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58.渦が喰らうもの

「ギ……ッ!! ガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」


 巨獣が、手首から先を失った両腕を振り回しながら、絶叫した。

 粘性の強い青黒い液体が切断面から噴き出し、周囲の木々に降り注ぐ。四つある足を踏み鳴らし、首や尾を上下左右に動かしている。


 手首を斬り落としたままの勢いで着地したルースが、息もつかずにこちらへ向かって飛び出した。

「呆けている暇なんかないぞ!」

「グルア!」

 俺のすぐ隣に降り立ったイクシスが地面に伏せて、乗るように促してきた。

「――あ……、ああ、良しッ!」

 巨獣の惨状に圧倒されかかっていた俺は、気持ちを切り替えてイクシスの背に跨る。龍騎士の鎧を固定し、飛び出した鐙に足を突っ込んだ。

 ルースが並んだところで、ドラゴンと魔剣士が飛び上がった。

「グルァアア!」

「――で、ここからどうする?」

 横を飛ぶルースの問いに、俺は口の端を上げてから答えた。

「正直これ以上は何もない。でも、巨獣が作られたもので、上半身を襲う魔法を確実に防ぐ掌があったってことは。鉄壁の防御を敷かなけりゃいけないぐらい大事な……守るべきものがあるんじゃないか、あの上半身に」

「ふむ。と、いうことは」

 俺を乗せたドラゴンと男装の魔剣士は巨獣の正面へと回った。

「ああ。全力全開で――」


 ルースがひらりと俺の後ろに舞い降りる。すでに両手で紋章を描き始めていた。

 イクシスが大きく息を吸う。俺の足に挟まれた背中まで膨らんでいった。


「――撃ち込めッ!!」


 俺の叫びを合図にして、ルースとイクシスは攻撃を開始した。

「<踊る枝葉(エクナズ・テルーブ)>ッ!!」

「グゥルゥウアアアアアアアアアアァァァアアアアアッ!!」

 ルースが俺の後ろから突き出した両手から、二十発以上の黒い光弾が放たれた。

 イクシスの口から、巨大な炎の塊が撃ち出された。

 幾つもの黒い光が満遍なく巨獣の胴体に突き刺さり、馬鹿でかい火球が巨獣の鳩尾にぶつかり、弾ける。

「ギアッ!? ヌゥガァァァアアアアアッ!! お、おお……おのれぇぇぇええええ……っ!!」

 獣じみた悲鳴を上げた巨獣が、一歩二歩と下がりながら俺達を見上げた。慌てて上半身を屈め、自身の体を抱き締めるように、手のない両腕で腹を抱える。

 痛みに気を取られて追撃されることなど考えていなかったに違いない。今更驚きと恨みの籠った視線をぶつけてくる。

 突然、嵐のような突風が吹き始めた。

 繭から巨獣が孵った時の恐怖が蘇る。

「――! 再生する暇を与えるな!! 畳みかけろッ!!」

「言われなくても! <舞い散る毬栗(バモベクナッド)>ッ!!」

「グルァアアアアアアアアアアアッ!! グルァアアアアアアアアアッ!! グゥルゥアアアアアアアアッ!!」

 さらに<舞い散る毬栗(バモベクナッド)>が次々と投げつけられ、夜空を照らす大きな炎が何度も巨獣にぶち当たる。

 青黒い粘液どころか肉片まで周辺に飛び散っていく。

 炎が爆発で撒き散らされ、煙が炎に掻き消されるような、無情な追撃が何度も何度も繰り返された。

 気分が悪くなるが、俺に出来ることと言えば、状況を把握しようとすることだけだ。酸っぱい唾液を無理矢理呑み込んで、巨獣のダメージを知ろうと目を凝らした。

 しかし、炎と煙で、それすらもなかなかままならない。

 俺は正面を見据えながら、念の為に弾倉に魔弾を込めるしかなかった。


 ルースとイクシスの連続攻撃は五分近く続いた。


「……カ、ハッ……!」

 遂に巨獣が崩れ落ちた。

 後ろ足は完全に力が入らないのか、お座りをした犬のように尻が地面に付き、前足は曲げられたまま、震えている。


 それが切っ掛けになったかのように、俺の後ろにいるルースも俺が乗るイクシスも、攻撃を止めた。どちらもこれ以上ないほど息が上がっていた。

「……!」

 煙と炎が風に流されて、巨獣の上半身が露わになる。

 抉られている、という表現が相応しい。胸から腹にかけて、胴の二分の一近くが失われていた。さらに肩や腕に、巨体からすれば小さな、無数の穴。こちらは初撃の<踊る枝葉(エクナズ・テルーブ)>によるものだろう。

 体の内側まで、血と肉の赤ではなく、白い筋とそこに流れる粘液の青黒さだけだった。

 覚悟していたのとは違う、自分達とは決定的に違うモノが持つグロテスクさがあった。

 さらに目を凝らすと――。

 抉られた青白い空洞の一番奥、ヒトでいえば臍辺りに、小さな球体のようなものが埋まっているのが見えた。といっても巨獣の体に比べて小さいだけで、全体を想像すると3mほどだろうか。ガラスのような、泡のような、光沢のある半透明の表皮。

 その向こうには――ヒトの頭らしき影が……。

「……カインド!」

「ああ! 俺にも見え――」


「まだ……!! まだだぁあっ!!」


 俺の台詞を遮って、巨獣が叫んだ。

 頭部を空に向け、前足を伸ばす。後ろ足は震えるだけでまだ立てない。

 次の瞬間、イクシスが流される程の、嵐にも似た突風が吹き付けてきた。木の葉や土埃が尻を下ろした巨獣に向かって吸い寄せられている。


 巨獣の失われた胴体では、内側から膨らむような挙動が始まりつつあった。

 肉そのものがグニグニと断続的に鼓動をして、傷口の境目で皮膚が蠢いていた。

 手首からは黒い枝が伸び出している。こちらも目に見えて動いていた。

 巨獣が孵った繭が作り上げられた時を思い出す。

「あ、あんな状態から再生出来んのか!?」

 俺が驚くしかない間にも、ルースとイクシスは迅速に動いた。

「イクシス、合わせろ! <舞い散る毬栗(バモベクナッド)>ッ!!」

「グゥルゥゥァアアアアアアアアアアアアアッ!!」

 黒い球体と、それよりもずっと巨大な火球が抉られた腹に向けて、撃ち出される。

「まだだと言っているだろうがァアアアアアッ!!」

 咆哮と共に、巨獣が頭部を振るう。目を瞑ることもなく、並んだ二つの魔法に自ら頬を叩き付けた。

 爆音がして、<舞い散る毬栗(バモベクナッド)>の爆発と砕かれた炎が、辺りを照らした。

 炎と煙を振り払って、無傷の犬に似た顔が現れる。物凄い規模の爆炎だったのに傷一つ付いていない。

「……それならッ! <踊る枝葉(エクナズ・テルーブ)>ッ!!」

 俺の後ろから伸ばされた魔剣士の右手から十数条の黒い光が奔る。

「俺も……!」

 腹部を狙って、俺も魔銃を乱射した。

「ガアアッ!!」

 大きく広がった黒の光弾と俺の<貫く枯れ葉(ハサー・テルーブ)>は、半分程が巨獣の頭部に邪魔をされた。残りは胸や肩口に当たっても、腹部には届いていない。

 弾倉を空にするまで撃ってから、俺は呟いた。

「駄目か……ッ」

 しかも、再生は続いていた。

 抉られた部分の肉は動きが激しくなっており、傷口の面積が小さくなっている気さえした。手首の枝は長さを増し、広がっていた。まるで箒である。

「僕が突撃技で決める!! 出来るだけ近付いてくれ!」

 ルースが俺の肩に手を置いて、言った。

 根がヘタレの俺は、反射的に否定しようとして、気付く。


 今が好機なのは確かだ。

 巨獣の両手は失われ、腹部の損傷は激しい。体の奥深くで守られていた、怪しげな場所まで見つけている。再生は速く、完了してしまえば、あの人影が見えた球体を攻撃することは難しい。ヘタをすれば手首だって、生えないとも、くっつかないとも限らない。

 加えて、こちらはすでに消耗し、その疲れはそう簡単に回復しないのだ。


 保身を捨てて全てをかける時は……今なのか?


 俺は頭を掻き毟って数秒悩み、決断した。

「……クソッ、それしかねぇか! イクシス頼むッ!! 正面から向かって側面へ!」

「グルァアアア――ッ!!」

 イクシスが鳴き、巨獣に向かって突っ込む。

 俺はルースが飛び出しやすいよう、ドラゴンの背中に伏せた。

 肩越しに後ろを見れば、ルースはすでに刺突の構えをとっていた。右手一本で握った大剣の切っ先を前に向け、肘を引き、左手は突き出して紋章を準備している。

「ええい、何度も何度もォォオオオッ!!」

 大きく口を開けた巨獣が近付く。迫るイクシスを俺達ごと喰い殺すつもりだろう。

 しかし、イクシスの羽ばたきは、ほとんど直角の軌道を描いて巨大な牙を避けた。伏せていても加速に堪え切れず、顔をドラゴンの首筋に打ち付けてしまう。

 そのままイクシスは左に流れた。

 巨獣が噛み付いてこようとも届かない位置――抉られた腹部は斜め前、同じ高度。距離は10m弱。

 狙うべき球体まで邪魔する物は何もない。

「――無極流……魔剣術ッ!!」

 ルースが叫び、ドラゴンの腰を蹴った。一足で十二分な速度――そのまま腹部まで飛び込める勢いだ。

 しかも、大剣の先から帯状の黒い光が、螺旋を描いて後方に広がっていく。攻性防御魔法<はためく外套(ラツ・グニトゥス)>の効果で、魔剣士の体はさらに加速する。


「黒錐勢ィイッ!!」


「舐めるなァアアアアッ!!」


 ルースの声を掻き消すような巨獣の大音声が響いた。

 手首から先を失った左腕を、自らの腹に迫り来る魔剣士に突き出す。知らない間に、切断面から生えた枝は円錐の形で捩じれていた。

 <はためく外套(ラツ・グニトゥス)>に半ば包まれたルースと、巨獣の左腕が激突する。

「ぬぅッ!?」

「ガァアアアァァ――アアアアッ!!」

 ルースの攻撃は、巨獣の首の付け根近くで左腕に止められていた。

 回転する<はためく外套(ラツ・グニトゥス)>と黒い大剣は、手首から生えた枝を切り刻んでいる。

 しかし、黒い枝が後から後から伸びているのか、新たに生え出しているのか、ルースの突撃は少し進んでは押し返されることを繰り返していた。

「ようやく……掴まえたぞ!!」

 確か、数時間前にあの技を使った時も、ルースは次の攻撃に対応出来なかった。避けることも迎撃することも出来ずに、張り飛ばされた。

 巨獣が右腕を振り上げる。こちらも枝が撚り集まり、手首から先が武器のように尖っていた。

「避けられるものならっ! 避けてみろォオオオオオオオ!!」

 巨獣が渾身の力を込めた様子で、右腕を真下に突き立てようと動き出す。

「ル――ぅあッ!?」

「グルアアアアアアッ!!」


 だが。

 鋭い右腕は、直前でイクシスに阻まれた。


 黒いドラゴンがルースの後ろに回り、その口から光の柱を放ったのだ。

 光系魔法が唸りを上げて迫る黒い枝の集合体を受け止めていた。

 俺は振り回されただけで何もしていない。イクシスの意思だ。

「この……!! 邪魔をするなァアアアアアアッ!!」

 巨獣の頭部がこちらを睨み、涎を撒き散らしながら怒鳴る。

 イクシスの光系魔法は巨獣の手首と同じくらい太く、押し留めるどころか本来なら吹き飛ばしてもおかしくない威力を持っていた。

 しかし、やはり急速に生長する枝によって、一進一退を繰り返している。


 黒い螺旋状の帯を纏ったルースと真っ白な光を放射するイクシスが、それぞれ巨獣の腕と力比べをしている状況だった。


「ぐぅぅぅぅ……ッ!!」

「――ァァァアアアアアアアアッ!!」

「無駄な……足掻きだァアッ!!」


 巨獣の言う通りだ。

 ルースもイクシスもそう長い間、攻撃を続けていられない。

 対して、巨獣は大気中の魔力を吸収することで無尽蔵に再生することが出来る。


「ルース……! イクシス……ッ!」

 俺は後ろと前を交互に見やって、名前を呼ぶことしか出来なかった。ルースの表情は確認出来ないがきつそうに唸り、イクシスは体が震えている。

 途中、抉れた腹部が見るともなしに目に入った。

 肉そのものの鼓動はまだ続いているものの、膨らむ様子はない。傷口全体の面積も縮んでいなかった。未だに青白い肉に埋まった球体は見えたままだ。

 ――ルースとイクシスの攻撃を止める為に、腕から生えた枝の再生を優先させている……?

 彼女達が全力を傾けてしていることには、意味がある。

 だったら、俺だって――いつまでもイクシスの背中でオロオロしている訳にはいかない。


 ――例えそれが醜い悪足掻きだとしても、行動しないで殺されたなんて、アイツに語れる訳がないじゃないか……ッ!!


 俺は周囲を見回した。

 ルースは押し合いをしている間に動いてしまったのか、巨獣の首から2mほど離れた所を飛んでいる。

 イクシスは巨獣の首筋、その真上にいた。ゴワゴワの黒い毛までは5m弱といったところだろうか。

「イクシス、尻尾を下に伸ばしてくれ!!」

 気が付けば、俺は怒鳴っていた。もう魔弾が入っていない魔銃をホルスターに収めると、鐙から足を抜き、龍騎士の鎧をベルトから取り外す。

 イクシスは金色の瞳だけを俺に向けて驚いた表情を浮かべたが、光を放ち続けているので声を出すことは出来なかった。

 ベルトとイクシスの足を支えに尻尾まで辿り着き、そこからはロープを伝う要領で滑り降りていく。イクシスの尻尾はほとんど巨獣まで届いているようなものだ。

 最後の1mほどは飛び降りた。

 巨獣の首と肩の間は緩やかな下り坂だった。全身を使って着地の衝撃を吸収し、そのまま黒い草原のような巨獣の首の上を走り出す。

「――カインドッ!?」

 ルースの<はためく外套(ラツ・グニトゥス)>の余波を避けつつ、腰のバッグを探る。取り出したのは元から持っていた、王都で購入した魔法爆雷だった。

「こぉおおのぉおおお――ッ!!」

 黒い毛と青白い皮膚の境目辺りで足を止め、抉られたその奥に向かって投げ付けた。

 今までの戦闘に比べれば、極々小さな爆発が起きた。

 それでも俺は吹き飛ばされそうになり、慌てて黒い毛で覆われた巨獣の皮膚にしゃがみ込んで、爆風をやり過ごす。

「――ガッ!? な、何だとォオッ!?」

 ようやく俺の行動に気付いた巨獣が驚いた声を上げた。

 煙が晴れると、巨獣の腹はまた少しだけ傷付いていた。すでに胴体を大きく抉られている巨獣からすれば、ほとんど誤差の範囲だろう――別の場所であるなら。だが、吹き飛ばされた少量の肉は、埋まっていた球体周辺の物だ。


 巨獣の腹部の奥に隠されていたモノがその正体を現した。

 球体ではなく、半楕円体とでもいえばいいのか。縦に長い円を立体にして、縦に真っ二つにしたような形だった。表面は光沢のある透明で、本来なら透明だったのだろう。魔法爆雷によって傷が付いたのか、今は大きな罅が全体的に入っていた。

 内側にはどうやら透明の液体が満たされ、そこにヒトが一人、漂っている。

 腕と下半身を後ろの青白い肉に差し込むように埋め、臍から上が斜めになっていた。口も耳も鼻も目も、どこからか伸びた青白い肉片で塞がれている。頭部で見えるのは、頬と額、そして薄い髪の毛ぐらいだ。


 ルークセント国の摂政レストファー・エンバリィが、そこにいる。


「貴様一体……何を……ッ!?」

 球体の中に漂う、青白い肉に覆われたエンバリィの顎が動くと、真後ろから巨獣の声が聞こえた。

「う――」

 俺は衝動のままに駆け出した。

 細身の剣を抜き切っ先を正面に向ける。体を捻り、柄を握る手は自分の脇腹に押し付けるように引く。

 ブーツの裏から伝わる毛の感触が消え、代わりにやけにデコボコな滑りやすい足場になる。抉られた腹部に入ったのだ。

 国への思いも、リリィ達を悲しませたことも、迷惑をかけられたことも、追いかけ回されたことも、頭にはなかった。

 恐怖が半分、ルースとイクシスの助けになればという気持ちが半分。

 ただそれだけだ。


「――わぁああああああああッ!!」


 目の前に迫った、エンバリィを入れた容器に、全体重をかけて剣を突き出した。

 先に罅が入っていたからか、突きだった分技量のない俺でも上手くやれたのか、ガラスに似た表面を突き破り、細身の剣はエンバリィの胸に突き刺さった。

 剣と容器の隙間から水が溢れ、俺にかかる。冷たいと思っている間にも水の勢いは増していき、罅割れがどんどん大きくなり、やがて容器その物が呆気なく砕け散った。

 水流に押し流されそうになるが、剣に体を預けて必死に耐える。

 体の半分が青白い肉の中に埋まっているエンバリィが、外気に晒された。

 溢れ出た水によって、エンバリィの顔を覆った肉片は、その大半が取れていた。農夫が引っ掛けているタオルのように、肩や首から垂れ下がり、ビクビクと痙攣し続ける。

 痩せた老人一歩手前の顔が濡れていた。

「こ……こんな……」

 呆然とした表情で、胸に突き刺さった剣を見たエンバリィが、呟いた。

 巨獣の轟くような声ではなく、目の前の男が発したものだった。後ろからも巨獣の声は聞こえてこない。

 摂政がゆっくり顔を上げる。

 至近距離で見つめ合う破目になった。

 だが、ここで目を逸らす訳にはいかない。

「……こんなことが……コフッ」

 台詞の途中で、エンバリィが血を吐いた。青黒い粘液ではなく、鮮やかな赤だ。


「こんなことが……認められるかぁああああ!!」

「――ッ!?」


 叫んだエンバリィの声が力を持っているかのように、突然、彼の胸に突き立てた剣が押し返された。慌てて柄を握る手に力を込め、全体重をかけて押さえ付ける。

「やっと、やっと手に入れたのだぞ!! どれだけの労力と時間をかけたと思っている! これから……これからだ! 私の覇業はまだ始まったばかりなのだ!! ルークセントを手中に収め、ラチハークを蹂躙し、ハークロウの広大な領土を攻め落として、大陸を我が物とする足がかりにするのだ――! 貴様らのような流れ者など、王女の添え物として初めに殺されるべき脇役ではないのか!!」

 血の混じった唾と共に、エンバリィが俺に怒りをぶつけてくる。

「ぐ、おおお……っ!」

 俺は軽口で答えることも出来ずに、剣を押し続けた。

 巨獣の青白い肉は滑りやすく、何度も足を踏み出して、剣に体重をかける。

「せっかく全てを跪かせる力を手に入れた矢先に……貴様なぞに邪魔されてたまるかぁあああああアアアアアアアアッ!!」

 獣じみた絶叫に呼応して、エンバリィの後ろにある青白い壁が蠢き出した。肉を破って黒い点が現れたかと思うと、あっという間に伸びる。

 何度も見た、急速に生長する黒い枝だ。右に左に揺れ動きながら、こちらに向かって来る。

 足元の肉も波打ち、盛り上がる感触がした。

 さらに、ずっと吹いていた突風が、さらに強くなる。巨獣どころかエンバリィに向けて風が集中していた。

 背中を押してくれるのはありがたいが、それ以上に剣を押し返す力が増し始める。

「ぐううううっ!!」

 ――やっぱり俺じゃあ駄目なのか!?

 脂汗を掻きながら剣を支える俺に、苦しげなのにどこか爽やかな声が届いた。

「胸じゃ、ない! 魔力が集まっているのは……、ヤツの腹、だッ!!」

 巨獣の左腕と押し合いをしているルースだった。

 辛そうに歪んでいながらも美しい顔をこちらに向けていた。赤みを帯びた瞳が俺を見据える。

「――っ!!」

 相棒の言葉に、考えるより先に体が動いた。

 エンバリィに突き立てた剣から手を放し、上半身を捻る。

 支えを失った細身の剣は、俺の目の前を弾かれるように飛び出した。

 左手で赤尾刀を引き抜き、柄頭に右手を添える。引き抜いた動作を溜めとして、エンバリィに体当たりするつもりで一歩踏み出した。


 エンバリィと青白い肉の境目に――巨獣の体で言えばエンバリィがいた場所だ――赤尾刀が刺さる。

 ほとんど抵抗なく埋まっていく途中で、別の感触があった。ヒトや巨獣の肉のような柔らかいものではなく、もっと硬い木のような感触だ。

 しかし、真龍から渡されたと言われる赤い短刀は、刹那の抵抗の後に、柄近くまで突き刺さった。


 まず、唐突に風が止んだ。

 次に、イクシスの放つ光の柱が、巨獣の右腕を貫通した。曲げられた肘から光が飛び出し、手首から肘が一瞬で燃え上がる。

 そして、ルースが巨獣の左腕を肘まで削り飛ばした。四方八方に青白い肉片と青黒い粘液の滴が撒き散らされる。


 だが、俺はまだ安心出来なかった。

 いつ赤尾刀が押し返されるかとひやひやしながらも、エンバリィから離れられない。

「……何の力もない……弱者風情に……」

 エンバリィは掠れた声で呟いた。

 まだ塞がり切っていなかった胸の穴が再生する様子もない。それどころか、元から痩せた体が断続的にしぼんでいた。まるで中身を何かに吸い取られているようだった。

 彼と動きを止めた巨獣の様子を油断せずに観察しながら、俺は答えた。

「私以外の力が、なかなかのものでしたから。……閣下のおかげで、出会えたのですよ。そのことには心から感謝致します」

「……何を言っているのか……わかりませんね。説明する……なら……順序よ――あ」

 急に言葉を切ったエンバリィが、がくんと体を下げた。

 俺はようやく赤尾刀を引き抜いて、二歩三歩と後ずさる。それなのに思ったほど距離が取れない。

 俺が立っている青白い肉が、動いていた。

「――っ」

 慌てて足を動かす速度を上げた。

 俺から見て後ろから前へ、肉が引き寄せられていく。

 いや、良く見れば、赤尾刀が作った傷が周囲の肉を呑み込んでいるのだ。


 エンバリィすら例外ではない。

 ミイラのようにしぼみきった胴体がズルズルと短くなっていった。


「ああ……あああ……ぁぁあアアアアアアアアアアアアア!!」


 最後は啜り上げられた麺のように、エンバリィは一気に吸い込まれた。

 その瞬間に、絶叫もスパっと聞こえなくなる。大陸に名立たる国家を作り上げるなどという野望を抱いた男にしては、あまりにも呆気ない最期だった。

 そしてそれは、青白い肉の動きが速くなったことも示している。

「ヤベ……!」

 俺は振り返って、巨獣の頭部を目指して走り出した。柵もない高い場所などとは言っていられない。

 この肉に巻き込まれて死ぬなんてオチは絶対に嫌だ。

 足元が黒い毛に変わっても、すぐ後ろに例の穴があった。全力で走ってもほとんど離れられない。

「カインド、右だ! 飛べ!」

 上からルースの声がした。

 あまりにも酷な指示に、俺は泣きそうになりながら怒鳴り返す。

「信じるぞ、チクショ――――――ッ!!」

 走る向きを右に変えて、端を目指し、思い切り巨獣の体を蹴った。足場そのものが後ろに動いている為に、ほんの少ししか飛び出せない。

 しかし、こんな時に限ってしっかり足の下には何もなかった。

 体の中身だけが上に引っ張られるような浮遊感をどれほど味わっただろうか。

「――ガッハッ!?」

 気が付けば、俺はルースに後ろから抱えられていた。結構な勢いだったかもしれないが、そんなことは瑣末なことだ。

 彼女の首に手を、腰に足を巻き付けて、ようやく一息つく。

 ルースは<浮かぶ紙切れ(トギルフ・ウォルス)>を描き、少しずつ角度を変えた。巨獣の体から離れつつ、ゆっくり速度が落ちていく。

「ぐるあ~~っ!」

 フラフラとイクシスが近付いてくる。黒いドラゴンはまだ息が整っていないのに、鳴き声は嬉しげだった。

 俺は横に並んだイクシスに顔を向けて、笑いかけた。笑顔が少し硬くても我慢してもらおう。


 俺達が研究所跡に着地したその時、巨獣の体が本格的に縮み始めた。

 エンバリィとそっくりに青白い上半身が吸い込まれ、伏せていた獣の下半身は土埃を上げながら引き摺られる。

 最後には、犬に似た頭部が上を向いてから呑み込まれた。

 残ったのは舞い上げられた木の葉や枝、土ぐらいだった。


 そんな光景を、俺は地面に四つん這いになりながら、見届けた。

 嘘のような静寂が、森に戻ってくる。


 何だかこれで終わったとは信じられず、俺は口を開いた。

「……これって赤尾刀の効果なのか?」

 左手に握ったままだった赤尾刀を見る。

 コイツでただ一か所を刺しただけなのに、巨獣は動きを止め、その体は消えてしまった。

 普通なら考えられなくても、それを為したのが伝説の武器である赤尾刀ならば、と思うのも無理はないだろう。

「まさか。赤尾刀は何でも切れるだけで、こんなことはしでかさない。多分、君はエンバリィと魔力が集まる場所――巨獣の核を切り離したんだ。魔力吸収を制御する為に必要なエンバリィの意思が途切れて、巨獣の核は周囲の物をひたすら呑み込むようになったんじゃ――」


 そこで、後ろから急に、重い物が倒れる大きな音がした。


 慌てて振り返れば、イクシスが地面に倒れていた。

「イ……、イクシス?」

 黒いドラゴンは、伸びた首を投げ出し、翼を畳むことなく広げたまま、腹を土に付けている。息は荒いままで、金色の瞳が瞼で隠されそうだった。

「おい、イクシス!!」

「イクシス、大丈夫かッ!?」

 俺は四つん這いのまま手足を動かし、ルースは一歩でイクシスに駆け寄った。

「グ……、グル、ァ……」

 顔を近付ける俺達を見上げ、馬より大きなドラゴンは小さな鳴き声を上げた。

 ついさっきまであんなに大きな声で鳴いていたのに……。

 いや、あれだけ動き回り精霊魔法らしきものを連射したのだ。しかも、ほんの半日前に体を大きくしている。その前には呻って呻って翼と尾だけ大きくした。

 何より、まだ卵から孵って一週間と少しである。子犬程しかなかった体が本来のものなのは明白だ。

 いくら龍種と言ったって……。


 俺は、あまりにも無理をさせ過ぎたんじゃないのか?


 俺が後悔しているうちに、少しずつイクシスの息が長くなっていく。

 落ち着いたというよりは、力が抜けてそのまま萎んでいってしまうような――。


「イクシスッ! 駄目だ、目を瞑るなッ!!」

 片膝をついて覗き込むルースが怒鳴った。普段ならあり得ない強い口調だった。

 イクシスは何度かゆっくりと瞬きをして、目を瞑った。

「駄目だッ!! 目を瞑るなってッ!!」

 どこかぼんやりと、ルースの声が聞こえる。


「――」


 呆然と見下ろすしかない俺の元で、イクシスは深呼吸するように息を吐き、全身の力を抜いた。

 そして、そのまま動かなくなる。


「イクシス! イクシスッ!! イクシスーッ!!」

 何度も何度もドラゴンの名を呼び続けるルースの声だけが、森の中に響き渡った。

 何秒、何十秒経っても、イクシスが息を吸う気配はなかった。

 それどころか、翼や尾の先が、崩れ始める。

「――あ!?」

 黒い体を揺さぶろうとしたルースが、手を引っ込めた。

 その時になって、ようやく俺の頭は動き出した。

「……イクシス……」

 まるで乾いた砂で作った建築物のように、僅かな風に乗って、イクシスの体が崩れていく。

 あれ程硬かった黒い鱗はそのまま細かくなり、あれ程輝いていた赤い鬣は先から白くなって、それすら消えていく。

 もう、翼と尾は白い砂の山になっていた。


 これが死だというのなら。

 俺は、最期に自分が付けた名前を呼んでやることも出来なかった。

 心を押し潰すような後悔と自責の念――何よりも悲しみが襲いかかってくる。

 俺は天を見上げて、自分が出せるもっとも大きな声で叫んだ。


「………イクシ――――――――スッ!!」


「ぐぁ」

 くぐもった小さな声が聞こえた気がした。ここ数日ですっかり耳に馴染んでいた、可愛らしい鳴き声が聞こえた気がした。

 その声が涙を押し出したようだった。視界が歪み、頬に熱いものが流れた。


「…………カインド、おい……」

 ルースが俺の肩をつつく感触。

 だが、俺に気を使う余裕はなく、空を見上げたまま歯を食いしばる。そうでもしなきゃ嗚咽を漏らしてしまうのだから、仕方がない。

「おいってば!」

 遂にルースが実力行使に出た。俺の頭の天辺に手を乗せて、力尽くで下に向ける。


 俺が見ていない間に、イクシスの黒い体は真っ白な小山に変わり切っていた。

 出来ればこんなものは見たくない。顔を背けようとすると、頭に乗ったままのルースの手が力を増して、阻止される。

 代わりに目を閉じようとしたところで、小山が動いたような気がした。

 真っ白な砂か灰で作ったような小山が震え、小さな罅が現れる。

「……イ……」

 息を呑んで覗き込む俺とルースの前で、元々はイクシスの背中だった部分、翼の付け根辺りが盛り上がり、ぽんと内側から弾けた。


「――ぐぁ~」

 白い小山の頂上から顔を出したのは、小さな黒いものだった。

 赤い鬣にちいさな白い角、丸っこい金色の瞳。

 子犬くらいの体格に、ご婦人に喜ばれそうな愛らしい顔立ち。


「「イクシス!」」


 俺とルースは同時に叫んでいた。

「グア!」

 小さな黒いドラゴン――イクシスは俺達を見て元気良く鳴いた。

 小さな翼を動かして飛び上がる。俺の目の前まで来て、空中に止まった。

 慌てて上から下まで凝視した。

 どこにも怪我はない。表情を見てみても、深刻な疲労や消耗は見られない。せいぜい疲れてだるい、ぐらいの感じだ。

「大丈夫なのか!? 痛い所とか動かない所とかないか!?」

 横から腕が伸びてきたと思えば、ルースがイクシスを掻っ攫うように抱き締めていた。

「グ、グァ~ッ!」

 ルースの腕と胸の間で、イクシスが暴れた。何とか抜け出そうともがく。

 つまり、それだけ動けるということだった。


「っは~~~~……」

 俺は大きく息を吐いた。


 巨獣との追いかけっこに会話、さらに戦闘と、肉体的にも頭脳的にも疲れていた。

 そこに加えて感情的な――緊張からの解放、一息ついてからの悲しみ、結果問題ナシという安心と気が抜けるような気持ち――揺さぶりである。

 やれやれと肩を竦めようとして、力が入らないことに気が付いた。

 しかも地面が傾き出す。

「――あれ……?」

 俺はそのまま肩を地面にぶつけていた。

 すうっと周囲が暗くなっていく。

「え、今度はそっちか!? おい、カインド!!」

「グアーッ!?」

 ルースとイクシスの声が聞こえた。

 遠慮なく体を揺り動かされている気もするが、それもすぐに感じられなくなる。


 何一つ思い残すことなく、俺は自分を連れていこうとする睡魔に身を委ねた。

11月8日初稿

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