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『明治浪漫譚(仮)』 作者:矢玉・奏嘉 (リレー小説)
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哀しい、かなしい、愛しい *矢玉

◆タイトルは「かなしい、かなしい、かなしい」と読んで下さい。日本語的に間違いではありません。 ◆ちょっと特別な言い回しが出てくるので解説を *付文・・・ラブレターのこと。 *御一新・・・明治維新のこと。 
すっと息を整え、爪を弦へとのせる。
 かき鳴らすのは、いつもとは比べ物にならないほどの激しさをはらんでいた。
 無性に音楽に没頭したくて、女学校の教員に頼み込み、琴を出してもらった。
 ピアノでも良かったが、もっと強い音が奏でたかったのだ。
 一心不乱に指を動かす。弦が悲鳴を上げるほどきつく締め、弾く音は驚くほど鋭い。
 だがそれは、長続きしなかった。一つ音を打ち損じると、ほろほろと崩れるように琴の音が崩れ、曲がただの不協和音と化す。

 己に琴を仕込んでくれた母が見たら、厳しい叱咤をうけるだろう。

 付けた爪を、紫子は物憂げに見つめた。
 ふとした拍子に思い出すのは、先日の出来事。

 自分はなぜ泣いたのだろうか。

 我ながらよくわからない。
 同情だろうか。あの人の歩んだ、あまりに過酷な過去に関して。
 同調だろうか。外見で差別される己に重ねて。
 どれも違う気がした。
 ただ自分は、そう、かなしかったのだ。
 座敷牢の向こうにいた青灰色の瞳の幼子。そんな彼が、青年となった彼が、あまりに優しく微笑むものだから。

 その微笑が、哀しくて、かなしくて――――――愛しく、て。

 どうしてもそこまで行き着くと、頬に血が上る。
 自分の感情を持て余し、ふりきるように再び琴にむかう。激しく、強く。逃げるように。
 ふいに指に痛みがはしり、紫子は腕をとめた。
 締めすぎたのだろうか。絹の弦が一本中ほどから切れてしまっている。まず思ったのは、琴がいたむということ。そして、まじまじと指先を見つめる。
 爪を外した指には、くっきりと赤い線がついていた。そこから玉を結んで血の雫がぱたぱたと畳に落ちる。
 青い藺草に落ちた血が、いっそ不吉なほど赤くて紫子は身震をする。
 今日はもうお終いにしようと、琴に布をかけようとした時、悲鳴のような音を立てて戸が引かれた。
「井沢、さん?」
 そこに立っていたのは、用務員の一人だった。
 彼と紫子は、それなりに親しい。それは紫子が井沢に、ある頼みごとをしていたから。
 お世話になった叔母が父と折り合いが悪く、屋敷からは手紙が出せないので、代わりに投函してきてくれないか。最初はそんな頼み事だった。
 井沢は華族院に通うような令嬢が自分に話しかけてきたのに大そう驚いていた。
 それもそうだろう。普通の令嬢は女教師たちとは話しても、用務員の、しかも男などとは口をきかぬよう厳しく躾けられている。
 まさか付文のたぐいではないだろうかと勘ぐられたが、宛先をみて、それはありえないと納得したようだ。二、三度同じ頼みごとをするうちに彼が言ったのだ。
 自分の下宿先の住所を貸すので、どうぞ手紙のやりとりに使ってほしい、と。
 その時の、染められた頬を見て、紫子は困惑した。そこに、不思議な熱を見たからだ。
 女給勤めをしていたから、そのような眼に覚えが無いわけではない。
 下卑た眼に混じって、驚くほど真摯に己などを慕ってくれる者も、いるにはいたのだ。
 紫子の心を、動かすことはなかったけれど。その頃の紫子は、今よりもっと本当に手一杯、精一杯でそんな思いに応える余裕もなかった。
 今は、どうなのだろうか。
 いや、そんな事よりも。
「井沢さん、どうなさったのですか?」
 不思議なほど青い顔をして、荒く息をついている青年に近づくと、驚くほど強く手を握られた。
「もう学院にいらっしゃって助かった。先程、僕の下宿に届いたのです」
 握られたてには、すこし歪んだ封筒が。
「“名前と住所を貸してくださる親切な方へ、どうぞ紫子さまにお届けくださいと”僕への手紙まで添えられて」
 紫子の顔色が瞬時に変った。
 今まで、一度もこなかった返事。それも仕方がないと、諦めていた。それが。
 もどかしい程震える指で、封をきる。そこにあったのは、懐かしい女手の文字でなく、乾いた男手の文字。
 読み進むうちに、紫子の顔色は紙より白くなっていった。

 ***

 演習が終わり、執務室へと戻ってきた将臣は、軍帽を乱雑に机に放ると息をついた。
 身体を動かすのは苦にはならぬたちとはいえ、疲れるものは疲れるのだ。
 しかも、これからその演習の報告書作りが待っている。ため息のひとつもつきたくなるというものだ。
 下士官が気を使って入れてくれた茶を、ありがたくすする。
 ぼんやりと思考をさ迷わせれば、彼女の赤く染まった目元が浮かび、そんな己に苦笑した。
 彼女が泣いてくれた事が、驚くほど自分の心を軽くした。
 安い同情ではないからだろうか。かたくななほど自分を見せなかった彼女が、己のために涙を流してくれたからだろうか。
「・・・・・・我ながら女々しいな」
 苦笑一つでそんな考えをふりはらい、万年筆を手に取ると、インクの瓶へとひたす。白紙の報告書を手繰り寄せたところで、ノックの音が響いた。
 応えを返せば、現われたのは顔なじみ、それにややうんざりした顔をむける。
「山縣、今忙しいんだが」
 いつか自分を接待だの何だのと理由をつけてカフェへと連れ出した男がそこにいた。飄々としたこの男は、何かに付けて己をかまってくるのだ。
「おい東郷。噂の紫の上がきているぞ」
「は?」
 我ながら間抜けな声が出たと思う。
 紫の上とは、紫子のことだ。女学校でそう呼ばれているらしいと、妹が女学校に通うこの男が面白がって得意げに話してきたのはいつのことだったか。
 確かに、何かの話の流れで自分の所属は伝えてあったはずだが――――――
「おい、またかついでいるんじゃないだろうな」
 彼女が己を訪ねる理由が、まったく浮かばなかった。
 しかし山縣はひとつ肩をすくめるだけでそれに応える。
「かつぐかつがないはともかく、全力でからかってやりたい気持ちはあるがな。どうやらご令嬢はお前さん恋しさに此処を尋ねてきたわけじゃなさそうだ。血相を変えて東郷中将はどこだと尋ねられて、下士官が困り果てていたから応接室に案内した。どうやら火急の用のようだ。行って来い」
「それを早く言えッ」
 あわてて椅子を蹴って立ち上がる。忘れそうになった軍帽は、悪友が放ってくれた。崩れた服装のまま上官に行き会うと面倒だ。かつかつと軍靴を鳴らし、足早に歩を進める。
 応接室に着くと、ノックもそこそこに扉をあける。
 紫子は、西洋長椅子ソファに腰を下ろしてもいなかった。
「東郷さま・・・・・・」
 あえぐような声、その顔色は尋常ではない。
 何かあったと問う前に、泣きつかんばかりに己の腕へとすがられ、驚く。
「どうか助けてくださいっ・・・・・・どうか、どうか」
 いっそ泣いてないのが不思議なほどの、その叫び。
「母が、母が死んでしまう」


***



 横浜へ行きたいのだと、それだけ繰り返す彼女を宥め、馬車へと乗り込む。
 幸い、横浜への切符は一等の個室が取れた。
「夜には着くそうですよ」
 唇を噛んで俯いていた少女は、青年を見上げると小声でありがとうございますと呟いた。
 個室コンパーメントには誰もいない。こんな時間に立つ一等車の乗客は少ないのか、ほとんど貸し切りといってさしつかえなかった。
 窓へと目を向ける彼女の顔色は、相変わらず白い。窓に映ったその顔をみていると、ふと唇が動いた。
「何も・・・・・・何も、お尋ねにならないのですね」
 震えそうな少女の声に、何と返答していいのかわからなかった。
 ふいに紫子の口元が笑みに歪む。
「お話します、すべて」
 己の息が止まるのが、将臣ははっきりわかった。
「何から話せばいいのか、検討もつきませんが・・・・・・これ以上、貴方に嘘はつきたくない」
 まっすぐに向けられる飴色の視線、頬にかかる乱れた黒髪。
「まず、一番初めに問われた問いにお答えしましょうか――――――わたくしが、あやめです。貴方に、あの日助けていただいた」
 赤い髪と強い視線が脳裏によみがえり、目の前の少女と重なる。
「覚えていて、下さったのですね」
 己の声が擦れていて、将臣は驚いた。少女の眼が伏せられ、その口元から苦笑がこぼれる。
「忘れられません。母達以外で、私の赤毛を誉めてくださったのは、あの青年将校だけだったのですから」
「母、たち」
 その表現は、どこか妙だった。将臣の疑問に応えるように、紫子は静かに言葉を紡いだ。
「私には、母が二人います」
 軋む車輪の音にもかき消されない、凛とした声だった。


***


 私には、母が二人います。
 一人は生みの母で、もう一人は私をここまで育ててくれた母。
 父親は、いません。
 生みの母は藤乃といいます。育ての母は、明代と。
 桐生紫子。それが私の本当の名前です。
 藤乃の母上は、桐生家の分家の者だそうです。主家にあたるのが明代の母上の家。 藤乃の母上は、幼い頃から行事見習いとして、桐生本家に奉公に上がっていたそうです。
 明代の母上とは、ほとんど姉妹のようにすごしていたそうです。
 桐生の家は、武家とはいってもそう裕福な家ではなかったそうで。学問の家柄で、仕官こそしていたものの、禄はさほど多くは無かったと聞いています。それでも何とか暮していけていました。
 御一新が、あるまでは。
 ご他聞にもれず、桐生家が使えていたお城も今の政府へと返され、お役を解かれた桐生家も、たちまち立ち行かなくなりました。手習いなどで何とか生計を起てていたものの、本家はともかく分家はかなり苦しい暮らしぶりだったそうです。
 そんなある日、藤乃の母が言ったのです『縁談が決まった』と。明代の母は不審に思ったそうです。この時勢に、貧乏な士族の娘を娶る物好きがいるのかと。藤乃の母上は、他には何も言わなかったそうですから。ただ『遠いところへ嫁ぐから、もう二度と会えないでしょう』と繰り返すばかりで。
――――――明代の母上が思ったとおり、それは嘘でした。藤乃の母上は妾にあがったのです。逢崎の家に。
 再会は数年後だったそうです。尋ねてきた藤乃の母上のひどく衰弱したなりに、明代の母上はたいそう驚いたそうです。そして藤乃の母が抱えていた、赤毛の娘に。
 口を割らない母を、何とか説き伏せ訳を聞くと、明代の母上は烈火のごとく怒りました。奉公人の間で、語り癖になっていました。あのときの明代の母上は、今にも薙刀をもって逢崎へ乗り込みそうだった、と。
 母は、捨てられたそうです。赤毛の娘を産んだから。不貞を疑われて。
 ・・・・・・そんな顔、なさらないでください。私は桐生の家で育てられて、本当に幸せだったのですから。
 藤乃の母上は、私が四つのときに他界しました。おぼろげに覚えている母は、優しくて、でも儚げな人でした。
 明代の母上は、全く正反対と言っていい人で、気が強くて快活で。曲った事が、大嫌いな人。
 生まれを恥じる私に、明代の母上は繰り返し仰いました『己の矜持は、己の心ひとつで守られる。誇りを失わないで生きなさい。武家の娘としての誇り、藤乃の娘であるという誇りを』と。
 私は母を、明代の母上を尊敬していました。いつも背筋を伸ばして、凛として佇む母の姿を。
 そんな母が倒れたのは、私が十四の時でした。
 医者には、無理がたたったのだろうと言われました。母は、明代の母上は私を育てるために、必死になって働いていたのです。手習いの師匠や、夜通しの内職で。
 縁の薄い、自分の子でもない、私を育てるために。
 奉公人が金策に走ってくれましたが、あっという間に金子は底をつきました。薬代どころか食事さえままならぬ程に。

 このとき、私は決意しました。自分の身を売ろうと。

 母は激怒しました。子を売って永らえて嬉しい親などいるものかと。親子の縁を切るとまで言われました。それでもっ、それでも私は母とまだ別れたくなかった。母を死なせたくなかった。
 帝都に上がって、でも身を売るといっても、方法がわかりませんでした。そんな時、私を拾ってくれたのが宵星のマスターでした。身を売るという私を止めて、女給にならないか、と。『士族のお嬢さんにはきつい仕事かもしれんが、身を売って身体を壊すよりましだろう』と。
 マスターはいい人でした。姐さん方も意地悪も沢山されましたが、みな、不慣れな私に根気よく様々なことを教えてくれました。
 女給として数年必死に働きました。給金はほとんど仕送りとして送りました。母は決して受け取ってくれないだろうから、奉公人を通じて。
 そんな日々を過ごしていた私の元に、突然、訪れたのが逢崎の者でした。
 娘として認めるから、家に入れというのです。馬鹿にした話です。勝手に捨てておいて、母を殺しておいておめおめとよく顔を出せたものだと、追い返しました。
 でも次にやってきた時に言ったのです『母の面倒を見ることを条件に、逢崎の娘になれと』
 悩みましたが、どちらが母の病にいいかなど考えるまでもありませんでした。私が働いた給金であがなえるのはせいぜい薬代程度。でも、逢崎の家にかいれば、ちゃんとした医者に見せ、病院に入れてくれる。そう言われました。

 それで私は『逢崎紫子』として、偽りの生を歩むことを、決意したのです。
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