52.瞳の奥は暗闇よりもなお暗い
最初に感じたのは、微風だった。
ようやく日が沈んだ頃、俺は研究所の壁に背を預け、これまでのアレコレを思い出していた。盗賊団に浚われた夜から、巨獣となったエンバリィが倒れるその瞬間まで。
「思えば遠くに……いや、距離的には予定の八割にもいってないか……」
自分のつまらない独り言に苦笑したその時、緊張で汗ばんだ肌に、静かな風が吹き付けてくる。
取り立てて気にせず、思考に没頭しかけた俺は、一つの違和感に気が付いた。
自然に吹く風ならば必ずある、風向きや強さの変化、波のようなものがない。一定の風速で同じ方向から吹き続けている。
「――ッ!?」
慌てて立ち上がり巨獣を見れば、あれほど激しく上下していた胸は、深く大きな呼吸によって落ち着いた動きを見せていた。
視線を左右に動かすと、左右から中央に向かって木の葉が吸い寄せられている。
巨獣の卵が孵った後――黒い枝々が密集して巨木が立ち上がる際に、突風が吹いた。
そして、確かあの時も一定の強さと向きで……。
嫌な予感と重苦しい恐怖が増してくる。
俺は腰のバッグを探って、憲兵達に貰った信号弾を取り出した。
勿論、これで巨獣の目を覚まさせてしまう可能性はある。しかし、リリィ達が目的を達成出来なかった場合でも、周囲に危険があることだけは伝えなければならない。これは、俺の最低限の仕事だ。
薄暗い中で『赤』を選び取り、俺は意を決して、真上に向けて信号弾の端から伸びた糸を引いた。
光の精霊が先端から飛び出して、上空まで奔り、弾けた。月明かりに照らされた帰らずの森を、数十秒だけ、赤い光が染め上げる。
その強い光の下、巨獣は全身をピクピクと震わせ始めた。さらに奴に向かって風が吹いているのが木々の揺れ方でわかる。
体の中央にある犬に似た頭部が、その巨大な口を閉じ合わせた。森中に響き渡るような歯と歯がぶつかる音がする。
続いて歯ぎしりだろうか、石臼を回した時に似た、けれども耳を塞ぎたくなるほど不快な音。
信号弾の光が呆気なく消え、一度明るさに慣れた目を凝らさなければならなくなった頃――。
一気に風が強くなり、巨獣ゾフェンドは突然その瞳を見開いた。
薄い闇の中でもより暗い、暗黒としか表現出来ない眼球が現れる。
「――ッ!!」
研究所の陰から覗いている俺がすぐさま見つけられる筈もないだろうに、目が合ったかのように真っ直ぐ巨獣に見据えられた気がして、背筋が凍った。
だが、巨獣は俺に気付いた様子もなく、犬に似た頭部をキョロキョロと動かし始める。
「――グ……、ぬぬ……ッ!」
何かを見つけた訳でもないだろうに、轟くような呻き声が上がった。元から歪んでいた顔がさらに酷いことになっている。呑み過ぎた翌朝にお馴染みの頭痛だろう。
さらに頭のないヒト型の上半身も動き出した。
青白く、巨体に比べても長く見える腕を広げ、木々をなぎ倒しながら手をつく。傍目にはゆっくりとした動作で獣の足を動かし、四つの足を地面に接する。微かな地響きが鳴り、少し離れている俺の足元まで僅かに振動が届いた。
小さな丘ぐらいだった巨獣のシルエットが、上に向かって伸びていく。
ごおっと一際強い風が吹き、呆気なく止まった。
巻き上げられた木の葉や枝が地面に落ちれば、森全体が死んだように静かになる。
「……ぉぉ………お……」
巨獣の上半身は木を超え、月明かりをじかに浴びていた。青白い肌がほぼ真っ白に見える。
離れていても見上げるような巨体は、数時間視界に入れていたにも拘わらず、起き上がっただけで衝撃的なほどに新鮮な威圧感があった。
「……グゥオオオオオオオオオオオオ――――――――オッ!!」
唐突に巨獣が吼えた。欠伸なのか怒声なのかわからないが、犬に似た頭部は空を向いていた。
耳に直接棒でも突っ込むような、暴力じみた轟音が森全体を揺らした。
未だ残響が残る中、巨獣は本来なら頭がある筈の肩と肩の間に大きな手を伸ばす。頭痛を紛らわそうと額に手を当てようとしたのかもしれない。
「……くっぬぅぅ……。おのれ、あの小娘どもが……ッ! 今は一体――」
苛立ちも隠さずに呻いた巨獣が左前脚を踏み出したその時、足元の地面が爆発した。
俺が仕掛けた魔法爆雷だ。
「――!? ぬぁ?」
といっても、巨獣に傷を負わせるどころか、脚を浮かすことも出来なかったのだが。
ヒトが踏んだ場合なら確実に足が吹き飛ぶ威力も、エンバリィが手に入れた巨体からすれば小さな花火ほどの衝撃も与えていないようだ。
爆発音ですら、巨獣の雄叫びに比べれば悲しくなるほどささやかな物だった。
それでも驚いたようで、巨獣は体勢を立て直すかのように四本の脚を動かした。
今度は左の後ろ脚が魔法爆雷を踏んだ。バフンという音が上がり、土や小石が撒き散らされる。
「こんな物で今の私を倒せるとでも……? 罠…………いや、ただの置き土産……か!?」
マズい。
ここまで効果がないと、罠というよりも嫌がらせといった印象を相手に与えてしまう。行動が慎重になる程度の脅威にはなるかと期待していたのに、それすら望み薄だ。
自分が安全だとわかれば、当然関心は外へと向く。
巨獣は犬に似た顔をしかめて周囲を見渡した。
「逃げるとなったら、近場ではサンシュリック村跡かテーベルク……、あるいは王都に向かった可能性も……」
言いながら一歩踏み出した毛むくじゃらの脚の下で、またも魔法爆雷が爆発した。それでも巨獣は止まらない。
俺にとって絶対に不可能なのは、エンバリィの意思に反してヤツの巨体を押し留めることだ。巨獣が別の場所へ行こうと思ってしまったら最後、何もすることが出来ない。
それを避けるには、彼の関心を俺に向けるしかない。
例え、殺意という関心でも。
「――ッ」
そこまで事前に考慮していたというのに、このまま放っておけば、という思いが一瞬頭をよぎる。
サンシュリック村跡からの避難は完了している筈だ。次の村は帰らずの森に囲まれている訳ではないので、巨獣の姿を確認してから逃げ出せば一般人への人的被害はなくなるだろう。
巨獣が真っ直ぐ王都に向かうにしても時間がかかるし、その間に反乱が治まっていれば迎撃することも出来るかもしれない。
対して、俺がたった一人で立ち向かう意味は気休めみたいなものだ。
巨獣がどこかに行くまで身を隠し、ユミル学院まで逃げ込んで事情を話せば、身の安全ぐらいは――。
「……こ、のぉッ!」
俺は震える足を叩き、研究所の陰から飛び出した。
今更逃げ出す訳にはいかない。
ルースとイクシスが見せてくれた信頼、リリィを助けたいという思い、ルークセントでの立場。色々と理由はあるが、ここで降りればこの話をモントに面白おかしく語ることは出来なくなってしまう。
巨獣の上半身は国道側――東南を向いており、四足獣にしか見えない下半身は方向転換の為に曲がっている。今なら下半身が邪魔にならずに上半身を攻撃出来る。
ほとんど空に向かって魔銃を構え、俺は引き金を引いた。
目の前の巨体に比べれば髪の毛にも等しい<貫く枯れ葉>が、真っ直ぐに青白い背中の一点を目掛けて跳んでいく。
完全に不意を突いた筈の一発は、振り向きざまに差し出された右手で呆気なく防がれた。
「――ぬ?」
続いて下半身の頭部がこちらを向き、今度こそ俺と目が合う。
途端に、恐怖を塗り潰すほどの嫌悪感が全身を駆け巡った。サンシュリック次世代技術研究所を初めて見た時の気持ち悪さを何倍も――何十倍も濃くしたような、目を背けたくなる衝動だ。
俺は気合いを入れ直し、少なくとも数十mは離れているのに見上げなければならない巨獣に向かって、口を開いた。
俺に巨獣を押し留める力がないのなら、言葉で敵を縛り付けるしかない。
「おはようございます、エンバリィ閣下。御気分はいかがですか?」
何とかいつもの声が出たことに安堵した。すでに背中は冷や汗でぐっしょりだし、魔銃を握る掌が不快になるほどベタベタしている。
「……カインド・アスベル・ソーベルズゥ……!」
肉食獣が威嚇する時にも似た唸りを伴って、巨獣が言った。自分でその響きに気付いたのか、続く言葉はあからさまに冷静を装っていた。とはいえ、全身を叩くような大音声であることに変わりはない。
「……ええ、気分は悪くありません。この頭痛さえなければ、ですがね」
月の光では心許ないが、相手が大きいだけに表情の変化ぐらいは見てとれる。
垂れ下がった耳の向こうまで裂けた口が1m近く持ち上がっていた。エンバリィとしては微笑したつもりなのだろう。
「おや、それは申し訳ないことを致しました。あの酒――陸酔は二日酔いにならないことがウリの一つだったのですが」
「今後は量や濃さに注意することにしましょう。ところで……王女達はどこへ行ったのです?」
前半は短い鼻先をヒクヒクさせながら、最後の言葉はやや凄みを利かせて言い放ち、巨獣が一歩踏み出した。当たり前のように、俺の足元まで振動が届いた。
後ろに振り返って逃げ出したくなる衝動を堪えて、俺は肩を竦める。
「さぁ? 置いてけぼりを食った私にはわかりかねます」
「ハッ、何を言うかと思えば! つまらない冗談はお止めなさい……!」
巨獣が首を下げ、俺を睨んだ。
いい感じにイラついているようだ。
「ですが色々と想定することは可能でしょう。例えば、コーヴィン将軍に事情を話し仲間に引き入れようとしているかもしれませんし、信頼出来る勢力へ援助の要請をする為に移動しているかもしれません。それとも閣下のお姿に恐れをなし、人里離れた山奥へ逃げ出しているかもしれませんね」
「……もうよろしい」
「そうそう、サンシュリック次世代技術研究所の地下に隠れている可能性も捨てきれません。もしくは、グリフォンとドラゴンの翼を持って空を行く城――白城まで逃げ込んでいるということもあり得るのではないでしょうか? あるいは――」
「もうよいと言っているっ!!」
俺の言葉を遮ったのは、ほとんど爆発としか言えないような怒号だった。
恐怖ではなく、衝撃でひっくり返りそうになる。倒れそうになるのを必死にこらえつつ、俺は静かな声で付け加えた。
「……あるいは、すでに準備万端、罠と共に周囲に潜んでいるかもしれません」
巨獣は黒い毛に覆われた頭部を開き、白い牙と真っ赤な口内を剥き出しにした。
おかしな話だが、俺の身長を超える巨大な牙よりも口の中の方が恐ろしかった。
歯の内側に収まった舌は青白く奥まで続いている。それ以外は全て血をぶちまけたように赤い。趣味の悪い絨毯を敷いた、壁から天井まで赤い洞窟を連想した。
「……わかりました。貴方はあくまで巨獣ゾフェンド――私を馬鹿にするということですね。それならばこちらにも考えがあります」
巨獣が前足を動かさないまま、後ろ足だけを移動させ始めた。円を描くように左へ回っていく。
「恥ずかしい話ですが、私も年甲斐もなく焦っていたようです。けれども、この素晴らしい力を得た今、もう焦る必要などありません。王女の足取りがわからなくなることが心配といえば心配ですが……、あの甘っちょろいお姫様のことです、どこにいようとも心を許した仲間が傷付けられることがあれば、取り乱すことでしょう」
台詞の途中で左後ろ足の下で魔法爆雷が破裂した。それでも巨獣は何事もなかったかのように話を続けている。
大した間もなく、もう一つ魔法爆雷が巨大な足に踏まれ、パァンという音がした。
もはや嫌がらせにもなっていない。
やけにゆっくりとした動作で、研究所の傍にいる俺に対して巨獣が真正面に向き直った。
「カインド・アスベル・ソーベルズ……、貴方には、王女達の動揺を誘う役割を与えます。周囲に仲間――あの剣士やドラゴンが潜んでいれば貴方の危機に飛び出してくるでしょうし、もしどこかへ避難したのであればあぶり出すのに使えます――」
「……」
俺は表情に出さないように気を付けながら、巨獣の台詞を吟味した。
俺を人質として使うつもりならほんの少しだけ楽になる、かもしれない。
気を使った攻撃は精彩を欠くだろうし、なりたての新米巨獣では力加減も難しいだろう。蟻を殺さないように捕まえるのは案外骨が折れるものだ。
その隙を突くことが出来れば。
だが、俺の淡い期待は呆気なく打ち砕かれた。
牙を剥き出したまま、巨獣は器用に口の端を上げた。潰れた鼻を持つ犬が、まるでヒトのように、いやらしい笑顔を見せる。
「――例え死体でも、見知った者のなれの果てが八つ裂きになる光景は、見たくはないでしょうからねぇ」
巨獣を留め置く為に、俺を標的とすることには成功した。それでも喜ぶことなど出来ず、生唾を呑み込んで呟くしかない。
「……そ、それは何とも……合理的なことで」
「あれだけ邪魔をして、これだけ馬鹿にしてくれたのです。当然、死ぬ覚悟ぐらいは出来ていたのでしょう?」
「――ひッ!」
巨獣が前足に体重をかけるのと同時に、俺は今度こそ踵を返して走り出した。怯えた仕草は演技だが、情けない悲鳴は勝手に喉が縮こまって出たものだ。
研究所の外壁に沿って、全力で足を動かす。
巨獣の馬鹿みたいに大きな足音が迫ってくる。
ただ、俺を嬲る為か、足音と足音の間隔は断続的な歩く時のものだった。それでも引き離すには至らない。
俺の必死になった全速力と、敵の余裕を見せようという歩みが、同じぐらい。
ルースやサラの身体能力を間近で見ているだけに、自分が情けなくて泣けてくる。
「ハァッ、ハァッ、ハ……ッ!!」
形振り構わない全力疾走で、一気に息が上がった。
ちらりと後ろを振り返れば、研究所の壁から巨獣の潰れた鼻先が僅かに出ていて、少し視線を上げると、研究所の向こうに月の光を浴びた巨大な肩が見える。
研究所を半周近く走っても、いっこうに差が広がらない。
「ハッ、クソッ!」
何とかもう少し離れることが出来れば。
俺が狙っているのは、研究所を間に挟んだ追いかけっこだ。子供が喧嘩した時によくやる、机なり柱なりを間に挟んで、回ったり止まったり隠れたりたまにフェイントを入れたりするアレだ。
そこから相手の隙を見て森の中に逃げ込みたい。
そうすれば木々が目隠しになるし、さっき仕掛けておいた罠だって使えるだろう。
「――まったく無様ですね。何か策略の一つでもあるのかと思えば……。戦いたいのか逃げたいのか馬鹿にしたいのか……はっきりして欲しいものです」
どこか投げやりな巨獣の声と共に、ぶおっという風を切る音がした。
次の瞬間には、衝撃と轟音と震動がほぼ同時に襲いかかってくる。
巨獣が巨大な拳を研究所に振り下ろしたのだ。
「――う、ふわッ――ハッ!!」
つんのめった俺は変な声を上げながら、死に物狂いで体勢を立て直した。転んだらそこでお終いなのだから当然である。
どうやら巨獣が振り下ろした右手は、屋上から地面までを打ち砕いたようだった。外壁の破片や漆喰の欠片などが降って来る。
「そういえば研究所の地下に王女達が、などと言っていましたねぇ。可能性は潰しておきましょうか」
足音の間隔を変えずに巨獣が言った。
物が崩れる音は続いていた。
それどころか、新たにより大きな破壊の音が加わっている。
巨獣は右腕を研究所に差し込んだまま進んでいた。圧倒的な巨体と重量によって外壁が捲り上げられ、大きな石ですら砂糖菓子のように砕かれ、破壊された建材が辛うじて残った壁を押し潰していく。
「もし地下に潜んでいたとして――まぁ、どこでもいいんですが――このまま出てこなければ生き埋めです。それどころか地下すら崩れてしまうことだってないとは言えませんよ。せっかく貴方達が見つけたというのにね!」
百年単位で建っていた研究所が、冗談のようにあっさりと壊されていく。
自分と巨獣を遮る物が減るのは避けたい。俺は前を向いたまま怒鳴った。
「――い、いいんですかぁッ!? ハァッ、巨獣の記録とか……! 別の研究成果ッ、とか! ハッ、後から後悔したって、掘り起こすのは大変です、よッ!!」
「ウフフフッ! 今更何を言うやら! この研究所は何年も前に徹底的に調査済みです!」
「地下への隠し扉は、ハァッ! 見つけられなかったんじゃ……、ないですかッ!?」
叫んでからしまった、と思った。
これ以上怒らせても得はないし、怒らせるにしても方向性と限度がある。
「――グッ!? い……言わせておけばぁっ!!」
案の定、怒りの声を上げた巨獣は破壊行為を激化させた。
腕だけでなく、黒い毛に覆われた前足をも持ち上げ、下半身を研究所に突っ込んだのだ。
すでに半壊していた研究所をかき分けるようにして俺へと近付いて来る。さして障害になっているとも思えない。
積み木で作られた城にわざわざ飛び込む犬を思い出した。
「し、信じらんねぇえ!!」
俺の泣き言は、断続的に続く騒音に掻き消された。
慌てて走る方向を変えるが、森に辿り着く前に、決定的な爆音がして背後の壁が吹き飛んだ。
瓦礫や埃を押し退けて、巨獣の顔が現れる。
同時に弾丸じみた石や木片、金属の類が俺に向かって飛んでくる。
「ぐ、ぅわぁあ!?」
背中と足に比較的重い衝撃を食らい、俺は倒れた。今度は体勢を立て直す余裕などなく、怪我をしないように転がるのが精いっぱいだ。
「――ハァハァハッ! ゲホッゲホッ、グフッ! ち、くしょ……」
驚きと疲れで立ち上がれない。上がった息を抑えつけようにも、周囲を覆い尽くす土埃によって、ままならない。
崩壊が落ち着くまで、少し間があった。
土埃が晴れるまで、さらに十秒程かかった。
「おっと、少々やり過ぎてしまいましたか? この体は力加減が難しい。ウフフフフ……どうせならもう少し遊ぼうかと思っていたのですが」
次世代研究所の半分程が瓦礫に変わり、巨獣はその上で軽く伏せるような姿勢だった。犬に似た頭部は地面に接するほど下げられ、俺との距離は20mもない。
「さて、貴方のお仲間は現れるのですか? それともこの程度では足りないのでしょうかねぇ?」
巨獣は左右を見回し、さらに視線を上にも向ける。ルースやグリフォンの警戒を忘れていない、と主張したいのだろう。
何とか呼吸を整え、俺は口の端を上げた。
「そうですね。このぐらいでは……まだまだ!」
俺はうつ伏せに倒れたまま体を捻って、右手を斜め上に伸ばし、ほとんど勘で魔銃を撃った。
頭部を下げている巨獣の顔を目掛けて、三発の<貫く枯れ葉>が奔る。二発は頬の毛と牙に当たって掻き消えたが、たまたま一発は右目のど真ん中に向かった。
巨獣は避ける仕草どころか、瞬き一つしなかった。
「やっ――……、……あ……!?」
一矢報いたと思ったのも束の間、<貫く枯れ葉>は眼球に当たった瞬間に弾ける。負傷を与えた様子は一切ない。
何せ痛がるどころか怯むことすらしないのだ。
「フフフ……。やめてください、くすぐったい」
巨獣は青白い舌をでろりと出し、自らの右目を舐め上げた。
眼球への攻撃すら効かない事実と生理的な嫌悪で、自分の顔から血の気が引くのがわかる。
俺は慌てて上半身を起こし、左手で腰のバッグをかき回しながら、足だけで後ずさった。落ち着いていれば簡単に見つかる大きな物すらなかなか見つからない。
体についた瓦礫を払い落しながら、巨獣が一歩踏み出す。
たったの一歩で5m以上は距離が縮まった。
「ウフフフ! いますよねぇ、無駄なことでも、自分で試してみないと気が済まない輩が。次はどうします? 魔銃の弾を変えてみますか? 一般の旅人が手に入れられる最上級の魔弾だと……魔力増量型の<打ち抜く煉瓦>弾あたりですか? それとも魔法爆雷――ああ、これはすでに効果がないことは身に染みていましたか」
「<打ち抜く煉瓦>の魔力増量弾なんて贅沢品は持ってませんが、こんな物ならありますよ」
「――んん?」
巨獣が犬に似た頭部を近付けてくる。
――わざわざ寄ってくれるなんて、有難い。
ようやく左手が掴んだ筒状の物を取り出し、俺は真っ直ぐに突き出した。
スロウルム将軍から渡された信号弾だ。
その尻から伸びた紐を、魔銃を握ったままの右手で指と指の間に挟む。
顔だけを背け目をつぶり、紐を思いっ切り引く。
瞼を固く閉じてもわかるほどの光が炸裂した。
「な――……ッ、があああああああッ!?」
巨獣の叫びが森と地面を震わせた。
効果を確かめる暇などない。
俺は再度体を反転させて、ほとんど四つん這いで這い出した。僅かに開けた片目に目に痛い程の光が刺さってくる。
バッグから出す時に確認することは出来なかったが、俺が放った信号弾は『黄』だったらしい。
空ではなく、至近距離で弾けた光は物を照らすどころか、全てを塗り潰してしまっていた。辛うじて物の輪郭がわかる程度である。
「この……っ!! め、目潰しだとぉっ!? 『大いなる力』を手に入れたこの私に……こんな狡い手を……一度ならず二度までも……ッ!!」
圧倒的な光の中で方角はわからなくても、巨獣の怒号がどこから叫ばれているのかは良くわかる。
俺は手探りで木々を避けながら、可能な限りの速さで森の中へと入っていった。
感情に任せて煽ったり馬鹿にしたりしないように、硬く口を結びながら。
9月30日初稿