に立つ仇敵の姿を見た。
 先の発言に、何か思うことでもあったのだろう。力なく俯いたユーベルの表情は見えない。小刻みに肩が震えている。怯えているのだろうか。慄いているのだろうか。彼の悪名高き暴君のまるで迷い子の如き有り様に、ヴィントの心根を満たす愉悦がよりいっそう高鳴る。
 ああ、もっと奪わないと。痛め付けて奪い尽くし、傷付け殺して苦しめて苦しめて苦しめて――醜い邪悪(ユーベル)の在り方をさらけ出させてあげないと。

 胸を焦がす衝動に突き動かされ、ヴィントは右手で握るフランベルジュを構えた。僅かに腰を落とし、柄に左手を沿え、切っ先が向かう先には未だ顔を俯かせたままの仇敵の姿。
 放物線を描き宙を舞ったシュテルプリヒの生首は、その胴体と同様に黒炎に舐められ燃やし尽くされていた。突然の事態に悲鳴を上げて錯乱する衆目を気にした様子もなく、ヴィントは再び己の手が握る魔剣の真価を発揮せんとする。
 どうやって己の手に渡ったのかも定かではない経由不明の魔剣。秘めたる神秘性を禁呪の域にまで昇華させられたその魔剣がいったい如何な経緯を経てこの手に握られているのか、噛み合わない歯車が軋み音を上げる整然としない頭で、ヴィントは徐にそんなことを考えようとして――

 思考を遮る小さな声。決して、悪意に満ち足りたものではなかった。英雄譚に夢を見る、無垢な童子の如き音色だった。

「じゃあ」

 しぃんと、一瞬の静寂が場を支配する。悲鳴を上げ各々が混乱の極みにあった通行人達が、まるで身動ぎの音すら憚られるように揃って沈黙を成す。
 響き渡るのは無垢でありながら、純粋で、汚れを知らない――

「てめぇがオレ(・・)に何度殺されたって、それも致し方のないことなんだよなぁ……?」

 しかしどこまでも冷酷に凍てついた、おぞましいほどに無感情な声。そこに秘められたのは純然なる殺意。不純物を介さないあまりにも透明な敵意。
 静寂が一瞬であるのならば、直後に起こった一連の動作もまた刹那の間に行われた。俯かせていた顔を緩慢な動作で上げたユーベル。その姿が、ヴィントの視界から消失した。

「なっ――ぐぅっ!?」

 いや、消えたのではない。あまりもの速度にヴィントの知覚が追い付かず、あたかも一瞬のうちに消え失せたように見えただけだ。
 驚愕の声を上げる間もなく、ヴィントの身体を突き抜ける衝撃。超速で後ろへと回ったユーベルがヴィントの背中を蹴り上げたのだ。無防備な背後からの強襲は背髄に甚大な損傷を与え、それだけに留まらずその身を空へと打ち上げる。
 唐突に高くなった視点から、ヴィントは眼下の光景を見下ろした。顔を青ざめさせ、狼狽えを隠せない大衆。彼等彼女等が何に怯えているのか、ヴィントは痛いほどに理解出来た。
 直下には、赤い魔力光を総身から立ち上らせるユーベルの姿。その手が徐に直上へ――蹴り飛ばされ、未だ勢いをなくさず天に向かっているヴィントへ向けられた。
 右手を翳すユーベルの周囲に、ばちばちと赤く煌めく球体が現れ出でる。直径二メートルほどもある球体は、その全てが甚大な魔力量で構成された力の塊。究極の暴力にして、破滅の極限。化け物を化け物足らしめる超常の力の証明。
 混迷する大衆の嘆きがヴィントの鼓膜を打った。「災いだ」「災厄が来る」「逃げろ」「間に合わない」ああ、そういえば――己はこんなことにはならないよう、勇気を振り絞って彼の悪名高き暴君に立ち向かい、そうして見せしめに殺されたと言うのに。

「滅びの究極魔砲(アルテマ)

 そのはずが、己は――ホーゼは、また災いを引き起こす引き金として利用されていたのか。胸を高鳴らせていた愉悦は消え去り、ヴィントの胸中を覆ったのは冷ややかな自嘲の念だった。
 自身へ愛を囁いた青みがかった白髪の少女の姿が脳裏を過る。最後に彼女と繋がれたことだけが唯一の救いであろうか。しかしどうしたものか、このままだとまた彼女を、シュネーを悲しませることになる。
 決意を胸に赤竜騎士団の若手として奔走していた頃の記憶が思い返される。走馬灯だろうか。思えば己も()も、あの頃に比べれば随分と丸くなったものだ。
 まさか最期に胸中を満たしたのが愛した女への想いとは――歪な笑みをどうしてか晴れやかな苦笑いに変えたヴィント。彼は大衆に紛れてこちらへと向かってくる青みがかった白髪の少女を視界の端に収めながら、穏やかとすら言えるほどに静かな声で言った。

「シュネー、俺は、君と出会えたことが――」

 しかし紡がれたヴィントの声を掻き消し響き渡る言霊。撃滅の意思を唄うのは醜悪に表情を歪めた邪悪(ユーベル)だった。にやりと嗤った唇が冷酷なる破滅を告げる。
 それはかつて一瞬の間に大国の騎士団を壊滅せしめた理不尽の極み。地獄の名を冠する災いの顕現――

七重駆けて迸れ(セプテット)地獄の七柱(ヘルセブンス)

 轟音が突き抜ける。ユーベルの周囲に漂う魔力球。数は七。雷鳴の如き迸りを纏う七つの球体から、それと同色の深紅の極光が放たれた。
 放射の反動が地に亀裂を刻み、避難の遅れた通行人達を無差別に吹き飛ばす。土煙を振り撒き直上へ立ち上った七つの極光は柱となり、中空にいたヴィントの身を包み込んだ。大地が震撼。空が割れる。
 ヴィントという存在を構成する情報体。魂が――ひいてはそこに刻まれた禁呪という呪縛が、一息の間に塵芥へと成り果てた。
 その散り様を見詰めることもせず、ユーベルは蜘蛛の子を散らしたように散り散りとなった大衆へと目を向けた。
 視線が合った者達が顔を青ざめさせ、大きく震える。鋭敏な知覚がそこかしこから漂う強烈なアンモニア臭を捉えた。
 どこかから聞こえた「あれ、ヴィント――なんで、また」と絶望と戦慄に染まった呟きを右から左に聞き流したユーベル。彼の人並み外れた聴覚が拾ったのは、唐突な事態に惑い怯える大衆の中に紛れる異物。
 それは切迫したこの場ではあまりにも場違いな、軽快な笑い声であった。けたけたと、からからと、歪に、醜悪に――

「随分とまあ愉快な様だねぇ。ねぇ、ユーベル君。久しぶり! 元気にしてたかい? 感動の再会はどうだった? 喜べたかい? 嬉しかったかい? ちなみにその他大勢の観客の一人である僕からすれば、ちょっと物足りない悲劇――いや、喜劇だったかなぁ」

 大衆の隙間を縫ってユーベルの前に姿を現したのは、ヴィントやシュテルプリヒと同じく死んでいるはずの今は亡き人。悪魔(トイフェル)の名を騙る亡者であった。
 道化もかくやといった作り笑顔は、ユーベルが一週間前に見た躯と変わらない有り様だ。虚空を映して三日月を描く目。歪みに歪んだにこにことした笑み。まるで脳髄に直接響き渡るような不快な響きの声。
 グリードの頭領、トイフェル。悪辣極まるならず者集団の長その人が、生前と変わらぬ姿でユーベルの前に立ちはだかった。
 佇む両者。その間に、ユーベルが習得する数々の魔法の中でも最上位に位置する究極魔砲(アルテマ)を発展、独自改良した固有魔法を受けてなお原型を留めていたヴィルベルハッセンが落ちた。
 きぃんと無機質な音を立てて地に落下した魔剣。その音が契機となったのか。無言を貫いていたユーベルが重々しく口を開く。

 思えば、憶測を重ねる材料はあったのではないだろうか。トイフェルという男は謎の情報網を持ちながらも、その経歴の一切が不明瞭の得体の知れない人物だった。
 人を人とも思わない悪辣な人格。例え己が率いる配下であろうと一切の慈悲を見せない冷酷さ。彼の悪名高き暴君を――災厄とすら謳われる己を前に、怯みの一つもなく常に笑顔を浮かべるような狂人。
 そして、そう、悪魔(トイフェル)。奴は己の名をそう騙った。トイフェルの死と日を同じくして発生した謎の三人組による傷害事件。クロミヤチヨからの忠告。その後日からセントラルタウンの各所でまことしやかに囁かれることになった、「この世にいないはずの死人が街並みをうろついている」という噂話。六年前、己へと与えた■■■の入手経路。

 ちぐはぐな情報。整然としない道筋。ユーベルは脳裏を行き交った情報を纏めて整合しようとして――思考を、取り止めた。
 己が何であるか、忘れた訳ではないだろう。気付けば胸元の前に翳されていた右手が、握り締められる。まるで何かを握り潰すかのように。

「そう言うお前は、相変わらずの様だなぁ……おかげさまで心底不快な気分だぜ。なぁトイフェル、てめぇは――」

 砕け、疑念を。殺せ、脆弱なる自己を。己は暴君。立ち塞がる者を赴くがままに屍へ変える暴力の支配者。
 敵であるならば殺す。敵を殺す。それだけで良い。たったそれだけのことで、暴君という仮面は完結する。ああ、だから――

「オレの……俺の、敵……なのか?」

 どうか、収まってくれ。ユーベルは胸に蠢く邪な衝動を切実な思いで抑え込んだ。いつからだっただろう。目に付く全てが気にくわなく思えたのは。いったい何故なのだろう。胸中に巣食う情動が「壊せ」「壊せ」と口煩く喚き立てるのは。
 己が、邪悪であるからだろうか。フラッシュバック。脳裏に不明瞭な景観が思い浮かぶ。長閑な農村、なのだろうか。村人達が笑い合う平穏な光景。その中で、栗毛を一つに結った少女は朗らかな笑みを己に向けて――

 ――キミは化け物なんかじゃあないよ。ほら、だってこんなにも傷付いて、ボロボロになってるんだから――

 思考が途切れる。少女が口にした言葉がどうしてか思い出せなかった。でも、そうだ。願われたはずだ。祈られたはずだ。見失うな。己はここにいる。ここに在る。だから、そうだ。呑まれてはいけない。己は人なのだ。
 悪魔が嗤う。傷付き疲弊しながらも人足らんとするユーベル。彼の有り様を見て嘲り笑い失笑を一つ。災厄とさえ謳われる恐ろしき暴君。その仮面の下に秘められた葛藤を見透かしながらも、奏でられた言葉には塵程の憐憫も込められてはいなかった。

「何を今更なことを……言わなくてもわかるだろうに、ああ、それでも僕の口から聞きたいと言うのなら、そうだね。教えてあげようじゃあないか。僕は未だに君のことを唯一無二の友人だと思っているけれど、ことここに至って――」

 焼け野原の中を転がった少女の生首。最早笑いさえ溢してはくれない躯の頸。その光景が、先程眼前で繰り広げられた凶行と重なった。
 「また間に合わない」間に合わなかった。「ずっと会いたかった」そうだとも。「喜べたかい?」うん。「嬉しかったかい?」嬉しくない訳がない。混雑した思考が混迷を来す。混沌と化した脳裏の様相は己自身ですら手が付けられないほどに色々な感情がこんがらがっていて、それでも――
 告げられたのは敵対の宣告。六年という時を経て仕組まれた必然の別離。

「僕達は互いの前に立ち塞がる敵同士……遅くなったけど、改めて名乗らせてもらおうか。僕は悪魔(トイフェル)。大戦が生み出した亡霊にして現存する唯一の死霊術師。世の破滅を願い秩序の崩壊を祈る――言うなれば、敬虔な殉教者さ」

 そう言って、トイフェルは愉快げに口端を歪めた。月光は止まない。ユーベルは考えずにはいられなかった。思い返さずにはいられなかった。
 六年前、己へと声を掛けたトイフェルの姿を。嫌がるエアトリンケンを囃し立て、さも愉快げに声を上げる姿を。不愉快な笑みを浮かべながらも、どこか呆れたような視線を己に向ける友の姿を。
 ああ、そうだとも。地獄は現実(ここ)に他ならない。だからこそ己は、凄惨な現実に抗うべく己自身を――
 暗転。空転。反転。空回りを続ける思考が遮られた。その先には進むな。思い出してはいけない。お前(オレ)は何がために生まれ、何がために生きる? そんな自問に答えなどいらないのだ。ただ殺せ。敵を殺せ。暴虐でもって自己の証明としろ。それだけが暴君(おれ)に許された唯一の在り方なのだから。

「そうか……」

 凡人と化け物。二つの性質の狭間で惑い泣き歪んだユーベルの眼が、冷徹な視線でトイフェルを射抜いた。脆弱なる自己をひた隠し、醜悪に染まった情動を抑え込み、毅然とした態度で悪魔の名を騙った亡霊と相対する。
 そこに迷いはない。その有り様の何と愚かなことか。向かう先に救いがないと知りながらも、それでも彼は暴君として歩むことを止められないのだ。
 だから彼は――

「なら殺す。()が殺す。俺の手で、(てめぇ)を……」

 人でもなく、邪悪でもなく、暴君として己が身に巣食う暴虐を振り翳す。
 ばちりと、雷鳴が弾けるかのような音が響いた。ユーベルの総身を紅い煌めきが――魔力光の迸りが包み込む。身に纏った埒外の域にある甚大な魔力が、彼が生まれ持った超常の力を呼び覚ます。
 其は破滅。歯向かう愚者を一纏めに凪ぎ払う化け物の力。ユーベルは肉体強化により生じた高揚感に酔うこともなく、暴君の忌み名に相応しい冷酷な眼光で立ち塞がる障害(トイフェル)を睥睨した。

「ぶっ潰す」

 奏でられた言霊には、祈りも願いもありはしなかった。そこに込められたのは呪い。人で在れという呪詛。今となっては形骸化した、決して叶いはしない愚かな夢見言。
 ああ――ならばこそ、仮染めの軌跡を迷いなく突き進む彼に、最早救いなど不要な代物でしかないのだろう。

 亡者が笑う。悪魔が嗤う。差し向けられた敵意すら心地好い微風であると言わんばかりに、にこにこにこにこと底知れない笑みで。
 悪魔(トイフェル)ユーベル(・・・・)を嘲笑った。








 二者の邂逅と時を同じくして、手持ち無沙汰に屋敷へ居残っていたリーゼもまた望まぬ再会を果たしていた。
 異変を察したのは必然だった。素っ気なくあしらわれながらも未だ己の所業を省みず、露出過多と言う他ない侍女服に身を包んでいたリーゼ。彼女はユーベルとの目眩く爛れた主従性活を想像しながら、ギルド本部より帰宅したレーツェルから小言を貰っていた。
 曰く、格好がはしたない。曰く、ユーベルさんは絶対に嫌がるはず。曰く、やっぱりリーゼさんには奴隷としての自覚が足りない。
 口を酸っぱくして再三苦言を漏らすレーツェルだったが、ありもしない妄想に現を抜かすリーゼには暖簾に腕押し、ユニコーンの耳に商売女の声だ。だが、そんな彼女と言えど時には言い返したくなる時もある。

「でもレーツェル、貴女だって人のこと言えないでしょう? 何よ、そのはしたない牛みたいな乳は……こんなものでユーベルをたぶらかしている貴女にどうこう言われる筋合いはないわ!」

 リーゼは言葉と共にレーツェルへと掴み掛かった。具体的に言うとギルド職員の制服の下へ隠された魅惑の双丘へ。
 その時レーツェルの脳裏へ消えかけていたはずの疑念が鎌首を擡げた。銀閃乙女は女性のみで構成されたパーティだ。パーティの現頭領であるエミリアを筆頭に美女美少女揃いで、それが故に同性愛者にとって眉唾の楽園でもある。
 探索者として目覚ましい活躍を続ける銀閃乙女のパーティメンバーの中には、そういったことを目的に在籍している者も少なからずいるという話だ。リーゼもまたその一人であったという可能性がないとは言い切れず、寝込みを襲われかけていた衝撃の事件はレーツェルの記憶にも未だ真新しい出来事だ。
 やっぱりこの人はそっちの気の人だったんだ! 己の胸を揉みしだくリーゼの厭らしい手付きに、レーツェルはそうと確信せずにはいられなかった。やばい! 犯される! 助けてユーベルさん! 顔を真っ赤にして抵抗するレーツェルだったが、所詮一介のギルド職員に過ぎない彼女では探索者として勇名を馳せたリーゼの魔の手を払うことは出来ない。

 レーツェルは心の底から嘆いた。「ああ、私の純潔はここで散らされてしまうのね。ごめんなさい、ユーベルさん……」と、己の無力を噛み締める懺悔の声が胸中を満たす。

 勿論、リーゼにそんな気はなかった。彼女にしてみればおふざけ混じりの女同士の軽いスキンシップだ。何やら一週間前からやけに強気になって己を糾弾するレーツェルへ、日頃の鬱憤を晴らしてやろうとふと思い立っただけだ。
 しかし、どうしたものか。リーゼは目を見開き、戦慄すら交えて眼下の光景を眺めた。むにゅむにゅと形を変える柔らかな果実。女体にのみ許された神秘の造詣。それが卑猥に歪む淫靡な有り様は、そっちの気がないリーゼですら熱い昂りを抱かずにはいられないほどだった。
 再三言おう。リーゼにそっちの気はない。彼女は自分自身にそうと言い聞かせながらも、しかしレーツェルの双丘を揉みしだく手の動きを止めようとは思えなかった。
 凄い。何と言うか、凄い。求めざる刺激を受けたせいか、火照ったように顔を赤らめながらも気丈にリーゼを睨み付けるレーツェル。その小生意気な姿はリーゼを怯ませるどころかよりいっそう彼女の胸に芽生えた嗜虐心を煽り、興奮させた。

「はぁ、はぁ……凄いわねレーツェル。彼が病み付きになるのもわかる気がするわ……」

「そ、そんなっ、病み付きだなんて……ユーベルさんはこんなことしません! 貴女のような変態とは違うんです!」

「あら、生意気なことを言うのね……でも、だとするならレーツェル、貴女はこんなにも凶悪な代物を今の今まで持て余していたとでも言うの? 凶悪な代物を」

「な、何で二回も言ったんですか!? って言うかきょ、凶悪って……何ですかそれっ、ひ、人のおっ、おっぱいを、言うに事欠いて! この変態! 変態エルフ! 色情魔!」

「ふふふん、恥じらっちゃって、可愛いのね。そんな姿も素敵だわ」

「えっ、ちょっ――きゃあ! それは流石にまずいですって、ちょっと止めて、止めっ! うっ、うぅっ、ユーベルさあああん! 助けてええええ!」

 ヤバい。レーツェルは貞操の危機が間近に迫ったと気付いて大声を上げた。殊更息を荒げたリーゼがレーツェルの肢体を隠す制服へと手を掛ける。邪魔な衣服を脱がす気だ。白を主色として所々に赤い装飾の施されたギルド職員の制服。その上着の前面を閉ざす留め具が一つ一つと外されていく。
 衣服の隙間から露出した素肌に、リーゼの生暖かい吐息が吹き掛けられた。途方もない怖じ気がレーツェルの総身を駆ける。どうしてか既視感が止まない。そういえば二年ほど前に外来の貴族に目を付けられ、危うく力尽くで手込めされそうになった時があった。
 上流階級向けの豪奢な宿屋に連れ込まれ、腹が突き出た道楽貴族に弄ばれそうになった時、悲観に暮れる己を宿屋ごと吹っ飛ばして助けてくれたのはユーベルだった。
 危うく己もまたお空へ飛んでいきそうになったが、おかげで今もまだレーツェルは純潔を保てている。そう、ユーベルのおかげで。
 それが、未だ何人にも許したことがない純潔が、たった今汚されそうになっている。その恐怖は純朴な生娘に過ぎないレーツェルの心へ大きな影を落とした。

 そんな時だった。屋敷に異変が起きたのは。

 リーゼの思考が常のそれから超一流の探索者として勇名を馳せたそれに――巨兵の名を冠する手練れのそれへと切り替わる。
 この屋敷には数多くの防衛魔術が施されていた。ギルドマスターの指示なのか、あるいはギルド全体の総意なのかは定かではないが、敵性の反応――防衛術式に設定された特定の者以外の侵入、及び無許可での魔力行使反応――を感知し警告や捕縛、迎撃などを自動で行う高度な魔術式の集まりは、ユーベルが自らの手で行った莫大な魔力による補填補強も合わさって凄まじいほどの効果を誇っている。
 そのはずが、術式の感知から逃れて屋敷へと侵入する某かの魔力反応があった。不意の侵入者の存在をリーゼが察知出来たのは、偏に彼女がエルフの中でもずば抜けた才を持つ天才であったが故だ。

「七、八、九、十……いえ、実体が朧気だわ。いくつかは幻影? やけに数が多いわね……」

「……ほぇ? リーゼさん、どうされました?」

 暴走と言うしかない凶行を取り止め、表情を凜と引き締めたリーゼ。突然の変容に疑問符を浮かべたレーツェルは、リーゼのただならぬ様子に何かしらの異変が起こったと察する。
 魔力反応に対するリーゼの知覚はエルフの中であってなお秀でたものである。ユーベルやギルドマスターなど、セントラルタウンに住まう極々一部の例外を除いて彼女に及ぶ知覚を持つ者はまずいないだろう。その優れた知覚は、四方から屋敷の敷地内へと入り込んだ十に及ぶ侵入者の気配を余さず捕捉した。
 言葉少なに、リーゼはレーツェルへ事態の説明を告げる。

「……どうにも、招かれざる客がやってきたようね。少し外に出てくるわ。貴女はここで大人しくしていて頂戴」

 それはレーツェルがはじめて見る、かつて迷宮四天王の一人にも数えられた女傑の――巨兵のリーゼの姿だった。
 彼女はレーツェルと共に屯っていた一室の窓から直接外へ出て、屋敷の庭へと降り立った。
 あまり屋敷の景観を壊したくはないが、致し方ないだろう。事情が事情だ。きっと彼だって怒りはしないはず――

「そういえば、これを使うのも久しぶりね。ゴーレムクリエイト……」

 紡がれた言の葉はリーゼの冠詞ともなった鋼の巨人を生み出す旋律。庭先の大地が捲り返った。地中より盛り上がった土塊の塊は変性を経て鉄へ変わり、人の形を成し、地響きの音と共に大地へ聳え立つ。

「鋼の番人、アイゼンヴェヒター」

 鋼の巨躯を携える巨人。屋敷の庭先に突如顕現した物言わぬ巨兵(ゴーレム)は、遠方から差し迫る十の人影をその無機質な眼窩で捉えた。
 ユーベルに恨みを抱く者による襲撃か。あるいは彼が保有する莫大な資産を狙った襲撃なのか。リーゼは侵入者の目的を思考の片隅で思案しながら、冷静な瞳で人影の姿を見詰める。
 愛しい人のために戦う。そんな状況にどこか懐かしみを抱きながらも視線を鋭くしたリーゼ。彼女の視線の先で、侵入者の一人が歪な笑みを浮かべた。
 「あ」と、漏れ出た吐息は実に呆然としたものだった。ライトブルーの長髪で目元を覆い、同色のローブで男好きのしそうな肉付きの良い肢体を隠す妙齢の美女。その姿を、見間違うはずはない。

「マリ、エラ……?」

 リーゼは己が胸中に芽生えたちくりとした痛みを自覚した。しかしどうしてだろう。彼女は胸へ去来した痛みが、何故かまるで他人のもののようにしか思えなかった。
 地を駆け、凄まじい速度でマリエラがリーゼへと接近する。その手には流水で構成された濁流の長槍。魔法によって生み出された凶刃の煌めきがあった。
 かつて所属を同じとし、志を共にした戦友。暴君に抗い死に絶えたはずの死者が、ユーベルなき屋敷へと襲撃の魔の手を齎す。

 死に絶えたはずの死者が――あるいは、死者達が。

「マリエラ、お前じゃ巨兵の相手は辛い。そっちは俺に任せて、ゴーレムの方を頼む」

「うん、わかったわ……ドルヒ(・・・)さん」

 生死の境が崩れていく。生者が躯の姿を晒し、死者が笑って歩み出す。その混沌とした有り様を、果たして狂っていると言わずして何と言うのだろうか。
 かくして月光の下で繰り広げられる狂宴。際限なき悪意の渦中で最後に笑うのは、はてさて――
『8/16追記』

次の投稿からは元のペースに戻ります。
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