53.弱者の限界
信号弾の目を焼くような閃光はやはり数十秒で収まった。
ほんの少しだけ開いていた片目は、すでに夜の暗さに対応出来なくなっている。
俺は固く閉じていたもう片方の目を開き、小走りで木々の間を擦り抜けていった。
数分の間、視力に差があって奇妙な感覚だったが、行動出来なくなるようなことはなかった。
「グゥゥゥオォォオオオオオ……ッ!! どこだ……!? どこへ行った、カインド・アスベル・ソーベルズゥウウウウ!!」
巨獣の咆哮が続いている。
そこに風を切る低い音と、固い物が砕かれる音が加わった。巨獣が怒りに任せて巨大な腕を振り回しているのだ。八つ当たりの対象は、すでに半壊していた次世代技術研究所だった。
四つある足を動かさず上半身だけで暴れているとはいえ、視力が完全に失われたとは限らないし、そうだとしてもすぐに回復する可能性もある。
だが、少なくとも俺を見失ってくれたらしい。
「非力なラチハークの小倅風情が……! 自分は何の力も持っていない分際で、ルークセントの摂政を相手に、このような卑怯な手段を用いるなどと!! 許さん……、許さんぞぉオオオオオオッ!!」
傍目には大した速度には見えない巨大な拳が、研究所の外壁を砂でも崩すかのように破壊していた。
あれだけ暴れているなら、少々音を立てた所で気付くことはないだろうが、根が小心者の俺は、足先までしっかり力を入れて進んだ。片手は剣の柄にかけ、鞘を木にぶつけないように細心の注意を払った。
離れようと思えば、それこそ逃げ切れる位置まで離れられたかもしれない。
しかし、俺は研究所から300m強ほどで足を止めた。この辺りが仕掛けた罠の一番外側なのだ。よく目を凝らせば、魔法爆雷を埋めた目印でもある小山が少し遠くに見えた。
「ハァー……、ハァー……、ハ……。……フゥー……」
まずは、巨獣から見えないように背中を木の幹に預けて、きちんと息を整える。
次に、音を立てないように弾倉を取り出し、魔弾を装填した。さっき使った分を埋めるつもりで<貫く枯れ葉>弾を詰めていき、ふと思いついて、一つだけ<打ち抜く煉瓦>弾を入れた。
<打ち抜く煉瓦>が最後の一発になるよう弾倉を調整しつつ、元に戻す。
最後に剣を抜こうとして、止めた。これを使うような状況になってしまったら、俺は死んだも同然だ。
あまり意味がないし、刀身や鞘をどこかにぶつけて気付かれてしまう恐れすらある。
という訳で結局、腰のバッグから信号弾を取り出した。残っていたのは『青』と『赤』で、効果が高そうな『赤』の方を選び、もう一本は戻す。
――もう一回信号弾なんて使ったら、エンバリィはブチ切れるだろうなぁ。いや、そもそも効くかどうかわからないか……。
俺は苦笑いを浮かべつつ、木の陰ごしに巨獣を窺った。
「……ハアーッ、ハアーッ、ハァーッ、ハァッ」
奇しくも、巨獣も息を整えていた。だらりと青白い舌を出し、木々を超えて月の光を浴びる両肩まで上下させている。
すでに研究所は徹底的に破壊され、ただの瓦礫の山となっていた。
仮に誰かが地下にいたら、二度と外に出られないのは確実だ。
「おのれ……!! どこへ行った!? 逃げたとしても、そう遠くには――!」
巨獣がぶるりと体を震わせ、足を踏み出した。犬に似た頭部を左右に振り俺を探しつつ、先程よりは幾分早めに足を動かしている。
挙動を見るに視力は回復したと見た方が無難だ。
俺が潜んでいるのとは別の方向――国道側へと足を進めていく。
両手が届く範囲を手当たり次第に薙ぎ倒すような巨獣の探索は、近くに仕掛けておいた魔法爆雷を悉く作動させた。定期的に巨体に比べれば小さな火花と甲高い音が上がる。
「ええい、一々気に障る……!!」
負傷に繋がらなくても、神経を集中している時に邪魔が入ればイライラするのは当たり前である。
巨獣の動作は目に見えて乱暴になっていった。
長い腕を振り回すのは勿論、前足や頭部まで使って木々を掻き分け、倒し、潰す。途中で爆発が起きる度に、歯軋りをして異音を轟かせ、薙いだ腕で地面を掘り返した。
研究所から南東へ向けてどんどん更地が広がっていく。
ほっとする気持ちと、このままではマズいという焦りに、俺は頭を抱えた。
ヒトが少ない所に巨獣を留める、という目的の為には、巨獣が向かう先を変えなければならない。そのこと自体は簡単だ。俺がここにいることをヤツに教えてやれば済む。
だが、何の策もなくそんなことをしてしまえば、即死を覚悟しなければならない。
自分の身の安全を確保しつつ、巨獣が向かう先を変えるには――。
俺がジレンマに頭を掻き毟っていると、唐突に、地面から空へ黒い雷が斜めに奔った。
黒魔法の<打ち抜く煉瓦>だ。巨獣が暴れ回ったおかげで、木に括り付けた魔銃の引き金に結び付けた紐が引かれたのだ。
ほぼ45度で上がっていく黒い雷は、黒い毛に覆われた下半身の、犬で言うなら右肩の部分に当たった。魔力増量弾らしい<打ち抜く煉瓦>でも、巨獣を傷付けた様子は一切ない。
「ッ!? ぬぅ……そこかぁああ!!」
巨獣は魔弾が発射された場所――やや南に一足で飛び込んだ。
腕と四つの足を使って、周辺を押し潰す。
地面を揺り動かす激震と、重々しい爆音が何度も何度も俺の耳を襲った。サンシュリック村跡まで振動と音は届いているに違いない。
陽動一発分は儲けたことになるが、少し南側に逸れただけで、このまま進めばやはり国道に出てしまう。どうにかして研究所へ戻ってくるように仕向けるか、北か西へ誘導しなければならない。
破壊の様子を見守るしかない中、一つの思い付きが頭に閃いた。
巨獣があの辺りを気が済むまで穿り返すには、少し時間がかかるだろう。
俺は魔銃をホルスターに収めた。
「出て来い、カインド・アスベル・ソーベルズッ! どうせ死ぬのなら、最期の表情ぐらいは――私に見せるのが義務だとは思いませんかぁっ!?」
巨獣の怒号を聞き流しながら、エンバリィの配下から回収した糸を取り出した。輪になった糸は頑丈そうで、頼もしい。
俺は木陰にしゃがみ込み、作業を始めた。
暗い中で目を凝らし糸の先を何とか見つける。絡まらないように慎重に1mほど引き出し、犬歯で噛み切る。
残った束の先に信号弾の引き金代わりである紐を結び付ける。解けないようにいくつも結び目を作り、確認を重ねる。
手近な枝と枝の間に信号弾を挟み、角度を見る。
ダメだ。
気に入らない。
強度が足りない。
惜しい。
何度も試してようやく納得がいく場所を発見する。
ずれたり落ちたりしないように、先に作っておいた糸で、しっかり枝と信号弾を結び付けた。
「……」
俺がそっと覗き込めば、巨獣はまだ土木工事のような破壊に夢中になっている。
今のうちだ。
俺は信号弾に結わえ付けた糸を引き出しながら、木陰から木陰へ移動していった。
ここで見つかってはせっかく仕込んだ策の意味がない。音を立てないように忍び足で歩き、巨獣がこちらを見ていないかと何回も後ろを振り返る。糸がどこかに引っかからないようになるべく真っ直ぐ、しかも出来るだけ距離を稼がなければならない。
途中で引き出す糸がなくなれば別の束の先を結び付ける、なんてことを数度繰り返す。
やがて回収しておいた糸や細引きのロープはなくなった頃。
「ブルゥッ! ブゥ――――ッ! ブルルゥ――――ッ!」
巨獣は森の中に拓けた空き地を作っていた。
食い縛られた歯と歯の間から、低くなった吐息が漏れる。体全体を上下させ、頭部を右に左に振っていた。俺がどこかに転がっていないか確認しているのだろう。
「そこにはいませんよー……っと」
俺は研究所東側で木に背中を預けた。
全ての糸やロープの類を使っても、少々心許ない距離しか取れなかったが、仕方がない。
俺は意を決して、信号弾まで続いた糸を引っ張った。
低い弾道で赤い光が奔る。
狙う位置を吟味しただけあって、木々の間を擦り抜け、巨獣がいる辺りで地面に落ち、煌々と光り輝いた。
「ッがあ!? このォ……ッ、性懲りもなく!!」
流石に目を潰すまでには至らない。
赤い光が消える前に、巨獣は真っ直ぐ信号弾が発射された研究所東側まで走り出した。途中にある全ての物を踏み潰していく。
「……っ!」
巨獣の突進を見て、俺は息を呑んだ。巨獣が走ったことのよる振動でコケないように背中と腕で木にしがみ付く。
「出て来いと言っているでしょう!! カインド・アスベル・ソーベルズゥ!!」
周囲をひっくり返しながら、巨獣が足を進めていく。
まるで子供が片付けを気にせず玩具を散らかすような仕草で、地面を掘り返し、掴んだ木を放り投げる。魔法爆雷が破裂しても気にも留めていない。
……もし糸を使わないで信号弾を打ったら、逃げ切れなかったな。
今更ながら恐怖が湧いて来た。
現在の所、俺との距離は100m弱というところか。
巨獣はそこから少しずつ近付いている。あっちを壊しこっちを壊し、納得がいかないのか、もう一度あっちを壊すという落ち着きのない動作を繰り返していた。
それだけに、逃げるべきか隠れるべきか迷う。急に向きを変えて目が合ったら洒落にならない。
俺は木に身を隠しながら、巨獣の挙動を観察し続けた。
巨獣の新たな更地作りがそろそろ終わろうという時、やや離れた全く別の場所から、黒魔法が夜空に上がった。<打ち抜く煉瓦>よりも細い黒い光線が五つ、<踊る枝葉>である。今度の軌道は、右側前方から上半身の肩辺りへと向かうものだ。
巨獣は、自らの大きさからすれば束になっていると言っていい五条の魔法を、見向きもせずに振るった右手で防ぐ。
「――ぬぅッ!? ええい、落ち着きのないッ!! それとも……やはり、どこかに仲間が隠れているとでもいうのか!?」
戸惑い八割、苛立ち二割といった声を上げて、獣の下半身は<踊る枝葉>が放たれた50mほど離れた場所へと体の向きを変えた。研究所から見れば北西よりやや北寄りというところか。
青白い背中と、黒い毛に覆われた二つの尻尾をこちらに見せる。
二つの尻尾は真っ黒な毛に覆われ、それぞれが盛んに動いていた。まるで木々の天辺から降ろされたカーテンのようでもあり、垂直に切り立った崖にこびり付く苔のようでもあった。
長さは確実に20mを超えている。
何度目かの破壊は、より執拗だった。
巨獣は掌を縦にして地面に押し付け、木々を根こそぎ引き抜き、先程自分で作った空き地に放り投げる。捲れ上がった大地を四つの足で踏み締め、視線は何一つ逃さないという風に機敏に動いていた。
とはいえ、四足獣の形態を持つ巨獣では、真後ろを注視することは難しい筈だ。視界の端で僅かな時間チラ見するぐらいが精々だろう。森を壊しながらでは尚更である。
「……ふぅ……」
巨獣が完全に真逆を向いた所で、俺はようやく一息つくことが出来た。
魔法爆雷はほとんど意味はなかったが、木に括り付けた魔銃はそこそこ役割を果たしている。
こうやってもう少し――いや、出来ればずっと凌いでいければいいのだが……。
ヤツが尻を見せている間にもう少し距離を稼ごうと、俺は一歩踏み出した。進行方向を確認した上で、巨獣を視界に収めながら後ずさる。
前と後ろに幾度も顔を動かしながら、慎重に慎重を重ねて音を立てないように気を使う。
突然、巨獣が動きを止めた。
「――ッ!?」
俺もまた、全身を硬直させた。生唾を呑み込むことさえ怖い。
誓って音などなかった筈だ。
俺とは逆の方向を向いている以上、エンバリィの関心を引く要素はなかった筈だ。
100m程先に、巨獣の後ろ脚と尻尾が見える。
その尻尾までも、鎌首をもたげる形で、二本同時に停止していた。どちらも先端が、俺に向けてピンと尖っている。
「見つけたぞォ……ソーベルズ!」
巨獣が首を曲げ頭部の半分をこちらに向けた。
――な、何故!?
恐怖と困惑で動けない俺の目に、黒い尻尾の先端が真ん中から開くのが映った。
先が割れてしまった筆のように開いた毛の中には血走った目玉があり、頭部についた暗い両目と同様、俺を真っ直ぐに見つめていた。
目玉の直径は、確実に俺の身長を超えている。
薄暗い森の中、黒一色である巨獣の下半身のうち、その目玉だけが白い。
「――う、うわぁあああああ!!」
気が付けば俺は叫んでいた。
敵に見つかったという単純な恐怖よりもずっと衝動的な、心の奥底から沸き上がる気持ち悪さ。
取り乱した俺の様子を二対の目でじっくりと観察した巨獣は、四足獣のような下半身と首のない上半身、両方の肩を振るわせ始めた。
「……フ、ウフフ、ウフフフフ……。アハハハハッ! アーッハッハッハッハァ!! そう、その反応ですよッ!! 私が欲しかったのは!!」
荒くなっていた口調が元に戻っていた。俺の醜態を見て、機嫌を直したのだろう。
「く…………そぉッ!」
逃げ出そうとする足を踏ん張って、俺は最後の信号弾を取り出した。頭部というより俺を見据える二つの尻尾を目掛けて構え、紐を引く。
青というよりも透明感のある水色に近い光が一筋の軌跡を残して走っていった。
「フハッ! 性懲りもなく……!!」
巨獣は顔を背けることも目を閉じることもしなかった。前足を軸にして後ろ足のみで跳び、俺に向き直ると、自分に迫ってくる信号弾を巨大な掌で叩き落とした。
「なっ!?」
地面とそこに押し付けられた巨獣の掌の隙間から強烈な青い光が漏れ出るが、直接目に入ることはほとんどなかった。木の幹も根の近くが空色に染まるだけで、葉まで光が届かない。
「そう何度も通用すると思っていたのですか? 成功体験に引き摺られるのは状況と自己分析が出来ていない証拠で――」
「――っ」
巨獣の台詞を最後まで聞かず、俺は踵を返して走り出した。
もはや嫌悪感や恐怖を抑え付ける必要はない。
ごつごつした地面を気にする余裕もなく、ただただ巨獣から離れたいという衝動に任せて、足を動かした。
「まったく、人の話は最後まで聞きなさいと教わらなかったのですかねぇ……。まぁ、見つかってしまった以上、貴方に出来ることは逃げることぐらいですか。私は流石に少々飽きましたが、付き合いましょう。これが最後だと思えば、むしろ名残惜しくすらありますからね、ウフ、フフフッ!」
後ろからいやらしい笑い声がするのも構っていられない。
今度こそ逃さないという意思表示のように、さっき追いかけられたよりもずっと早いペースで足音が響いているからだ。
俺は、木を目隠しにして何とか撒こうと右に左に方向を変えつつ、走った。
だが、逃げる向きに変化をつけても、歩幅の大きい巨獣を撒くことは出来ない。
「ハアッ、ハアッ、ハア――うぁッ!? ぐぅっ、ハアッ!」
何度も木の根に足を取られる。
整えた筈の息が先程以上に早く上がる。
魔法爆雷を埋めた小山を見つけて近くを通り過ぎても、小さな爆発では巨獣の足を止めることは出来ない。
右に左に方向転換をして撒こうとしても、巨獣の歩幅の広さの前にはあまり意味がない。
「もう信号弾はないのですか? それとも『陸酔』をもう一瓶取り出してみせますか? あるいは、たまたま一つくらい高威力魔法爆雷を持たされていた、なんてことは?」
一度俺を捉えた巨獣にとって、乱立する木はほとんど障害にならなかった。
肩越しに後ろを見れば、見逃さない為か犬に似た頭部をやや下げ、鼻先で森を切り割るように向かってくる。さらに、腕を振り回し、掘り返した地面を空に投げたりと、傍目にははしゃいでいるようにしか思えなかった。
ヘタに足掻いた結果、巨獣との距離は着実に縮まっていた。
いつの間にか50mを切っている。
「この辺りが貴方の限界ですか、カインド・アスベル・ソーベルズ。大体、ただの旅人である貴方が私と対等に何かが出来ると思うこと自体、間違っているのです。圧倒的な強者となった私に対して……弱者である貴方は、ただ畏れ、逃げ惑うことが本来の姿だと――、そう思いませんかッ!?」
やけに強調して巨獣が叫んだ瞬間、俺の背中をとんでもない衝撃が襲った。
「う――」
一瞬、あの長い腕で殴られたかと思ったが、違う。
巨獣は腕を大きく振るっただけだ。
俺の背中を襲ったのは、その風圧だった。
地面を抉った手の爪先は10m以上離れていたというのに、俺は吹き飛ばされた。
「――ぅわぁああああああああああああああああ!!」
自分で走っていた時とは比べ物にならない速度で、木と木の間を土塊や小石と一緒に、宙を舞う。
時間が引き伸ばされたような感覚の中、全身が振り回され、方角はおろかどっちが下かもわからない。
十数mを飛び、途中木に叩きつけられることもなく、俺は地面に落ちた。
何とか頭から落ちることだけは避けたが、勢いを殺し切れずに盛大に転がっていく。
二度三度と回転して、最後には横向きなったまま地面を数mを滑る。
「ゲホッ、ガハッ、ガハア!! う……っ、ぐぅ~っ!!」
呑み込みかけた土や砂を吐き出した後は、地面に横になったまま体を縮こまらせて、ただただ呻いた。
痛いというよりは体中が痺れたような感覚だった。特に背中や足の後ろ側が強烈なビンタを喰らったかと思う程熱かった。直接瓦礫の欠片を喰らった先程よりも、ずっと堪える。
全身から脂汗が吹き出し、体が空気を欲しがっているのに、歯を食いしばる為には口を開けない。
目を瞑って耐えようとする体を叱咤して、頭を起こし、自分がどこにいるのかを把握する。
最初に目に入ったのは、何に遮られるでもなくこちらを照らす月だった。
ついさっきまで頼りにしていた木々が周りにない。
森の中にある拓けた場所――研究所があった場所の近くまで俺は飛ばされたらしい。
背中側には瓦礫の山があり、地面に接している左半身にはゴツゴツとした砕けた建材の感触があった。
森の中から出されてしまったことになる。
「ぐぎ……!! ハアッ! ハア! ぐぬぬ……!」
徐々に衝撃は抜けてきても、いっこうに息が整わない。
こんな場所で寝転んでいる訳にはいかないと思っても、足に力が入らず、震えるばかりである。
その上、地面に寝転んでいる為に、わかり過ぎるほどにわかってしまうのだ。
俺を煽るように、ずずん……ずずん……と、いう重く低い振動が森全体を揺らしているのが。
「そう……これが私と貴方の正しい在り方です。ウフ、ウフフフフ……」
巨獣が余裕を見せながら、姿を現した。
青白い上半身だけでなく、犬に似た頭部までが月の灯りに照らされた。だが、黒い毛も真っ暗な瞳も、淡い光を全て吸収し、僅かな反射一つなかった。
「少々手こずったことは認めましょう。貴方は頑張りました。いえ、この追いかけっこのことだけではありません」
森から一歩踏み出し、静かな、優しげとも取れる声色でエンバリィが言った。
「ハァ、ハァ、ハッ!」
俺は左腕で上半身を起こし、自由にならない足に鞭打って、這いずろうと努力を始めた。ほんの2m程先にある瓦礫までが遠い。
僅かに痺れる右手で魔銃を握る。
「『巨獣の卵』の発見、スロウルムの撃退、王女が飛び出す切っ掛け……。全て何の関係もない貴方が重要な役割を演じましたからねぇ。私の為に動いてくれたと言っても過言ではないでしょう」
「ぃやぁ、ゲホッ! ゴホッゴホ! う……、動いたのは……私だけでは、ありません――よッ!!」
むせた動作にとっさに紛れさせて、俺は近付いて来る巨獣に魔銃を突き付け、狙いを絞ることもせずに撃った。その間も後ずさることは止めない。
<貫く枯れ葉>が犬に似た顔の鼻先にぶつかり、弾けた。続けて、眉間、耳の付け根と命中していく。
「フ、くすぐったいというより突かれたような感触です。どちらにしても魔弾の無駄としか表現出来ませんよ」
覗き込むように頭部を下げた巨獣が苦笑を見せ、大袈裟な身振りで肩を竦めた。上半身と下半身の境目辺りで地面と平行になった両腕は、俺からすれば塔が倒れているようなものだ。
――効果がないのなんて百も承知だ。
だが、しかし。
俺は引き金を引き続けた。
上半身鳩尾へ奔った<貫く枯れ葉>は、意外に機敏に動いた巨獣の右掌に防がれ、再度真っ暗な瞳に向かった一発は、吸い込まれたとでもいうように弾けることすらない。
最後の一発である<打ち抜く煉瓦>は、ほぼ目の前に迫った爪先に当たるも、少し弾ける勢いが強いだけで損傷を与えたとは思えなかった。
時を同じくして、背中が瓦礫の山に触れた。これ以上下がることは出来ない。
「さぁ、これで諦めがつきましたか?」
巨獣は遂に足を止めた。
これ以上進めば体の下に入られる可能性があるという判断だろう、およそ10mほど――ヤツの息がかかってくる――距離だった。
俺は何度か引き金を引いて、ただただ弾倉を回した。
「…………ええ」
魔銃を下ろし、呟く。
そして、長く深く息を吐いた。
攻撃することも逃げることも諦めた。やり切った爽快感すらあった。
――それでも。
俺は顔を上げ、すぐそこで俺を見下ろす巨獣に向けて、口を開いた。
「その代わりといっては何ですが、一つ教えていただけませんか? サートレイトを襲った盗賊団は何故『龍の卵』なんて物を持っていたんです?」
俺に出来ることが一つだけ残っている。
たった一人の戦いは、ここからが本番だった。
10月6日初稿