そもそもにおいて、私が私を信じることでしか、思い出なんてものには浸れない仕組みになっているんだ。だって、それが本当に起きたことだった、なんて言いきれないんだもの。
この世に幽霊が存在するかどうかだって、自分の感覚でしか証明できない。もしかすると、この世じゃなくて、あの世に存在するのかもしれない。だとしたら、見えないけど、あの世では会える、この世と関係のない世界でなら、会える。それは、たとえば記憶の世界かもしれない。頭の中は、この世のものでありながら、物理的じゃないから。
はっと気づいた。車の中、外は紫がかった夕方の空と黒く見える緑が広がっている。山道の端に寄せられた車のフロントガラスはさっきまで雨に打たれていたのだと思う。なぜ、ここにいるんだろう、と考えてみるが、思い出せない。ただ、さっきまで誰かと話していたに違いない。頭の中に、さっきまでグワングワンと鳴り響くほどの声が耳を突き刺した感覚があるから。
それにしても、ここは薄気味悪い。さっさと家へ帰ろうと思って、キーを挿した瞬間に、ふと気持ち悪い感覚がした。どす黒い紅色。さっきから鼻をさす不快な匂いは、この血の匂いだったのか。
さっき言ったとおり、私ははっと気づいてからの記憶しかない。それまで、何をしていたか、ということがさっぱり思い出せない。なんとなく、この血を見ると、おぞましさがこみ上げてくるのみだ。誰かに何かを仕組まれたに違いない。でも、たいしたことが起きるはずもない。なんの血だか知らないが、私が何かをしたわけじゃない。
だって、記憶にないんだもの。
思い出せるようなことも、何もない。なぜ、ここに血がついているかということも私には分からない。分からないことは、知らないことなんだ。私は力いっぱいにキーを回して、少しふかし気味にエンジンをつけた。
ひとつ、私に言えるなら、「怖い。」という言葉。だって、記憶にないのに、何かがきっと起きたんだということだけが分かるから。さっきまで、何をしていたのか分からないのだから。車を走らせてはいるが、この道がどこだかも分からないんだから。
やけにカーブが多いのは、どこの山でも同じかもしれないが、特にこの曲がり角から見える景色は最高で、さらに言えば、自殺の名所、なんていわれた場所でもあって、見る人が見ればとても魅力的な崖を見下ろすことができる。下には波しぶきが激しく荒れていて、「おいで、おいで」と言っているようでもあり、「お腹がすいた」と言って、辺りの岩を食いつくそうとしているようでもあった。
そこには立派な木も立っていて、身投げに限らず、自らを吊るす方法もある。走り屋も多い山で、よくこのカーブが曲がりきれず、あの荒い波に食われていく。友人が言うには、こんなカーブでミスするなんて不自然だから、何かあると思う、とのことだ。自分と相性の良い山、悪い山があるらしい。
山にはそれぞれ見えない主がいて、こんなにエレクトリカルな世界(私が勝手にそう呼んでいるだけだが現在の人間界の様子のことだ)になっても自然を守り続けている。だけど、この天高山のような場所には、山の主より多くの蒸発しきれない魂がさまよっていて、ときに気に入らない人間を自然の力を使って他界させるのだ。ああ、高い山だけに、他界させる。なんて(少しふざけてみた)。まあ、見ていない人にとっては感じる機会でもないと信じにくいが、幽霊はいてもおかしくないということが言いたいのだ。特にこの山には。
トゥルルルルルルル。トゥルルルルルルル。
変なことを考えながら運転していたので、ビクッとした。手探りでバッグの中から携帯電話を取り出そうとする。こんなときだからこそ、違反などしていては不吉なことが起こりそうだ。道の端に車を寄せて、電話をとった。
「はい。もしもし。」
「茜? ああ、よかった。いるじゃないの。」
慶子だった。
「どこにいるの? 急にいなくなったから心配したのよ。」
慶子の声を聞きながら、辺りを見渡す。地上に星がぽつぽつ広がっていくところだった。
「実は私も、気づいたらここにいて、よく分からないのよ。何していたのか思い出せないのよ。でもここは天高山だと思うわ。」
ここがどこだか思い出したのだ。
「天高山って、あの怖い山?」
「ええ。」
そう言った瞬間、背中がゾクっと凍りついた。ホラー小説じゃないんだから。まさかお化けなんて登場しないで欲しいところだが、何かいるんじゃないかと思えるほどの恐怖が後ろから迫ってきた。
天高山には、亮太と慶子と3人で、肝試しがてらにドライブで遊びに行ったことがあった。これ以上奥には怖くて行けないな、と思わせる雰囲気があって、車から降りる前に怖くて引き帰してきたほどだった。
早くこの山から抜け出そう。ここにいるから怖い。慶子に会いに行こう。誰かと一緒にいれば、この恐怖も去っていくに違いない。
「慶子、今どこにいるの? 会いに行っていいかしら。」
「いいけど。今は亮太の家に居るわ。」
「ああ、そうなの。行っていいのかしら。」
「構わないわよ。茜が気にしないのなら。」
ああ、その言い方。慶子らしい。慶子とは小学生の頃からの付き合いで、なんだかんだでいつも一緒に過ごしてきたけれど、ときどき私を見下しているような台詞を感じて、小さな怒りが生まれることがあった。
慶子と付き合い始めてからの亮太は、あまり好きではないのは確かだ。出逢ってすぐは、もっと仲良くて、言葉にしたことはないから、分からないが、きっと良い雰囲気だった。お互い、一言交わせば、恋人同士になっていたはずだ。
だけどある日、気づいたら亮太からの連絡が途絶えてしまった。何か怒らせてしまったのかもしれないので、何度か電話をしたけれど、出てくれず、ついには着信拒否にされていた。
その次の日に、なぜか慶子が、私に言ってきたんだ。
「亮太が、迷惑してるみたいよ。」と。
あのときの私は幼くて、そして無知で、分からなかったが、慶子が何かを彼に言ったに違いないと思った。そしてその数ヵ月後になってやっと、亮太と慶子が付き合っていることを知った。
「なんだ。言ってくれればよかったのに。」
そう私が言うと、慶子は少し決まり悪そうに、
「茜、もしかしたら亮太のこと好きかもしれなかったから。言いづらかったのよ。」
と言った。
それなら、『迷惑してるみたいよ。』と言うのも躊躇えよ。この女は、いつもそうだ。私が何かを言うと、鼻先で笑っている。そうね、それで怒りがこみ上げてくることも、よくあったね。
思い出してしまった怒りで、思わずハンドルをきつく握り締めた。
「私は気にしないわよ。亮太とも、普通にただの友達だし。慶子はいつも少し、気にしすぎなのよ。」
「ならいいのよ。この前のことがあったから、会うの気まずいかなと思ったのよ。もし気になるなら、私が茜の家に行くことも出来るし、ファミレスで待ち合わせてもいいなと思ったのよ。」
「いいわ、亮太の家へ向かうから。じゃあ、これから向かうわ。」
「やっぱり、やめておいたほうがいいんじゃない、国道沿いのファミレスで待ってるわ。」
「何を言っているの? 私は亮太の家へ向かうわよ。どうして慶子は私を亮太に会わせたがらないの? そうかと思えば、わざと名前を出して存在を匂わせて。何がしたいわけ? 私が前に亮太に少し気があったことを知っていて、敢えて付き合っておきながら、どうしてそういう態度なわけ?」
「それは。茜がいつも、亮太のことを気にするからよ。亮太も、茜を避けるのは気が引けると言うから。だから私を通してなら、つながりがあったほうが良いのかもしれない、と考えたからよ。でもやっぱり、不吉な予感がするから、やめておきたくなったのよ。」
いつもそう。いつもそう。この女はいつもそうよ。私に恥をかかせるのが好きな女。亮太を私に取られたくなくて近づけようとしないのよ。それでいて、見せびらかすのよ。なんて卑怯なことをするのかしら。大学で知り合って、最初に亮太と友達になったのは私なのに。一緒に遊んだのが間違いだったのかしら。
「とにかく、そっちへ向かうわ。」
サイドブレーキを外すと、アクセルを強く踏んだ。カーブは気をつけなければいけない。だってこの山は今、恐怖に覆われているから。相性がきっと良くないと思うから。何かの魂が、私を忌み嫌っている感覚がするから。
車の中に充満する血の匂いが、私の脳を全て溶かしていく。この異様な感覚が、さっき慶子と話した内容すら、別のものに変えていくような気がする。慶子に会うことで振り払おうとした恐怖が、慶子に会うことで憎悪に変わるだけのような気もした。
やっと山道を抜けて、一般道に出た。ここから亮太の家なんて近いものだ。でも慎重さは失くしてはいけない。怖いけど、ときどきバックミラーを見ながら運転した。誰かの目なんて、見えやしない。幽霊なんて憑いていない。
亮太の住んでいるアパートの駐車場についた。亮太は駐車場を二台分借りているが、慶子の車のせいで、私の車を停めるところがなかった。慶子の車がここにある、というのは慶子がここに来て、亮太と一緒に部屋にいたということを示している。それがなんだか嫌だった。慶子の軽自動車の前に詰めるようにして自分の車を停めた。もう少しで接触するところだった。
亮太の部屋は4階。階段を歩くたびにするカンカンという金属的な音も少し怖い。錆びていて、ときどきギイギイというから。女の子だから、仕方が無いね。
亮太の部屋について、インターフォンを押すと、しばらくしてドアがガチャっと音を立てた。
「えっ、茜。慶子はどうしたんだ?」
チェーンをかけたまま、ドアを少しだけ開けて、亮太が私を見て早々に言った。慶子はどうしたと聞かれても、慶子が亮太の家にいると言ったのだから。どうだったかな。慶子が亮太と別れたばっかりだったかな。そして亮太が私を選んだものだから、慶子が怒ったんだったっけな。
ああ、だから今、亮太は慶子に気を使っているのか。
記憶って本当に曖昧なものだ。なんだか頭の中がごちゃごちゃだ。
「慶子はお前と会っていたはずだぞ。今は一緒にいないにしても、どこに行ってきたんだ。」
「私はさっきまで天高山にいたのだけど、どうしてそこに行ったのか、覚えていないのよ。でも慶子から電話があって、今は亮太の家に居るって言うから、ここへ来ただけのことよ。」
「慶子はお前に呼ばれて家を出たんだぞ。ここに携帯電話も残して出かけてるんだ。大事な用だったんじゃないのか。」
あれ。もしかして、慶子はあの電話の後、国道沿いのファミレスへ行ったのかしら。だとしたら、呼びに行かなきゃ。慶子ってば、携帯電話も持っていかずに。本当に面倒なんだから。でもそういえば慶子の車は駐車場にあったのに、あのファミレスまで歩いていったのかしら。
「いやあ、さすがにこんな何時間もファミレスで待ってるわけないだろ。だって出かけたのは朝方だぞ。こんな時間まで待ってるとは思わないし、携帯電話も忘れて出たんだから、戻って来るだろ、普通。」
ああ、まあそうね。そんなことより。そんなことよりも。なぜかしら。この怒りは、何かしら。慶子に会いに来た私、亮太の家へついた私、慶子には会えなかった、だけど、亮太には会えた、それはいいけれど、なぜかしら、この怒り。ああ、なるほど。ドアを見た。
「亮太、なぜチェーンを外してくれないの?」
「お前は、勝手に家に入るからな。二人きりにはなるな、と言われたんだよ。」
「慶子に言われたのね。慶子はまたそうやって、私とあなたを近づけまいとするのね。」
そうだ。慶子は亮太にあることないことでっちあげて、私の電話番号を着信拒否するように指示した。だから私が余計に心配になって家を訪ねたんだってことも理解せず、家にチェーンをかけておくように言った。なんて女なの。
そう。それでいながら、なぜ私たちはこんな風に近くにいたのかしら。ああ、そうね。なんだかんだで、やっぱり好きだったのよ。慶子はとても優しかったから。でも慶子が私と仲良くしてくれていたのは、きっと私の持っているものを横取りするためね。いつも、私の好きになった男は慶子に取られたもの。
大学だって、そう。私が魅力を感じて目指し始めた大学だったのに、それを聞いて一緒に目指す、なんていっておきながら、一人だけ合格してしまった。彼女がいなかったら、補欠合格していた私が受かっていたかもしれないのに。ああ、そんな醜い考えはよそうと決めていたのに、思い出してしまった。
チェーンは外れない。私と亮太の隙間は埋まらない。慶子は、私を苦しめてきた。眩しい彼女が恨めしかった。
「それにしても、なんだ。茜、お前のその服……。真っ赤じゃないか。」
「え?」
鼻をさすようなその匂いにもすっかり麻痺して、べたべたする手も気にならなくなってしまっていたが、まさか服にもついていたなんて。白いブラウスが台無しだ。手首についた、誰かの手形。ふと断片的な記憶がよぎる。
「もうあんたのことなんて、知らないわ。面倒見切れない。一人になっても仕方が無いわよ。勘違いの度が過ぎてるのよ。なんでも私のせいにするけど、少しは自分の原因にも気づいたらどうなの。」
「慶子、分かってよ。私はこれからも慶子と仲良くしていきたいのよ。どうして分かってくれないの。」
「今までも分かろうとがんばってきたわよ。何度も絶交しようとしたけど、その度にあなたが引きとめたじゃない。もううんざりなのよ。亮太とのことだって、奪われたなんて言うけど、恋愛なんて自然に惹かれあうものでしょう? 私が茜のことを悪く言って奪ったわけじゃないわ。」
ああ、慶子が取り乱している。慶子が、そう。そう言って、刃物を取り出したんだ。もう私の顔なんて見たくないと言って、私を殺そうとしたんだ。だから私は防衛したんだった。そうしたら、崖から足を踏み外した慶子が、そう、あの波にさらわれてしまったんだ。おいで、おいでと呼ぶあの波に。
だから慶子はいないんだ。
でも、それじゃあ矛盾が生まれる。その後、慶子から電話がかかってきたんだもの。じゃあ違う。慶子はまだ生きてる。でもそうだ。慶子に攻撃されたのは事実だ。
「慶子に、殺されそうになったのよ。山奥で。」
「まさか、お前。慶子を殺したんじゃ……。」
亮太の血の気が引いていくのが分かった。彼が部屋の中に身を引いてドアの開きが狭くなったので、私がしっかり掴んだ。
「いいえ、心配しないで。慶子は生きているわ。聞いて。慶子ったらひどいの。私、あなたに何も嘘なんてついていなかったのに、亮太、あるとき急に着信拒否にしていたでしょう? でもね、私は嘘なんてついていなかったの。亮太は、裏切られたと思ったかもしれないけど、あれは慶子の嘘だったの。誤解がたくさんあるから、それを解きたいのよ。」
「何言ってるんだ。お前がしつこくしつこく電話をかけてくるからだろう。慶子はそんな俺の相談に乗ってくれたんだよ。茜、そろそろ目を覚ませ。お前の記憶はどうなってるんだ。」
「嘘よ、慶子にどれだけ騙されれば気が済むの? 亮太はどうして、私の言うことを信じてくれないの? だからよ。だから、慶子が憎くて、私は、私は……。」
「私は、どうしたんだよ。言ってみろよ。」
私が何かするんじゃないかと思ってドアから少し離れて、チェーンも決して外さない。私の寂しさが、こんな男に分かるものか。
「私は、慶子に今まで辛かったことを全部打ち明けたのよ。そしたら、慶子が私に刃物を向けてきたのよ。だから意識が飛んでいたのよ。」
「お前が慶子をどうにかしたんじゃないのか。」
「信じてよ。どうして私のことをいつも信じてくれないの? 私は嘘をついたことなんて一度もないんだから。過去は現在じゃないし、現在じゃないなら、“この世”でもないのよ。そんな過去のことを、どうやって説明すれば、分かってもらえるというの?」
「お前の過去が、現在も信用できなくさせているんだ。」
「なんてひどい。どうしてなのかしら。本に書いてあったのよ。『あなたが本気で愛すれば、相手も必ず本気であなたを愛してくれます』って。だから私はあなたを愛したのに。どうしてあなたは私を愛してくれなかったのかしら。」
「お前、言ってることがごちゃごちゃになってるぞ。だから、どうしたんだ。今まで天高山で何をしていたんだ。」
「だから、今日も慶子と遊ぼうと思ったのに、亮太とデートだから無理だって言われたのよ。でも、今日で終わりにするから、最後に話だけ聞いてって言って出てきてもらったのよ。そして天高山に向かったの。」
「それで?」
「そして、ここからの景色、最高でしょ? って話したの。でも、ここって前にも来たけど、怖かったよね、って。あの頃は楽しかったよね、って。あの頃に、どうやったら戻れるのかな、って。」
そう。だけど話しているうちに、過去から過去を巡って、小さな怒りが積もってきたのだった。それは、慶子があまりにもイライラしていて、早く亮太のところへ戻りたいという表情を見せていたからだった。携帯電話を忘れてきたのもあったのだろう。
だから私は私のほうを見て欲しいと言った。そうしたら、慶子がもう「うんざりだわ。」と言ったのだ。もう友達でいたくない、と。私と一緒にいるから一緒に遊べない友達もいたりして、面倒なんだ、と。まるで私は疫病神であるかのような言い草。
鼻で笑いたくなった。類は友を呼ぶ。私が慶子に惹かれるのは、慶子にも同じ要素があるからなのに。なぜ、自分は格が上のような気持ちになっているのかしら。昔はあれほど馬が合ったのに。
「ねえ、ここって自殺の名所だったわよね。」
「えっ、そうだけど、何が言いたいの?」
慶子のその言い方にまたムッとした。ただそう言っただけなのに、何かを疑う、その感じ。私は見えたものを拾うために少し歩いた。車を停めた道沿いの広場からは広い空が見渡せて、下にはしぶきの上がる海がある。そのさらにおくには街があり、そのまた向こうには山が連なっている。
一番近くには木が生い茂っていて、幽霊がいてもいなくても空気は綺麗そうだ。木の根元に生えた草むらの影に光るものがあって、私は気になって近づいたのだが、やはりそれは刃物だった。
刃渡り……20cmといったところか。包丁に似た感じだが、初めて持つ感触。少しさび付いているところもあるが、まだ新しいので、誰かがここに捨てたばかりなのだろう。血のついた様子もないので、このアイテムで目的は果たしていないとみた。
「見て。鋭くて、よく切れそう。自殺、しようとしたのかしら。」
その刃物を持って戻ってこようとする私を見て、慶子が一歩後ろに下がった。私は一歩近づいた。慶子がまた下がった。その反応に腹が立って、でもなんだかおもしろくもあって、私はじりじり近づいた。慶子はしまいには走り出した。
「やめて。やめて。怖いわ。」
「どうして逃げるの? 慶子。」
「その刃物を捨てて。捨ててくれたら、止まるわ。」
慶子の足はどんどん加速していく。
「あっ。」
慶子が走り着いた先は崖で、それ以上逃げきれなかった。私はその雰囲気のまま、慶子に近づいた。慶子が怯えているのがわかった。友達が怯えている。私を見て怯えている。殺す気なんてさっぱりなかったのに。信用しようとしないのが憎かった。
「刃物、捨てなさいよ。なぜ嬉しそうに持っているの。茜、近頃おかしいわよ。」
「おかしい? おかしいですって? 慶子、慶子がそうさせたのよ。私がおかしいんじゃないわ。慶子がおかしくさせてる。慶子が私を疑うから、私は疑われたとおりの行動をするようになったのよ。」
「なんでも私のせいにするのはやめて。疑われたくなかったら、その刃物を捨ててよ。」
頭の天辺に血が上って目の前が白くなるのがわかった。その次の瞬間、私は慶子に刃物で振りかかった。慶子がどうにかそれをとめようと奪ったときに、私に刃物が向いた。その瞬間、私はカッとなって刃物を完全に奪い取って慶子のわき腹に力いっぱいに刺した。私にも血が飛び散ったが、慶子の意識の方が大きく飛び散って、そのかわいい声をいっぱいに枯らして、叫んでいた。
慶子は動転して逃げようとして、その波にさらわれていった。遠くて、どんな風にさらわれたのか、見えなかった。途中で岩にぶつかった感じもしなかった。波が食った、という感じだった。私にはそのとき、なんの音も聞こえなかったから、よく分からない。
刃物も一緒に波が食べた。よっぽどお腹が空いていたのだろう。定期的に命を食べないと、その威勢を保てないのかもしれない。私はふらふらと車に戻り、頭の中を整理していたのだが、ふっと意識が飛んで、そのまま眠りについてしまった。
そして気づくと夕方を過ぎていたのだった。よく誰にも会わなかったなと思う。
でもはたして、それも事実なのか。さっき言ったとおり、過去は現在じゃない。現在以外はこの世でもない。だから、事実の証明は物理的な痕跡をもとに推測するほかない。
殺してしまったはずの慶子からの電話。電話に出たときにはすぐにとったので気づかなかったが、履歴をみると非通知設定からの着信になっていた。でもきっと、本当に慶子からの電話だったのだろう。
もちろん、それも記憶でしかないから、分からないが。
亮太の家にいると言ったのも、本当なんだろう。亮太に、この事実を伝えるためにきたのだろう。私が慶子を殺したことを伝えるために。いや、単純に好きだから、今日はデートだったから会いに戻ってきただけかもしれないけど、集合場所をファミレスにしようとしたのだから、亮太にこの場面を体験させることを迷ったのかもしれない。ファミレスにたどり着いた私の異様な状況を誰かに通報させるほうが安全だと思ったのかもしれない。
本当は分かっていた。慶子が悪いわけじゃないこと。亮太が悪いわけじゃないこと。
本気で愛しても愛されなかった、でもそれは、私の愛が亮太を自分だけのものにしたい独占欲であって、相手を心から想う気持ちとは別物であったことも。
全部分かっていたけれど、全部分かっていなかった。だから、相手を責めてばかりいて、友情も愛情もどんどん離れていった。でもその事実を受け入れたくなかった。
思うようにいかない現実に苦しみ始めた頃、「事実と記憶は必ずしも一致しない」という話を知った。
記憶と事実は厳密には違うのだ、と。それは現実が辛かった私にはとても魅力的な話だった。事実がどうであれ、記憶は自分の好きなように変えることができる、と。そうすることによって人生を変えていけるのだ、と。
言葉が人を作る。人は物理的事実よりも、主観的な記憶で生きている。全てのことが、じぶんのフィルターを通しての出来事なので、客観的事実など存在しない。だから、いやな記憶も、自分で変えてしまえば、辛い思いをせずに済む、と。
私は辛い記憶の全てを、甘い思い出に変えていった。亮太に出会って、仲良くなって、それから慶子にも紹介した。3人で遊ぶようになった。そのうちに、亮太が慶子に恋し始めたことを感じた。それから、気に入らない記憶や憶測は全て自分の思い通りに変えていった。だって、記憶の中でなら、なんでも素敵な思い出に変えられたから。
それはとても素敵な時間で、私は記憶の中で亮太ととても甘い時間を過ごした。
だけど、なんだか変なんだ。変なギャップが生まれていたんだ。私と甘い時間を過ごしているはずの亮太に何度電話しても、出てこない。会いに行っても、車があるのに、出てこない。居留守を使っている。もしかすると、近所に出かけたのかもしれないけれど、会えない日が続いた。
私に連絡を取らずに慶子と亮太が二人だけで会う機会が増えて、今まで3人で遊んでいたのに、私だけ呼ばれないことが多くなった。それがたまらなく寂しかった。でも記憶の中では、亮太と私は愛し合っている。慶子に邪魔されて、会えないだけになっていた。
そんな記憶と目の前に現れる現実とのギャップのつじつまを合わせていたら、慶子が私のことを悪く言って亮太に取り入ったとしか思えなくなってきて、徐々に友情が崩れていった。
何が悪かったのか、今でも頭が混乱して分からない。
亮太が怯えている。天高山での慶子と同じように。そんな目で見ないで。記憶と一致しないものは全て消してしまいたくなるから。
「け、警察を呼ぶぞ。いいな。おまえのためだ。俺を恨んでも仕方が無いぞ。俺らは、お前が正常になるのを願ってる。」
ああ、この記憶はどんな思い出にしていこうか。考えているうちにもどんどん、現在は過去になっていくから、追いつかないね。もう事実なんてどうでもいいや。慶子は、私が殺したから、この世にもういない。でも現在についてこなかっただけ。過去には生きてるから。
さっきの電話。きっと、過去の慶子が電話してきたんだね。それなら説明がつく。幽霊になってかけてきたのかもしれないし、今も亮太のそばで、亮太の無事を祈っているかもしれない。
こんなドア、チェーンがかかっていたってどうにでも侵入できる気がしたけど、力が出ないのは、きっと慶子が亮太を守ってるからだ。でなきゃ、警察なんて呼ばせるわけないもの。
サイレンが近づいてくる。亮太は私の視界の離れた場所からこっちを見ている。私はこのドアを開いたままに保つのが精一杯で、それ以外のことは何も出来ない。息も、してるのかな、分からない。全部、記憶か事実か、分からない。
今、なぜ警察を呼ばれたのかも、もう分からなくなってきた。私は上手だから、思い出を美しく摩り替えるのが。今この状況は、すでに慶子に殺されかけた私が、亮太に助けを求めて、警察にかけつけてもらっているところ。
カンカンという金属的な足音が鳴り響く。ときどきギイギイと聴こえる。そのたびにドキドキする。警察かな、怖いな。仕方が無いね、女の子だから。
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