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十二英雄伝 作者:ぷるっと企画

零章 『世界が分かれた日』

29/64

二十四話 「RD事変 其の二十三 『金髪の悪魔 ②』」

 †††

 会議場で異変が起こる一五分ほど前。
 ついにアピュラトリスにおいて決定的な問題が発生していることを理解した男がいた。

(・・・!)
 男は勢いよく立ち上がり、慌てて窓のほうに駆け寄る。
 いくつかの建物に下層部は隠されているが、眼前には山のような富の塔がはっきりと見える。
 見た目には何の異常もない。この段階ではサカトマーク・フィールドはまだ展開されていないからだ。

 しかし、その男、ヘインシー・エクスペンサーにははっきりと異変が感じられたのだ。
 それは今までのような漠然とした異変ではなく、彼にとってはもはや目の前で起こっているに等しい現実感を持っていた。

 すでにアナイスメルに何者かが侵入したことは理解していた。
 それはいいだろう。もともと自分たちでは手に負えないものであり、こうして突破してくれるならば逆にありがたい面もあるからだ。

 ヘインシーほどの【ダイバー】にとってみれば、いくら痕跡を消しても後からトレースすることはそう難しいことではない。
 アナイスメルの秘密を解き明かすことはダマスカスに大きな利益をもたらす可能性がある。だから悪く言えば悠長に構えていることもできた。

 しかしだ。
 こればかりは彼も予想していなかった事態である。

「馬鹿な! どうやって!! ありえない!」
 アナイスメルに侵入された時でさえ(探求的興奮はあったが)平静を保っていた彼が、思わず錯乱してしまうほどの現象。
 そう、今この瞬間、アピュラトリスにおいて起動したものがあった。

 【神の脊髄せきずい】である。

 ヘインシーが管理する頂上のドームに隠されていたアピュラトリスの心臓。もう一つの中核。
 あれがアナイスメルにとっての【地上側のコア】であることはヘインシーも知っていた。
 なにせ彼の存在意義の一つが、あの神の脊髄、正式名称【マザー・モエラ】を監視および解析することなのだから。

(いったいどうやって! 何をやっても反応しなかったのに!)
 マザー・モエラを起動させることは誰にもできなかった。
 電気や電磁波、液体、薬品、人の精子や卵子に至るまでさまざまなものを接触させてみたが何も反応しなかった。

 唯一わかっているのはその名前くらいである。
 これは石版などと一緒に発掘されたファイルに記されていた名前を現代語訳したもので、それがコアであること以外は何も記されていなかった。
 それはつまり、これが【鍵】であることを示していた。

 神の脊髄はセキュリティ・ロックなのだ。

 アナイスメルが完全なる力を発揮するために必要なもう一つの鍵。
 石版が地上側における意思伝達のデバイスだとすれば、マザー・モエラはそれを具現化させるための媒体である。

 いわば、今までのアナイスメルは無限の演算機能を持つガラクタ。半死半生のオンボロ機械のようなもの。
 人間が求めたものに対して夢うつつに回答を述べる老衰した賢者のようなもの。
 そのアナイスメルが本来の力を発揮するために必要なものが、何よりも神の脊髄であったのだ。

 そこまでわかっていながら、ヘインシーはおろか今までのダマスカス人にはどうしようもなかった。
 いや、ある意味では安堵していたのだ。

 もしマザー・モエラが動いてしまえば手に負えるものではないことは明白。ならば眠っていてくれていてもよいのだと。そのほうが安全であると。
 ヘインシーもいつの間にかそう考えるようになっていた。神の脊髄は彼の知的探求心を抑えるほどに計り知れない存在であったのだ。

 それが起動した。
 マレンが抑えていても間接的にアナイスメルにつながっているヘインシーにはわかってしまう。

「まずい。どうしてこんなことに。何が起きるかわからないぞ!」
 ヘインシーは頭を抱えながら窓を叩いて回る。ぶつぶつと呟きながら歩き回る姿はなかなかに異様である。

 そんな彼をマジマジと見つめる男がいた。
 ダマスカス国防長官のバクナイア・ゼントーベルである。

 彼はバードナー中将に連絡をし、紅茶を飲みながら状況が動くのを待っていたのだが、突然ヘインシーが立ち上がり奇妙な行動を取るので硬直していた。
 「やはりこの若さで技術次官ともなると気苦労が多いのだろうか」などと心配もしている。

 才能ある者はどこの組織でも叩かれるものだ。それが若ければ若いほどやっかみを受ける。ヘインシーも例外ではないだろう。
 ダマスカスでもパワハラはよく見受けられるもので大きな問題の一つだ。次官であっても嫌がらせは多くあるのだろう。

 バクナイアはヘインシーの真っ青な顔を見てさまざまな想像をめぐらす。
 思えば自分も出世した頃はヘソで茶を沸かせだの、血文字で書類を提出しろなどと無茶を言われたものだ。
 ただし、そこはさすがバクナイアである。ヘソという名前の木を遠国から輸入し見事茶を沸かせ、血文字は血豆を潰した陸軍兵士(水虫あり)から徴収することで仕上げた。
 が、こうしたトンチを利かせられる者もそうは多くないだろう。真面目なヘインシーには荷が重い。

「ヘインシー君、力になれるかわからないが悩みがあるなら私のトンチを頼りたまえ!」
 そうバクナイアが切り出すと、ようやくにしてヘインシーはバクナイアがいることを思い出す。
 「そういえば長官もいたな」くらいな感じの視線である。

「長官、急いで軍を突入させてください! いや、もう間に合わない。こうなれば私が直接行くしか・・・!」
 そう詰め寄るようにまくし立てるヘインシーをバクナイアは慌てて止める。
「ま、待ちたまえ。いったいどうなったのだ?」
 これが最近の若者に多いという「自分の中で盛り上がって他人への説明を怠る病か!?」などと思いながら問いただす。
 バクナイアがこうも語気を荒げるヘインシーを見たのは初めてである。

 それほどまでに切羽詰まっていたのだ。
 ヘインシーほどの冷静な人間が我を忘れるほどに。それそのものが異常を示している。
 ただ、普段接点があまりないバクナイアは、彼もまだまだ若いな、くらいにしか思っていない。

 ここにまだ温度差があった。これは仕方のないことなのかもしれない。
 現実的な軍という武力を扱う、いわば軍人側のバクナイアと、実態のない概念上のものを扱わねばならない知識人のヘインシーでは、物の考え方や捉え方に違いが出て当然なのだ。

 それに加えて立場はバクナイアのほうが上。そこに説明という時間を要しなければいけないもどかしさがある。
 これが致命的な遅れとなったことは事実であるが、誰も責めることはできないだろう。
 今起きていることがあまりに異常なのだから。

 ヘインシーは一回深呼吸して気を落ち着け、今度はしっかりとした声で述べる。

「長官、【敵】の狙いがわかりました」
 その言葉にバクナイアは驚愕の眼差しを浮かべる。
 今までヘインシーはハッキングしている存在のことを曖昧に表現していた。
 しかし、今ははっきりと【敵】と述べた。明確な意思をもって。

「敵・・・かね」
 バクナイアは改めてそう問う。
 敵とはこちらに危害を与えるものを指す。ヘインシーにその認識が生まれた証拠である。

「はい。【彼ら】はダマスカスを滅ぼすつもりかもしれません」
 ヘインシーは同時に【彼ら】という言葉を使った。もはや相手が単独犯である可能性はゼロに近い。

 これはただのハッキングではない。
 流れの天才ハッカーが面白おかしく連盟会議中に騒ぎを起こすことが目的ではない。むろん知的探求心からでもない。

「これは【テロ】です」

 ヘインシーは断言した。それだけの確証があるからだ。
 ただし、マザー・モエラを起動できるほどの組織だとすれば、それはもはやテロリズムというものではなく、【粛正】。
 アナイスメルをアピュラトリス〈富の塔〉に変えてしまった愚かな人間に対する、天からの罰であり粛正。
 ヘインシーにはそう思えて仕方がないのだ。

「それで、敵の目的とは?」
 そんなヘインシーの動揺を理解したバクナイアの目が鋭く光る。
 事はすでにより緊急かつ重大になりつつあるようだ。ここで動きを間違えればもう手遅れどころでは済まない。
 バクナイアも修羅場をくぐってきた人間である。いざ緊急事態となれば何でもする覚悟だ。

 ヘインシーは頭の中で自己の感覚を言語に訳した後、こう答える。

「まず一つはアナイスメルの解放でしょう。つまりは現在の金融システムの破壊です」

 アナイスメルの解放。
 ダマスカスに富の塔として縛られてしまった存在を【本来の姿】に戻すこと。
 それだけ聞けば問題がないように思えるが、それすなわち【金融の破壊】を意味する。

 仮にアナイスメルに蓄積された情報がロストあるいはロックされれば、全世界の金融データが消失するのだ。
 全世界の金融機関の個人情報が消える。すべてのセキュリティが消えてしまう。
 誰がどれだけの資産を持っていたかもわからなくなる。これは恐ろしいことだ。

 だが、これは序章にすぎない。

 問題は、【その人間が誰かすら特定できなくなる】ことである。

 仮にその人間が「自分は誰々だ」と名乗ったとしても、証明するものがなくなってしまう。
 アナイスメルはDNAなどの遺伝子データもすべて蓄積している。顔も指紋も、当人が知らない癖さえも。
 それらが凍結すればどうなるのか。考えるだけでも未曾有の危機である。

 戸籍が証明できない。身分が立証できない。
 自分が誰かすらもわからなくなる。そんな状況が本当にやってきてしまうのだ。
 誰かが「彼は私の家族だ」と言っても、それが証明できない。改めてDNA検査の結果を待たねばならない。そのDNA検査の結果すら改ざんされていればどうなるか?
 もはや人間には何一つ立証できないのだ。

 ダマスカスと直接のつながりのない小規模国家や辺境国家ならばまだしも、主要各国に与えるダメージは計り知れない。
 紙媒体での記録は残るだろうが復元には軽く数十年以上の時間はかかる。

 敵の狙いは【金融の破壊】であり【人間社会の破壊】。

 実はヘインシーには漠然とその予感はあった。
 この国際連盟会議自体、今回の世界金融異変から起こったものである。
 この会議に合わせて動く存在がいるとなれば、そこに関わった者である可能が高いのは明白であった。

 ただ、これまではヘインシーも確信がなかった。金融市場の異変もシステム障害の可能性がありえたからである。
 ハッキング説もあったが、そう簡単にできるものではないし、できたとしてもまぐれということもある。

 現にシステムが混乱した以上のことは起こらなかったのだ。
 ハッキングした者がその混乱に乗じて利益を得たかもしれないが、そんなものは微々たるものであるし、多くのハッカーは自分の流儀を持っている。現体制を混乱させただけで満足だったのかもしれないとも考えられた。

 が、マザー・モエラが起動した瞬間、すべてがヘインシーの中でつながった。

 現在、アナイスメルをハッキングしている人間と金融市場をハッキングした人間が同じであること。
 そして、彼らの目的は最初からアナイスメルであったこと。
 東西の金融市場を混乱させたのは、今日という場を整えるための準備にすぎなかったこと。

 彼らは明確な目的をもってそれを行っている。
 今この瞬間、すべてが彼らによって仕組まれたことであったことを悟った。

 それは酔狂ではない。

 完全なる【強者】がダマスカスに【罰】を与える目的で行っている【粛正】なのだ。
 その強者はマザー・モエラのことも知っており、起動させる方法も知っている。
 それすなわち【賢人】である。少なくとも彼らとは、賢人の力を利用できる存在であることを示していた。

「そしてもう一つは・・・」

 ヘインシーは彼ら、ゼッカーたちのもう一つの目的に気がついた。
 目的は金融の破壊だけではないと。アナイスメルにダイブした目的は、さらにそれよりも上位であると気がつく。

 ヘインシーの思考が恐るべき冴えを見せ、どんどんと意識が拡大していく。
 肉体の神経を超え、すべての事象が感覚で理解できるようになっていく。まるでアナイスメルにダイブしている時のような感覚である。

 これはアナイスメルがすでに半分覚醒した状態になったことを意味した。
 こうして離れている状態でもヘインシーには巨大な意識の流れが理解できるようになってきたのだ。
 マザー・モエラがその力を具現化しつつある証拠である。

(アナイスメル上層階には、今回の事件の【マスターキー】となるものが存在する)

 それはおそらく彼らの【真の目的】にとって一番大切なものなのだ。
 金融の破壊、社会の破壊もまたその手段にすぎない。それがもう明確な意思として伝わってくるのだ。

(恐るべき存在だ。こんなことができるのは神か悪魔かのどちらかだ)
 もし敵が神であり、より高潔なものであったとすれば自分たちはその逆、悪であり不正であることになる。
 それが今は何より恐ろしい。

 今まで自分たちは正義だと思っていた。経済を維持することは平和を維持することだと思い込んでいた。

 だがもし、それが違ったら?

 今まで正しいと思っていたことが実は間違っていた。
 それを知った時の人間の顔は、きっと今のヘインシーと同じになるだろう。
 困惑、動揺、自己弁護。それを見て笑うのは神か悪魔か。

(私ならば止められるかもしれない)
 ヘインシーにはまだ間に合う予感があった。条件はかなり厳しいがこのまま相手側の好きにさせるわけにはいかない。
 もしヘインシーの予想が当たればダマスカスはただでは済まないのだ。下手をすれば最悪の事態すらありえる。

 しかし、それをバクナイアに伝えようとした瞬間、ヘインシーの神経に強く焼けたような痛みが走った。
 その痛みにヘインシーは戦慄する。

(まさか! サカトマーク・フィールドを展開させているのか!)
 外を見るが、まだフィールドは展開されていない。
 しかし、アナイスメルの仮想領域において起動されたのがヘインシーにはわかった。
 ということは、もはや展開されることが明確な事実として存在を立証されたことを意味する。

「やられた・・・!」
 ヘインシーは完全に相手のほうが一枚も二枚も上だったことを認めるしかなかった。
 惜しむらくは自己の予感を軽く見たこと。もっと強行手段に訴えていればとも思う。

 だが、相手はかなり前から準備を進めていたはずだ。そのような相手に慢心したダマスカスが対応できたかどうかは疑問である。
 ヘインシーが訴えたところで、やはり変わり者なのだと奇異の目で見られるのが関の山であっただろう。

 そして、ヘインシーは決断する。

「長官、大統領に報告しましょう」
 間違いなく失態である。これによって自己の立場が危うくなるだろう。
 だが、それ以上に深刻な状況でもある。それは個人の問題を超え、ダマスカスという国を超え、世界全体に影響を及ぼす大事件となってしまう可能性を持っていた。

「わかった。軍も突入させる」
 バクナイアも覚悟を決める。
 この場だけのやりとりで見れば、あくまでヘインシーの勝手な考えであり彼の妄想に近い立証である。
 だが、バクナイアはヘインシーが嘘をついたり(変わり者だが)精神に異常をきたしているとは思えなかった。

 彼は極めて正常であり、心の底からダマスカスとアナイスメルのことを危惧している。
 それは国防を預かるバクナイアも同じ気持ちである。それだけは両者に共通する絶対の絆なのだ。
 それを見誤ることはありえない。

 ただ、軍の突入はもう無意味であった。
 彼らが部屋を出る直前、サカトマーク・フィールドが展開されるのだから。

 余談であるが、その後サカトマーク・フィールド展開の余波を受けたヘインシーの部屋は揺れ、天井にぶら下げてあった「教えて君」が落下したことを付け加えておく。

 池から上がったバクナイア婦人は入浴をして気持ちを抑えようと必死だった。
 入浴後、改めて自分のプロポーションを確認する。
 バクナイアと同じく齢六十に至るものの、武人の血が濃いために老化が遅れて、見た目は四十代前半に見える。

 「張りはなくなったがまだまだイケる」と若干気が緩んだ時、鏡が爆発した。
 教えて君に反応した爆弾が爆発したのだ。飛び散った破片は戦気によって防御したが、鏡はここで割れてよかったのかもしれない。

 なぜならば、怒りで膨れ上がった戦気によって久々に甦ったのは、かつて陸軍で【激情鬼】と呼ばれた陸軍屈指の女性戦士の姿である。
 女の兵士はあまり多くない。特にダマスカスでは他国と比べてかなり少ない割合である。
 そのことでさまざまな問題が発生することもあり、せっかく入っても辞める者が大半である。

 しかし、彼女はバクナイアと同期の中でたった一人残った女性兵士だ。
 性別で馬鹿にされた時などは男たち八十人を半殺しにしたこともある。(そのうちの七十人は巻き添え)
 一度激怒したら手がつけられないことから激情鬼という名が付けられ、以後上官からも恐れられていたものである。

 それは歳を取っても変わらない。もし鏡が健在ならば、真っ赤に燃えた鬼を見ることになっただろう。
 激情鬼は怒り狂いながら自宅倉庫に向かい、

「あの馬鹿はどこだ!!」

 そう言いながらMGに乗り込んだ。


 †††

 舞台は連盟会議場に戻る。

 その後、カーシェルがバクナイアから連絡を受けた頃には事態はもう手がつけられない状態になっていた。
 サカトマーク・フィールドは展開され、アピュラトリスとの交信は不可能となった。それは紛れもない事実である。

 そうした中、【その男】が現れたのだ。

「身分卑しき者だが、私も会議に加えていただけるかな?」

 男は静かに、笑みを浮かべてそう言った。
 顔は何かの加工がされているのか真っ黒で見えない。見えるのは黒いスーツである【喪服】と特徴的な【金の髪】だけである。
 声自体には何も加工もされておらず、その人物が男であることは間違いないだろう。

 ただ、その声には大きな問題があった。

 現在の世界は【国際語】あるいは【大陸語】と呼ばれる公用語が存在する。
 これは大陸歴が始まった際に新しく生み出された言語で、現在ではすべての国家で使われている言葉である。

 といっても、地域によって【訛り】があるのは多様な世界においては当然のことである。
 その人間がどこの出身かを知りたければ、口調に宿っている訛り、その人間が宿した故郷というアイデンティティーを調べるのが一番早いだろう。

 母親の胎内にいる時に聴くリズムは、おのずと人間の波長をかたちづくるものである。
 意識して訓練すれば隠すことは可能だが、完全に消すことはできない。それはまさに指紋や声紋のような存在なのだ。

 そして、その男の訛りは【ルシア訛り】であった。

 最初に気がついたのはもちろんルシア人である。
 ルシアも大きな国であるため、どこの出身かまでは即座にわからなかったが、知識人たる高官の中には東ルシアの訛りを強く感じた者もいた。

(あえて・・・か)
 天帝のザフキエルもまたそれはすぐにわかった。
 そして、その男が【わざと】訛りを強くしたことも見抜く。

 その男は国際連盟会議に加えてほしいと言いながら、誰よりもルシア天帝を見ていた。
 視線は暗くてわからない。しかし、彼の意識が、彼の言葉が明らかにルシアを目指していたのは明白である。

 ダマスカス、シェイク、ロイゼン、グレート・ガーデンの陣営の視線が男とルシア側に注がれる。
 彼らもまたその意思を悟り、この場の対応をルシア天帝に任せたのだ。
 本来ならば主催のカーシェルが対応すべきものだが、相手がルシアを名指しできたのだから任せるしかない状況であった。

 一瞬、場が静まり、すべての視線と注意が偶像と男に集まるのを見届け、ザフキエルが口を開く。

「加えてほしいのならば、まず礼を示すがよい。無法者にも名くらいあろう」
 ザフキエルは男に向かって名を尋ねる。
 その男は思案するそぶりを見せながら、明らかに最初から考えてきたであろう名を口にした。

「私のことは【金髪の悪魔】とでもお呼びください」

 その言葉に反応したルシア騎士たちが殺気を強める。
 まるでふざけている。本来ならば、たとえ一国の元首であってもルシア天帝に謁見するには膨大な手続きと時間を要するものである。
 それでもせいぜい偶像を通しての謁見にすぎない。直接の謁見など大国の元首でも不可能に近いのだ。

 天帝とはルシア帝国にとって元首以上の重要な意味を持っていた。
 血の頂点に立つ者であり、【すべての雪の象徴】なのだ。
 その天帝に対しての無礼に配下の騎士たちが怒るのは当たり前のことである。

 が、ザフキエルはそれに反応せず、男の気配を慎重に感じ取っていた。

「悪魔・・・か。まるで酔狂よな。まだピエロのほうが笑えるものよ」
 悪魔などと、まるで滑稽である。
 しかし、天帝の声は笑っていなかった。そして、周囲の人間も笑ってはいない。
 すでに情報を知っている彼らは笑う余裕などなかったのだ。

 アピュラトリスがテロリストに占拠されたこと。
 サカトマーク・フィールドが展開されたこと。
 謎のMGが出現したこと。
 そして、この悪魔が今この場に姿を見せたこと。

 この会議場はあらゆる面で世界最高のセキュリティを備えている。
 サカトマーク・フィールドが発生してもここが揺れないのは強力な広域結界が張られているからである。
 それこそオンギョウジ並みの何十人もの術者によって強化されており、戦艦が突っ込んできても弾くだけの強固な防御を誇っている。

 それを突破してきたのだ。

 当然、サイバーテロに備えて世界最高峰の人材を配置し、こうしたハッキングなどはできないようにされている。
 それがまったく意味を成していない。いとも簡単に侵入され、こうして恥を晒している。

 それそのものが相手が侮れない存在であることを、これでもかと証明しているのだ。
 この場で笑えるものがいれば馬鹿か天才だけだろう(唯一アダ=シャーシカだけは笑っていたが)

「現在、アピュラトリスを占拠しているのは我々です。それはもうおわかりですね」
 悪魔はモニター越しに宣言し、周囲を見物する。
 会場に設置されたカメラの映像を見ているのだが、そこにはさまざまな顔をした人間がいてなかなか面白い。

 カーシェルはさすが大統領といわんばかりに落ち着いているが、内心では相当な怒りを感じているだろう。
 バクナイアは苦々しい顔をしており、ヘインシーはこちらを観察しているようだ。

 その他国家も驚きはしているものの誰一人として臆してはいない。さすがである。さすがなのだ。
 この場にいるのは間違いなく世界のトップたち。修羅場を何度もくぐり抜けてきた猛者たちなのだから。
 その世界のトップたちに向かって、悪魔は堂々と上から見下ろしているのだ。悔しいがどうしようもない現実である。

「アピュラトリスは世界最高の防御を誇る。どうやって落とした」
「それはお答えできません。が、あなた方が最高だと思っている力は、我々にとってみればそれほどのものではない、ということです」
 金髪の悪魔の言葉に慢心はない。静かな口調は事実だけを述べていることがうかがえる。

 しかしこの時ザフキエルは、男が発する【気質】が普通ではないことに気がついていた。

 男の声は明朗で力強く、繊細で細々しく、それでいて【甘い】。

 魅力が溢れ出ている。
 抑えているのだろうが抑えきれないほどに強烈である。
 まるで濃厚な香りの花束をプレゼント箱に隠しても匂いでわかってしまうような感覚。太陽を隠そうとしても燃える光を覆えない闇の無力さのように。

 この男は【指導者】である。
 この場の誰一人としてそのことを疑う者はいないだろう。
 わかってしまうのだ。彼らもまた人の上に立つものなのだから。

 その言葉には強い自信がみなぎっていた。
 こうした今もダマスカスの技術者が必死で回線を取り戻そうとしているがまったくできない。
 逆探知はおろか映像の主導権すら取り戻せないのだ。完全にお手上げである。

 この作業はマレンも手伝ってはいるが、彼のチームが三人がかりでハッキングを行っている。
 映像はランバーロから送られているため、そのセキュリティに万全を期すためである。
 事実、たった三人に数百人規模の世界最高峰の技術者が手も足も出ないのだ。

「要求を聞こう」
 ザフキエルは悪魔に問う。
 こうして自ら接触を試みたからには目的があってしかるべきである。
 ルシア天帝がこの悪魔には要求をするだけの資格があることを認めた証拠でもあった。

 もちろん、悪魔には目的があった。

「では、遠慮なく申し上げます」

 悪魔は改めて各国代表を見回しながら述べる。


「今すぐ全世界の富をすべての人間に分け与えてください」


 全世界の格差をなくして富を分けあおう。
 一人の少女が家もなく路上にいる時に、一人の少年はなぜ母親に高額な玩具をねだるのだろうか。

 飢える者がいない世界を作ろう。
 一人の老人が食べる物がなくて飢えている時に、一人の婦人は贅沢なパーティーをする必要があるのだろうか。

 この悪魔は言ったのだ。
 富の国ダマスカスという場で。富の塔を人質にして。

 悪魔は続ける。

「カーリスを含めた全宗教の廃絶、全国家、全民族の統合を求めます」

 現在の宗教はすべて力を失っている。
 その信仰は古ぼけた偽りの土台の上に存在しており、宗教家の誰一人として真理に到達できていない。
 彼らこそ現在の愚かな地上社会を生み出した張本人である。即刻排除してほしい。

 全国家間の争いをやめよう。
 一部の権力者による愚かな戦いによって誰が一番傷つくのだろうか。
 その利己主義、どん欲な肉の欲望によってどれだけの血が流れているのだろうか。
 人類が新たに進化を望むならば今すぐにやめなければならない。

 すべての人間が平等であり、兄弟姉妹であることを証明しよう。
 いかなる民族、出自であろうと統一という存在の前においてはすべて同じである。
 血ではなく、その中に眠る魂に目を向けなければならない。

 これを言ってしまったのだ
 カーリスを国教とするロイゼン神聖王国、その信仰の頂点に立つカーリス法王の前で。

 悪魔はさらに続けた。

「そして、全階級、全差別制度の撤廃、すべての権力の破棄を願います。当然、ルシア純血種も含めてのことです」

 あなたが今持っている権限は誰が与えたものだろうか。
 人類がすべて平等であるならば、そのような権力はまやかしであり、その気になれば一夜のもとに崩れさるものである。
 過去に暴力で手に入れた権利に何の価値があるのか。そんなものに従う義理はないし意味もない。

 それをルシアに言ったのだ。

 血の国と呼ばれ、絶対貴族主義が敷かれているルシア帝国、その頂点に位置する者に対して述べたのだ。
 これが何を意味することか、正確に理解できる者がどれだけいるだろうか。

 ルシア陣営の激しい衝撃と困惑が誰の目にも見てとれる。
 この男は言ってしまった。ルシア天帝に。それが何よりも恐ろしい。

「我々の要求は以上です」
 金髪の悪魔は要求を終えた。
 あまりに突飛かつ大胆かつ無謀な要求に誰もが唖然としている。


 なぜならば、それはまるで【子供の夢】だからだ。


 お母さん、みんなが分けあえれば誰も困らなくて済むのにね。
 お父さん、あの子はとてもすごいね。肌の色や考え方は違うけど、一緒に遊べて楽しかったよ。
 でも、どうして大人は些細なことで争うのかな?
 すべて女神から与えられたものじゃないか。誰のものでもないよね?

 そんな子供の言葉を体現したような要求。あまりにシンプル。あまりに簡単。
 だが、現在の地上においてはこの上なく難しいことである。

 それを悪魔は要求した。

 圧倒的な技術力によって蹂躙し、富の塔を人質に取りながら突きつけた。

 ルシア天帝という世界の王に対して。


「くく・・・はははははは! はーーははははは!!!」
 悪魔の要求が終わり、異様な静寂が支配した中でザフキエルの笑い声だけが響きわたった。
 その笑い声は心の奥底から出た本当の笑い。あまりの愉快さに自身でさえ止められないようだ。

 ザフキエルは【笑わない男】として有名である。

 彼は天帝になってから、いや、自身が天帝の後継者と自覚してから三十年、いっさい笑わなくなったという。
 その彼が笑ったのだ。

「ここまで・・・! ここまでとはな! 笑わせてくれるな!! ははははは!」
 ザフキエルは悪魔の言葉が実に愉快であった。
 なぜならば、彼は【本気】だったからだ。
 その言葉に偽りはない。本当に本気でそう思っている。それは声を聴けばわかることである。

 彼は当然に、当たり前にそれができると考えているのだ。
 これがおかしくないわけがない。まるで子供のまま大人になったようなものである。

「それで、返事はいただけるのですかな?」
 悪魔がザフキエルに問う。
「どうやら本気のようだな」
 ザフキエルは笑うのをやめ、じっと自分を悪魔と名乗る男を見据える。

「ならば答えねばなるまいか」


「答えは、NOだ」


 ザフキエルは即答する。

「理由をお聞かせ願えますか?」
 悪魔は即座に否定されたことにまったく動揺せずに理由を尋ねる。

「理由は簡単だ。不可能なのだ」
 そう、ザフキエルは悪魔の主張を「まったく馬鹿げたことだ」と一笑に付したのではない。
 それが【できない】ことを知っているのだ。
 その理由をルシアという最大国家、いわば現人類を統治している王が答える。

「人があまりに愚かだからだ」

 人類は女神から【無限の因子】を与えられている。
 すべての因子を持つということは、最高の存在になれる可能性を持っていることを意味している。
 まさに親である女神にすらなれるだけの力があるのだ。

 その可能性は人間の魂の中に【種子】として与えられていた。
 種は与えた栄養によって咲かす花が異なる。善意と希望を与えれば大きな夢が実現するだろう。
 人それぞれ形は異なるのが普通だが、与えた栄養が素晴らしいものならば、どれもが美しい花となるだろう。

 しかし、今までの人類が種に与えたのは【悪意】。
 その中でもっとも悪質なものが【利己主義】である。
 傲慢、どん欲、非情、暴力、憎しみ。それらは光の希望を簡単に破壊してしまうだけの力を持っていた。

 人間は、女神の子すら殺したのだ。

 それが積み重なって人の歴史は暗黒に染まってしまった。
 闇の女神はそれに対して何も咎めない。
 なぜか。

 無限の可能性があるということは、最高の光を得る可能性と同時に、暗黒の苦しみを味わう【権利】すら持っているからである。
 これは人類が望んだこと。自らの行いが自らに返ってくるという因果の法。女神であってもこの因果の法には逆らえないのである。
 そうでなければ可能性そのものを否定することになるからである。雪の国の賢王はそれを知っていた。

「うぬが求める世界は誰もが求めるもの。しかし、人が愚かである以上、それは不可能だ」
 ザフキエルの声には皮肉よりも哀しみが宿っていた。
 知っていながらできない。わかっていながらどうしようもできない。

 しかし、彼は王である。

「階級は破棄できぬ。愚かな人間を導くための力が必要だ。それはうぬとてわかるはずよ」
 愚民は、自分が愚民だとは思わない。
 愚民と賢者を見分ける最良の方法は、自分自身が愚者であることを知っているか否かである。

 残念ながら、そうした者は少ない。彼らは自分たちが思っているより遙かに簡単に感情や時勢に流されてしまうものである。
 だからこそ力が必要である。絶対の力と統治が必要なのだ。

 それこそがルシア帝国であり、ルシア天帝という象徴。
 愚かさを哀れみながら賢王は人を導くのだ。彼らが【なるべく】悪を働かぬように。彼らが【なるべく】間違えぬようにと。

 その真意を理解した悪魔は頷く。

「さすがは天帝陛下。その叡智、お見事です」
 悪魔はザフキエルを肯定する。悪魔もまたそれは知っているからだ。
 嫌というほど知っている。彼はもっともその人の愚かさを知る人物なのだから。

 だが、悪魔はルシア天帝という存在に対してけっして退かない。
 その理由の一つが彼の髪の毛である。ルシア純血種が持つルシアンブロンド。この白みがかった美しい髪はルシアの血を引いている証拠である。

 そう、この悪魔を作ったのはルシアなのだ。
 それを見せつけた上で彼はあえて言う。

「ルシアの血は衰退しております。血で統治するのはもはや不可能なのです。雪の巨人はもうすぐ死にましょう」
 ルシアの血の衰退はかつてより囁かれていたことである。
 天帝以外の純血種も年々血が薄くなっており子も生まれにくくなっているのは否定しがたい事実である。
 それは血の統治が終わる兆候である。

「偶像を崇めるのは、もうおやめになったらいかがですか。そのヒビ割れた偶像は、まさにあなたとルシアそのものでありましょう」
 これは紅虎が割ったものだが、こうまで簡単に割れてしまうことが問題であった。
 まさに象徴的。こんなにもルシアは弱くなったのかと思わせる出来事である。
 しかも悪魔はさらに続ける。

「暗殺を恐れるような統治が正しいと思われますか。我々がその気になれば、あなたを殺すことも容易なのですよ」

(この男は馬鹿なのか?)
 悪魔の言葉を聴いていた者は、誰もがそう思ったに違いない。
 ルシアという国を本当に知っているのだろうかとさえ思ってしまう暴言である。

 ルシア天帝本人がいる場所を知る者はルシア国内でもまさに数えるほど。
 監査局レベルでは到底知ることができない超極秘事項なのだ。それを知っていながら悪魔はいつでも殺せるのだと豪語したのだ。
 あなたなどその程度なのだと。いくらでも代わりがいるのだと。そうした意味を込めて。

 これほどルシア天帝を侮辱した人間が過去いただろうか。
 ルシア人だけでなく他の国家の人間すら悪魔の言葉に恐れる。いや、正確にはルシア天帝を恐れた。

「ふっふっふ・・・」
 周囲のルシア人たちが硬直する中、ザフキエルは再び笑う。


「小僧が!!! みくびられたものよな!!!」


 突如、荒れ狂う世界が生まれた!!!

 赤く巨大に燃え上がった光は天に突き刺さり、その暴虐的な力は会場のすべての人間を一瞬で呑み込み、蹂躙する。
 抵抗しようにもあまりに強い力の前に踏ん張るのが精一杯。心の弱い人間ならばもう立ってもいられないだろう。
 その激しさは各国の代表だけではなく、護衛の一流の武人たちすら気圧すものであった。

 まさに大爆発である。それは感情ではなく、文字通りの表現だ。
 サカトマーク・フィールドの余波でさえ揺れない会場が縦に横に揺れている。
 恐るべき力が現実のものとして会場を席巻しているのだ。

(なんという【王気】じゃ。これがルシアの王か)
 ベガーナンを護衛していたシャーロンは、敵国ながらルシア天帝の発する巨大な王気に気圧されていた。
 普段は賢王として名高いザフキエルであるが、ルシア天帝を怒らせればどうなるかを身をもって味わう。

 王気。
 王だけが発することができる人を導くエネルギーの総称である。
 これは戦気に似ているが、どうやら別のもののようである。そう言うのは、いまだこのエネルギーが解明されていないからなのだ。

 発せられるのは【王の資質】を持つ者だけであり、感情の高ぶりや一種の悟りの状態によって発することが確認されている。
 ただし、成熟すればザフキエルのように意識して出すこともできるようである。

 このエネルギーは現在確認されているものの中で最大のもので、女神の愛と同格かつ正反対のものと位置づけられている。
 つまりはより男性的な力の象徴ともいえる。
 創造のエネルギーであり、人が歩む道を生み出す究極の力なのだ。

 雪は美しい。その銀世界は人を癒し、知恵を与えるだろう。
 だが、ただ美しいと安易に近寄れば突然の雪崩によってあっという間に呑み込まれてしまう。
 一度呑まれれば逃げることはできない。それほど雪というのは恐るべき力なのだ。

 雪が一度怒ったら人間にはどうすることもできない。
 自然に対して逆らう人間は愚かである。けっして勝てないものにあらがうなど、まさに馬鹿げているのだ。

 そして、この王気はモニター越しであっても金髪の悪魔に襲いかかっていた。
 王気に距離や時間は関係ない。相手と接触していれば影響を与える性質があるのだ。

(さすがルシア天帝・・・か)
 悪魔はザフキエルの王気の直撃を受けていた。その力は、まさに最大国家を率いるに相応しい迫力と威力である。
 悪魔以外の人間ならばひとたまりもないだろう。

 いや、悪魔とて危なかったのだ。

(ヘターレ王、あなたのおかげです)
 悪魔は思わず偉大なる王に感謝した。
 ヘターレ王との戦いは、子のハーレムだけが経験を得たのではなかった。悪魔もまた大きな経験を得ていたのだ。

 ヘターレの王気は鬼の子と呼ばれたグランバッハでさえ一瞬で支配下に置ける強大なものであった。その王の資質は、ザフキエルと同格である。
 それだけの資質を持つ者がガネリアにいたことは驚きである。ルシアと同格なのだ。それはすごいことである。

 が、逆に考えれば、それだけガネリアという存在には価値があったことを意味し、そこに目を付けた悪魔が正しかったことを意味した。
 悪魔が経験したあの戦いは、まさに今のための【練習】であったのだ。
 すべての哀しみが悪魔を生み出したのだから。

(耐えたか)
 ザフキエルは全力の王気に耐えた悪魔を素直に称賛する。
 見れば会場にいる大半の者が膝をついて屈しており、その王気があまりに強かったことを物語っていた。

 それに耐えたのだ。正面から堂々と耐えきった。まだ悪魔には笑みを浮かべる余裕さえある。
 この瞬間、ザフキエルは【悪魔を認めた】。
 悪魔は本物であった。その資質は指導者として一流以上の存在であり、彼の言葉が今まで以上に力を持つことを意味する。

「要求は拒否されました。では、アピュラトリスはどういたしましょうか」
 場が落ち着いたのを見て何事もなかったかのように悪魔は話を続ける。
 状況は何も変わっていない。有利なのは依然として悪魔側なのだ。それを知っている彼は余裕を崩さない。

「富が欲しいのならばいくらでも持っていくがよい。それともルシアのすべてを欲するか?」
 ザフキエルは仮に悪魔がそれを求めたとしても、それだけの器があるとさえ思った。
 自己の王気を受け止め、アピュラトリスを人質に取れるほどの者が世界にいったいどれだけいようか。

 おそらくゼロ。
 現在の世界においてそんなことができる人間は悪魔以外に一人もいないのだ。

 ルシアとは、世界を構成する巨大なシステムを担う存在なのであって、富だけがその価値ではない。
 ルシアが欲するのは世界の安定である。ルシアにその力があるからこそ大役を買って出ているにすぎない。
 そう、世界の安定に比べれば【たかがルシア程度】のことである。それが欲しいのならば持っていけばよいのだ。

 これはザフキエルにとって最上の評価である。
 つまりは、悪魔が自分に代わってルシア天帝になってもかまわない、と言っているのだ。
 現にその意味を悟った高官の中には驚きのあまり口が閉じられない者もいる。それだけの発言である。

 悪魔がルシアに収まる器であればどれだけよかったことか。
 だが、残念ながら悪魔の資質はそれを超えていた。
 悪魔はザフキエルの言葉の真意を知りつつも首を横に振る。そこにためらいはなかった。

「陛下の過大な評価、実に痛み入ります。しかし、願いはあくまで人類全体の平等です」
 悪魔はけっして譲らない。妥協しない。
 彼にとって地位など何の価値もないのだ。あるのは、ただただ人の平等と進化のみ。
 現在の人の社会が間違っているのならば、それを改善するためには手段を選ばない。それが悪魔である。

「うぬほどの人間ならばわかるであろう。不可能だ」
 ザフキエルも叡智を持つ王として譲れない。
 ルシアもまた世界の安定に向けて努力している。それでも現状が精一杯なのだ。
 もし多くの人々が真の意味で善人になれるのならば可能性はあるが、現状では不可能と言わざるを得ない。

 結局、望む望まないにかかわらず両者は対立するしかないのだ。
 だが、悪魔はここぞとばかりにその言葉を発する。なぜ彼がアピュラトリスを占拠したか、その意味がわかる。

「不可能ではありません。そのための【アナイスメル〈蓄積する者〉】ではないのですかな」
 アナイスメルには金融に関するデータとともにすべての人間の情報が記されている。
 辺境に住む人間や自治区では漏れている者もいるだろうが、おそらく人類の九割のデータが蓄積されているはずである。

 それを活かせば可能である。
 むろん、人類が望めばの話であるが。

「金髪の悪魔よ、うぬは理想主義者のようだ。理想と現実は違う。アナイスメルをもってしても無駄だろう」
 人が変わらない限り、いくらアナイスメルのデータを活用しても必ず綻びが生まれる。
 仮に悪魔の欲する平等が実現したとしても、あくまで制度上のことにすぎない。
 利己主義、嫉妬、妬み、悪感情という病が治るわけではないのだ。そこでまた争いが生まれるだろう。

「陛下がご存知ないのも無理からぬこと。アナイスメルの【真の能力】を使えば可能です」
 悪魔の言葉にもっとも興味を示したのは、ほかならぬヘインシーである。

(やはりアナイスメルのことを知っている。彼はどこまで知っているのだ!)
 ヘインシーは金髪の悪魔を初めて見た時から一度も瞬きをせずに凝視し続けていた。
 悪魔の配下には現在アナイスメルにダイブしている者もいるはずだ。その真の目的にヘインシーは興味があったのだ。

 いや、興味などというレベルを超えている。
 彼の存在そのものが激しく求めているのだ。真実を、悪魔という存在を。
 まるで悪魔に魅入られてしまったかのごとく、ヘインシーは目が離せないでいるのだ。

「アナイスメルの真の能力か。興味深いな」
 ザフキエルも悪魔の言葉に興味を抱く。
 ルシアにとってアナイスメルは世界安定の道具の一つである。当然優れた道具であり、唯一無二といってもよいほどのものだが、バン・ブック同様ブラックボックスも多い。

 そもそもこれらの遺産は何なのか。そう考える者は学者だけではない。ザフキエルもまた興味があった。
 アナイスメルもバン・ブックも造ったのはおそらく黒賢人である。これだけの叡智を持つ者はほかにいない。
 しかし、何のために?
 それだけは誰にもわからないでいるのだ。

「ですが、これらは最終手段。いえ、我々であっても危険が多いものです。ですから現状では今述べた要求にとどめておきましょう」
 悪魔は足を組み直し、もったいぶる仕草で何者かに合図を送る。
 すると画面が悪魔からアピュラトリス外周に切り替わった。

「では、陛下のお気持ちが変わるまでの間、みなさま方には少しばかり余興でもごらんいただきましょうか」
 そこには黒い機体が二機、ナイト・オブ・ザ・バーン(ナイトバーン)とドラグ・オブ・ザ・バーン(ドラグバーン)がいた。彼らはダマスカス陸軍を圧倒的な力で蹂躙している。

 だが、それだけではない。
 空から次々と【悪魔の軍勢】が降ってきていたのだ。

 すべてが黒い機体であり、そららもまたダマスカス軍を蹂躙していく。
 ある者は降ってきた爆弾に吹き飛ばされ、ある者は無人機のガトリングガンで粉々になる。
 MGが来れば一瞬で二機の黒い悪魔が破壊する。もはやダマスカス軍は無力であった。

「なんという・・・! これでは虐殺だ!」
 エルダー・パワーのアミカ・カササギはあまりの一方的な光景に怒りを感じていた。
 逃げ惑う相手にも無人機は容赦しない。ただ目標を殺し続けている。そもそもそういった命令が下されているのだ。
 これはもはや戦いではない。ただの殺戮である。

 だが、それも奇妙な話である。
 相手は少数なのだ。ダマスカス陸軍と比べればごくごくわずかな数にすぎない。その少数が大勢の相手を虐殺している。なんという矛盾かつ皮肉だろうか。

「シロウとサンダー、無事デスかね?」
 チェイミーもその惨状に心を痛めているようで仲間の安否を気にしていた。
 あの場には志郎とデムサンダーがいたはずだ。もし外にいたのならば最悪の結果も考えられた。
 その言葉でアミカもはっとする。

(そうだ。師範代も塔の中にいるのだ!)
 志郎とデムサンダーも心配だが、アミカの脳裏にはジン・アズマの姿が浮かぶ。
 この白い刀と対の【真断ち】を持っている剣豪に対して、他の仲間よりも深い想い入れがあった。
 彼のことだから大丈夫だと思いつつも、どうしても不安が拭えないでいた。

「バック・・・」
 一方、カーシェルはバクナイアの愛称を呼ぶのが精一杯である。
 アピュラトリスを制圧されただけではなく、自国の軍隊がこうも無惨な姿を晒しているのだ。大統領としての無念さは言葉にせずとも伝わってくる。

 これだけの惨状を見れば誰であっても悲観的になる。
 しかし、バクナイアはまだ信じていた。国防長官である自分が信じなくては兵士たちも浮かばれないのだ。

「まだです。まだやられたわけではありません」
 バクナイアがモニターに視線を向けた直後、ラーバーンの巨大無人機リビアルが爆発した。攻撃を受けたのだ。
 陸軍にはもう抵抗する術がなかったはずであるが、次々と無人機を破壊していく者たちがいた。

「まだ彼らがいます」

 バクナイアが見つめる先には、陸軍特別強襲隊、武刀組ぶとうそ
 ダマスカス軍最強かつ最後の刀であるゼルスセイバーズが映っていた。

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