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『明治浪漫譚(仮)』 作者:矢玉・奏嘉 (リレー小説)
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雷神の導き *矢玉

弥生夫人の口添えで譲っていただいたピアノは葡萄酒色をしていた。深みを帯びた紅のピアノというのが珍しくて、つるりとした天板の上を幾度か撫でる。
 すっかり面代わりした室内を静かに見渡す。
 畳の上には、ゴブラン織の芥子色の絨毯が敷かれ、布張りの西洋長椅子ソファとそろいの猫足のテェブルが中央に鎮座している。
 窓辺には、西洋風の花台まで置かれていた。生けた秋薔薇が、優しく揺れている。
 すべて、自分のピアノ教室のために用意していただいた品々だった。
 頭が下がるというより、もうむしろ申し訳なくなってしまう。
 実はこういった洋風の部屋も内心欲しいと思っていた弥生が、この機会にと少々張り切って揃えて好みの家具を選んでしまった、という事実があることを紫子は知らない。
 裾をさばいて、ピアノの前の丸椅子の前に座る。
 そっと、鍵盤に細い指を下ろした。



 ピアノ教室にと定めた部屋は、便利だろうからと紫子の私室として使わせて頂いている部屋の隣に作ることとした。だが実際にピアノや家具を入れると何とも手狭で、急遽、紫子の部屋との境のふすまを外して二間をピアノ教室とすることとしたのだ。
 しかし、そうしてしまうと紫子の部屋が無くなってしまう。
 そこで新しく紫子の部屋はという話になったのだが、なぜかそれが将臣の部屋と一間あけた隣ということになり、思わず紫子は明代の元へと走ってしまった。
 明代は此処のところ容態は安定しており、床には臥しているものの時々、書物に眼を通したり弥生夫人との会話を楽しんだりしている。
 そんな今日もそんな日課の読書を行なっていると、困惑の表情で飛び込んできた娘に眼を丸くした。
 しばらく沈黙ののちの明代の返答は、姑になる方の言葉に従いなさい、というものだった。
 明代も紫子も儒学をたしなむ桐生家の者だ。学者という固い家の出なのだ。
 明治の代となってもその価値観は容易に変るものではなくて。
 時々、おおらか過ぎる弥生夫人に二人して戸惑うことが多い。
「嫁ぐ家に従うのは当然でしょう」
「は、い」
 婚前の男女が近い部屋で寝起きするべきではないという教えと、姑に従うという教え。
 矛盾するふたつのうち、軍配が後者に上がったらしい。
 けれど――――――
「この間の病院のようなことは、許しませんよ紫子」
 びくりと肩を震わせ、紫子の背が伸ばされる。
「私は貴女のなにもなかったという言葉を信じることにしました。でも、婚姻も交わしていない男女が一つ布団で寝るというのは、あまりに非常識です」
「・・・・・・はい」
 自覚があるため、紫子は小さくなるしかなかった。

***

 灰色の雲にみるみる空が覆われていくのを見た時から嫌な予感はしていたのだ。
 夕刻から、空気が重くなりその風は水気を含んだものにどんどん変っていくのを、紫子が悲壮な顔で眺めるのに何人かの女中が首をかしげていた。
 夕のお膳を頂き、お湯を使わせてもらったあと、新しい自室へと戻る。
 将臣の部屋を通りかかる時は、何となく早足になり部屋に戻れば赤面してしまった。
 眠る支度をしようと布団を下ろし、羽織を枕元へ畳む。その間も動悸と頬の熱さは納まらなかった。
 だがそれも、つんざく雷鳴ですべて飛んでしまった。
 悲鳴をかみ殺し、うずくまる。
 かたかたという震えが止まらない。

 紫子はたいそう雷が苦手だった。

 幼い頃は夜に少しでも雷がなれば、明代の布団へと潜り込みぐずぐずと泣いて縋っていた。カフェで過ごすようになっても、震えてどうしようも無くて隣の布団の姐さんに手を握ってもらって眠った。翌日みんなに暴露され盛大に笑われたが。
 さすがにこの歳で母の布団に潜り込むわけにはいかず、震えながら布団に手を伸ばすものの雷鳴が響けばそのたびに盛大にびくついて布団が敷けない。しばらくそうしてうずくまっていたが、雷は嫌になるほど収まってはくれなかった。
 一際大きく、生木を引き裂くような轟音がなり大きな悲鳴を上げてしまう。
「紫子さん?」
 その声に、別の意味でびくりと肩を揺らす。
「紫子さん、起きているんですか?」
 返事しようと開いた口は、再度響いた雷鳴に悲鳴へと変った。
 障子の向こうで将臣は眼を丸くする。
 ほとんど涙声といっていいその声に心配し、かなり迷ったものの失礼しますね、と声をかけ、障子戸を開ける。

 その先にあったのは、布団も敷かれていない部屋の中で眼に涙を浮かべて畳みに座り込む紫子の姿という、予想外のものだった。

 ふたりともお互いの顔を見詰め合っていたが、先に我に返ったのは紫子だった。
 自分は夜着姿で、羽織すらまとっていない。体の線がみえてしまうと思えば一気に赤面した。羽織をさがそうとしたところでまた雷がとどろき、抑えた悲鳴をあげてしまう。
 紫子さん、と動揺したように部屋に入ってこようとした将臣に必死に待ってくださいと言葉を紡ぐ。
「いま、せめて羽織をはおりますので・・・・・・ッ」
 焦りと恐怖で動揺する中、なんとか枯葉色の羽織をつかみ袖を通す。
 その言葉に従い、律儀に待っていた将臣は紫子が震える手で前紐を結ぶと、そっと近寄った。
「もしかして、雷が苦手ですか?」
「は、い。この歳になってと、呆れられたでしょう」
 赤面して俯くそれが可愛らしくて、ついつい手のひらでその赤い髪を撫でる。そのままひょいと紫子を抱き上げると横向きに膝に乗せてしまった。
 慌てたのは紫子だ。昼間の母の言葉が思い出されじたばたと暴れる。
「あの、アロイスさまっ」
「こうしていれば怖くないでしょう?」
「そうではなくてですね、あの・・・・・・ひゃッ」
 また一際近くで落雷があり、思わず紫子は将臣の胸に縋りついた。かたかたと震える背を、ゆっくりと撫でてやる。
 腕の中にあるやわらかさが、古傷の痛みを忘れさせてくれ、体からこわばりが抜けていく。
「すみません、私のためにももう少しだけこうしていてくれますか?」
 囁かれた言葉に伏せた眼を上げれば、悲しげな青灰の眼で彼は自分を見下ろしていた。
「アロイス、さま?」
「私も、雨は駄目で。ここの所、少し気落ちすることが続いてなおさら」
 その眼が、その顔が、あまりに傷ついたものだったから。気付けば紫子は小さく顎をひいてうなずいていた。
 しかし一瞬の後、いけません、と袷を握り締める。
「今日も母に叱られました。前の病院のようなことは、あまりにはしたないから二度と・・・・・やッ」
 ふたたびつんざくような音が響き渡り、語尾が悲鳴に取って代わる。
 言葉とは真逆にこうも縋ってしまっては説得力が無い。しかしうさぎのように震えながらも生真面目に駄目だと返す紫子の額に唇を寄せる。

「ええ、ですから雷がおさまる少しだけの間です」
◆ワインレッドのピアノは昔、我が家にあったピアノです。弾くのはあまり好きじゃなかったけど、眺めるのは好きでした。
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