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『明治浪漫譚(仮)』 作者:矢玉・奏嘉 (リレー小説)
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紫陽花の涙 *矢玉

 東郷の屋敷にきてから、紫子は呆然とするばかりだった。

 まず、弥生夫人を「奥さま」と呼んだら「名前で呼んでくださいな」と微笑まれた。そんなわけにはいかないと言ったのだがにこにこと微笑みながら「ね?」と言われてしまい、頭を抱えた。恐る恐る「弥生さま」と呼べば、「そんな他人行儀な、せめて“弥生さん”くらいがいいわ」と言われてしまい本気で困惑した。
 結局今は、恐れ多くも伯爵夫人を「弥生さん」などと呼んでいる。

 次に、毎朝、夫人が手ずから髪を結ってくれるのには正直仰天した。
 飛び上がって辞退したのだが「娘がいたらね、こうやって髪を結ってあげたかったのよ」などと切なげに笑われてしまい結局毎朝髪を結っていただいている。今日のお下げも、夫人の手によるものだ。

 更に、身ひとつで来た紫子のためにと、夫人の若い頃の着物を出してくださり、「お古で申し訳ないわ。今度一緒に買いに行きましょう」などと言われて慌てて固辞したもののこれも何だか押し切られそうで戦々恐々としている。
 逢坂の家が身の回りの品を届けてくれないかとも思っているが、己にそんな気遣いをしてくれるとも思えず望み薄だ。
 大体お古といっても、塩沢紬や御召縮緬の大変よいお品である。正直、普段着にするには勇気がいる。

 その上、女学校をどうするべきかとそれとなく尋ねてみると「あらあら、私ったらうっかりしていたわ」などと笑われて、逢崎の家に帰されるか、もしくは花嫁修業に専念しろと辞めさせられると思っていたのに、海老茶袴を差し出されたのは心底驚いた。しかもまだ仕付けの糸の付いたどうみても新しくあつらえた品である。自分からねだってしまったようで大変心苦しいのに、海老茶袴を身に着けた姿を、夫人は「まぁ、いいわねぇ。今時の女学生さんは、楽しそうだわ」などという感想を貰ってしまい一体どうすればいいのか本当に、本当にわからない。

 しかも、花嫁修業が始まる気配が無いのだ。

 突然で驚いただろうから二、三日はのんびりお過ごしになってといわれて早一週間。
 恐る恐る尋ねてみても、「では、お庭から今日生ける花をとってきてくださる?」といったぐらいで、あとは夫人の話し相手をしたり、せいぜいお針をしたりと言った具合である。

 紫子は“逢崎紫子”となってはじめて、その心中はさておき、のんびりと過ごしていた。



 今日も今日とて花嫁修業を、といえば、籠を渡され花を摘んできて欲しいと言われた。こんなことでいいのですか、などと何か言おうものならそれすら「面倒をかけて、ごめんなさいね」と言われ、花摘みすら任されなくなる。
 もはや何がどうなっているかよくわからなくなってきた。
 そもそも、なぜ東郷家で花嫁修業をする流れになったかもよくわかっていない。東郷伯爵にも尋ねようにも、当然のように軍人である彼は忙しく、朝ともにお膳を頂くかそれくらいしか顔を合わせるときが無い。そのような場で尋ねるのもはばかられ、今に至ってしまっている。
 からころと下駄の軽い音を立てて庭へ降りる。
 今日の着物も、弥生夫人の用意してくださった大島紬の一品だ。元禄袖に半幅帯を合わせ、とても動きやすい。逢坂家では正絹の振袖以外で過ごすことは許されなかったため、体が軽くなった気さえする。
 東郷伯爵邸は、武家屋敷のたたずまいそのままの、古式ゆかしい和風建築だ。存在して来た年月が刻んだ暗い色彩が家屋敷包む重厚なそれとして残っている。
 立派すぎて比べるのは気が引けるが、この年月を感じさせる空気は紫子の育った屋敷によく似ていて、どこかほっと落ち着く。
 黒光りするほど磨き上げられた床板や、柱。障子の仕切きられたやわらかな光が落ちる畳の間は、どこかほの暗い。一歩間違えば陰湿になってしまうほどの、重みと歴史を感じさせる、それ。
 だが夫人の手によるものだろう。清潔に磨き上げられ、其処ここに生けられた花や可愛らしい小物が、厳めしさを優しく和らげていた。
 この庭も、厳しい石灯籠や驚くほど年輪を重ねた松の大木と、可憐な花々の対比が目に優しい。
 木陰に白っぽく見えるしゃがの花に手を伸ばし、ぱちりと切り取る。

 東郷邸の暮らしは、戸惑ってしまうほど穏やかだ。
 優しい弥生夫人、穏やかな東郷伯爵、彼らを慕う使用人もみな朗らかで。
 この家に嫁ぐと思われている自分に、よくしてくれる。

 しかし、心にほんの少し爪を立てることが、無いわけではない。
 弥生夫人は、お喋りが好きなたちなのだろう。いつも楽しげにころころと、さまざまな事をお話してくださる。
 将臣さまの小さい頃の話、もうひとりの子ども、伊織さまのお話。
「将臣は赤ん坊の頃、体が弱くてお乳をすう力も弱くて」
 そんなことまで、という事も話されて、頬を染めることもしばしばだ。
 しかし夫人はいつも東郷伯爵のことを“将臣さん”と呼んでいる。
 だが、しばし幼い頃の話をするとき“将臣”と、呼び捨てにする。
 幼い頃の話だろうか。そうも思ったのだが、もうひとりの息子、伊織さまのことは一貫して“伊織”と呼ばれるのだ。
 夫人の呼ばれる“東郷将臣”の姿が、時折ぶれる。二つの硝子窓越しに、その姿を見たように。

 それに、東郷伯爵は、この方の産んだ息子ではないはずだ。
 よほど幼い頃に、生みの母と別れたのだろうかとも思うが、なにやらしっくりこない。
 だが、自分のようなものが詮索するのはおこがましいと、思考を打ち切った。



 先日まで大輪の花を咲かせていた牡丹は、五月雨に打たれ、終わりをむかえていた。
 今日の空も快晴とは言いがたく、どんよりと鈍色の雲が厚くたれこめている。これはいつ泣き出してもおかしくないなと、紫子は庭の奥へと足を急がせた。
 飛び石が並ぶ先を、誘われるままいけば、ふと開けた先に、紫陽花の大樹があった。
 いくつもの丸い紫陽花が、紫も白も青も、咲き競うように重たげに花をつけている。その見事さに、紫子はしばし息を呑む。
 今日のお花は、これを中心にしよう。
 鋏を片手に、袖をさばいて近づけば、見事な紫陽花の枝の向こうに、こぢんまりとした離れが垣間見えた。
 この庭の花は好きに摘んでかまわないと言われていたが、そういえばこのあたりを訪れたのは初めてだ。最初茶室かとも思ったのは、その窓に格子が嵌っていたから。
 格子の窓は茶室によくあるしつらえだ。しかし、不意に思い違いを悟って息を呑む。口元に手を当てた拍子に、取り落とした鋏が、飛び石の一つを打ち甲高い音を立てた。

 こんな無骨な格子が、茶室にあるだろうか。
 ――――――否、これは

 震える手を伸ばし、それを掴む。指で輪をつくってやっと掴めるほど太いそれは、微かに錆の匂いがした。
 ――――――鉄格子

『幼い頃は、外に出してもらえませんでした』

 その涼やかな灰青の瞳を、ほんの少しだけ悲しげに揺らしてそう言った青年の面影がよぎる。


 異人のような外見の者、が受ける仕打ちを己はよく知っている。
 ましてや彼のひとは本当に、異国の血を引いているのだ。


 飴色の瞳から、玉を結んで雫が落ちる。
 鉄格子にすがって、紫子は泣いた。
 そのむこうに、寂しげなぼんやりとした灰青の目をした幼子の幻を、垣間見た気がした。


 己の家族以外、己ですら大切で無かった少女は、始めて他人のために涙を零していた。
◆東郷家in紫子。完全に貰われてきたばかりで優しくされてもびくつく子猫と化す紫子さん。 
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