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十二英雄伝 作者:ぷるっと企画

零章 『世界が分かれた日』

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四話 「RD事変③」

   †††

 初めて異変に気がついたのは、ヘインシー・エクスペンサーという男だった。
 それは本当に偶然だった。
 会議の休憩時間にたまたま空を見上げていた時、ふと【ノイズ】が走った気がしたのだ。最初は気のせいかと思ったが、どうにも嫌な予感がした。
 それは彼が今日に限って外出していたせいだったからなのかもしれない。今日が、いつもの指定席である【アピュラトリスの最上階】ではなかったから慎重になっていたせいもあるだろう。

 ヘインシーの精神は深く【例のもの】とつながっているので、感覚と視力を使って状態の確認ができる。状態はクリアだった。しかし、妙な違和感を感じた。
 たとえば自分が普段使っているペン。
 毎朝触っているので違和感なく使えるだろう。毎日同じように使い、毎日同じように置く。
 たしかに今日も同じ場所に置いてあった。同じ場所、同じ書き心地。仮に少し違和感を感じても、たいていは自分の調子が悪いことを疑うに違いない。今日は調子が悪いのだ、と。
 しかしながら、このヘインシーという男は非常に几帳面のわりに変な癖があった。毎日置く場所は同じでも、わずかに動かしてみたり、ちょっと消しゴムのカスを残してみたりする。
 特に意味はない行動だ。自身も変な癖だと思っている。
 思春期の少年の部屋ならばいざ知らず、そもそも【絶対に誰も来ない場所】でそのようなことをする意味がないのだ。

 ただ、今日に限ってはそれが功を奏したといえる。
 こんなことは一生に一度どころか、何百年に一回あるかないかの実にどうでもよいものだが、まさかこんなことで露見するとはルイセ・コノも予期はしていなかっただろう。
 ヘインシーは今日が外出日だということもあって、例のもの、アナイスメルの九六階層目にちょっとした印をつけていた。
 それは本当にちょっとした印で、千個並んだ【大】の文字の中に一文字だけ【犬】が交じっている程度のささいなものだ。
 なぜそうしたのかわからない。覚えていない。きっと何の意味もなくやってみたのだろう。

 だが、それがないのだ。
 すべてが完全に【大】で表現されている。

 それならそれで正常なのだから問題ないが、自分がやったものではない明確な証拠だ。何度も確認したが間違いではないようだった
「うーん、百三…いや、百五だろうか。なるほど・・・これはまたなんとも・・・」
 ヘインシーはしばらく宙に向かってぶつぶつと何かをつぶやきつつ自身にあてがわれた高級官僚用の部屋に戻った。
 それからもしばし思案したあと、おもむろに内線を使って一人の男を呼び出した。

 男はすぐにやってきた。
 完璧に整えられた茶色のスーツを着込んだ白髪の男である。齢六十を超えるも、いまだに肉体は引き締まっており、眼光も鋭い。すぐにやってきたあたり行動力もある人物だ。
「お忙しいところ申し訳ありません」
 ヘインシーは男を出迎え、中に入るよう促す。
「かまわんよ。どうせここでは私のやることも限られているからね」
 促されるまま男はソファーに座ると、タバコを取り出した。
「いいかね?」
 ヘインシーが頷くと、タバコに火をつけて一服する。
 家では妻に禁煙を宣言している手前、なかなかこうしたチャンスはない。職場でも秘書が妻に告げ口するので油断もできないのだ。
 きっと妻に買収されているに違いない。きっとそうだ。あいつは今度左遷だな、などと考えつつ至福の時を過ごす。
「ふぅ、生き返るな」
「【会議】のほうはどうですか?」
 男の気が緩んだのを見て、ヘインシーも向かいのソファーに座る。
「順調だよ。いつもこのようであれば楽なのだがね」

 ここはグライスタル・シティの中心部、アピュラトリスから車で三十分程の場所にある国際会議場である。隣にはローランパークと呼ばれる国会議事堂があり、この一帯はダマスカスの中枢といえる。
 現在、この国際会議場では【国際連盟会議】が行われており、いつも以上に政府関係者が多く集まっていた。
 呼ばれた男、バクナイア・ゼントーベルも何があってもいいように待機していたところヘインシーに呼び出されたというわけだ。
 このホテルは会議場のあるフロアにもつながっており、外に出ることなく往来が可能となっている。呼び出してから十分で来たことを考えると相当近い。

「偶像ながらルシアの天帝陛下もおられるし、シェイクのベガーナン連合国大統領も出席なさっている。それにだ、あのグレート・ガーデンの超帝陛下もおられるのだ。何かあったら私の首だけでは済まないよ」
 苦労を聞いてもらいたかったのだろう。バクナイアは会議の様子を少し興奮しながら語った。
 近年の情勢からルシア天帝とシェイクの大統領が出席することは久しぶりだ。それに加え、記念すべき第一回連盟会議以来の出席となるグレート・ガーデンの超帝も出席するとなれば警備はさらに厳重となる。
 その他にもロイゼン神聖王国からは皇太子とともにカーリス教の【法王】も来ている。これだけのVIPが揃うのは非常に稀なことだ。
 カーリスは世界最大の宗教であり、ロイゼンの第一神殿は信者にとっての聖地である。カーリスが崇めるのは【女神】や【聖女】であるが、法王は神の代理人でもあるので何かあれば当然大問題だ。

「だからこそ君に呼ばれた時は心臓が止まりそうになったよ」
 何かあれば戦争に発展しかねない状況が整っている。特に開催地のダマスカスにとっては彼らを守る責任があるので気が気ではない。まさに蟻一匹通さない厳重な警備態勢で臨んでいる。
「今も心臓が痛いくらいだよ。死んだら妻はどうするだろうか。年金暮らしを楽しむかな。それとも再婚するだろうか」
 バクナイアが結婚したのは今から四十年ほど前、まだ彼が陸軍に入隊したてのころだ。妻は同期の士官であった。ちなみにエリートコースであるバクナイアたちは、少尉からのスタートである。
 それ以後妻一筋で過ごし、大切な会議も妻が病気の際は欠席するなどしていたため、愛妻家として知られている。そのため今年の四十年目の結婚記念日に「いい夫婦で賞」をもらっていたのをヘインシーは思い出す。
「愛しておられるのですね」
「まあ…腐れ縁だとは思うさ。それに君は知らないだろうが、私の妻は非常に豪胆な性格でね。いつも私は恐怖政治の犠牲になっているよ」
 会議を欠席したのも妻が怖いからだ。一度怒ると手が付けられないのは昔から変わらない。なにせ彼女は【武人】であり、バクナイアよりも強いのだ。暴れたら本気で抵抗してもボコボコにされている。
 それでもこうして一緒にいるのだから愛しているのだろうと密かに微笑んでいたバクナイアであった。
「お体にはお気をつけください。心臓は大丈夫ですか?」
「ははは、それは冗談だよ、技術次官殿。これでもまだまだ現役のつもりだ。簡単には死なないさ」
 身体もまだまだ元気だ。国のためにあと二十年は働きたいと思っているくらいである。
 しかし、ヘインシーが語った言葉で彼の二十年分の寿命は縮まることになった。

「いい奥さんですね。長官がタバコを吸ったら教えてくれと言われていますし、健康を気遣ってのことなのでしょう」

 思わずタバコが口から滑り落ちる。
 バクナイアは異様な鼓動を見せる心臓を必死になだめる。まさか、いやまさか。そんなことがあるものか。気がつけば本当に心臓が痛くなり、頬を汗が伝っていた。
「まさかとは思うが…妻と会ったのかね?」
「いえ、お会いはしておりませんが、連絡がありまして…」
 ヘインシーの元に小包みが届いた。もちろん内部は危険物でないことは検査済みである。開くと夫が喫煙していたら教えてほしいという内容の手紙が同封されていた。それを見てヘインシーは、夫の健康を気遣う立派な淑女なのだと感心していたのだ。
「……」
 しばし唖然としたあと、バクナイアは思ったことを素直に言葉にした。
「冗談だろう?」
 ヘインシーは嘘を言わない。だから本当なのだろう。
 視線が宙をさまよい、首を傾げる。そしてどうしても腑に落ちないことがある。
「なぜ、止めなかったのだね?」
「止めるようには言われていなかったもので。まずかったですか?」
 このあたりがヘインシーの問題点である。彼に悪気はまったくない。そうしたことに干渉しようとはしないのだ。ただ起こったことに対してのみリアクションをする。「ああ、吸ったな。あとで連絡しとくか」と思っただけにすぎない。
 技術屋ならではの性格なのか、単にどこか少し抜けているのか。才能のある人物というのは少しおかしいのが相場なのだろうか。

「ヘインシー君、まさか私を売るような真似はしないだろうね。この私をまさか売るなどと!」
 半ば脅迫じみた口調でヘインシーに詰め寄る。まさかこんなところにスパイがいるとは思わなかった。完全に油断だ。しかしまだ食い止める手段はある。
「いいかね、私がその気になれば何だってできるのだよ」
 地位の濫用である。
 彼にとっては妻のほうが何倍も恐ろしいのだ。できればどんな手段を使っても隠蔽できる。
「いやだー! 頼む! 黙っててくれ!! 君は妻の恐ろしさを知らんのだ!」
 そしてついには頭を下げる。机に思い切り額を叩きつけて誠意を示す。もうプライドはない。
「あっ、いえ…その、長官」
「頼む! この通りだ!」
 そして何度も頭を叩きつける。これでもかと叩きつける。その必死な態度にさすがのヘインシーも引く。
 最初は健康を気遣ってだと思っていたが違うらしい。ヘインシーもそこまでされれば、密告などするつもりはない。

 しかし、ここで残念なお知らせがある。

「長官、非常に申し上げにくいのですが…」
「私がこんなに頭を下げているのに、君は見捨てるのかね! ひとでなし!」
「いえその、実は…」
 ヘインシーは本当に申し訳なさそうに机を指差し、一つの物体の存在を示す。
 【それ】はちょうどバクナイアが頭を叩きつけていた場所にあった。
「これは…何だね?」
 バクナイアがそれを取る。今になって気がついたが、最初からそこに置いてあったもののようだ。
 五センチ四方の四角いプラスチックに平べったい丸いボタンがついている。なかなか押しやすそうなデザインだ。
「実はそれが奥さんからの送り物でして…」
 それはバクナイアの妻が各人に渡してある「教えて君」という密告専用のスイッチである。これを押すとバクナイアの自宅の妻が座る椅子が二メートルほど飛ぶという謎の仕掛けである。当然、妻が座っていれば一緒に飛ぶ。
 なぜそのような仕組みなのかヘインシーが疑問に思ったが、特に気にしないでいた。

 ちなみに真相はこうだ。

「嘘をつかれた怒りを忘れないように」。

 恐ろしい発言である。
 その恐ろしさを知るバクナイアが必死に頭を下げていた時、自らその死刑執行のボタンを押していたのだ。額で。何度も。
 起こったことは仕方がない。なにせ押したのが当人なのだからヘインシーに罪はないだろう。
 バクナイアはしばし放心していたが、もう諦めたようだ。多少ボコボコにされるくらいのこと。一度鼻を折られたことがあるが…あるが、そのことは忘れることにしよう。
 彼らは知らなかったが、もう一つ残念なお知らせがある。
 バクナイアの妻は天気が良かったので、今日はたまたま庭に椅子を運び、優雅にお茶を飲んでいたのだ。自宅にある美しいダマスカス庭園の【池】を眺めながら。
 その結末はもう語るまでもないだろう。
 怒り。それは恐ろしい感情であることをバクナイアは近いうちに知るはずだ。嫌というほど、わが身をもって。

 話は国際連盟会議場に戻る。
「まあ、あれだけの面子がいれば私などいなくてもかまわないだろうがね」
 気を取り直したバクナイアの表情は子供そのものであった。
 各国の首脳が来るとなれば護衛の者たちもいる。その面子たるや、ダマスカスの主要人物であるバクナイアでも見惚れてしまうほどだ。
「ルシアの雪熊ジャラガンにロイゼンの白騎士シャイン・ド・ラナー卿、シェイクの始末人シャーロンにGGの守護天使までいたぞ!」
 資料でしか見たことのない大物ばかりであり、彼らはすべて一騎当千の猛者。普段は列席しないが、今回は各国が【見栄】を張る場でもあるのでネームバリューのある人物を連れてきているのだろう。
 そして、バクナイアの声が一際大きくなる。
「それにな、たぶんあれは紅虎様だ! 本物の【剣聖】だぞ! わかるかね、その意味が! いや、ラナー卿も剣聖だが、紅虎様といえば剣聖の中の剣聖。ああ、サインが欲しい」
 握手までしたら妻への浮気になるだろうか、と変な妄想をしつつバクナイアは身悶える。
 その気持ちは、少しでも武を志す者ならば誰もに共通するものだった。空手を学ぶ子供だろうが殺しの技術を叩き込まれた軍人であろうが、彼らの前にあっては同じなのだ。
 特に紅虎がこのような場に出ることはまずありえないので、護衛として出席している者たちであっても密かにサインをもらえないかと注目の的であった。

 そして、これほどの大物揃いならば、どのような敵が攻めてきても、瞬く間に返り討ちになるだろう。
 だからバクナイアがここにいても問題にはならないのだ。万一さえもない面子が会議場を守っているのだから、むしろ邪魔になる可能性が高い。
 ヘインシーは技術屋なのでバクナイアほどの熱はなかったが、彼らの名前は知っていた。それほど大きな会議がすぐ近くで開催されているのだ。だからこそバクナイアもヘインシーに呼ばれた理由が気になる。
「それで、問題が起こったのかな?」
 バクナイアが熱っぽく語っていた間に入れた紅茶を一口飲み、ヘインシーは実に冷静な口調で切り出した。
「長官は、アナイスメルはご存知ですね」
「まあ、一応の知識だけはな」
 アナイスメルの情報は超がつくほどの国家機密であり、バクナイアのような国家運営に関わるトップクラスの政治家か、ヘインシーのような特殊な役割を持った一部の人間にしか知らされていない。
 そう、アピュラトリスの中で働いているスタッフ及びユウトのような実際に見ている人間にすら何も教えられていないのだ。
 それ以外で知っている者は常任理事国のトップくらいなもので、彼らも秘密を貫いていた。
 この存在だけは現在のシステムを維持するうえで絶対に守らねばならないものである以上、仮に戦争中であっても、仮にどこかの国が滅亡したとしても維持されるべき秘密と認識されている。
 ルシアもシェイクも、すべての常任理事国がアピュラトリス、いや、アナイスメルに関してだけは協調できるのだ。今回の連盟会議もアナイスメルあってのものだといえる。
「アナイスメルが我々が構築したものではないこともご存知ですか?」
「ふむ、建国前よりあったことは知っているよ」
「そうです。ダマスカス共和国が建国されたのは、およそ千二百年前。あれはそれ以前からあの場所にあったものです」
 ヘインシーが窓の外にそびえるアピュラトリスを見る。
 ここからは距離があるが、あの建造物はこの街のどこから見ても視界に入るほど大きい。グライスタル・シティの観光名所にもなっているほどだ。
 しかし、アナイスメル自体は、ダマスカス人が造ったものではない。

【元からそこにあった何か】である。

 その上に塔を建てたのだ。けっしてアナイスメルをアピュラトリスに持ち込んだわけではない。そもそも動かせるものではないのだ。
 嘘か真かわからないが、ダマスカスが建国された理由は、あの謎の装置を守り、有効活用するためだともいわれている。現在の状況を見れば、あながち言いすぎだとも思えない。
「誰が造ったのかはわかりませんが、【賢人の遺産】の一つだといわれています」
 ヘインシーは神妙な口調でその言葉を発した。

 【賢人の遺産】。

 この世界には誰が造ったのかわからない建物や装置、あるいは技術が存在している。
 それらは現在の人類の叡智を遙かに凌駕しており、使えはするがどういった仕組みなのかわかっていないものが圧倒的に多い。
 すでに滅んだ大陸歴以前の【旧文明の遺産】であるという説もそれなりに説得力があるが、研究者の間では【賢人説】が最有力である。
「賢人か・・・。君は実在すると思うかね?」
 賢人という言葉は一般層には浸透していない。その言葉自体がタブーとなっており、伏せられている。
 賢人という存在が実際にいたかは重要ではない。事実として遺産が存在することが問題なのだ。存在する以上は政府としては隠しておきたい言葉である。
「難しい質問ですね。賢人が何を指すのかもわからないのでは証明しようがありません。ただ、あれは普通の人間が造れるものではありません」
 ヘインシーは、もし賢人がいるのならば別の生命体ではないかとも考えていた。世界の中央にある【魔王城パンデモニウム】に住む者たちの中には、異様なほど高い知能を持つ者たちがいる。彼らならばけっして不可能とは思えない。

 ただし、と付け加えてヘインシーは語る。
「少なくともアナイスメルは人間が扱うことを想定して造られています。とすれば、人が造った可能性は高いでしょう」
 そう、アナイスメルは【人が使う】ことが前提なのだ。ここが非常に重要な点だ。
「あれの類似物にルシア帝国の【バン・ブック〈写されざる者〉】があります。あれも人が使うことを前提としていますが、そもそもの用途が違います」
 賢人の遺産はいくつか存在するが、アナイスメルと同規模のものはバン・ブックのみである。ただ、両者の規模は同じだがヘインシーの言うように用途が異なる。
「アナイスメルの内部には【二百の階層】があります。このうちの百層は我々が構築したものです。これはバン・ブックがデータの蓄積だけに特化しているのに対し、アナイスメルは【運用】を前提にしたものだからです」

 両者とも人間が使うことを想定している。
 ただし、そこには微妙な差異がある。

 バン・ブックは巨大なデータバンクであり、蓄積と閲覧が主な役割である。
 一切の変更を受け付けず、ひたすら無限に蓄積を続けていく巨大な本のようなもの。閲覧はできるが記載は自動的に行われ、人為的に書き込むことはできない。ゆえにその名が付けられている。
 一方のアナイスメルは、蓄積したデータを元に運用されて始めて真価を発揮する。現在のダマスカスの繁栄を見れば、それがどれだけ価値あることかがわかるだろう。
「もちろん、バン・ブックも非常に重要な存在です。ルシアがあれだけ短期間に力を延ばしたのも、ひとえにバン・ブックに蓄積されていた【賢人の技術】のおかげでもありますからね」
 ルシアは今でこそ大国だが、かつては名も知れぬ小国であった。この五百年の間に急速に力を伸ばしてきたのは、バン・ブックという賢人の遺産の恩恵にあずかったからに他ならない。
 具体的にどのような技術が記されていたかはわからないが、その膨大な情報はそれだけでも世界を動かせるだけの価値がある。
 ルシアもまた、バン・ブックという存在があったからこそ生まれたのかもしれないのだ。その意味ではダマスカスとルシアは同種の存在である。

「本来アナイスメルは我々とは違う高度な技術で造られたものである。ここまではよろしいですか?」
「まあ…な」
 それがどうしたのだ、という顔のバクナイアにヘインシーが続ける。
「つまり、アナイスメルの百層以上の階層についてはオリジナルのものなのです。それについては我々も手出しができません」
「技術次官の君でもか? そのための役職だと聞いていたがね」
「申し上げましたように、アナイスメルは運用をしなければ価値がありません。全世界の金融の流れを蓄積しつつ、それを元に予測し利益を出しています。我々が行っているのは主に【メンテナンス】なのです」
 ダマスカスにとって重要なことは、アナイスメルという存在が何であるかではなく、どう使え、どれだけ利益を出せるか、である。それがすべてなのだ。
 ヘインシーは技術次官という金融科学長官に次ぐ立場にいられるのも、アナイスメルの管理を任されているからである。
 そのため、ヘインシーら技術者に与えられた最優先の仕事とは、運用に支障が出ないように管理することなのだ。

 まずは通常の金融データ。これは全世界の人間の預貯金のデータが蓄積されている。
 そう、すべてだ。どんなに小規模であろうとも金の流れに動きがあれば自動的に蓄積されていく。小学生がお年玉を預金しても、どこで入金したのか、どうやってやったのか、監視カメラの映像すら一瞬で手に入る。
 こと金融に関してはプライバシーなど存在しない。
 一国の大臣が愛人に送った指輪の値段も、今すぐに照会することができる。一秒もかからない。
 それに加えてアナイスメルには全人類のデータが蓄積されている。顔、骨格、DNA、特技、性癖に至るまですべての人間のデータが日々更新されているのだ。
 そのデータを用いて個人の情報を分析し、さまざまな社会サービスに応用することができる。そうしたデータの他国への販売やコンサルタントも、ダマスカスにとっては貴重な財源になっているのだ。
 これらがダマスカスが自ら築いた百層までのデータ、あるいは運用プログラムだといえる。
 ただ、そうしたデータはあくまでダマスカスが自国の利益になるようにと築いたものにすぎない。アナイスメル本来のものではない。

 では、オリジナルは何であるのか。
 百層以上の階層には何があるのか。

「我々も限られた時間で解析はしています。現在は、百二階層の途中まで解析が終わっています」
「百二? ということは、まだ二階層しかわかっていないのかね」
「申し訳ありません」
 本当に申し訳ないという顔の青年に、バクナイアも手を振ってフォローする。
「いや、責めているのではないよ。君が真面目で優秀な人間であることはわかっているからね。ただ、初耳だったのでね」
 バクナイアの言葉は咎めているものではなかった。単純に驚いたにすぎない。
 しかし、その次の言葉でもっと驚くことになる。
「はい。【千二百年もの時間を使って、まだ二階層しか解析できていない】のです。正確には一つの階層がようやく終わった段階ですが…」
 バクナイアは驚いた拍子に、思わず目の前にあった「教えて君」を押しそうになった。

 アナイスメルの調査は建国から続けられていたものだ。
 その多くの時間は運用のためのシステム造りにあてられたが、同じだけの時間を解析にも使っている。だが、それだけの時間を使ってもなお到達したのは二階層である。
 それには理由があった。
「アナイスメルの形状はご存知ですか?」
「あの石版のようなものか。あれが動かしているとは、いまだに信じられないがね」
 一度だけ見たことがあったが、バクナイアのような人間にはまるで理解できず興味は湧かなかった。最初は馬鹿にされたのかと思って怒ったくらいである。
 ヘインシーはそれも仕方ないと思う。それが普通の人間の反応だからだ。
「あれはデバイスの一種です。アナイスメルそのものではありません。あくまでアナイスメルに働きかける端末、あるいは触媒なのです」
「そうなのか? では、アナイスメルはどこにあるのだ。もっと地下かね」
 一説によればさらに下。地下千メートルに本体があるのではないかという噂である。
 だが、ヘインシーの答えはバクナイアの思考をさらに深い闇に陥れるものであった。

「わかりません」

 一瞬、ヘインシーの言葉の意味がわからず何度か瞬きをしたのち、バクナイアはもう一度問う。
「どういう意味かね」
「言葉通りの意味です。わからないのです。そう、わからない。アナイスメルはどこにあるのでしょうか。謎なのです」
 ヘインシーは嘘をつく男ではない。わからないことはわからないと言える勇気ある人間だ。だが、今はそれが少しばかり恐ろしい。

 ヘインシーは、やや思案するように視線を床に移しながら続ける。そこには誤まって押さないようにと隔離された「教えて君」があった。うっかり踏みそうなのでもっと危ないとヘインシーは思ったが。
「アナイスメルの階層一つ一つは、約三億八千万の【波形配列】によって成り立っています。それをあのデバイスを通じて我々が理解できる波形として読み取っているわけです」
 波形の種類は、現在わかっているだけでも百二十八種存在している。それが複雑に絡み合って何かを構成しているのだ。一つ解析するだけでも気が遠くなる時間が必要となる。
 それはまるで知らない文明を解析する行為である。何も知らない状態で「これは文字だろうか、それとも記号だろうか?」と自問しながら進むのだから遅いのは当然である。
「それが百倍か。たしかに大変だな」
 ふと言った言葉だったが、ヘインシーはそこを訂正せざるをえなかった。
「長官、百倍ではありません。【百乗】です」
「百乗? ・・・百回【掛ける】という意味かね?」
 普段から計算には疎く、「乗」という言葉に馴染みがないバクナイアはその意味が最初はわからなかった。数学の授業で習ったかもしれないが、百乗などという言葉は今までの人生で一度も役立たなかったからだ。
 だが、その百乗が問題であった。
「はい。その百乗です。次の階層では、その三億八千万のパターンが二乗されます。そして次の階層では、さらに同じように二乗されるのです。それが難航している理由です」
 ヘインシーは、とりあえず階層と呼んでいるがそれは単純な次の階段という意味ではない、とも補足する。
 波形は常に動いており、常に一定でもない。それらが幾重にも集まって生まれた一つの階層は、もはや一つの別の波長の世界であるともいえるという。
 二乗という言葉も実態とは少し異なる。波形は無限に広がっているので、おそらく概念上は限界がない。つまり無限だ。無限に広がる階層がアナイスメルには存在しているという。
 ただ、ある段階に達すると一つに留まる性質を持っているようで、その集合体を階層と呼んでいるにすぎない。
 その集合体の外側、あるいは内側にはさらに違う巨大な波形の集合体が存在する。それがおそらく百回繰り返されている「であろう」という推測に基づき、百層という言葉を使っているのだ。

 バクナイアはこの段階で思考を破棄した。
 そもそも十の十乗ですら暗記しないことにはすぐには浮かばないのだ。もう計算も思考もする意味はないだろう。こういう話が嫌いだから自分は今の役職になったのだから。
「そんなもの、よく解析できているな」
「この段階で、すでに人類が持つ装置での解析は不可能です。よって我々は別の装置を使って研究を続けています」
 ヘインシーは自身の頭を指差す。
 この世界で最も優れた道具は何か。

 その答えは【人】である。

「アナイスメルが発している【波動】は、人のそれに近いのです」
「脳の処理を使うという意味かね?」
「いえ、脳でも間に合いません。脳はあくまで出力媒体の一つにすぎないからです。アナイスメルの情報はそれを遙かに超えています」
 人間の脳は優秀である。古来よりさまざまな研究者がその驚異に気がつき実験を繰り返してきた。かつてのデータでは、アナイスメルの研究に脳が使われていた記録も発見した。
 が、結局は失敗に終わっている。
 では、何を使っているのか。

「それは、我々の【意識】です」

 脳はあくまで意識を表現するための下位端末であるといえる。その上位には常に意識が存在する。
 意識から思考、思考から声帯への結果が言葉であるように、反射が人の脳での思考を超えるように、その根幹には潜在意識がある。
「より正確に述べるならば、我々の【高次の自我】が理解したものを意識を通じて出力し、それを脳が処理しています。それが人です」
 ヘインシーの説明は理解できない点が多い。技術次官なのでもっと現実的な説明を期待していたバクナイアは困惑を隠せない。
 ただ、一つのことは理解できた。
「よく理解できないが、とりあえず人を使うということかね?」
「そうです。アナイスメルは【人を欲している】のです」
 これこそが、人を使うことを前提としたシステムという意味である。アナイスメルが発した波動は人を通じて理解されるのだ。
 あの石版状のデバイスは、発せられた波形を人が感得できるレベルにまで変換する機能があり、【特殊な人間】によって翻訳される。
「その波動を感得できる人間は、十万人に一人いるかどうかです。我々の仕事の大半は、その人物の捜索及び勧誘にあてられています」
 人物はアナイスメルそのものがリストアップしてくれる。あとは直接接触するか、間接的にこちらに向かうように仕向けるかである。
 その人物の仕事は非常に簡単である。デバイスの前にいればいいだけ。あとは自動的に適合者の意識が翻訳機能を果たしてくれるのだ。
 そうすれば百層に渡って作り出した独自のシステムが稼動し、莫大なデータをアナイスメルから引き出し運用することができる。

 ダマスカスの中核であるアナイスメルは、たった一人の人間の意識によって運用されている。
 これが世界の富の実態であった。

「ただし、一定期間を過ぎると感覚が鈍くなり、翻訳の機能を果たせなくなります。定期的に【交換】が必要です」
 そして、現在翻訳に使っている人間も、今日入れ替える予定だと伝えた。まだ余裕があるが万一に備えて早めに交換をしたほうがいいという判断である。
 それがたまたま国際連盟会議と重なったのは偶然だった。この会議自体が緊急のもので意図したものではなかったからだ。
 本来ならば日程を変えるべきかもしれないのだが、国際連盟会議の目的がアナイスメルの正常動作の確認である以上、こうした大切な作業を延期するわけにはいかない。
 部品は人間なのだ。事故で死ぬ可能性もある。できれば早めに確保しておきたいのが本音であった。
「…人柱か」
 思わず出た言葉はバクナイアらしいものだった。自国の繁栄がそうしたシステムで成り立っていたことにショックを受けると同時に、その人物が哀れに思えたからだ。
 ただ、それは人間味溢れる彼だからの価値観と倫理観であり、ヘインシーはまた違う考えを持っていた。
「再充電不可能な使い捨ての【電池】だと思ってください。あくまで道具を動かすための電池です。ですが、彼らへの褒賞は一般人から見れば破格なものでしょう」
 宝くじよりも遥かに確率の高い成功が約束される。浮浪者がたかが三年で億万長者になれるのだ。一生買っても当たらないギャンブルとは違う。もっとも、宝くじの当選すらもアナイスメルが当たる人物を操作しているのだから、すべての富は意図して生み出されたものであるといえるが。
「富で得たものは富で返すか。ダマスカスらしいな」
 それにはヘインシーも笑って返すしかない。

「しかしまあ、よくそんなものが制御できるものだ」
 バクナイアは非常に素朴な感想を述べる。
 今まで聞いている限りでは人が扱えるレベルをすでに超えているように思えるからだ。
「ですからその表層に百層にも渡るシステムを構築したのです。あくまで【たかだか金融程度】のものを扱うためにです」
 オリジナルの表層に造られたシステムは、既存の技術が使われている。非常に高度ではあるが、今までの人類が築いてきた技術で補っているのだ。
 それらすべてはアナイスメルの思考パターンの翻訳という位置づけである。
 与えた情報に対してアナイスメルが蓄積した情報を元に反射あるいは反応を返す。それは人間のものと同じだ。
 ただし、その速度と規模と正確性は比較にならない。最新の機器の性能を遙かに超えている。おそらく永遠に追いつくことはないだろうとも考えられていた。
(ということは、そもそも使い方が違うのだ)
 ヘインシーは、アナイスメルは本来そうした使い方をするものではないと考えていた。あれはもっと大きな、人の意識に対して作用する何かの装置ではないかとも。
 最近では、人が【神】と対話するために造った【妄想の産物】なのではないかとも考えるようになっていた。
 技術次官という立場であるならば、できるかぎり抽象的な表現は避けるべきだと怒られるかもしれないが、実際にアナイスメルの管理をしている身であれば、いかなる可能性も捨てるべきではない。
 そもそも生命という存在の本質すら地上の人間には漠然としたものとしか映っていない。物的な観点からは捉えることが不可能なのだ。
 そして一つの言葉に行き着く。

(【ウロボロスの】、それが鍵かもしれない)

 研究をしているとさまざまな分野の資料と出会う。その中には神秘学的な考えも多くあり、ウロボロスという名前も多く出てくる。
 ウロボロスとは、自分の尾を咥えて円形になった蛇のことで、死と再生の象徴として古くから宗教的にも扱われているシンボルだ。
 形而上けいじじょうのものではあるが、アナイスメルの実態も目に見えないという意味では同じようなものである。
 仮にアナイスメル、あるいはバン・ブックというものがウロボロスを紐解く鍵になるのならば、学術的にも科学的にも非常に興味深いものである。
 なぜならば、それは人類が偉大なる者に追随することを意味するのだから。
 ただしそれは現在の富とはまったく関係のない分野である。ダマスカスとしてはリスクを背負うよりも絶対的な金融システムであってくれたほうが都合が良いのだ。
(偉大なる者は霊的な技術を応用できると聞いたことがある。では、アナイスメルもその装置の一つだとすれば造ったのは彼らだろうか。いや、だがあれはもっと人間的な・・・)
 ヘインシーが深い思考の中に没入していると咳払いが聴こえた。
「ところで、せっかくのご教授はありがたいが、さすがの私もそこまで暇ではないのだが…」
 バクナイアの言葉にヘインシーは正気を取り戻す。思考に没頭してしまうと周りが見えないのは悪い癖だ。
 このままではバクナイアに対して失礼だし、肝心の用事を頼めないと困る。
「そろそろ用件を伺いたいのだが。できれば簡潔にね」
「ああ、申し訳ありません。簡潔に述べますと…」
 何度か床と天井を見つめならが思案した結果、ようやくその言葉を発するに至った。

「アナイスメルがハッキングを受けている可能性が高いです」

 非常に簡潔に述べた。
 やればできる。ヘインシーは満足げだ。
 そして、もしそうならばアピュラトリスの制御室もすでに制圧されている可能性がある、とも付け加えた。満面の笑みで。

 しばしの沈黙後、バクナイアは激しい脱力感に襲われながら全身全霊を込めてその言葉を紡いだ。

「そういうことは最初に言ってほしかったよ」

 そして、思わず立った勢いで「教えて君」を踏んだ。
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