九十九坂の途中で(第2話)
その時、九十九折れの県道には、天空を塞いだ闇のすき間からこぼれ落ちる、美しくも幻想的な霧のカーテンが立ちこめていた。
ヘッドライトが乱反射して、視界は最悪極まりないが、おれはアクセルを一向に緩めようとは思わなかった。こんな辺ぴな夜更けの道路を散歩する呑気者が、もしもいるというのなら、ぜひお目にかけてくれ。おれが運転するタクシーは、急傾斜の上り坂を、悠然と突っ走っていった。
つい先ほど、おれは上川村まで客を一人乗せてきたところだ。上川村は深い山で閉ざされた小集落で、たまに依頼がある。仕事を終えた時刻はそこそこ遅くなってはいたけど、さすがにこの村に泊まる気は起らないので、おれは隣接する下山町まで引き返すことにした。上川村と下山町を直接つないでいる道路はここだけだが、通り抜けるのに丸一時間は要する狭くて険しい悪道だ。
心配していた雨がとうとう降ってきた。ぽつりぽつりとフロントガラスに打ちつけた水滴は、瞬く間にけたたましい本降りの秋雨と化した。だらだらと続いてきた上り坂もあとわずかになってきて、間もなく県境の人形峠にさしかかる。
人形峠――。
上川村と下山町の中途に横たわる閑散としたこの峠は、誰が名づけたか昔からこの呼び名で通っている。かつてはちょっとした交通の要所だったらしいが、ちょいと北に広い国道ができた途端に、誰もが寄りつかなくなってしまったいわゆる辺境の地である。
それは、突然の出来事だった。
フロントガラスの向こうに何かが立ちはだかった。
咄嗟にブレーキをかけたものの――、やっちまったのか?
いや、ぶつかった衝撃は感じられなかったぞ。
勇気をふるってうつ伏せた顔を上げてみると、煌々と輝くヘッドライトの中に、傘も差さずに突っ立っている人の姿があった。さらに驚いたのは、それが若い女だったことだ。
女は長身で、すらりと痩せていた。肩甲骨付近までかかっているストレートの黒髪が、雨でしっとりと濡れている。長く伸ばした前髪は目元を完全に覆っていたが、たとえ瞳が見えなくともこの女が別嬪であることにはまず疑念の余地はなかった。
雪のように真っ白な小顔に、真一文字に閉ざされた唇のルージュがひときわ映える。腰にはピッタリとフィットしたセクシーな黒のスカートを纏っているが、胸元の薄手の白のブラウスはボタンが乱されて少々みだらにはだけていた。
もしかして、自殺をしようとでもしていたのだろうか? この女には生気というものが全く感じられなかった。
とりあえず後部座席に女を招き入れ、運転席に腰かけたおれは、バックミラーで女のようすを観察しながら、さり気なく話を切り出してみた。
「こんな夜更けにお一人で。ひょっとして何かいやな目に遭われましたかね?」
女は無言のままだ。仕方なく、型通りの質問に切り替える。
「お客さん、どっちに行きましょう? このまま下山に向かってよろしいですか?」
と、その時だ。
ミラーに映った柔らかそうな唇が、ゆっくりと動き出した。
「そっちには『あの人』がいるの……。だから、行きたくない」
「じゃあ、上川村へ参りましょう」
まるで意味がわからなかったが、おれは女の要求に従った。もちろんこの期に及んで上川村などに戻りたくもなかったのだが、そこはまあ仕方がない。
途中しばらく、おれ達ふたりの間に会話はなかった。さすがに痺れを切らしたおれは、もう一度女に話しかけてみることにした。
「いやあ、さっきは驚きました。あんな時刻にあんな淋しい場所でねえ。私はてっきりお客さんが幽霊じゃないかと思い込んでしまいましたよ。変でしょう。はっはっはっ」
軽い冗談から切り出したつもりだったが、女は真面顔で、
「そうよね。きっと私って幽霊なんだわ……」と一言呟いて、細い肩をさらに細くすくませた。
「あっ、失礼しました。そんなつもりで申し上げたのでは――」
なんともいえぬ間の悪さにしょげていると、意外にも女の方から話しかけてきた。
「ねえ、運転手さん。あなた――、紐で首を絞められたご経験あるかしら?」
突然何をいい出すのかと思ったが、渡りに船とはこのこととばかりに、平静を装っておれは返事をした。
「ええ、もちろんそんな経験なんてございません。えっ、まさか、お客さんはおありなんですか? そんなことが」
「そうなの。あるのよ……」
さすがにどう反応してよいのかわからず戸惑っていると、女はわざと聞かせるかのように、身の毛がよだつ異様な物語をとつとつと語り出した。
「あの人ね、急にうしろから襲ってきたのよ」
女の襟元から露出した首筋をよく見ると、喉の辺りに黒いあざがくっきりと残っていた。
「なんとか紐を解きたいから指を差しこもうとしたんだけど、力が強くて爪さえも入らなかった」
女はここで微かなため息を吐いた。
「顔が充血して、だんだん苦しくなって、このままじゃ殺されちゃうって感じたから、紐をほどくのは諦めて、かわりにあの人の顔に爪を突き立ててやろうと思ったの」
女は、しとやかな仕草で口元を手で覆い隠しながら、くすくすと笑い出した。ほっそりとした首筋の先にある魅惑的な鎖骨が上下に見え隠れしていた。
「でも、遅かったのよね。もう力が抜けちゃって、爪はあの人まで届かなかった。
可哀そうな私は、ただ手足を捻じ曲げてもがくだけ……。
そのうち、あれだけ苦しかった痛みがふっと消えて、意識が途切れちゃった」
「はあ……」
おれは無理やり相槌を入れた。こんな時にできることなんてそんなくらいしかなかろう。
「気がつくとね、シャンデリアの灯りがぼんやり見えたの。
うふふっ。なんかとても不思議な心地だったな……。
生きている? どうして?」
後部席に座っている女が、少しだけ頭を揺り動かした。その仕草はまるで、ミラー越しのおれに向かって微笑みかけたかのようだった。
素知らぬ振りを貫いて、おれは運転にだけ集中する。
「でもね、その時なの……。
ねえ、運転手さん。その時の私の怖さがあなたにわかるかしら? シャンデリアの灯りをさえぎって私を見下ろしているあの人の黒い顔……」
背筋にビクリと震えが走った。
「そうよ。あの人、異常に興奮していたわ。意地の悪い目つきをしながらこういったの。
『おや、お目覚めかい?
くくくっ、お前のような女は、ただ殺すだけじゃ勿体ないから、こんどはおれのこの素手で、お前の苦しみを直にこの素手で感じながら……、怖れおののくお前の断末魔を全身で味わいながら……、ゆっくりと、楽しんで、殺してやる』
あんなに嬉しそうなあの人の顔って、それまで見たことなかったわ。
ねえ、知ってる? あの人ねえ――、左手の小指がないの。
どうしてなくなったのかは教えてくれないんだけどね。うふふっ。
そのあと、九本のねじ曲がったあの人の太い指が、震えながらゆっくりと私に近づいてきて、何も抵抗できない頸に……」
ごくりと唾液を飲み込んだおれは、額に脂汗が湧いていることにはじめて気づいた。客商売の立場でなければ、こんなよた話など軽く聞き流せばよいのだろうけど、今はそうもいかない。
「それでも、あなたはここに無事でいらっしゃる。
何があったかは知りませんが、とにかくよかったですね」
その時だ。全身がいきなり硬直して、ハンドル操作ができなくなった。
ブレーキを踏もうとしたが、足の感覚まで完全に麻痺している。
車は下り坂を勝手に加速していく。すると前方から、対向車のヘッドライドが……。
まさか――こんなタイミングで?
対向車は大型のトラックだ!
すると意に反して、まるで魅せられたかのようにハンドルが右へ右へと切れていき、おれたちを乗せたタクシーは、巨大なトラックが放つヘッドライトの前方へ、追い詰められた野良猫のように、まっしぐらに飛び出していった。
真っ白な光に包まれて、おれは意識を失った。
気がつくと、おれはハンドルにつっぷしていた。
生きているのか?
あのトラックは……どうなったんだ?
ここは、一体どこだ?
「どうかしたの、運転手さん?」
さりげなく女の声がしたので、おれは反射的に応答した。
「あ、すみません。すぐに車を動かしますから……」
おれは再び車を走らせた。
なぜだ? たしか、トラックの前に飛び出していったはずなのに、こうして無事に生きている。そして、あの女も……、生きているというのか?
はっとして、バックミラーを覗きこんだが、後部座席に女の姿はなかった。
どこだ……?
「どうしたのよ、運転手さん?」
また、女の声だ。それも、隣から……?
女は助手席にいた。そして、ハンドルを握る袖口からはみ出たおれの手首を、ほっそりとした指でそっと撫でてきた。
柔らかで甘美な感触が神経から脳へと突きぬけて、一瞬おれは性的な興奮をおぼえる。
冷静さを欠いたままでは運転を続けるわけにもいくまい。おれは、女の手を振りほどこうとした。
「ははっ、お客さん、危ないからそんな悪戯はやめてください」
ところが女の力が異常だった。振り払うどころか、逆に押さえつけられてハンドルが動かせなくなり、タクシーは再び制御不能に陥った。
その時、女の身体が小刻みに震えていたのをおれは憶えている。
「うふふっ。こんどはね、私のこの素手で、運転手さんの恐怖を直に感じてみたいのよ。いきなり殺しちゃあ勿体ないものね……」
はじめて女はずっとおろしていた前髪を掻き上げた。
見覚えのあるあの愛らしい吊り目が、この上なく嬉しそうにおれの顔をじっと見つめている。
汗ばんだ白手袋の中で九つの指が必死になってハンドルを握りしめていた。これから間もなく訪れるであろう死の恐怖に、おれはただがたがたと震えるしか手だてがなかった。
この作品は、元は、『タクシードライバー』というタイトルで公開しておりましたが、このたび、『9が憑いたいくつかのお話』シリーズに入れるために、一部の内容を書き直しました。
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