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『明治浪漫譚(仮)』 作者:矢玉・奏嘉 (リレー小説)
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薔薇とあやめ *矢玉

 昨日泣きすぎたせいで朝のうちは軽い頭痛がしていたのだが、昼を迎える頃には治まっていた。
 真っ赤にはれて、弥生夫人にも母にも驚かせてしまった眼もだいぶいつもの色に戻っている。
 覗きこんだ手鏡でそれを確かめ、紫子はほっと息をついた。
 今日が女学校が休みで本当に良かった。でなければ、桐子を心配させてしまっただろう。
 廊下に出て、玄関のほうに歩いていけば、口元に手を当て、考えこむ伊織の姿があった。
「伊織さん?」
「ああ、紫子さん」
 手元を覗き込めば、一冊の本が。どうやら地理に関するものらしい。
「これは?」
「兄さんに頼まれて貸す予定だったのですが、忘れてしまって。確か今日使いたいといっていたはずなので、どうしようかと」
 僕はこれから来客がある予定で、と眉を下げる伊織に紫子は口を開いた。
「では、私が届けてきましょうか?今からちょうど出かける予定でしたので」
「本当ですか?」
「ええ、楽譜を見に行こうかと」
「ああ、ピアノ教室のですか」
 僕も楽しみなんです、そう言ってくれるのが嬉しくて紫子はこぼれるような笑みを浮かべた。



 ノックに呼ばれ、ドアを開けると将臣は渋面になった。
 ドアの先にいたのは、いつかの女性。薔薇のような微笑を浮かべた香苗だった。
「もう、尋ねて欲しくないと申し上げたはずですが」
「先日、妹がご無礼を働いたそうで」
 女学校でのやりとりが脳裏によみがえり、将臣は口を開く。
「恥をかいたのは妹さんのほうでしょう。私も私の許婚も気にはしていません」
 だからお引取りを、そう告げられる言葉にかぶせるように香苗は赤い唇を動かした。
「それではわたくしの気が治まりませんわ。ですから、今日はお詫びの品をお持ちしましたの。先日の応接室はお借りできませんか?」
 手早く済ませるべきだとため息を一つつき、将臣は歩き出す。大切な少女とのすれ違いが解消されたばかりなのだ。無駄な波風はこれ以上欲しくない。
 将臣の背についていきながら香苗はその紅唇をそっと上げた。鮮やか過ぎる、笑みだった。
 応接室につくと、さっさとソファに腰掛けてしまった香苗にもうため息もでない。向かいに座った将臣の前で、藤の籠から取り出したのは、薄い水色の瓶。
「ラムネ水ですわ。父の知人が取り寄せてくださったのですけど、とても美味しいんです」
 籠から更に硝子のコップまで出してきたのは驚いた。唖然とする将臣の前でコルク栓を抜き。こぷこぷと器に注ぐ。どうぞと差し出され、それを無感動に見つめた。
 発泡性の飲料であるらしく、小さな泡が静かにいくつも水面に浮かんでは消えていく。
「どうぞ、召し上がって?」
 そこから梃子でも動かなさそうな香苗に、将臣は観念し器を手に取った。説得はそれからでいい。
 喉の奥を、ぬるいラムネ水が滑り落ちる。かすかに付けられた果実の風味が爽やかだ。紫子にもいつか飲ませたいな、などと思ってしまう自分に自分で苦笑する。
 最近は、全ての思考が彼女へと終結してしまう。
 だから――――――
 目の前の問題を終わらせるべく、将臣は口を開く。
「香苗さん、もうこれで終わりにしましょう。貴女が私に何を求めているのかは知らないが、私は貴女には応えられない。貴女ほど美しい人であれば、私以外にも貴女を想う人は沢山いるでしょう。私になどこだわっていずに、貴女も最愛の人を探すべきだ」
「わたくしのことを、美しいとお思いですか?」
「客観的事実を述べただけです」
「わたくしのことを美しいと思ってくださる貴方は、なぜわたくしを選んでくれないのです?」
 どこか淡々と、奇妙に凪いだ声色を将臣はいぶかしむ。
「わたくし、これでも将臣様に気に入っていただけるよう、沢山の努力をしましたの。勉学や振る舞い、貴方にはそれが何だと思われるかもしれませんが、わたくしはそれだけ必死だった」
 でも、と瞳を伏せる香苗は、臈たけて美しい。だが、どこか奇妙だ。
「でも貴方は、わたくしを見てくれない。それどころか、わたくしを覚えてすらくれない。気が、おかしくなるかと思いました。だから、わたくしはもう手段を選ばないことにしたのです」
「それは、どういう意味ですか?」
「意味どおりですわ、将臣さま」
「私は警告したはずだ。彼女に手を出せば、貴女のお家に・・・・・・・かかわる・・・・・・と」
 突然呂律が回らなくなり、視界がぶれる。
「わたくしはあなたの許婚に手出しなどしませんわ。私の求めるのは、いつだって貴方お一人」
 体が、しびれたように動かない。焦って手足を動かせばずるずると背がすべり、ソファに横倒しになる。
「ああ、やっと貴方を手に入れられる」
 その白いかんばせに浮かぶのは、鮮やかな狂気。ソファに倒れこんだ足元に、香苗が腰掛けるのをただ見ていることしかできない。
 覆いかぶさるように近づけられた唇を、かろうじて首を動かして避ける。頬に当たった唇は、紅でぬるりとすべった。蛇のような白い指先がシャツにかかり、ひとつ、またひとつと釦が開けられていくのに本気で焦る。
 投げ出したままになっていた腕を動かし、彼女を押しめようと動かせばテェブルのうえにあった硝子のコップが、音を立てて転がり、割れた。
 その音にひかれるように、応接室のドアがゆっくりと開かれた。

***

 紫子が将臣に届け物があると告げると、廊下を歩いていた軍人は眼を輝かせて案内役をかって出てくれた。物珍しそうに建物内を見回す紫子に、親切にも色々教えてくれる。前回此処を訪れた際は、母が倒れた直後でそれどころではなかったため、紫子はひとつひとつを丁寧に聞いていた。
 将臣の執務室だという一室のドアの前で立ち止まると、一人の青年が話しかけてきた。
「東郷中将なら執務室にはみえないぞ?」
 二ノ宮、そう呼ばれた青年は、たしか山縣邸での夜会で紹介された将臣の部下だという人物だった。紫子が丁寧に頭を下げれば、恐縮したように口を開いた。
「東郷中将は現在来客の対応中でして。いかがいたしましょう」
 紫子は少し考え込んだ後、口をひらいた。
「お客様は、東郷さま個人を訪ねていらした方でしょうか?」
「え?は、はい。あの女性でして。東郷中将はすぐお帰りになるからお茶もいらないと」
「それならば、ご歓談の最中に申し訳ありませんが、この本だけお渡ししてお暇させていただこうと思います」
 あまり誉められたことではないが、私的な客人であれば少しだけ席を外し、本を渡すぐらい可能ではないだろうか。
 案内してくれるという二ノ宮の背を追い、紫子は歩き出した。
 応接室まであと少しという所で今度は二ノ宮が呼び止められた。どうやら上官に呼び出されたらしい、困惑する二ノ宮の様子に紫子は助け舟を出す。
「ここまで案内して頂ければ十分です。以前、私が通していただいた部屋ですね?」
「あ、はい。ここを曲がってすぐ右の部屋です」
「では案内は此処まで大丈夫です。ありがとうございました」
 恐縮しつつ立ち去る青年を見送り、紫子は歩き出した。ほんの少しで着いてしまった応接室のドアを前に、考え込む。
 本当は青年の部下である二ノ宮に将臣への言付けを頼み、席を抜け出せそうか聞いてもらおうと思っていたのだが。流石に自分がこの部屋に入ってしまうのは無礼すぎないだろうか。
 出てくるまで待とうかと考えていると、部屋の中から物音が響いてきた。高い、硝子の割れる音。驚きに飴色の眼が見開かれる。あたりを見渡すが、どうやら音を聞きつけたのは自分だけらしい。
 妙な胸騒ぎがし、心の中で非礼を詫びながらそっとドアを開けた。

 その先に広がる光景は、ソファに押し倒される将臣とそれに覆いかぶさるような格好でこちらを見る見知らぬ女性という、予想外のものだったが。

 絶句し、硬直していたのはほんの数秒であっただろう。すっと瞳を細めると、ドアを閉める。
 もちろん自分は内側にいた。
 そのままつかつかと足を進め、とりあえず女性と青年を引き剥がす。
「ゆかり、こ・・・・・・さ」
「もしや、体が動きませんか?」
 眉をひそめ、頬の口紅や肌蹴られたシャツを一瞥し、とりあえず青年が身を起すのを手伝う。青年の体は女の腕には重かったが何とかソファに背をあずけさせることに成功する。
 そして肌蹴られたシャツに手を伸ばし、釦を留めていく。
「あの、ゆか、りこ・・・・・・さん」
「以前、貴方と同じような眼に遭った方を見たことがありますので」
 その方は女性でしたが、と続けるのに、口がきけるのであればそうではないと告げたい。
 子どものように服を着せられるのはいたたまれないので、やめてくれないか。と必死に腕を動かすものの、力の入らない腕ではゆるく少女の腕を掴んだだけだった。あと現状に対する感想なども聞きたいが、正直それは恐ろしい。
「わたくしを無視しないでいただける?お嬢さん。あなたが、逢崎紫子さんね」
 ふいにかけられた声に、紫子は立ち上がりすっと背筋を伸ばした。
「桐生紫子です」
「そう、わたくしは宮城香苗というの」
 遠慮してくださらない?などといいながら、そっと裾を直す。なまめかしく露になっていたふくらがぎがそっと隠れる。
「東郷さまに、薬でも飲ませましたか?」
 厳しい声色のまま、紫子は口を開いた。
「貴女のお噂は私も聞いています。ですが、そんな方法をとって恥ずかしくはありませんか?貴女には誇りがないのですか?」
 その物言いに、いっそ香苗は笑いたくなった。彼に愛された、娘。自分は見向きもされなかったのに。
「存在すら覚えてもらえないのなら鮮明に残る記憶さえ残ってくれればいいと思ってはいけないかしら」
「貴女自信の誇りはないのかと聞いているのです。想い人の汚点となることが貴女の望みですか?そんな執着で自分の恋心を汚して、いいのですか?」
 今度こそ、その唇から哄笑がもれる。ひとしきり笑った後、乱れた髪に手をやった。
「如何にも、お嬢様の言うような事だわ。捨てられないものがあるからそんな綺麗事が言えるのよ」
 歪んだ唇を眺め、ふいに紫子は遠い眼をした。よみがえるのは己の過去。
「貴女には理解できないでしょうね。私は必要であれば己の芯となる誇りさえ明け渡してきた。それでもあさましい真似をしないのは、私に残された最後の矜恃です」
 お嬢様はどちらか。温室育ちの令嬢に、お嬢様の綺麗事などと馬鹿にされるのだけは反論したい。
 どこまでも厳しく、清廉な少女。そうまるで、あやめの花のような。ふいに香苗は悟った。
「御綺麗な事ね。好きだわそういうの、真似なんかできないけれどね。けど価値観の違いだわ。どんな形でもいいのよ、残れば・・・・・・。たとえばここで、首を掻ききったっていい」
「押し付けがましい恋情ですね、私には理解できない。溺れるような恋にそれなりの敬意ははらいますが、東郷さまは私の許嫁なので全力で阻止いたします」
 嗚呼この、あやめの花のような少女も、己が羨望してやまない本当の“高貴”をまとう者なのだと。


***

◆今回登場したラムネですが、明治に本当にありました。そして初期の頃はコルク栓だったそうで。明治であれば初期も中期も後期もごちゃまぜの時代考証シカトな明治風なのでビー玉でもよかったのですが諸事情によりコルク栓に。

だってビー玉だと・・・薬物混入できないじゃん。
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