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十二英雄伝 作者:ぷるっと企画

零章 『世界が分かれた日』

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四十七話 「RD事変 其の四十六 『コノの旅①』」

 †††

 ガタン、ゴトン。列車が走る音が響く。その心地よい振動に、うつらうつらと眠気が襲ってくる。開いては閉じ、また開いては閉じるを繰り返す目蓋。漆黒色のショートボブ、その側頭部が何度も窓に当たっては、ガコンガコンと抗議の音を立てている。

 窓から見える車外は真っ暗。少しばかり青みがかった空に浮かぶのは無限の星々の煌めき。これだけ見れば何の変哲もない帰宅時の列車内の光景。ただ疲れて眠そうにしている女の子の図。ゴスロリ風の服を着た、ちょっとイタイ子。その程度である。

 しかし、女の子には【耳】があった。それもピョコンと立った実に愛らしい猫耳である。服や耳の色も黒いので、まさに黒猫という言葉が似合う。

 その少女の名前はルイセ・コノ。まさに今、全世界の人間の命運を握っている存在である。

 現在、ルイセ・コノは居眠りをしている。実に呑気なものである。この姿をゼッカーが見たら、あまりの驚きに失神してしまうかもしれない。彼はルイセ・コノの帰還を心から待っているのである。それに対してこの仕打ち。さすがの悪魔も泣いてしまう。

 それでも眠いものは仕方ない。列車の速度に任せている以上、急いでも何かが変わる旅でもないのである。彼女は自身の欲求に対して素直に屈することにした。静かな寝息を立てて、すやすやと眠っている。

「コノ様、コノ様」
 眠っているルイセ・コノの手をさする者がいる。手は妙に毛深く、触られるとふさふさしてむず痒い。

「コノ様、コノ様・・・」
「ん・・・にゃぁぁ・・・」
 その者がさすってもルイセ・コノは起きない。窓に何度も頭をぶつけているのに目覚めないので、完全に熟睡しているようだ。仕方ないので、ちょっと強めに揺すってみる。

「コノ様、起きてください」
「んー・・・にゃーー!!! バリッ!」
「いたーい!!」
 すると突然、ルイセ・コノが爪で攻撃してきた。しかもかなり本気の一撃である。猫が、遊びに夢中で引っ掻いた時と同じくらいの本気度である。

 ルイセ・コノは猫耳と尻尾以外は人間とまったく同じであるが、猫と同じく爪は出し入れ可能な構造となっている。伸ばすと三センチくらいになり、暗器のように使うことが可能であった。

「はぅう、痛いですぅ」
 引っ掻かれた者は、顔を手で覆って座り込む。爪が頬に直撃したのだ。これは痛い。相当痛い。目に涙が浮かぶほど痛い。

「んっ! 何にゃ!? どうしたにゃ!」
 その声に目を覚ましたルイセ・コノ。何が起こったのかわからず周囲を見回す。今の行動は単なる防衛本能だったらしい。ルイセ・コノの視線の先には、今しがた引っ掻いた者、女の子がいる。

 ルイセ・コノよりも少し年上の容姿。おそらく一六歳くらいの見た目で、髪の毛は茶色のロング。蜂蜜色のハニーイエローをした柔らかそうな髪の毛が、ふんわりと優雅に広がっている。服はゆったりしたブラウスとスカートで、全体的に清楚な印象を受ける。

 これだけ見れば普通の少女。声はおっとりしているので、少し良いところのお嬢様に見えるかもしれない。しかし、彼女にも【耳】があった。ルイセ・コノとは少し違うフサフサの耳、イヌミミである。同じくフサフサの尻尾もスカートからはみ出ている。

 共通点は、お互いに人型であること。耳と尻尾以外は人体のそれと変わらない。唯一違う点は、犬耳の少女の手は犬のそれに酷似している。肉球があり、髪の毛と同じ色の毛が生えている点だろうか。それ以外は普通の人間と変わらない容姿である。

「コノ様、痛いですぅ。ほら、ここぅ」
 その犬耳の少女は、引っ掻かれたことをアピールしてくる。見ると、頬には引っ掻き傷が付いている。まるで赤い髭が新しくできたような見事な傷だ。相当痛いらしく泣きそうな顔である。しかし、ルイセ・コノを甘く見てはいけない。

「ゲラゲラゲラ。ナイス髭ですにゃ! お笑いですにゃ!」
「笑うなんてあんまりですぅ! ううぅ」
 その髭に大笑いである。お似合いですにゃ、と腹を抱えて笑い出す。そして、再び爪を出してニヤリと笑う。

「ワン、うちの眠りを邪魔するとは許せんにゃ! もう片方にもつけてやるにゃー!」
「やー、やめてくださいぃー! わうぅうーん!」
 犬耳の少女、ワン美はさらなる暴力から逃げまどう。その姿は、威嚇した攻撃的な猫に追われる穏和な犬を彷彿とさせた。犬には争うつもりはないのに、興奮した猫が殴り続けるという、あれのことである。何度見ても不思議な光景だ。

「はうぅう、ヒゲが出来たですぅ・・・」
「実に似合ってますにゃ。感謝するがよいですにゃ」
 もう片方にも赤い髭を作り、ルイセ・コノは満足そうに椅子の木で爪を研ぐ。不当な暴力を楽しむ猫と、それを甘受するしかない犬の哀れな構図であった。

 ルイセ・コノ、序列五位のメラキ。天才的な能力を持ち、ユニサンが持っていた携帯電話やオブザバーンシリーズのAIを作るなど、ラーバーンの機械系能力者の中で最高の力を持つ存在である。

 ラーバーンの旗艦である巨大戦艦ランバーロの再設計にも関わり、その才能をいかんなく発揮している。本職はダイバー〈深き者〉であり、構築技術だけではなくハッキング技術も世界最高と呼ばれている多才な少女である。

 しかし、その性格には難がある。同じく天才と称されるタオ・ファーランがそうであるように、この種の人間は少し頭がおかしい。また、そうでなければ普通の発想しかできない凡人で終わったことだろう。

 その中でもルイセ・コノは、快楽主義者の部類に入る。自分勝手で楽しいこと以外には興味を示さない。邪魔するものがいれば無視するか排除する。実に単純な思考をもった存在である。

 こうして相手を傷つけても、それが面白ければ何も気にしたりはしない。といっても相手を殺すような残酷さではなく、面白可笑しくあればよい、といった程度のものである。高い能力と愛らしい容姿もあってか、それが許される立場でもあった。

「お嬢、ワン美殿は到着をお知らせしようとしただけ。罪はないでござる」
 その様子を見かねた男がルイセ・コノを諭す。男と形容したが、この存在は男と呼んでいいのか若干憚られる容姿をしている。なにせその姿は【鳥】である。人間大に大きく、しかも和服を着ている。なにより「ござる」である。いろいろとつっこみたい気分だ。

鳥蔵とりぞうが止めても、ニャーは許さんにゃ!」
「いたーい! 尻尾が枝毛になるですぅ」
 ルイセ・コノはワン美の尻尾を引っ掻く。尻尾が枝毛になる状況が理解できないが、当人にはそう感じられたのだろう。

 こうして引っ掻くことに特に理由はない。そこに犬がいたから引っ掻く。それだけの話である。まさに不当。まさに理不尽である。これだけ見てもカオスな空間であるが、さらにこの車内には珍客がいる。

「キャッキャ、ウキキ!」
 そのやりとりを楽しんでいる者がいた。それは猿。普通の猿とオラウータンの中間のような猿で、そこそこ体毛が長い種類だ。ただ結局、猿は猿としか言いようがなく、猿の種類を聞いたところで誰も得はしない、ただの猿である。その猿は皆が騒いでいる姿が楽しいのか、手を叩いて喜んでいる。

猿吉さるきちさん、なんて言っているんですぅ?」
「拙者も理解できぬ。お嬢はおわかりか?」
「知るわけないにゃ。あいつ、猿だもの」
 しかもその猿、猿吉とはまったく意志疎通不可である。ルイセ・コノの言葉がすべての真実。猿は猿であり、言葉を交わすことはできないのだ。

「それより到着にゃ?」
「さっきアナウンスがあったんですぅ。あと三十分くらいで着くみたいですぅ」
 ワン美がルイセ・コノを起こしたのは、それを知らせるためである。しかし、知らせたがために赤い髭を作る羽目になるとは不運な少女である。

「ふみゅ。ようやく次の階層ですかにゃ。この階層も随分と長かったですにゃ」
 ルイセ・コノは椅子に座って丸くなる。思えばこの階層に留まっていた時間もかなりのもの。ようやく終わると思えば懐かしさすら感じてくる。


 ルイセ・コノはどこにいるのか。

 小さくいえば列車の中。列車は蒸気を吹き出しながら走っている懐かしいタイプ。しかし大きさは普通の電車の数倍で、車内の幅は八メートルとかなり広くゆったりしている。席も大きく、ソファーのような弾力があるので座っていて快適である。こうして丸くなれるほど大きいので、大柄な人間でも問題ないだろう。

 ルイセ・コノはどこにいるのか。

 体よくいえば宇宙の中。車外から見える夜空は地上から見上げるものとは違う。星々が輝くのは同じだが、その距離感が違う。さきほど通り過ぎた星は、まさに惑星と呼ぶべき大きさで、そうした星々が何万と浮かぶ世界。そこはまさに宇宙としか言いようがない。

 現在の地上人の中には、自分が住んでいる世界が【星】であることを知らない者もいる。かつての文明では星の解析も行われていたが、少なくとも大陸歴の文化技術レベルにおいて同じことは不可能である。

 唯一、賢人の知識を受け継ぐメラキや、一部の叡智を持つ者が全貌を知るにとどまる。あまりに地上の廃退が進んでいるので、それを知る必要性がないからである。人々は今の生活で精一杯。周りを見る余裕はない。それよりも地上で解決しなければいけない問題が山積みなのだ。

 ルイセ・コノはどこにいるのか。

 その問いの最後の答えは、当然アナイスメルである。ここは立派にアナイスメルの領域内なのである。この列車も、この星々が浮かぶ宇宙も、すべてアナイスメルという存在の中にある【蓄積された情報の顕現】である。

 ヘインシーが述べていたように、まさに事実上無限の空間が広がっている別次元の世界なのだ。次元が異なれば世界は大きく変わる。人間には物的な尺度でしか物の大きさを測れないが、たとえば電波によってデータが送信されるように、保存の手段と認識する方法によって、存在の在り方は多様に変化するのである。

 アナイスメルの一層から百層までの階層は、全金融システムを維持するためのものである。全世界の情報が集まる場所であり、全人類の九割のデータが格納されている。それはヘインシーたち管理者が代々構築してきたもので、地上の人間が現在のシステムを維持するために最重要と位置づけているエリアである。

 がしかし、それはあくまで表層部分にすぎない。本当のアナイスメルはその先、百一階層から始まる。この階層に関しては、ヘインシーも自らダイブして情報を持ち帰っている。ここで端的ながら彼のリポートを読んでみよう。


○ヘインシー・リポート「百層まで」

「アナイスメルの百層までは、人工的な階層である。ここはいわば『機械的な層』であり、一般的なサイバー領域である。ダブルをもちいて入ると、まず視えるのが方眼紙のような升目にすべてがしっかりと収まった世界。通称【デジョン・シアター〈空間の芸術〉】と呼ばれるものである。

 デジョン・シアターはダイバー専用の【作業室】といっても差し支えないだろう。我々ダイバーは、この階層に潜ると膨大な量の情報を視覚情報として認識でき、見るだけで全容が理解できる。たとえば、とある国の金融顧客データを参照しようとすれば、その情報が蓄積されたファイルを見るだけで、自身のダブル内にデータをコピーできる。それを持ち帰って脳内で復元作業を行い、物質上のものとしてアウトプットするのである。

 ただし、コピーできる情報量と読み取り速度はダイバー自身の能力に比例するため、能力の低い者は一瞬で理解できるとは限らない。少なくとも管理者レベルの能力があれば、百層までのデータ程度の閲覧には一秒もかからない。

 百層までの情報は、さして重要ではない。これくらいにしておこう」

※百層までのリポートは、ほとんど書かれていない。彼ほどの優れたダイバーにとっては、既存の人類が生み出した情報領域などに価値はないのだろう。一方、次のリポートは非常に詳しく書かれているので対比が面白い。


○ヘインシー・リポート「百一層への突入」

「百階層まではすでに述べた通りであるが、百一階層は未知の世界である。人々は百層までの構築と解析で十分と考えているが、それではアナイスメルを活用しているとは言い難い。少なくとも演算能力を借りているにすぎない。言い換えれば、無限の叡智を持つ偉大なる賢人を目の前にしておきながら、俗世の悩み事を相談するようなものである。それならば弁護士にでも相談すれば事足りるであろう。

 アナイスメルを解き明かすことには意味がある。学術的な意味だけではなく、実際の人間の在り方にも大きな影響を与える問題だと考える。それを信じ、私は管理者の権限をもちいて、百一階層への突入を開始する。

 私は、ここで信じるという言葉を使った。この信じる心は軽視されがちだが、生命体、特に人間にとっては重要なものである。なぜならば、人間は信じることによって観測した情報を確定させるからである。それが何かを知るには、まず信じることが必要なのである。太陽を太陽と信じなければ、それは太陽ではないのと同じである。

 百階層の最奥には扉がある。視覚的に扉と視えるのは、人間が持っている知識が具現化した結果であるが、紛れもなくそこには扉があるのである。触れば実感があるし、扉以外の何物でもない。誰が造ったかはわからない。おそらくは初代の管理者が新しい階層を造るために、本来のアナイスメルへの道を封鎖管理したのだと思われる。

 管理者の権限を使って扉を開ける。これを開けるのにも数多くの許可を必要とした。管理者にとっても、この先に入ることは容易ではないのである。扉を開けた瞬間、視えたのは暗い闇であった。それは深淵と呼ぶに相応しい、底が視えない無限の穴であった。人間が海の底に潜った時のような潜在的な恐怖がそこにあった。

 この造られた存在である管理者でさえ恐怖を覚えるのだ。実に恐ろしいことである。しかし、私の探究心は恐怖心を押しのけて進んだ。いったいどれくらい潜ったことだろう。感覚が麻痺してくるほど長い時間、体感ではおそらく一ヶ月は潜っていたかもしれない。その間、光はいっさい存在せず、ただ闇だけが広がっていた。情報の一つもない状態は、ダイバーにとって不安材料である。

 それでも潜り続けると、ようやく光が視えてきた。光は一気に広がって世界を創造した。創造という言葉は文字通りである。みるみるうちに情報が具現化されていき、【世界創造】が始まったのである。

 それは宇宙創造と呼んでも差し支えない。最初に光があり、光が宇宙を生み出し、何億という太陽と惑星を生み出し、二つの力、直進する力と引き寄せる力によって回転が生まれ、サークル運動、サイクル運動、スパイラル運動が始まったのである。運動は宇宙を回転させる力となり、自身の表現媒体である生命体を生み出していく。その光景に驚嘆し、我を忘れて見入ることしかできなかった。

 宇宙が創造されてしばらく経った頃、突然私の身体は一つの空間に引き寄せられた。なんとも形容しがたい感覚である。一度身体をバラバラにされて再構築されたかのような、私自身の魂の解析が行われたかのような感覚である。これは想像であるが、この瞬間、私の魂もダブルも、そこに相応しいものに作り替えられたのだと思われる。そうしなければ長期間留まることはできなかったのだろう。

 気になるのは、これを誰が行ったか、ということである。アナイスメルが行ったのか、自然法則としてそうなったのか、あるいはアナイスメルの内部には独自の法則があるのか。非常に興味は尽きない。少なくともこの時、私が感じたものは【喜悦】であったと言っておこう。自身のすべてを抱擁された気分。そう言うしかない。(この時、私はアナイスメルに抱かれたのだ)

 目を覚ますと、そこは地上の世界であった。いや、それは正確ではない。地上によく似た世界があったのだ。もっと正確に言えば【地上の写し身の世界】が存在していた。そこは大きく捉えれば、地上と変わらない世界である。大地もあれば空もある。

 そして、【人間】もいた。

 これが一番の発見である。まさかアナイスメルの領域内に人間がいるとは夢にも思わなかった。実に驚きである。興奮冷めやらぬまま初めて見た人間に接触してみた。その男は、少し珍しい服を着ていた。記憶によれば、おそらく千年以上前の西方の民族衣装に似たものがあったと思われる。話をしてみると会話が成立したが、こちらの問いに要領を得ない回答が続いた。

 いわく、彼はずっとここに住んでいる。いわく、ここが彼の故郷である。いわく、妻と子供がいる。いわく、自分は農業をして暮らしている。いわく、自分は幸せである。

 一瞬、ここがどこなのか混乱した。もしかしたら地上なのかもしれないと疑いつつも、信じることでアナイスメルに存在していることを認識し続けた。今になって思えば、これがとても重要であったことがわかる。信じ、自分自身を観測することによって、ヘインシー・エクスペンサーという自我を確立できたのである。もしここで【錯覚】を起こしてしまっていたら、私もまた精神を囚われていたのだろう。

 その後、この世界の探索を数ヶ月続けて情報を得たのち、一度元の世界に戻ってみた。驚くべきことに、私がダイブしていた時間は、およそ二十分程度であった。体感では何ヶ月にも感じた旅が、たったの二十分だったのだ。まさに意識の世界特有の現象である」


○ヘインシー・リポート「百一階層の実態」

「この後、慎重に準備を重ね、二十回ほど百一階層へのダイブを続けて情報を収集した。その結果として一つの結論に思い至る。

 アナイスメルの百一階層から百五階層までは、いわゆる【幻想界げんそうかい】と呼ばれる霊域が存在している、ということである。ここからは多少の推論も含まれるが、私なりに集めた情報を精査してみよう。

 下層部分の百一階層には、アナイスメルに【囚われた人間の精神】が種別ごとに集まってエリアを作って暮らしていた。このエリアは言ってしまえば集落のようなもので、似た存在同士が集まって暮らしている状態である。類は友を呼ぶ。原子が分子を作るように、似たもの同士がくっつくのは、まさに自然の摂理であり不変の法則なのであろう。

 大小さまざまであるが、エリアは何万、何百万と存在する。大半の人間の精神は安らぎを求めるので平和で穏やかなエリアのほうが圧倒的に多い。この世界では地上のように肉体がないため、過酷な生存競争が存在しない。何もしなくても飢えることはなく、人々にとっては楽園とも呼べる場所であった。

 しかしながら、彼らの多くは自分の身体の秘密にも、環境条件の変化にも気がついていない。すべてが無意識に行われており自覚がない。はっきり言えば探究心があまり存在しない。そのために観察力が乏しく、自己が何であるかを知ろうとしないのである。だが、彼らはそれでも幸せなのである。

 こうした人々は、いったい誰なのか。それは先に述べた通り、『アナイスメルに精神を囚われた人々』だといえる。その根拠の一つが、最初に出会った男である。男の名前は伏せるが、元の世界に戻った際、アナイスメルで彼の情報を調べてみた。すると、かなり古いファイルであったが彼の情報が出てきた。

 結論から言ってしまうと、彼はおよそ千年前に死んでいた人物である。

 その彼は、今こうしてアナイスメルに存在していた。肉体は死んでいるが精神は生き続けているのである。この精神は魂と置き換えてもよいだろう。人間の意識を格納し、表現する何かによって維持されているのである。我々はそれを魂と呼び、活動する媒体を霊体と呼んでいるにすぎない。厳密にそれが何かは今の段階では特定はできないが、間違いなく存在しているものである。

 一般的な話として死んだ人間は、偉大なる者の一人である白狼の使い(名前の通り、白い狼の形状をしている)が迎えに来る。その霊魂は【ウロボロスの環】という霊域に連れていかれるという。しかし、彼らはアナイスメルの領域内で生きている。これが何を意味するのかはまだわからないが、「アナイスメル=ウロボロスの環」ではないことは明白である。なぜならばアナイスメルは休眠状態であり、その能力の大半を使っていないからだ。ただ、無関係ではないだろう。

 すべてが死んだ人間であるとは言えないのも事実である。私がアナイスメルで出会った人物の一人に地上で有名なハッカーがいた。彼は、紛れもなく現在も生存している人間である。すでに素性は調べており、地上世界において生きていることを確認したからだ。

 彼は果敢にもアナイスメルに挑戦をしたが、正規のルート(百階層の扉)を経由しなかったがゆえに迷い、アナイスメルによって精神を囚われてしまった。その結果として彼の肉体は主人を失い、昏睡状態となって入院生活を送っている状態である。肉体は生きてはいるのだが、精神は別の場所で暮らしているのである。どちらを主体にするかで生死の概念も変わる問題だろう。

 疑問点や問題点はあるものの、人間が生活しているのは間違いない。数多くの人間と接触してみて、すでに地上で他界した人間はまだしも、アナイスメルに囚われた人間が戻ってこない理由は理解できた。あまりの【快楽】に戻りたくないのである。アナイスメルに触れた人間がまず見るものは夢。自分の欲求をすべて満たす夢の世界である。

 食欲が満たされない者は、好きなだけ食べられる世界が与えられる。性欲に興味がある者は、好きなだけ性欲を満たすことができる。相手は思念によっていくらでも創造できるので事欠かない。あるいは同じく求める者同士が交わってもいい。

 こうした接触は、肉体の神経を使ったものよりも過激で強烈な印象を与える。なぜならば、本来快楽とは身体が感じるものではないからだ。その人間の霊魂、意識が感じるのである。身体はあくまで熱を伝える導体にすぎない。

 その神経の枷がなくなると、感覚はダイレクトに伝わり衝撃も倍増する。熱病にうなされる人間のように一種の昏睡状態に陥るのだ。そうなると、もはやアナイスメルから脱出することはできない。甘美な「自分自身が作り出した空間」に囚われることになる。

 だから幻想なのである。

 ここにあるのはすべて幻である。彼らが自ら生み出した夢の世界である。部外者である私から視れば、それがよくわかるのである。しかし、夢を見ている間は夢だと気がつかない。その間に経験することは、現実よりも現実らしいのである。たとえば人間の脳は、想像したことと現実の区別がつかない。与えた情報が正しければ、肉体が経験しようが精神が経験しようが同じように扱う。これに似ている。

 当然、集まった人間の質によっては劣悪な環境もある。強盗や盗賊が集まった場所では日夜争いが行われているし、暴力的な人間が集まれば抗争が起きる。しかも精神の世界なので終わることがなく、永遠にいがみあっている状態が続いている。痛みも精神的であるがゆえに終わりがない。

 アナイスメル下層部は地上に近い階層なので、いまだ物質性が強く、酷い場所では飢えや渇きを感じることもある。だが、肉体がないので満たされることはなく、そこではずっと飲み続け、食べ続けている。それでも満たされずに苦しむ人間もいる。

 いわゆるこれが餓鬼界であろう。食べても食べても満たされない地獄の一種。精神の世界だからこそ起こる現象の一つともいえる。また、炎に焼かれ続ける人間もいる。自らの罪の意識が炎を生み出し、自分を焼いていくのである。

 彼らは快楽によってではなく、痛みによって縛られた存在だといえる。快楽も痛みも、それが強烈になればなるほど囚われる。無限に続く痛みに、ここがどこなのかもわからず囚われる。囚われるという意味では、両者に違いはないのである。

 このように人間の価値観で平和なエリア、あるいは地獄のようなエリアが百一階層には広がっている。他の人間から得た情報であるが、こうした階層は百五階層まで広がっているという。より深い上の階層に行くごとに物質性は希薄になっていき、意識のレベルも上昇していくといわれている。

 もうすぐ百二階層に到達することができそうだが、今回は一度戻ろう。私もまた油断をすれば囚われてしまうのだから。管理者は地上世界にとって必要な因子である。代わりはいるが、今冒険するのは得策ではない」


 非常に端的であるが、これらがヘインシーたち歴代管理者が調べた第一階層の実態である。詳しく載っているので、これ以上説明の必要はないだろう。程度の差こそあれ、こうした階層が百五階層まで広がっているのである。当然人間が生息していないエリアも多く存在し、むしろそちらのほうが多い。巨大な大自然の中に、人間という種がわずかに住んでいるといった程度である。

 そして、百六階層からはまったく世界が変わる。この階層から、ようやく本当の霊域と呼べる場所が始まるのである。それまでは幻想であったが、ここからは本物の意識の世界である。よって、ダブルで入ることは不可能である。

 ルイセ・コノは最初からスピリット体として入っているので、下層領域はさっさと抜けてしまった。もともと下層部の低級なエリアは幽体を使って活動する場所なので、彼女は無自覚で通り抜けることができる。この抜けるという表現も実に難しい。実際に通り抜けているわけではなく、意識の振動数を上げることで世界が変わっていくのである。

 アナイスメルの世界は一つである。どんなに無限のエリアがあっても世界は一つなのだ。ただ、その状態が変化することで次元そのものが変化し、各階層へと移動することができる。言ってしまえば、まったく物理的に動かずに階層を移動しているのである。されど、意識的には移動しているように感じられるのだ。

 速度があるとすれば、それは意識の速度。何かに焦点を当てる速度である。これがダイバーにとって重要な要素となる。理解力、想像力、感識力、直観力、こうした意識の力が必要になるのである。意識の速度が速ければ、それだけ進む速度も速い。

 ルイセ・コノは、この速度が異様に速い。通常の人間が持つ意識レベルを遙かに超えている。具体的に何倍とはいえないが、おそらく一般人の数万倍以上の能力を持っている。オブザバーンシリーズのAIを短期間で組んでしまったのも、この意識の速度のおかげである。彼女の思考力はスーパーコンピューターよりも速いのである。それゆえにアナイスメルの攻略も順調であった。

 ここからは割愛するが、百六から百十階層までは、【国】と呼べるものが存在していた。それは一種の記憶のようなもの。今までアナイスメルが蓄積した情報が具現化した領域であるが、その国はたしかに存在し、【進化】していた。人々はただ生活するだけではなく、進歩して向上しようとしている。その姿は地上人とまったく変わらないのである。

 しかし、多くの国に住むのは人間ではなく、すでに失われた種族が大半であった。

「うわー、綺麗ですぅ。お外がキラキラしていますー。わんわん!」
 ワン美は、無限の星空を駆ける列車の外を見て感嘆する。蒼や緑、オレンジに輝く惑星が山ほど存在し、星々が流す雫はキラキラと世界を彩っていく。時々、フラッシュのような雷のようなものが鳴くが、それもまた幻想的で美しい。

「ワン美、うるさいにゃ」
「だって、こんなの初めて見るんですぅ。感動ですぅ。私の世界にはなかったですから」
「黙れと言ったら黙るにゃー!! バリバリバリ!」
「いたーい!」

 うるさい犬には、爪乱舞による制裁を科す。さすがルイセ・コノである。

 ワン美もまた失われた種の一人で、ルイセ・コノが百七階層で拾った存在である。ワン美の住んでいた国は、犬人いぬひと族の国であった。元は何かの実験で作られた種なのだろうが、不適合種として破棄された存在である。彼らは絶滅してからもアナイスメルに囚われ、その種の意識を存続させている存在であった。

 アナイスメルには、あらゆる種が保存されている。

 この事実だけでも驚愕である。地上に存在していた種は、そのすべての情報がここに蓄積されているのだ。蓄積する者という名前に恥じない能力である。しかも生きているのである。彼らの意識は、生まれてから死んだあとまで存続している。この蓄積は、アナイスメルが人間によって発見される前から続いているものであり、その情報量は想像を絶している。

(黒賢人様も変なことするにゃ。失敗作を取っておいても仕方ないにゃ)
 ルイセ・コノは、このアナイスメルが黒賢人によって造られたものであると確信していた。

 このような領域を生み出せる者など、そうそういるものではない。黒賢人は叡智そのもの。無限の知識そのもの。すでに人間という存在を遙かに超越した存在。この世界で唯一完全に近い存在。彼以外には不可能である。

 そして、ルイセ・コノは黒賢人の一派である。正確に言えば黒賢人の思想を受け継ぐ存在であり、かつてガネリアに現れたクロトと同じ派閥に入っている。彼女が黒い姿なのは喪服の意味だけでなく、最初から黒賢人を崇拝しているからでもあった。

「もうすぐ到着はいいけど、また階層の守護者がいそうにゃ。面倒にゃ」
 ルイセ・コノはため息をつく。着くのは嬉しいが問題点もあったのだ。実は百十一階層から、次の階層に行くための扉の前に守護者が存在するようになったのだ。彼らに打ち勝つのが非常に面倒な作業であった。

「お嬢、何があっても拙者がおれば安心でござる。また戦いとなれば腕が鳴りますな」
 鳥蔵が羽をポキポキ鳴らす。この鳥蔵もまた、ルイセ・コノが拾った鳥である。

「鳥蔵、それは羽にゃ。強いて言えば手羽先にゃ。美味そうにゃ。ガブッ。うっ、鳥臭い!」
「お嬢、食べないでくだされ。拙者の大切な身体でござる」
 ルイセ・コノが手羽先に噛みつくと鳥臭かった。所詮、鳥は鳥でしかないことを認識する。

「鳥蔵は強いにゃ。褒めてやるにゃ」
「お嬢に認めてもらえて嬉しいでござるな」
 鳥蔵は案外役に立つ存在であった。アナイスメルの百十一階層から百二十までの階層は、巨大な迷路と呼ぶべき霊域が広がっていた。魔の森と呼べそうな複雑な森林地帯や、すでに失われた種、それも攻撃的な種族が住まう遺跡など、まさに超絶ファンタジーな世界が広がっていたのである。

 意識の世界なのだから意識の焦点による移動で進めばよいと思うかもしれない。しかし、それが通じるのは自分よりも低い階層だけである。さすがのルイセ・コノも、百十以上の階層では顕現したエリアを地道に越えていかねばならなかった。

 その時に役立ったのが鳥蔵である。彼は持ち前の感知能力を発揮し、迷路攻略に大いに役立った。そのうえ戦力にもなり、襲いかかる異形種を返り討ちにするのだ。あの拳で。いや、あの羽で。恐るべき達人がいたものである。いや、達鳥がいたものである。

 ただ、腕力には優れているが知能は鳥なので、知的な守護者に対しては無力である。守護者といっても力押しの存在だけではなく、知識や霊格を試すような者もいるのだ。そうした際はルイセ・コノがねじ伏せるのだが、それはそれで面倒であった。

「それに比べてワン美は・・・クズですにゃ!」
「そんなぁ。コノ様、酷いですぅ」
 一方、ワン美は役立たずであった。何をしても失敗ばかりで使えない存在として認識されている。しかし、彼女の存在もまた非常に大きな影響を与えていた。ルイセ・コノにではなく、アナイスメルそのものに。

 百十階層に入るとき、ルイセ・コノは門を開ける装置をいじっていた。その時、ワン美が何もないところで転び、ルイセ・コノと衝突。衝撃で操作を誤り、違う機能が発動してしまう。それが解除キーとなる補助システムになっていたので大手柄なのだが、怒ったルイセ・コノはワン美を折檻。その際に機能を戻すのを忘れて今に至る。

 そう、これこそがアナイスメルの自我の一つ。その目覚めを引き起こした要因だったのである。

 その結果として、エリス・フォードラの覚醒が起こる。彼女の中の資質が目覚め、アナイスメルの力を引き出すことになった。まったくの偶然。されど、これもまた必然だったのかもしれない。誰もそのことは知らないが。

「キキ、キーー!」
「猿吉。・・・お前は何でいるのかわからないにゃ」

 ルイセ・コノも猿吉がなぜいるのか理解できていない。気がついたら後ろをついてきていた。まるでRPGゲームの、百七人仲間を集めたら最後の一人がいつの間にか後ろにいた、状態である。そういう仕様だったのかもしれない。ちなみに、猿吉は役立たずである。何もしない。良いこともしないが悪いこともしない。それ以前に意志疎通不可能な種。いてもいなくても変わらないので放っておいているだけだ。

「あー、早く戻ってゼッカーにナデナデしてもらいたいにゃ」
「コノ様の想い人ですか!? うはぁー、ドキドキですぅ! ワンワン!」
 ワン美が少女らしく、色恋沙汰に反応する。そういう年頃なのだろう。尻尾もフリフリしている。

「うるさいにゃー! バリバリバリ!」
「いたーい!」
 だが制裁。

「馬鹿を言うでないにゃ。ただのご主人様にゃ」
 その差が何であるかは理解しがたいが、ルイセ・コノにとってはそういう認識のようだ。今まで彼女は自分を扱える人間をずっと探していた。自分のご主人になれる、自分よりも優れた存在を。それがゼッカーであった。

「ゼッカーの意識領域はすごいにゃ。うちを支配できるにゃ。こんな快感、ほかにないですにゃ」
 ルイセ・コノは、尻尾を揺らしながらヨダレを垂らす。

 ゼッカーがバルス・クォーツを使う時、世界は彼のものになる。すべての星の記憶を司り、あらゆるものを凌駕する意識レベルに到達する。その可能性は偉大なる者に匹敵するほどだ。その瞬間は、優れたダイバーであるルイセ・コノすら完全に上回る力を有する。

 ガネリア動乱においては、この力は限定的だった。それはゼッカーが、無意識に力をセーブしていたからである。英雄であろうとしたぶんだけ、力の行使をためらってしまったのだ。だが、今は遠慮がない。悪魔となった彼に制限はないのである。

「ゼッカーのために早く手に入れるにゃ!」
 ルイセ・コノは、主のためにアナイスメルの【宝】を欲していた。すべてはそのために来たのである。
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