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43.胃を焼く贈り物

 全てを視界に入れようとすると、首をほとんど真上まで向けなければならない。それでも圧倒的に巨大な獣の下半身に遮られ、青白い上半身の天辺近くがどうなっているのか、確かなことはわからなかった。

「……ッ」

 気が付くと、俺の足が勝手に後ずさっている。


 巨獣は大きく口を開き、未だ笑い声を上げていた。鼻が潰れているので一般的な犬程は長い顔をしていないのに、汚らしく垂れ下がった耳の向こうまで口が裂けている。

 その辺の農場なら納屋の屋根にも匹敵する面積を持つ掌を、開いたり閉じたりと落ち着きがない。

「ウフハハハハッ! 私の思った通りに動きます。これならコーヴィンがどれだけ準備を整えていようとも、一気に誅することが出来るでしょう!」

 上半身を起点にすれば股間にある頭部から、機嫌の良い声が森全体に響き渡った。

 本人は今までと同じ声量で話しているつもりだろうが、頭そのものの大きさが全く違う。ビリビリと体全体で振動を感じるほどの大音声だ。

「その後は、落とし所を探るのに何日も何日も話し合わなければならない大貴族の連中や、頭の中にまで鉄錆が詰まった軍部の馬鹿共ですら、私に従わざるを得ない……!! 今から楽しみでなりません。この私が、権力だけでなく武力――いや、戦力すら一手に担うことになるのです!! ウフフフ――アハハハハハハハーッハッハーッ!!」


 笑う巨大な肉食獣を挟んで俺達とは反対側にあたる森の中から、恐る恐るといった感じの声が聞こえた。

「……か……閣下……?」

 フルールの封印されていた結晶を持っていた魔法戦士だ。彼の後ろには数人の軍人とならず者がいた。『巨獣の卵』から生えた暴れる枝を凌いだらしい。

 巨獣は頭部を彼らの方へ向けた。

「おや、生きていたのですか……。まぁ、それも当然かもしれませんね。私が『巨獣の卵』から飛び出した触手に貫かれた時、貴方方は一目散に逃げ出したのですから」

 雷を連想させるような轟く音をさせつつ、巨獣が言った。

 人間一人どころか十人ぐらいは一口で呑み込めるほど巨大な口から出て来るのがただの嫌味なのだから、頭がおかくしなりそうだ。

「し、しかしっ、あの状況では我々に出来ることなど――!」

 焦った様子で弁解しようとする魔法戦士の言葉を、巨獣は遮った。

「そうですね、あの状況では私を助けることは出来なかったでしょう。ですが、混乱に乗じて王女殿下やフルール嬢をもう一度確保しようという考えは思い浮かばなかったのですか? あの魔剣士の不意を突こうと試みた者がいましたか? 手負いのグリフォンライダーや外国人達がそんなに恐ろしかったのですか? 何より私が一番我慢出来ないのは、一度逃げておきながら……巨獣が私の制御下にあることがわかった途端に庇護を求めようという、貴方達のその心根です」

 巨獣の青っ白い腕がゆっくりと肩ぐらいまで上がった。それだけのことでも下から見るととんでもない光景だった。

 虫から見た人間は、きっとこんな風に見えるに違いない。


 潰れた鼻の下にある大きく裂けた口がにやりと持ち上がった次の瞬間。


「――ヒ」

 魔法戦士達に向かって、巨大な平手が振り下ろされた。


 爆発するような音と、土や木の破片が混じった風、そして地面を伝わってくる振動が俺達の所まで届く。

「~~ッ!!」

 例え地震だろうとこんな揺れは経験したことがない。俺は反射的に地面に手をついて堪えた。

「キャアァァァアアッ!!」

「……くっ!」

 リリィとスロウルムは座ったままお互いに支え合うことで、何とかそれ以上転ばずに済んでいた。


 動ける程度に揺れが治まったところで俺は立ち上がり、俺達を守ろうとするイクシスの翼の隙間から目を凝らした。

 盛大に上がった土煙の中、巨獣が片手を地面に付いている。

 ヒトに似た上半身も犬に似た下半身も少し屈めているが、何より腕が長いのだ。

「あんな魔剣士や手負いのグリフォンライダーより、今の私の方がよっぽど脅威でしょうに! そんなこともわからない駒は潰しておくに決まっているではありませんか。まぁ、ある程度事情を知っている貴方達には、事が済んだら死んでもらう予定でしたがね。おかげで良い準備運動になりました。ウフフ。ウハッハッハッハアッ!!」

 青白い上半身が背筋を伸ばし、巨大な手が上がっていく。その掌にはびっしり鱗が生えているように見えた。

 鋼鉄を連想させる黒い鱗に、赤い液体がこびり付いている。

 屋根にだってなるであろう巨獣の手なら、一固まりになった数人くらい一気に潰すことが出来るわけだ。

 巨獣は叫ぶだけでは飽き足らず、拍手のように手と手を打ち合わせ始めた。

 一拍ごとに衝撃波としか言えない爆音が俺達を襲う。重いだけでなく、硬い音も混じっていて耳が馬鹿になりそうだ。

「フ……フフ、何て愉快な午後なんでしょう! まったく昔のお偉方は何を考えていたのでしょう。これだけ手軽に『大いなる力』を手に入れられるというのに、現物は勿論、技術や記録まで封じてしまったのですから。この国に出し惜しみする程の戦力等なかった筈なんですがねぇ」

 肉食獣の口を大きく開いた巨獣が笑う。

 本人が意識しているかはわからないが、白く濁った涎が森の中に小さな沼を作っている。

「その上素晴らしいのは、私自身がこの体を手に入れたということ! 魔獣乗りの一番の弱みは、何と言っても乗り手ですからね。ウフフ、あれだけの力を持ちながら情を捨て切れなかったスロウルムのように、恥を晒すことはあり得ない……。コーヴィンだろうと、そう、国家規模の軍事力だろうと私を殺すことは出来ないでしょう!! ウハァーッハッハッハア!!」


 調子に乗った巨獣が俺達のことを忘れている間に逃げなければならないことはわかっているのに、微かにでも動いたらあの黒い瞳がこちらに向きそうで、微動だに出来ない。

 リリィにしてもスロウルムにしても同じだろう。イクシスすら、巨獣を見据え構えたまま動かない。

 しかし、そんな緊迫感溢れる静寂は、一分も持たなかった。


「……――ハァアアアアアアアアアアアア――ッ!!」


 黒魔法特有の黒い光を纏ったルースが、空を斬り裂いて巨獣の上半身に突っ込んだのだ。

 力強くも美しい英雄と、醜悪にして強大な魔物が近付いていく。

 俺はその光景に見とれることしか出来なかった。



*****

 巨獣の圧倒的な大きさと、醸し出される不吉な雰囲気に呆然としていたルースを我に返らせたのは、味方を殺した獣の一撃だった。

 それまで自分の身を守らせていた者達を用済みだとばかりに圧殺し、あまつさえ侮蔑したことが、ルースの足を動かしていた。

 怒りのあまり飛び出してしまったといった方が正しいかもしれない。


 大地を蹴った勢いそのまま<空駆ける矢(トギルフ・タサフ)>を描き、加速していく。

 向かうは斜め上、巨獣ゾフェンドの右腕――その肩近くだ。

 接触の一瞬前に飛行魔法を止め、大剣を両手で握り、振りかぶった。二の腕の中程を渾身の力で斬り付ける。

「ハァアアアアアアアアアアアアッ!!」

 気合い声と共に大剣が奔り、易々と青白い皮膚を斬り裂いた。

 血ともつかない青黒い粘液が、一度巨獣に潜った大剣と共に、吹き出した。


「――いっ!?」

 気持ち良さそうに笑っていた巨獣が驚いたように、顔を上げる。


 ほとんど減速することもなく巨獣とすれ違うルースの表情は苦かった。

 刃は通る。その辺の魔物の方がよほど硬い。

 だが、巨獣の大きさそのものが厄介だ。ルースの身長に迫る程の大剣を持ってしても、腕の直径の一割も斬れていない。ヒトでいうならちょっとした切り傷程度だ。

 この戦いは時間がかかる。


 ルースは、巨獣の背後で大きな弧を描きながら叫んだ。

「カインド、イクシス! 今のうちだッ!!」

 弾かれたように顔を上げたカインドが、ルースを見上げ、慌てて頷いた。

 リリィと協力してスロウルムを避難させようとしているのが見える。いつの間にか大きくなっていたイクシスは、彼らを守るように翼を広げ、スロウルムを引き摺る速度に合わせて後ずさっている。

「……?」

 カインド達が安全な場所まで辿り着けば、幾らか戦いやすくなる。安堵の吐息を洩らしかけたルースはそこで気付いた。

 巨獣は未だに動こうとしていない。

 かすり傷とはいえ傷付けられ、目的の一つであるリリィが視界から消えようとしているのに、股間の頭部は視線一つ動かさなかった。ただただ大音量で呟くだけだ。

「……い……痛い……? こんなことは書かれてはいなかった……」

 泣き言の意味など考えてはいられない。

 ルースは<空駆ける矢(トギルフ・タサフ)>に出来うる限りの魔力を込める。今度は背後から、もう一度同じ場所に斬り付けるつもりだ。


「――……い……痛いではないですかぁあああああああああああああああああ!?」


「――ッ!?」

 巨獣の慟哭は、実際にルースに衝撃を与えた。風がぶつかって来たようなものだったし、鼓膜も無事だったが、馬力のない黒の飛行魔術は速度を落としてしまう。

 その間に、巨獣は振り返った。

 いや、上半身を捻り、右腕を薙いだのだ。

 ルースは直進を諦め、比較的加速力のある<浮かぶ紙切れ(トギルフ・ウォルス)>に描き直し、回避に全力を注ぐ。

「く――!」

 ただ腕を振る。

 それだけの行為が巨体によって、予想もつかない攻撃になった。傍目には大したことがない速さに見えても、距離が縮まるごとに加速しているようにすら感じる。

 さらに大きさからくる攻撃範囲も問題だった。

 巨木以上に太い直径を持つ腕から逃れるのは、思ったよりも遥かに移動しなければならない。当然、体捌きだけでは不十分だ。

 城壁じみた剛腕を全力で避ける。

 <浮かぶ紙切れ(トギルフ・ウォルス)>で出来る限界の速力を保ち、方向転換と両立出来る角度を選び取り、重量のある大剣を基軸にして身体を回転させる。

 空気を断ち切る音をさせながら巨大な腕が、背中を掠めるようにして通り過ぎて行った。かなり際どい回避だ。


 ルースの背中に冷たい汗が流れる。

 だが、そこで終わりではなかった。


「この無礼者がぁぁぁああああああああ――――――ッ!!」


 巨獣の咆哮はまだ続き、さらに左腕が動いていた。

 今度は掌底じみた突き出す攻撃だ。掌だけでなく指まで黒光りする鱗に覆われた左手が、瞬きする間もない程高速で迫ってくる。

 やはり、攻撃範囲が広すぎる。


 ――避けきれない!


「くぅ!」

 ルースは一瞬で判断しながらも、<浮かぶ紙切れ(トギルフ・ウォルス)>に魔力を叩き込み出来うる限り移動した。

 繰り出される巨獣の掌はほとんど壁だ。指と指の間に飛び込むが、あと半身分足りない。

 このままでは足が掌に轢かれることになる。

「――ぉおッ!!」

 指の付け根に大剣を振り下ろした。

 あっさりと沈む刃から圧倒的な重量を感じるが、ルースの目的は斬ることでも防ぐことでもない。剣を支えにして身体を持ち上げる為だ。

 巨獣の手が生み出した風にも乗って、ルースは強引に自分の体を回転させた。

「――ぃいッ!?」

 巨獣が叫ぶのを止め、体を硬直させる。もっともこれも、巨獣にとっては棘が刺さった程度のことでしかない筈だ。

 ルースは前転の要領で巨獣の手の甲側に足を着け、その青白い皮膚を思い切り蹴った。

 未だ伸ばされている最中の腕を眼下に、勢いが消える前に<空駆ける矢(トギルフ・タサフ)>を描き、上空100m近くを目指す。

 巨獣の腕が届かない場所へ行くことが必要だった。


「――ええい、鬱陶しいっ! 従者風情が二度も私を傷付けて――……楽に死ねると思わないことですよっ!?」

 獣の顔を怒りに染めて、巨獣が叫んだ。手が届くうちに魔剣士を捕まえようと、両手を伸ばしてくる。

 向かっていた先程とは違い、今は離れて行く状況だ。全身を使った突きではなく、ただ差し出されるような軌道ではルースを捕えることはことは出来ない。

 しかも巨獣の手に対してルースは小さい。今度は大きさの差が有利に働いた。


 充分に距離をとったルースは空中で停止した。


 巨獣が、鼻が潰れた犬のような顔を上に向けている。真っ暗な瞳が憤怒に満ちてルースを見据え、頭部のないヒトの上半身は反り返り、両手は腰近くでいつでも動きだせるように力が入っていた。

 ルースは一つ呼吸をしてから、大剣を手首の返しだけで回転させ、音高く掴み直した。一瞬だけ、黒い大剣が突撃槍のような円錐を形作る。

 もう一度大きく息を吐いて、地面にいるというには大きすぎる巨獣に向かって、降下を開始した。


 頭を下にして、右手に握った大剣をいつでも突き出せる形で引き絞る。

 左手は<空駆ける矢(トギルフ・タサフ)>を描いたまま体の正面に。


「……ほう、これだけ言ってもまだ……向かって来ますか!! さすがにそれだけの力を持っていると違いますねぇ!」

 巨獣が愉快さの滲む声色で言った。音量を別にすれば、摂政エンバリィとしてカインド達と話していた時と全く変わらない口調だった。

「――ッ!!」

 その声がルースの癇に障った。

 卑怯な手段でスロウルムとソリソカルを害し、少女の自由を奪うことすら厭わない。巨獣の力を手に入れる、ただそれだけの為にリリィを悲しませた。

 しかも、開き直り悪びれる様子一つ見せなかったあの男は、まだ笑っている。


 ルースは左手の<空駆ける矢(トギルフ・タサフ)>を最低限維持しながら、大剣を握った右手の人差し指を立てた。黒い魔力を指先に集める。描くのは、攻撃型結界術<はためく外套(ラツ・グニトゥス)>の複雑な紋章だ。状況が許す限り丁寧に描く。魔力が通ったところで紋章を操作し、大剣の切っ先まで移動させる。

 狙いは巨獣の上半身、肩と肩の間。

 あっという間に巨獣の上半身が迫っている。ここまで来れば軌道をずらす必要はない。ルースは<空駆ける矢(トギルフ・タサフ)>を消して、呟いた。


「……――無極流魔剣術――」


 ルースの呟きに合わせるように、<はためく外套(ラツ・グニトゥス)>が起動した。

 透けるほど薄い帯状の魔力が何本も広がり、大剣と体の周囲を螺旋状に走っていく。

 さらにルースの後方に軌跡を残す。


 この技はルースにとっては禁じ手だった。

 極めたとは言い難く、狙った場所へ当てられるかどうかは五分五分といった所だ。その上、魔力体力共にほぼ使い切ってしまう。

 選択肢に加えるには不安要素が多すぎる。

 だが、その分威力は大きい。


 体中の魔力を全て<はためく外套(ラツ・グニトゥス)>に持っていきつつ、慎重に魔力の流れを作る。

 螺旋の始まりが極小の一点になるまで絞り上げる。正面の始点はルースの持つ手段の中で最高の貫通力を持ち、周囲に広がっていく魔力は大抵の攻撃を防ぐ。

 これが全身全霊をかけた、掛け値なしの切り札だ。


 極限まで集中させた<はためく外套(ラツ・グニトゥス)>の魔力、全開まで燃やし尽くした闘気、直前まで発動させていた<空駆ける矢(トギルフ・タサフ)>と落下による速度。

 全てを乗せて、ルースは叫ぶ。


「――黒錐勢ぃいッ!!」


 同時に、本来なら首がある場所から巨獣の体を通って、地面まで突き貫くつもりで大剣を突き出した。


「おおっ!?」

 驚いた声を上げた巨獣が、左手をかざした。

 漆黒の鱗が生えた掌がルースの行く手を遮る。だが、黒錐勢は、どんな邪魔が入ろうとも魔力が尽きるまでは止まらない――いや、止めることが出来ない技だ。

 いくら大きさが桁違いでも、鉄の壁が一つや二つ増えた所で貫くだけである。

 ルースは壁としか言えない巨獣の掌に、円錐を形作る帯状の魔力光を纏ったまま、そのままの速度でぶつかった。

 <はためく外套(ラツ・グニトゥス)>の始点がどれだけ硬い装甲であろうとも削り取り、黒い大剣グランマオがその傷を広げ、闘気と体重によって貫く――ことは出来なかった。


「な、何ッ!?」

 大剣を突き出した格好のまま、驚愕と困惑の混じった叫び声を上げるルースに、巨獣が犬に似た顔を不気味に歪めた。

「ウフ! ウハーッハッハッハア!! この程度ですか!? 痛み一つありませんよ!? コーヴィンを無手で下し、グリフォンに乗ったスロウルムまでを倒した魔剣士ですら、片手で防げるようですね。これは思いがけない証明です! 私は今――、この国で最も強い!!」


 頭部さえ本来の位置にあれば、雨でも避けるような姿勢で、巨獣はルースの突撃を防いでいた。


 技の起点である<はためく外套(ラツ・グニトゥス)>の魔力が効果を発揮していない。

 恐らく鱗に魔力を拡散させる性質があるのだ。どれだけ魔力を込めても、手応え一つなく、ただ魔力が消費されていく。

 <はためく外套(ラツ・グニトゥス)>が意味をなさない以上ただの落下突撃だ。そして、巨獣の鱗にはルースの突撃を抑えるだけの硬さが十二分にあった。

 これでは、大剣を支えに逆立ちをしているだけなのと何ら変わりがない。

「く――っそぉ!!」

 ルースは思わず毒づいた。

「ウハハハッ、これだけの力があれば、コーヴィンなど一捻りではないですか! もはや全ての不安要素は些事となりました! ――そういう訳で……、もう貴方は退場する時間です、よっ!!」


 自らの台詞に合わせて、巨獣が空いたままだった右手を振り上げた。


「――ッ!?」

 迫る脅威に気付いても、全身全霊で技を打ち出しているルースには迎撃するだけの余裕がない。

 ルースは自分を留めていた左手が引かれ、巨大な右手が眼前に迫るのを、ぼんやりと感じていた。

*****



「ル――――――スッ!!」

 何とか巨獣から離れようとスロウルムを引き摺っていた俺の絶叫が、空しく響いた。


 ほとんど無敵と思われた魔剣士は巨獣の平手を喰らい、吹き飛ばされた。俺の位置から見えたのはそれだけで、森の彼方へ飛ばされた彼女がどうなったのかわからない。

「グルァアアアアアアアッ!!」

 イクシスが怒りの鳴き声を上げ、翼を広げる。大きくなったドラゴンは数歩の助走の後、飛び上がり、巨獣へと突っ込んで行った。

「――イクシス!? 待っ――」

 慌てて叫ぼうとするが、もう遅い。


 イクシスは数十mを一気に詰めていた。

 獣の黒い顔に攻撃を加えるつもりなのか、頭部の傍で急停止し、雷を纏い始める。

「ァァァァアアアアアアア――ッ!!」


「例えドラゴンであろうと……今更出てきても邪魔なだけです!!」


 巨獣が挑戦を受けるように怒鳴り返し、ルースを叩き付けた右手を伸ばした。

 真上から振り下ろされた掌がイクシスに接触した瞬間、火花じみた強烈な光が奔る。

 触れただけで大火傷しそうな電撃でも、巨獣の鱗は通らなかったらしい。巨獣の平手は呆気なくイクシスを地面に叩き付け、そのまま動きを止めた。

「グル――ガァアアアアア!」

「ウフ! 何かしているんでしょうが、この体には効かないようですねぇ。ドラゴンに乗る為なら何でもする連中にこの光景を見せてやりたいものです。この程度の力に己が人生をかけたりして……愚かという他ありません。そうだ、このまま握り潰して王都まで持って行きましょうか。そうすれば愚か者どもの目を覚まさせることも容易いでしょうからねぇ! ウハハッ、ハァーッハッハッハッハア!!」

「ガァアア……アッ! カ……ァ!!」

 暴れるイクシスに少しずつ体重をかけていきながら、巨獣が笑った。

 俺達からすれば馬よりも大きなドラゴンが、巨獣に比べれば掌よりも小さい鳥の雛程度の大きさだ。本気を出せばすぐにでも握り潰すことが出来るだろう。

 現に、イクシスが纏っていた電光が弱々しくなっている。

「……イッ、イクシスッ!!」


 叫ぶことしか出来ない俺の横を、影が通り抜けた。


「――ィィィイヤァァァアアアアアアアア――――――ッ!!」

 砲槍を構えたサラだ。

 女獣人は前傾姿勢のまま、足を動かすことなく移動していく。当人かガリガリが白の飛行術をかけたようだ。驚異的な加速の勢いそのままに巨獣の前足へと肉薄し、毛むくじゃらの爪先に槍を突き立てる。

「ッラァァアアアアアアアアアアアアアア――――――ッ!!」

 間を置かずにサラが叫び、砲槍の石突が爆発した。

 硬い装甲を持つオーガウルススですら吹き飛ばした砲槍の連撃でも、円錐部分が1mほどしか埋まらない。

「いッ――たいですねぇ! 後から後からちょろちょろと……本当に! 鬱陶しい!!」

 当然、巨体を手に入れた摂政にとっては小さな針に少々刺されたようなものだろう。行動に支障が出ない程度のかすり傷は、実戦では大した意味を持たない。

 巨獣は槍が刺さったままの前足を一振りして、サラごと周囲の地面を捲り返した。

「ぐッふぁあああ!?」

 土砂と共に女獣人が10m以上飛ばされる。

 彼女と一緒に、円錐部分が根元から折れた砲槍が宙を舞った。


「サラァッ!!」

 リリィの悲鳴を最後に、森の中は静かになった。

 俺とリリィは恐怖から動くことが出来ず、スロウルムは立とうとしても震えるばかりで、少し離れた所にいる憲兵達は呆然と巨獣を見上げるだけだ。


 垂れた暗黒の瞳で周囲を見渡してから、手の中で大人しくなっているイクシスを確認した巨獣がこれ見よがしにため息をついた。

「グリフォンにも乗らないグリフォンライダーが敵う相手かどうかもわからないのですか。まったくこれだから女が軍事に関わるのは嫌なのです。とはいえ、ようやく静かになりましたね……。さて、殿下。私と共に来ていただきましょうか?」

「ッ!」

 恐怖心を煽っているつもりなのだろう、鼻が潰れた頭部を真っ直ぐリリィに向け、一歩前に踏み出した。

 ズズンと重い音が響き、大地そのものが震える。

 たった一歩が何mあるだろうか。元々の大きさが大きさなので、一気に巨獣の顔が視界に占める割合が増えてしまう。


 俺はスロウルムをリリィに任せて踏み出し、魔銃を抜いた。震えそうになる手を何とか抑え付けて巨獣の顔に向ける。気が付けば、滑稽なほど斜め上を狙っていた。

「おやおや。今度は貴方ですか、ソーベルズ卿」

 15m近い高さから首を下げ、巨獣が苦笑交じりに言った。頭部を地面に近付け、それでも高い位置から俺を見据えている。

 完全に俺を舐めている行動だった。

「う……ぁあああああ!」

 視界を占領する恐ろしい顔に、俺は知らず知らずのうちに恐怖の叫び声を上げていた。

 立て続けに<貫く枯れ葉(ハサー・テルーブ)>弾を撃ち続ける。

 三発の<貫く枯れ葉(ハサー・テルーブ)>が巨獣の顎から潰れた鼻にかけて当たった。しかし、黒い体毛一つ焦がせることも出来ない。

「フフ、止めて下さい。くすぐったい」

 巨獣は苦笑するように、長く息を吐いた。

 やけに熱く、異様な臭いのする吐息が全身に当たる。

「くっ! ……――ああああああッ!!」

 その生温かい風がさらに恐怖を刺激し、俺はもう一度叫んだ。

 魔銃を左手に持ち替え、右手を腰のバッグに伸ばす。魔法爆雷を掴むと、左足を踏み出し、そのまま巨獣の顔めがけて放り投げた。

 魔法爆雷はほとんど一直線に巨獣の鼻先に向かっていく。

 俺は左手を上げ、巨獣の眼前で魔法爆雷を爆発させようと、魔銃を構えた。


 だが。

 巨獣は機敏な動きで顔を動かし、わざわざ魔法爆雷を口に入れた。

「――なっ!?」

 驚く俺の前で、一瞬巨獣の顔が震え、くぐもった轟音が森中に響いた。


「やはり……、くすぐったい程度ですね」

 巨獣がべろりと舌を出して言った。

 持ち上げられた口の端から煙が上がる。

 差し出された長い舌の中程が黒くなっているが、どうやらだた汚れているだけらしい。噛み合わさった巨大な牙が砕けた様子もなく、血の類すら一滴も見られない。

 やけにヒトに似た笑顔を浮かべる獣の顔が、不気味だった。


 魔法爆雷が効かない以上、もう俺に使える攻撃はない。

 俺より頼りになる連中の攻撃すら巨獣にダメージを与えたとは言い難く、全員倒されている。

 憲兵達は動けないし、リリィは何が何でも守らなければならない対象だ。


「……!」

 せっかく前に出たのに、俺の足が一歩下がってしまう。

「ウフフフ……。もうタネ切れですか、ソーベルズ卿? ちょこちょこと動きまわった貴方も、この巨獣ゾフェンドの圧倒的な力の前には形無しですねぇ。ですが、その弱々しい実力を考えればよく頑張った方ではないですか。身の程を知って逃げ出すのなら、許さないこともないのですよ? それとも降伏して王女を差し出しますか?」

 抑えきれない愉快さを滲ませながら、巨獣が笑った。


 恐怖で占められた感情に僅かな悔しさが滲むが、もう打つ手なんてない。

 混乱した体が勝手に腰のバッグに手を伸ばす。もう一度魔法爆雷を投げた所で意味などないのに。


 だが俺の指先に、魔法爆雷とは違う物が触れた。

 陶器が持つ、冷たく硬い、どこか濡れたような肌触りだった。


 その感触が、俺の頭を回し始める。


 餞別に、と親方――モントの祖父が持たせてくれた物だ。

 いつか金に困ったら売るように、もし開けてもいいと思える誰かと出会ったら思い切ってスパっと開けるように、と言っていた物だ。

 コーヴィン兄弟の一件の後、スロウルムが催すと言っていた席に持ち込もうかと思っていた物だ。

 サンシュリック村跡に住む家族の為に、一滴使った物だ。

 今の今まで忘れていた。


 思い出すのと時を同じくして、一つの思い付きが閃く。

 俺はバッグの中にあった物を掴んだ。

 掌より少し大きく、平べったい形。白魔法の術式が組み込まれた緩衝材は布に似た感触がした。


 巨獣は俺を見下ろしつつ、続けた。

「ウフ、ウフフフフ! あくまで立ちはだかりますか。それとも何ですか、自分にはどうこう出来るとでも? 戦場の端っこであたふたするしかなかった貴方が!? 理由は知りませんが実力者を従え、たまたま龍の卵を孵しただけの貴方が!?」

 ついさっきまで本気で震えていたこともあって、バッグに手を突っ込んだまま止まってしまった俺が恐怖で動けないとでも思っているらしい。

 それでなくても強者は排除し終えたのだ。巨獣は思う存分言葉で嬲ってくる。


 だが、俺は構っていられなかった。

 ヤツの台詞は聞こえていても、意識がそちらに向かない。


 状況を変えるには劇的以上の効果がどうしても必要だ。

 この量で足りるのか。

 そもそもあの巨獣の体にまわるのかどうかもわからない。

 いや、さっきはわざわざ魔法爆雷を口に入れたが、同じように巨獣の口に入るとは限らないのだ。


 上手くいく確率は限りなく低い。


 加えて、これは貴重な物なのだ。

 意味がない行為に投資する訳にはいかない。


「それとも私の計画に巻き込まれたことで何か勘違いしてしまいましたか? 自分が重要な立ち位置にいると。何かが出来ると。望む結末を掴めると。そう――、愚かにもまるで主人公のように」


 巨獣の――エンバリィの一言が、俺の迷いを吹き飛ばした。

 ――お前が端役扱いした俺に何が出来るのか、確かめてみればいい!!


 怒りに任せた親指で、瓶の首丈を折る。

 ついでにもう一手打ってやろうと、とっておきの声色で言い返した。

「いえいえ、そいつは買い被りというものですよ。私は閣下ほど楽天的ではありません。それに……よく考えたら、今現在の閣下だろうと、ちょっとした武器を持った兵士だろうと、その辺りにいる魔物だろうと……、そう変わらないんですよ。私の戦力からすれば、ですがね」


「……なっ……!」


 俺が反論してくるのが予想外だったのか、巨獣の口が大きく開いた。

 何より、せっかく手に入れた巨獣の力をその辺の魔物と一緒にされるとは思っていなかったに違いない。


 ――ここしか……ないッ!


 俺は、洞窟にも似た巨獣の口に目がけて、掴んでいた物を投げた。

 先程の魔法爆雷と同じ軌道で、白く分厚い布が巻かれた陶器の瓶が飛んでいく。微かに中身が振り撒かれたが、一部くっ付いていたままだった鉛と折った首丈がいい具合に蓋の役割を果たしてくれている。


 瓶はほぼ中身を零すことなく、狙い通りに犬に似た巨大な口へと吸い込まれた。


 異物を放り込まれた巨獣は不快げに口を閉じ、わざとらしく喉を鳴らした。

「貴方も懲りないヒトですねぇ。正規で出回っているような魔法爆雷では――……いや、これは?」

 爆発しないことに戸惑いを見せる巨獣。


 後はもう結果を待つしかない。

 内心動悸が激しいのを隠し、俺は肩を竦めて言った。

「めでたく巨獣の力を手に入れた閣下への、祝いの品ですよ」

 巨獣が真っ暗な瞳を見開く。

 直角に曲げた両腕の先で、巨大な掌がわなわなと震えている。


「これは……微かな辛さの後に広がる濃厚な深み……。続く後味はどこか余韻を残しつつ、それでいて爽やかさすら感じさせる……。今もなお、熟しきった果実のような香りが鼻を走り抜けている……。そひて……そして、舌から喉、腹の奥まで……焼き尽くす……ような、この熱さは……! も、もひや……!?」


 巨大な姿を得てからも滑らかに回っていたエンバリィの舌が危うくなってくる。

 次いで吐き気を堪えるかのように、首を竦めて頬を膨らませた。


「閣下なら、ひょっとしたらお呑みになったことがあるかもしれませんね。そう、ラチハークにおける最強のお酒――陸酔ですよ」

「……りくすい……?」

 後ろから、掠れた声でリリィが呟くのが聞こえた。

 俺は前を注視したまま彼女に横顔を見せ、口の端を上げた。

「昨夜……呑んだだろ?」


「ば……! 馬鹿ぬぁ!」


 いつの間にか巨大な瞼が半分ほど落ち込んでいた巨獣が、唸った。

 大木のような足ですら体を支えられないとでもいうように、獣の下半身全体がプルプルと震えだしている。

 先程わざと出した舌が、どうやっても口の中に納まらないようだ。


 どうにか効果が確認出来て、俺の中に少々の余裕が生まれる。もう少し時間が稼げれば、何とかなるかもしれない。

「り、陸酔は、そ、そのほとんど外交的贈り物として使われぇ、ラチハークの中でも流通などしていない筈れす。ひかもこの感じは……原酒れはないれすか! 子爵程度のあなたがー……それも旅の身の……身の……、旅をしながら持ち歩くぬぁんて……!」

 完全にろれつが回らなくなった巨獣が、犬に似た頭部を振った。

「知り合いに宮廷鍛冶師だったドワーフがおりまして、門出の祝いにいただきました。酒と金に困らないように、とね。本来は孫の成人に合わせて開けるつもりだったようですが、その孫が私に贈るようにと説得したらしいのです。家に置いておく訳にもいきませんし、いざという時の路銀として持っていたのですよ。私にとっては思い入れのある品ですから、感想を聞かせていただけませんかね? 陸酔の原酒を小瓶一杯呑ん――」

「……腹が……喉が熱い……!! おにょ……、おのれぇっ!!」

 お返しとばかりにダラダラ喋る俺の言葉を、巨獣の怒号が遮った。同時に青白い腕を振り上げる。

「――ッ!」

 効かなくても時間さえ稼げればと、俺は腰のバッグにもう一度手を入れた。魔法爆雷でもクシャミ玉でもいい、最後の最後まで足掻いてやるつもりで腰を落とす。


 しかし、巨獣は左腕を持ち上げたまま動きを止めた。


「――――う……か――――」

 不明瞭な言葉を漏らしながら左右に揺れると、全ての力が抜け出てしまったかのように、真横に倒れた。


 色々あった今日の中でも最大の爆音が轟き、地面が跳ねる。水飛沫のような土が辺り一面に飛び散った。

「うぉぉ……っ!」

「きゃあああッ!?」

 音、振動、土が迫ってくる。慌てて顔を隠し、しゃがみ込んだ。それでも俺はひっくり返った。

「――ッ」


 数分待って、魔法で張った煙幕のような土埃がようやく落ち着いた頃に、目を凝らす。

 すぐそこに、舌をだらりと出したままの犬に似た顔があった。

 研究所正面の空間を四足の下半身が占領し、首のない上半身は森の木々を薙ぎ倒していた。


 スロウルムに覆いかぶさるように倒れていたリリィが、目の前の光景を呆然と見守った後、呟いた。

「あなた……一体何したの……?」

「エンバリィがあんまり嬉しそうだったから、祝いの酒を呑ませただけだよ。ドワーフが呑む一年分の酒よりも強い酒をな」

「……あ、あんなに大きな化け物をひっくり返すなんて……お酒の呑み過ぎって怖いのね…………」

 ルークセントの王女に少しズレた印象を与えてしまったらしい。

 だが、俺はその誤解を解くこともせず、一か八かの賭けだったことも言わないことにした。


 まだまだ問題は山積みだったからだ。

1月31日初稿。


11月11日、30話の改訂に伴い一部描写を変更。

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