55.無駄な議論
風もない森の中に、空気が止まったような沈黙が降り立った。
視線を外さずに返答を待つ俺を、巨獣もやはり見下ろしたまま動かない。
艶一つない黒い瞳と見つめ合うのは精神的にキツいが、ここで目を逸らすとエンバリィの関心を失う気がして、瞬きすら怖かった。
「…………貴方は、大炎上時代の英雄をどう思いますか?」
ぽつりと、その巨体に見合わない声量で巨獣が囁いた。当人は言葉として俺に伝えるつもりがなかったのかもしれないが、周囲の静けさと緊張感がその呟きを俺の耳に届けたようだ。
「――え、英雄?」
――アンタは英雄に倒される怪物じゃないですか。
こんな状況でなければ言い放っていただろうツッコミを呑み込んだ為に、俺は相手の単語をそのまま返していた。
あまりにも予想外の単語に驚いてしまったこともある。鸚鵡返しは会話の流れを止めるとわかっていた筈なのに。
俺の反応に巨獣が軽く首を振った。
「私が言っているのは、『大炎上時代の英雄』――つまり、軍に匹敵する戦力を個人が有していた、という事実をどう思うのか、です。剣ならば大地を砕き空を斬り裂き、魔法ならば大きな街ですら一撃で吹き飛ばす。真龍に近付いたとまで言われるあの時代の実力者達――、彼らはどのような影響を世界に及ぼしたと思いますか?」
補足をしてもらっても、俺は即答することが出来なかった。
実家で招いていた家庭教師が、歴史とそれに付随する出来事の相互作用について何か言っていた気がするが、俺は興味のないことはすぐに忘れてしまう。思い出そうにも悠長なことはしていられない。
だが、黙ってしまえば巨獣が話をする気をなくしてしまうかもしれないのだ。
頭を必死に回しながらとりあえず口を開いた。
「……まず、国力がほぼそのまま軍事力だという常識を覆しました。一人の英雄が大国の軍をどうこう出来てしまう訳ですからね。育成に金がかかるのは当時もそうだったのでしょうが、すでにユミル学院のような戦力育成機関は至る所にあったし、冥王同盟という火薬拡散組織まで存在した……、その上、環境を物ともしない程に力がある者がいきなりポンと出てくるのが、あの時代の恐ろしい所です」
巨獣の表情は変わらない。
これでいいのかと思いつつも、言葉を止めることが不安だった。続けられるだけ続けようと、言葉を重ねる。
「他にはそうですね……単純に戦火が広がりました。移動に時間がかかる軍よりも足が速く、軍ほど戦場を選ばないし、突発的な戦闘も多かった。これは魔獣が使われるようになった原因の一つでもあります。それに、種族や出身国出身地域、使う魔法の種類に剣術の流派……、そういったことに対する拘りをかなり薄めました。英雄は出自に関係なく、その実力故に各国に引き入れられ、引き入れられた者が起点となって同族が集まり、能力や技能があれば重用される。そういった前例を作ったことで、実力主義のようなものが生まれた。確か建国に動いた英雄も何人かいた筈です。後は、国家の権威そのものの衰退も――」
「その辺でいいでしょう」
静かな一言とは対照的に、巨獣の屋根じみた掌が俺に迫った。調子に乗ってしゃべっていた俺は、思わず目をつぶりそうになるが、巨獣はただ制止の為に手を差し出しただけだった。
数秒俺と巨獣の視線を遮った手は、呆気なく引っ込められる。
「貴方が並べたことを全て強引に纏めれば、国家間の軍事バランスを崩した、と言い換えられるでしょう。本来、軍事力というのはそう簡単に増やしたり質を上げたりすることは不可能です。金も人手も時間もかかりますし、大きく動けば他国に知られることは避けられません。それをひっくり返すことが出来たのが……、『大炎上時代の英雄』――急に現れる巨大な戦力です」
そこで巨獣は、理解度を測るように俺を覗き込んだ。
一々心臓に悪い。
「彼らの利点は維持の面でもありました。ヒト一人が食べる食料など幾ら大食いでもたかが知れています。良い装備を与える必要があったとしても、消耗品でなければ、一度用意してあとは手入れをすれば良いだけ。平時に持て余すのが軍隊の常ですが、集団ではなく個人なら、歓待していると思わせるだけの贅沢をさせておけば済んだでしょう。同じ戦力を膨大な人数で都合することを考えれば、資金も手間も雲泥の差なのはわかりますね?」
巨獣の言葉に俺は頷いた。
結構とでもいうように、巨獣が軽く頷き返す。
「ここで重要なのは、当時こういった実力者はどこにでも現れる可能性があった、ということです。大国であろうと小国であろうと、それこそ極々小さな集落であろうとも。引き抜きや意見の食い違いによる鞍替えによって勢力が変わることも頻繁にありました。また、一人のヒトである以上、呆気なく死ぬこともよくあったのです。油断、体調の変化、就寝や享楽の最中を狙った奇襲、毒などで。ある意味ではバランスが取れていたと言えるかもしれませんね」
巨獣はその巨大な手を広げ、月の光に晒した。鍛えた鋼鉄のような鱗がびっしり生えた掌が、巨獣の体の中でほぼ唯一光を反射する。
「しかし、もしも……もしも、大炎上時代の英雄以上の巨大な戦力が、一国のみに生まれたのなら……、決して裏切ることのない立場であり続けたのなら……、易々と死ぬことなく国の象徴として存在し続けたとしたら……これは喜ばしいことではありませんか?」
俺の理解を待つかのように、巨獣は片目だけ大きく広げながらこちらに顔を向けた。
ようやく、俺は彼が何を言いたいのか察した。乾き切った喉から振り絞るようにして、台詞を吐き出す。
「…………つまり閣下は、ルークセントの戦力として、他国にはない戦力として、確実に長く使える戦力として、巨獣の力を欲したと……そう、仰るのですか…………?」
にんまりと笑った巨獣は、勢い良く頭部を天に向け、続ける。
「そう! これだけの強大な力を持ちながら、王であることで国の為に未来永劫尽力し続け、ヒトの身ではどうあっても切り抜けられない障害すら打ち砕く! しかも、この巨獣の体は大気中の魔力を原動力としています、兵糧なんて必要ありません! あまりにも理想的な戦力でしょう?」
森に広がっていく残響が残っているうちに、巨獣は息をついた。
演説だったら、ここから先が最も大事な部分だろう。
森の中にぽつんとある拓かれた場所で、崩れ落ちた研究所の前で、呆然と見上げることしか出来ない俺の目の前で、巨獣は大きく口を開いた。
「この理想的な戦力を持ってすれば、領土を広げることなど造作もない。今はもうない超大国ワト=ベィルほどの繁栄ですら手に入れることが出来る! それどころか大陸を全て我が国家とすることですら、夢ではないのです!! ルークセントを歴史に残る超大国と変える為ならば……、既存の王族も軍人達も、必要なら王都の一つくらい消したって、大事の前の小事と言える。当然、私自身のヒトとしての人生だって捧げましょう! これが――私の覚悟です!!」
巨獣は一頻り自分の演説の余韻を味わっていた。彼の頭の中では万雷の拍手でも受けているらしく、目を細め月の光を一身に浴び続けている。
「……」
俺はと言えば、開いた口が塞がらなかった。
ルークセントを名実ともに手に入れるつもりだとばかり思っていたエンバリィの野望は、もっと大きな物だった。
その野心はルークセントを飛び越えて他の国にも向いている。大炎上時代よりも前に滅びた超大国ワト=ベィルが当面の目標だとするのなら、領土的には三つか四つは国家を吸収するつもりになっているのだ。
だが。
「――そんな簡単に物事が進行するとは、思えませんけどね……」
「……んんッ?」
俺の呟きに、巨獣が敏感に反応した。片目を広げた顔を俺に近付ける。せっかくの良い気分に水を差されたと、その表情が語っていた。
「どういうことです。何か異論があるとでも?」
もう聞けることはほとんどないといっていい。
頃合いだ。議論に持ち込むしかない。
俺は内心気合いを入れてから、口を開いた。
「異論というよりは見通しの話です。大炎上時代の英雄は、その数の多さと、当然のことながらヒトとしての容姿を持っていた為に目立ちませんでした。その気になれば正体を隠して、隠遁すら出来た程に……。それに対して、その巨獣のお姿は目立ち過ぎます」
「それのどこが問題だと言うのです? これだけの巨体と恐ろしい姿を有効活用しない訳がないでしょう。むしろ逆らう者には見せ付け、無様に怯えて貰う為には都合がいいというものです」
「その恐ろしげな姿が問題なのです。あまりにも目立つ上に、印象付けてしまう。大炎上時代でも魔人などは、どちらかと言えば、集中的に打たれる運命にありました。確かに閣下の仰る通り、その巨獣並みの戦力なんてそうそう用意出来るとは思えません。ですが、周辺国家が連合を組めば如何ですか? ハークロウ、ラチハーク、ベネドトーン、ユミル学院……。挟み撃ちなどという生易しいものではありません。完全に周囲全てが敵になりえると申し上げているのです」
「そういった外圧を悉く薙ぎ倒すのが、この大いなる力なのですよ。加えて少々傷付いた所で、ちょっとした時間があれば、大気中の魔力で再生可能です。例え周辺国全ての軍隊と戦おうとも、負けることなどあり得ません」
「私は巨獣の戦力を疑っている訳ではありません。周辺国の軍隊とどこか広大な原っぱで戦うならば、少なくとも勝負になるでしょう。しかし、ルークセントの国境が至る所で攻め込まれた場合、一体どうなさるおつもりなのですか? 巨獣は一体しかいないというのに」
「そんなものは、今ある部隊で足止めをして、私自身が一つ一つ潰していくだけです。水溜りを一つ一つ踏んでいくようにね。自分達ではどうにもならない敵を蹴散らす巨獣の力は、頭まで筋肉が詰まっているような軍人にも、鮮烈な印象を植え付けることでしょう」
「巨獣を相手に、敵が全力で挑んで来る保証はどこにもありませんよ。巨獣が現れた時点で退けば――皆さん必死に逃げるでしょうからね――被害を抑えることは出来ます。しかも他の地域には巨獣がいない、という状況が生まれることになる。巨獣自身には膨大なスタミナがあるとしても、普通の部隊は使えば消耗するのですよ? 閣下が戦場を巡っている間に別の場所では勢い付いた敵軍が進攻し、ルークセント国軍は疲弊してしまい、戦火は確実に国を弱らせます」
「それは周辺国全てが敵になった時の仮定に過ぎないでしょう。一国でも味方がいればそんなことには――」
「最初に徹底的に叩けば、恭順という形で味方を作ることは可能だったかもしれませんが……、今ではそれも無理でしょう。ルークセントは現在閣下のものとは言えません。地均しをしている間に、内乱状態だということと、そのお姿が知られることになります。となれば、当然各国はルークセントの動向に注視することになり、一国が攻め込まれれば、他の国々が反撃という名目で攻め上がるという構図が出来上がる。明日は我が身ですからね」
「対外折衝の重要性を初めから無視していることに気付いていますか? 私はこれでも数十年他国との交渉を担ってきたのですよ。基本的な強硬手段と柔軟姿勢の使い分けで、一国一国相手にしていくことは可能でしょう――」
そこから議論は堂々巡りすることになった。俺も相手を論破しようという気はなかったので当然だった。
エンバリィの主張は力押しの面が強く、突ける所は幾らでもある。
どうも、巨獣の力を手に入れるという目的が先にあって、ルークセントの為に云々というのは後付けの動機という印象だ。
広がった話題から突ける隙だけを探し、二、三付け加えて返すだけで、巨獣が煩わしそうに反論する。
内容は、戦争における巨獣の使い方から他国の軍隊が見せるであろう反応、巨獣を軸とした際の既存の兵力の運用法、果ては平時に巨獣がどうやって体を休めるか、なんてものにまで及んだ。幾らエンバリィが夢見がちでも、自分が眠れるベッドは諦めているらしい。
そんなことを繰り返し、どれ程の時間が経っただろうか。
集中し過ぎて疲れた頭では、時間経過もよく把握出来ない。
議題は戦術的な部分になっていた。
とにかく頭に浮かんだ案を検討もせずにぶつけていく。
「――私がもしその力を有効に活用するとしたら……、敵国の首都で解放させるのが一番だと思います。これなら相手に準備をさせることなく、また巨獣の破壊的な力を思う存分披露しても問題ありません。敵を恐れさせるという効果についても、より劇的と言えるでしょう」
「『巨獣の卵』を開封させる為には、王家の――現在ではリィフ王女しかいませんが――血が必要なのですよ……。敵国の首都まで王女殿下を連れていくというのですか?」
「流石にそれは出来ないとしても、<封印停止>で事前に確保しておいた血液を持っていけば可能ではないでしょうか。攻める前に確認しておく価値はあるでしょう。あるいは王女共々閣下をワイバーンなどで敵本拠地に輸送、行ける所まで行ってそのまま上空で開封、といった流れならば――」
「どちらにしても今更な話です。私は巨獣を量産しようとは思っていませんし、この技術の再現は現代では不可能なのですから。どうせならこれから使える戦術を語ってもらいたいですね」
「そう言われても、私はそう大味な戦力をどうこう出来ると思ったことはないので。そうですね……、やり直しは効かないのですか? 状況を全て元に戻すような……それとも、自由に巨獣としての姿を引っ込め、ヒトとしての体に戻るといった――」
俺がそう言った瞬間、巨獣が急に押し黙ったかと思うと、頭部を肩口に押し付け、肩を振るわせた。隠しきれない含み笑いが、その口から漏れている。
「……フフ、ウフフフッ。フフフフフ……ッ! 何をベラベラとしゃべり始めたのかと思っていましたが、そういうことですか。私をヒトの身に戻す方法を探っていたのですね?」
瞳の端で俺を見据えながら、巨獣は言った。声は笑っていても、俺に向けられた視線だけは本気だった。
慌てたのは俺である。
「い……ッ、いいえ! そんなつもりはありません! 勘違いなさらないで下さい!!」
嘘偽りなくそんな意図はない。
というか、そんな意図があったら馬鹿みたいにそのままな単語なんて出す訳がない。
だが、予想外の指摘に動揺してしまった為に、まるで巨獣の言い分が正しいのを誤魔化そうとしているような反応になってしまった。
「フフッ、そう焦らないで……、ウフフフ! 良いのですよ。貴方の身の上で私を倒そうと思うのなら、巨獣の体からヒトの身に戻す、もしくはヒトの身だけを巨獣の体から一時的にでも外に出させる――この辺りに希望を見出すのも仕方がないことでしょう。ですが、残念でしたねぇ……。一度巨獣としての体が生成された以上、私はヒトの身を取り戻すことはありません!」
「ですから、私は――!」
必死に誤解を正そうとする俺の台詞を、巨獣の言葉が遮った。声量が違うのであっさりと押し負けてしまう。
「先程言ったでしょう、覚悟があると。数百年前、この姿になったジィエロ・ボーチェティは、結局元に戻ることはありませんでした。残された資料には、彼が殺されたことがしっかりと明記されています。そうすることでしか止めることが出来なかった、ともね」
これ以上言い訳を続けても意味はないだろう。立場が上になるほど、一度思い込んだことを考え直すのを嫌がる傾向がある。
相手が無視出来ない別の話題を出すか、情けない醜態で気を引くか。俺は前者を選んだ。
「……そういえば先程名前が出てきた時から疑問だったのですが、どうしてジィエロ・ボーチェティが巨獣になったとわかるのですか?」
「ウフフッ、目論見が外れたというのにまだ続けるおつもりがあるとは、驚きました。それとも誤魔化しているつもりですか? 私などは、もう飽き始めているのですがねぇ」
「いえ、この先、巨獣の姿になっている閣下が、どうやって、ご自身がレストファー・エンバリィ様だと証明するのかと思って……」
離れかけている巨獣の関心を繋ぎとめようと言った俺の台詞に、巨獣は反応した。
結構な勢いで俺に頭部を向け、真剣な表情で見つめてきた。目は見開かれ、鼻孔もやけに大きくなっている。
「…………何ですって?」
「ですから、その姿からヒトの身に戻ることも、その巨体からヒトの身だけをにょろりと出すことも出来ない閣下が、どうやってレイゼスト公爵にして摂政であるレストファー・エンバリィ様だと周知させるのでしょうか……と」
俺がこっそり混ぜたおちょくりにも巨獣は反応しなかった。完全に想定していなかったようで、わなわなと震え出すほどだった。
「前回の騒ぎの時に巨獣となったジィエロ・ボーチェティは、少なくとも数人の前で、その身を変えた……。手記が残っているのです。そして、他の犠牲者達とは違って遺体の記録はありませんでしたが、ある本に挿んであったメモに懺悔のような走り書きが……」
「今回で言うと、変化を目撃した部下の方々は、閣下がご自身で殺害されてしまいましたし……、生き残っているのは私達王女側の者達だけなのでは?」
「……っぐ、ぬぬぅ……」
呻き声が目の前の巨大な口から聞こえた。
焦って藪を突いてしまっただろうか。
俺は話を変えたかっただけで、巨獣をやり込めたい訳ではない。なのに、まさかこんな根本的な部分をエンバリィが想定していないとは思わなかったのだ。
それでも、また話題を変えるのは難しい。おそらく、もう巨獣は別の話には乗って来ないだろう。
今話しているこの流れを止めるのは何よりも避けたかった。
唐突に巨獣が頭部を上げ、嬉しそうな大声を上げる。
「いいえ、貴方達だけではありません! 宮殿にいる貴族や官僚達……私は彼らの秘密を知っていますし、そのうち半数以上は私に弱みを握られていることを知っています。私しか知らない彼らの秘密を言えば、私がレストファー・エンバリィだとわかる筈です。彼らに証明を任せればいい。そうすれば、各部署に配置しておいた私の息がかかった者達も従うでしょう……何せルークセントを繁栄させる偉業ですからね!」
俺はため息を吐いてから、呟いた。
「今まで閣下と接していた者達の中には、その姿でも閣下ご自身だとわかって、その思想や戦略を理解する者もいないとは言えないでしょうが、果たして一般国民が付いてきますかね……?」
「……何が言いたいのです?」
「大した説明もない状況では、閣下は巨大な魔物と変わらないでしょう。例え、官僚などの地位が高い者達が摂政エンバリィ様だと主張しても、簡単に納得する者は少ないと思われます。敵を怯えさせる姿ということは、国を支える土台である国民すら怯えさせてしまうのですから。魔物に国のお偉いさんが脅されていると受け取る者すら出るでしょう。支持が得られない支配は、必ずどこかで綻びが出てくる。他国からの圧力を考えると、その可能性はさらに増すことになります」
「魔獣騎兵が最も指示を受けている国ですよ、ルークセントは。今更少し大きいぐらいで謂れのない恐怖など――」
「ルークセントにおける花形はワイバーンによる飛竜部隊、あるいは今ではグリフォン部隊などでしょう? オルトロスやサンダーバード等、これまで見せて貰った騎兵用魔獣は、どちらかと言えば良く見かける動物に近いもの――ワイバーンは違いますが、それこそ彼らは恰好イイですからね――が大多数です。ワームやキマイラ、スライムなどの馴染みがなく訳がわからないもの、比較的ヒトに近くてもアンデッドやハーピーなどの生理的な拒否感を催すものはいません。閣下は、まだ実際には、ご自身のお姿を御覧になっていないのでしょう? 無礼な物言いを承知で言わせてもらえば――」
決定的な一言を口にしてしまうのが怖くて、一旦呼吸をする必要があった。
しかし、この一言は言わなければならない。
どうせ話が終わるのなら、エンバリィに思い知らせてやりたいという気持ちがある。
リリィほどではないにしても、俺だって怒っていたのだ。
俺は意を決して、はっきりと言った。
「――醜いのです」
「……な、何ですって……っ!? い、言うに事欠いて……!」
激昂しかける巨獣を遮るように、俺は平静な口調を心掛けつつ畳みかける。
「私は端的に事実を申し上げているだけです。四足獣に似た下半身だけなら、あるいはまだ見られたかもしれませんが、如何せん大きすぎますし、お顔立ちもあまり上品とは言えません。その上、前足の真上に乗っている首のない上半身の所為で、股間から頭が生えているように見えるのですよ。異様なのは認めざるを得ないところですけれど、畏怖を与えるというよりは、目を逸らしたくなる嫌悪感の方が大きいくらいでして――」
「……し! しかし、そうだとしても意識は変えられる!! より強い国を作り上げ、富が増えていけば……ルークセントに生まれたことを感謝するようになれば、同時に国の象徴になっているであろうこの姿も、彼らにとって誇りとなっている筈だ!! そうなった時には、今の飛竜部隊やグリフォン部隊のように、私に向かって幼子やその親達まで大挙して押し寄せることだって――!!」
「……それまで巨獣に国民が付いていけば、ですね」
巨獣が焦り始めたということは、追い詰めているということだ。
俺は、左手でルースから預かった赤尾刀の柄を握り締め、右手をそっと背中に回した。剣帯に挟んでおいた壊れた砲槍の柄部分を引き抜く。サラが巨獣に挑んだ時に折れた物だ。
これが正真正銘最期の手段――おそらく数秒稼ぐだけの手段である。
「理想に猛るのも結構ですが、民の意識にも目を向けた方がよろしいかと愚考します。大きな戦力を求めること自体は当たり前ですし、国の為にもなるでしょう。あるいは戦で勝つことを何よりの喜びとする者もいるかもしれない。しかし、考えてみて下さい……。恐ろしい怪物と可憐な少女――どちらが支持を集めるのかを。それとも……こう言った方がわかりやすいですかね? 恐ろしい怪物と可憐な少女、貴方ならどちらを王として頂きたいですか、巨獣閣下?」
「~~グヌッ!!」
遠雷のような轟きが、巨獣の食い縛った牙の間から漏れ聞こえた。続いて、今までで一番激しい歯軋りの音がする。
じわじわと巨獣の右手が持ち上がっていく。
俺はふらつく足に力を込めて、立ち上がった。
同時に赤尾刀を引き抜き、巨獣の頭部に向けて突き付ける。砲槍は体で隠しつつ、残った石突部分が小指側に来るように握った。
「言葉で勝てないから『大いなる力』で叩き潰そうというのですね? それでは王宮の広場でリリィの叱責に怒鳴り返したコーヴィン将軍と変わりませんよ」
「そういう馬鹿な意見を全て駆逐する為に、私はこの力を得たのです……!!」
「初めからそう仰れば良かったのに。お互い無駄な議論をしてしまいましたね」
「こ、の……!! 馬鹿ではないようだから、付き合ってやった恩も忘れて! もう生け捕りにするのは止めです! 永遠に口を閉じていなさい!!」
「いやぁ、例え殺されたって閣下が寝る前に毎晩語らせてもらいますよ。言葉の勝負に負けそうになった途端、暴力で解決したのはどんな気持ちですか、とね」
巨獣の腕がびたりと止まり月の光を隠すも、左手に握った赤い短刀がやけに光っていて暗くなったとは感じなかった。
「――死ねッ、ドワーフ混じりがッ!!」
怒号と共に、ほぼ真上から巨獣の掌が迫ってくる。
ちょっとした家なら屋根になる面積は、俺の足では避けることなど不可能だ。
タイミングを狙って砲槍を使おうと、俺は右手を構え、全身に力を込める。
「――~ッ!!」
極限まで集中した俺には、掌一面に敷き詰められた鱗の一枚一枚さえよく見えた。黒光りする鋼鉄のような、鈍い輝きが近付いて来る。
砲槍の柄にあるスイッチを押そうという、その瞬間。
「ぬあっ!?」
俺を潰そうとしていた巨獣の右手が、下ろされる時よりも速く、跳ねるように上がった。巨獣自身まで驚くような不自然な軌道だ。
「――へ?」
予想外のことに俺も見上げたまま、動けない。完全に行動する機会を逸してしまう。
一秒ほど経った後。
俺の頭上に幾筋もの流星が奔った。俺からするとほぼ後方から前方に向けて、月明かりの中を黒い光が横切っていく。
流星のほとんどは青白い上半身の周りを過ぎ去っていったが、そのうちの一つは奇妙な動きで差し出された巨獣の掌に当たった。
「これは……<踊る枝葉>! やはり仲間がッ!?」
巨獣が叫び、俺を睨む。
「ええい、合流される前に、貴様だけでも!!」
その一言で、俺は我に返った。
巨獣はもう一度俺を押し潰そうと、腕を振り上げ、頭部も近付けようとしている。
状況が変わったのなら、タイミングだなんだ言っていられない。赤尾刀と一緒に砲槍の柄を両手で握り締め、ほぼ勘で角度を調整しつつ柄の上部にあるスイッチを押し込んだ。
「ぅ――あああああああッ!」
石突が爆発し、その威力を支えられない俺は、後方に吹っ飛んだ。
「何!?」
巨獣の大声さえ、一気に遠ざかっていく。
両肩――特に右肩に激痛が走る。
研究所のなれの果てである瓦礫を飛び越えた辺りで、砲槍を放してしまう。
後は落下するだけだ。
「あぁぁ――ッがぁっ!! ぐがががっ!?」
俺は受け身も取れず、滑るようにして転がった。頬が熱い。
「待ちなさい! 逃がしませんよ、ソーベル――!? またか!!」
こちらに足を踏み出そうとした巨獣が、今度は左手を差し出した。
次の瞬間、巨獣の掌に魔法としか思えない光が激突する。
今度は真っ白な光の線だった。<踊る枝葉>よりも遥かに速く、遥に太い。
そして、ぶつかったと思った瞬間、拡散する光の中から弾かれるように、影が飛び出した。
「無事かっ!? カインドっ!!」
その声色を聞き間違える筈がない。
そのしなやかな手足を見逃す筈がない。
何より、その美しい顔を忘れる筈がない。
彼女は、古びたマントをはためかせ黒い大剣を握りながら、上空からまっすぐに俺を見ていた。
「…………ル、ルース――――――ッ!!」
俺はほとんど泣きそうになりながら、相棒の名前を叫んでいた。
10月18日初稿