影王
連載候補? テスト作品。
「貴様を殺す!」
突然現れた謎の覆面男、田沢浩平は薄暗い路地で、その男に喉にナイフを突きつけられていた。
「あんた誰だよ!」
浩平は人様に狙われるような覚えは無かった。ということは――物取りだと判断すると、さっと懐から財布を取り出し犯人に渡そうとした。
「金などいらねぇ、俺が欲しいのはお前の命だ! 死ね!」
財布を手で払って怒鳴ったかと思うと、容赦なくのど笛を掻き切ろうとしてきた、横薙ぎに振るったそれは、僅かに浩平が後ろへ退いたために、薄皮一枚切るに留まる。
赤い一筋の傷口から、血が少しばかり流れる。しかし、動脈には程遠いため、その出血量は大したことは無かった。
しかし、浩平の後ろにはもう退路は無かった。どんづまりに背中を押し付けて浩平は、首元を押さえながら恐怖で震えていた。
――何でこんな目に……俺はただのリーマンだぞ……
突然、深夜の路地裏でこんな修羅場を迎えようとは夢にも思っていなかった。
残業で帰りが遅くなり、近道をしようと入った路地裏で、こんなことになろうとは到底予測できるものでは無かった。
だが、奇跡は突然後方からやってきた。
「浩平様! こちらへ」
浩平は突然、後ろから聞こえたしゃがれた声に、咄嗟に振り向こうとした。
だが、両脇に何者かの手が滑り込み、羽交い絞めされるように半ば強引に後ろへと引張られる。
――馬鹿な! 後ろにはコンクリートの壁が……
後ろへ引きずりこまれるのとほぼ同時に、前の男が右手一杯に伸ばしてナイフを心臓に向けてついてくるのが目に映る。
浩平はその刹那、恐怖で叫んでいた。
ガキ!
紙一重のタイミングだった。浩平が後ろの壁に吸い込まれるのが少しばかり早かったようだ。男のナイフはコンクリートの壁を突く。思いっきりコンクリートを突いた衝撃は男の指に伝わり、痛みと痺れが走りナイフを地面に落としてしまう。ナイフは地面に落ちると、乾いた金属音を打ち鳴らし木箱の影に滑り込んだ。
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「ここは……?」
「シャガール城の一室でございます」
浩平は気がつくと、どこかの部屋にその身を置いていた。
赤いカーテンが目の前で風に揺らされ靡いている。
さっきの恐怖がまだ体中を支配し、動悸は激しく呼吸も荒い。
冷静とは程遠い精神状態の中、今置かれている状態に意識を向かせようと視線を彼方此方に飛ばす。
思考能力は瞳を忙しく動かすたびに、徐々に正常に働き部屋の内部に意識が移り始めていた。
一見、西洋風の部屋は豪華な造りで華やかに彩られていた。
近くには中世の貴族のような格好をした、白髪の初老の男がこちらを神妙な面持で眺めていた。
「シャ、シャガール城?」
やっと落ち着いてきたのか、ここへ連れてこられた辺りに聞かされた名称を声に出してみる。
「そうです、シャガール城です」
初老の男は手を胸元に当てて、丁寧に答えた。
浩平は訳が分からなかった。なぜ自分が西洋の城の中にいるのか皆目検討がつかない。
当然と言えば当然である。
しかし、何もかもわからない状態で敢て、搾り出すように尋ねてみる。
「私はなぜここへ?」
初老の男は目を細めると、浩平に事の成行きを話そうと思ったのか、近くに置いてある椅子に腰掛けるよう手を差し伸べ促した。
浩平は遠慮なく椅子に腰掛ける。残業を終えた後、いきなり殺されそうになって、ほとほと疲れていた。椅子の座り心地はそれなりに良いものだった。
「あなたはシャガール王国の王であります」
「え?」
「そうは言っても覚えておられないと思いますが……」
初老の男はテーブルに置いた手を見つめながら、少しもの思わし気に俯いていた。
沈黙がしばらく二人の間に鎮座し、重々しい空気が流れる。
浩平も何を言って良いか、思い浮かばなかった。
相手の言葉だけが、会話を進める唯一の手立てであった。
だが、不意に初老の男が浩平に視線を向けると、深く息を吸った後、語り始める。
「私はあなたをこの20年間捜し求めました。幼少の頃、あなたは幼い身でありながら、何者かの手によって異界へ連れ去れました。シャガール王国の先代の王、即ち、あなたのお父上は兵を異界に送りあなたを方々手を尽くして探させました。しかし、この20年の間に、見つけることは叶いませんでした。王は心労が重なり、病床の床につくとそのままお亡くなりになられました。王がなくなった今、次の王になるべきお方はあなたしかいません。私たちは王が亡くなられた後も、あなた様を捜し求めました。そして今日やっとあなた様を見つけ、このお城に連れてくることが叶ったのです」
初老の男はそこまで話すと、目尻に皺を寄せて涙を流し始めた。
差し向かいに面する浩平にも、その男の苦悶の日々が痛々しいくらい伝わってきていた。
とはいえ、その説明を聞いても、さすがにそれを全て真に受ける気にはなれなかった。
浩平は元の世界には妻もいれば子供もいる。
今聞かされた事が真実であったとしても、元の世界に帰らなければいけない。
感涙に咽ぶ初老の男の前で、言いづらかったが、敢て言葉を搾り出す。
「話は何となく分かりました、しかし、私は元の世界に妻と二人の子供がいます。帰らなくてはならないんです」
浩平は心苦しかったが、本心から浮ぶ言葉を伝えるしかなかった。
初老の男は胸のポケットから白い布を取り出し、目尻の涙を拭った。そして、小さく何度か頷きながら浩平を見つめて、
「大丈夫です、あなた様の向こうでの生活を壊すつもりはありません、ただ王様には是が非でもなってもらいます。心配はいりません、あちらでは普段通りの生活を送ってください。ただし、こちらの世界にあなたの分身を頂きます」
「分身って?」
「えーっと、なんと言いましょうか、シャガール家の王族は特殊な能力をお持ちになられていまして、つまり、御身を二つに分けることができるのです」
「ええ? そんな事俺はできませんよ?」
浩平は面食らった。そんな御伽噺のような事が出来るわけないと失笑さえした。
しかし、初老の男はすこぶる真剣な面持を浩平に向けて重々しく語る。
「まずですね、自分の影にこのナイフを刺してください。これは影縫いのナイフと申します。影を留めておく事が出来る代物です」
浩平は初老の男から金色のナイフを手渡された。豪華な装飾が柄に施され、宝石が散りばめられていた。浩平は俄かに信じられなかったが、本当かどうか試してみる事にした。
それは何事も為さねば、真実は得られないという浩平のもつポリシーがそうさせるのだ。
シャンデリアに照らされ絨毯に落ちた、自分の影に蹲ってナイフを静かに突き刺した。
ナイフを突き刺したまま、前進したとき浩平はある異変に気づいた。
影が置き去りにされたまま、その場に留まっているのだ。
だが、影はなくなったわけではなく、今も自分の影は直ぐ後ろに付きまとっている。
「その影はあなたの分身です。そしてその影を地から引き上げることができるのは王族のみです、さぁ、あなたの影を引っ張り起こしてあげてください」
浩平は半身半疑というよりは、8割方そんなことは出来るはずがないと思っていた。
しかし、またポリシーに突き動かされ、恐る恐る影に向って手を差し向けてみる事にした。
影に手を近付け触れる間際、影がまるで生き物のように蠢き、手の部分が地面から離れて浩平の腕を不意に握ってきた。
思わず前にかくんと体が折れるが、足を踏ん張り腰を折って倒れるのを拒否する。
その影の手を浩平はもう片方の手も使って、両手で力いっぱい引張りあげた。
すると、地面から影が スポン! と言う音を立てて地面から独立して浮び上がる。
「おお、やりましたな……」
「こ、これが俺の分身……」
「そうですよ、あなたの分身です」
傍らに立ち尽くす影が急に浩平に話しかけてきた。
思わず、ドキっとして体を後ろの逸らした。
影は黒い体をだんだん、色彩を帯びた姿へと変貌させていく。
そして――しばらく後、浩平と瓜二つの姿に変わってしまった。
影は大きく両手を頭上に上げて、背筋を伸ばした後、屈伸運動をし始めた。
その様子を呆然と浩平は眺める。
影はある程度体がほぐれたのか、心地よい声を上げた後、浩平を見つめて、
「まぁ、お互い頑張りましょう!」
と、言って浩平に握手を求めた。浩平はまだ信じられないといった表情で、初老の男に視線を向けると、初老の男はにっこり微笑んだ。
浩平は仕方なく差し出された手を握り返した。
「浩平様ありがとうございました。お帰りのゲートは用意しております。あなたの自宅の洗面所の鏡と次元を繋ぎました。双方から行き来できます。気が向いたらこちらにもお尋ねください」
上機嫌で非現実的な内容を淡々と話す初老の男。浩平は取りあえず、初老の男の名前を聞いておく事にした。
「あなたのお名前は?」
「あ、これはこれは失礼いたしました。バーンシュタインと申します、以後お見知りおきを」
浩平は名前を聞いた後、鏡の中に足を突っ込むと、影とバーンシュタインに笑顔で見送られすごすご自宅へ帰っていった。
END