ブックリスト登録機能を使うには ログインユーザー登録が必要です。
異世界にたどりついた利菜は、イニシエの森で儀式を行っていた少年たちに出会う。
ナバホ族
第九章 ナバホ族

 一九九五年 ――おまもりさまにて

    十三

 子供たちは何かに追い立てられるような急ぎ足だった。目に映るのは真っ白な霧だけだ。一刻も早く林を抜けるよう、つんのめりながら歩く。枝葉に頬を引っかかれ、下草や死体に足をとられた。帰り道をたどれているのか、全くわからない。
 ときおり、寛太のつけた×印にでくわした。夜のような闇が、だんだん明るくなる。霧が晴れてきた。達郎が頬をなでる風に気がついたとき、みんなの目に入り口である蔓網が見えた。利菜がいないことに気づいたのは、やっぱり杉浦佳代子だった。
「利菜は?」
 達郎が振り向く。後ろにくっついていたはずの利菜が、姿を消していた。
「はぐれたのか?」
 寛太は、利菜いないのか? と途方にくれて繰り返す。
「そんな……」佳代子は呆然と胸に手を当てた。「あたしたちあの子置いてきちゃったの? あの子忘れてきちゃったの?」
 達郎はみんなに急いで手をつながせた。彼らは一人足りない環になった。あの力は残っている。でも、かすかだ。利菜のことが感じられない。
 みんなは意識の触手をのばし、森のあちこちをさぐったが、利菜の気配はどこにもなかった。
 達郎は呆然と森をかえりみる。「大変だ、利菜をとられた……」
 彼らは来た道をあわてて引き返す。霧は潮が引くみたいに、あっという間になくなった。死体もない。そこはもうおまもりさまではなかった。あの不可思議なジャングルは消えた。ふだんの雑木林に戻っていたのだ。
 利菜を探してうろつきまわる間も、あせりはひどくなる一方だった。彼らはかなりの距離を引き返した。大声で利菜を呼んだが、声はうつろに響くばかりで、返事はない。達郎たちはこの雑木林に、利菜がいないことを確信した。おまもりさまに残してきたのだ。
「だめだ、戻れない!」
 寛太が絶望したように叫んだ。彼は懐中電灯をつけたままだ。達郎はそれに気づいて自分のデンチの明かりを消した。寛太もまねした。
 真っ暗だったはずの林は、八月の明かりを取り戻していた。熱気がどっと襲いかかり、五人は汗だくになっている。
「利菜をとったから、元に戻ったんだ。あいつら、あたしたちに、あの子を返さない気だよ」
 佳代子は半べそでヒステリーを起こしかけている。紗英が腕をとろうとしたが、彼女はその手を振り払い、みんなから離れてしまった。佳代子は自分が利菜を見捨てたみたいな気になった。そのことを思い、彼女は泣いた。
 達郎は迷った、佳代子を見た。利菜を残して林を出るなんて、納得しないに違いない。でも助けがほしい、大人の助けがいる。自分たちは、もうふつうの子供に戻っている。その証拠に、幻覚すら見なくなっている。
 達郎は、いまさらながら気がついた。自分たちが信じたから、幻覚は現実化していった。そんな気がした。でも、もう信じるもくそもない。ヘトヘトで、わずかな意志力さえなくなっていたのだ。
 おまもりさまの外には大人がいる。あのときは様子がおかしかったけど、でも今なら……
「みんな外に出よう」
「利菜はどうするのよ!」
「おれたちじゃみつからない、見つけられないんだ。捜索隊を呼ぶしかないだろ」
「達郎ちゃんまちがってるよ……」と佳代子は言った。「あたしたちにみつけられないんなら、大人にだって見つけられっこない。だって利菜はおまもりさまにいるんだよ、ここにはいないの。それがわからない!」
 達郎はぐっと黙った。自分が正しいのか、佳代子が正しいのか、もうわからなくなった。

    十四

 その頃、寛太と新治は、利菜を捜して、やみくもに歩き回っていた。暑さと湿気が、二人の小学生の体力を奪う。死体がなくなったとはいえ、ここがおまもりさまなのにはちがいないのだ。どこかにあのジャングルに通じる通路があるはずだ。自分たちには、その通路が見つけられると思った。
 彼らは斜面をのぼった。目の前に蔓網が見えた。奥を目指していたはずなのに、いつのまにか引き返してしまったらしい。
「寛ちゃん、見てよ」
 新治が指差した。蔓網の前に、誰かが倒れている。新治は、利菜だ、と駆け寄りかけたが、すぐに足をゆるめた。駆け足が早足になり――やがて歩いて彼は立ち止まる。
 利菜じゃない、あれは死体だ。
 ぶんぶんというハエの羽音がする。それにものすごい悪臭だ。
 その人が着ている服には、見覚えがあった。
「国村さんだ……」
 と新治は言った。

    十五

「おい、大変だ、みんな来てくれよ!」
 言い争いをする達郎と佳代子の耳に(達郎はもうおまもりさまに戻るのは無理だと考えていて、一方佳代子は必ず戻れるはずだと信じていた)、寛太の声が届いてきた。
 彼らは恐る恐る国村の側によった。
 最後の五メートルを残して立ち止まった。おまもりさまでは死体に手をふれた寛太も、今度は無理だった。国村の遺体は、真夏の陽気で完全に腐りきっている。ぶんぶんという羽音が高く響く。人間の体が、こんな悪臭を放つなんて、信じられなかった。
 こいつらは国村さんを巣箱にしてるんだ、と思うと、新治は吐き気がした。国村の体の中では、蛆虫がうごめいている。
 あれはもう国村さんじゃない。紗英は泣きながら、達郎の背中に隠れる。佳代子が腕をつかんだ。
「早くしないと、利菜もあんなになるよ」
 達郎は答えることができない。国村から目が離せない。
 新治が言った。「国村さんはあのとき死んでたんだ。国村さんもつかまったんだよ」
 達郎は佳代子を見た。「このことを伝えないと。警察に知らせないと……」
「いやよ!」佳代子が怒鳴り、その声がみんなの体をびりびりと震わせた。「利菜はいるんだよ! ここにいるんだよ! 利菜を置いてけない!」
「でも、俺たちじゃ、もう無理だ!」
「手をつないでよ」と佳代子は言った。「手をつないでよ、おまもりさまに戻るんだから!」
 達郎はしぶしぶその手を握った。みんなもそうした。
 彼らは目を閉じて、利菜を念じた。何も感じられなかった。五分ばかりも、冷や汗をかいていたろうか? 誰もが疲れきって、意識の集中も難しかった。脳みそが疲労物質でうずくまっている。この日感じた力は、軒並み喪失していた。利菜は感じられない。
「どうしたらいいの……?」
 と佳代子は言った。その声は、ぞっとする喪失感に震えていた。
 達郎は妥協案を出した。彼は寛太と新治に言った。
「二人とも草原を降りて、利菜の親父さんを呼んできてくれよ。そんで佳代子のおばさんには、警察を呼んでもらうんだ。利菜がいなくなったって、国村さんの死体を見つけたって、ちゃんと言うんだぞ。あたごまで行って、捜索隊を派遣してもらえ。俺たちも一緒なら、利菜を見つけられるかもしれない」
 寛太と新治は大人しくうなずいた。達郎の真剣な眼差しが突き刺さるみたいだ。彼だって、利菜を救うために、必死だったのだ。

    十六

 林を出た二人は、ひまわりが消えているのを見た。アスレチックは大岩に喰らいつき壊れたままだったが、あれだって他の人には見えないのかもしれない。寛太と新治は、腕を上げて服の臭いをクンクンと嗅いだ。国村の臭いが、あまりにも強烈だったためだ。
 二人は駐車場を目指して走った。草原を駆け上がってくる俊郎と登美子が見えた。
「おじさん!」
 寛太が呼びかけると、敏郎が顔を上げた。
「寛太」
 とおじさんは呼び捨てにした、ふだんは竹村君というのに。きっと必死だったからだろう。それで寛太にも敏郎が元に戻っていることがわかった。
「大変なんだ、利菜が林で迷ったんだよ」
 おじさんに空白が訪れた。これまでの彼とは違って、実に人間らしい表情だった。俊郎は娘がいなくなったと聞いて、茫然自失となったのだ。
「あんたたち、なんであんなところに行ったの」
 登美子が二人をなじったが、誰も聞いている暇がない。
「俺たち国村さんの死体も見つけたんだよ」
 俊郎の目に意識の光が戻った。
「国村って、あの国村さんか? あの人が死んだのか?」
 子供たちがうなずくと、敏郎は林に向かって走り始めた。新治が続いた。登美子も後につづこうとしたが、寛太が体を張って止めた。彼はラグビーをするみたいに登美子の腰に組み付いた。
「おばさん、人を呼んでくれよ、大勢呼んでくれよ」
「竹村君? 佳代子はあの中にいるんでしょ? 林にいるの?」
 登美子は寛太の腕をとって言った。毛穴が開くような、鬼気迫る表情だった。
「だけど、国村さんが死んでるんだ」
「何であんなところに……」
 登美子は言った。わたしは何でこんな所に……? という言葉も続いているようだった。
 おまもりさまに背を向けると、車に向かって歩き出す。寛太は、二人とも目が覚めたら(といっても、眠っていたわけではなかったのだが)両神山にいたんだから、驚いたんだろうな、と考えた。彼は振り返ると、すぐに戻ってくるから待ってろよ、と念じた。みんながその思いを感じとってくれることを願った。
 それから、登美子の後をおって草原を降りていった。
 子供たちはその後も、利菜の姿を捜し求めたが、見つかることはなかった。
 実のところ、彼女は、この世界にすらいなかったのである。

 ジノビリ暦三年 ――イニシエの森にて

    十七

 樹齢は千年を越し、樹高は百メートルを越えている。家一軒が入るほどの樹幹があった。そんな大木が、天をつくように立ち並んでいる。
 木々の隙間を、二メートルはありそうな巨大な鳥が滑空していく。恐竜好きの佳代子が見たら、プテラノドンだと言って喜んだろう。大地は苔むし、おまもりさまの景色に少し似ていた。イニシエの森と呼ばれる、大陸の三分の一を占める、広大な森だ。
 毛むくじゃらの生き物が、倒木の隙間にうごめいている。その目は人間のような知性を感じさせるうえに、二本足で歩いていた。イニシエサマと呼ばれる、猿に似た真っ黒な生き物、鹿に似たクルエツボ……じつに多彩な動物が集まっていたが、彼らが見守っているのは四人のサイポッツの少年だった。
 そのうちの二人は、青年といっていい年齢だ。一人は中肉中背で、ビスコといった。筋肉質で、精悍な顔をしている。もう一人はノーマといって、とても痩せて長身だった。二人の少年のうちの一人は、ペックと呼ばれていた。とても太っている。この三人が貴族で、ヒッピという少年だけが、平民だ。
 サイポッツたちは、イニシエの森の生き物に気がついていない。動物たちは気配を殺し、四人の行状を見守っていた。だが、子供たちの様子がおかしくなると、彼らは隠れるのをやめ、身を乗り出した。

 四人は、大鏡と向かい合っていた。二メートルばかりもある、楕円形の鏡である。銀の装飾を施された鏡は、ぽっかりと開いた空き地に、石台とともにあった。彼らは死んだと思われている、ハッツ王を呼び出そうとしている。
 二人の青年と二人の少年は、恐怖に息をつめていた。上空でいくつもの鳥が、ぎゃあぎゃあと泣き喚いていた。
 大鏡に向かっている少年――ヒッピはひときわ小柄だったが、その目には強い好奇心と、人知られぬ意志の輝きを感じさせた。明るいブルーの瞳が、今は恐怖に見開かれている。彼は大鏡に向かって手を伸ばしている。指は鏡にふれている。その冷たさに脳がしびれあがるが、離すことができなかった。強力な粘着剤でぴったりとくっつけられたかのようだ。
 大鏡からはどす黒い煙とともに、突風が吹きつける。ヒッピは風にあおられて、背筋を大きくそらし、呼吸も満足にできなかった。口の中まで風が吹き荒れ、叫ぶこともできない。
「ヒッピ、もう手を離せ!」
 ペックが言った。ヒッピは何か答えようとしたが、首がぴくりとも動かない、視線すらも鏡の向こうに吸われていく。突風で瞳が乾き、こぼれた涙も吹き飛ばされる。
 誰かいる……とヒッピは考える。くぐもった鏡の向こうで、何かが蠢いている。小柄な人影だ。ひどく慌てているみたいだ。その子が手を伸ばしてくる。ヒッピは逃れようと体をよじったが、鏡の吸引力はますます強くなる。その子の指が、彼の指と重なり合う。そのとたん、右膝と腕に鋭い痛みが走った。関節が軋みを上げ、ヒッピは顔をしかめる。肋に走る痛みに、ヒッピは喘ぐ。
 相手が何かを言った。
 ヒッピは、その女の子の意識や感情が、自分に向かって流れこんでくるのを感じた(女の子、女の子だ!)。その子は友達と離れて独りぼっちになっている、何かに追われていたこともわかった。その子の恐怖を感じ、ヒッピはついに悲鳴を上げた。仲間が彼の体に手をかけ、大鏡から引き離そうとした。
「利菜だ!」
 ヒッピが叫ぶと、ノーマとビスコは、驚愕の表情を見合わせる。
 ヒッピの手が大鏡から離れかけた瞬間、鏡の向こうから、にゅっと指が突き出てくるのが見えた(ヒッピの指とは、ぴったりくっついたままだった)。次に、頭が大鏡を通り抜けた。
 三人は仰天しながらも、ヒッピの体を引きつづける。女の子だった。髪がぺったりと頭に貼りついているが、それは血まみれのせいだった。ペックは悲鳴を上げながら、ヒッピの体を引き続けた。肩が出た。腰も通った。四人は石畳の上に倒れこむ。最後に、足が鏡を通り抜けた。その血みどろの女の子は、どさりと地面に崩れ落ちた。
 彼らは呆然とその子を見下ろした。
 女の子は、ヒッピの足元にうずくまっている。背の高いノーマが、ゆったりとした足取りで女の子の脇にまわった。一瞬だけ、大鏡を見上げた。
 鏡面は真っ黒な渦を巻いている。今はなにも映していない。
 彼は少女の肩をゆすった。生乾きの血がべったりと手のひらにつき、ノーマは顔をしかめた。
「死んでいるのか?」
 とビスコが訊いた。二人はひどく仲が悪い。ノーマはじろりとビスコを睨みつけただけで、何も言わなかった。
「大鏡から出てきたぞ。ハッツ王を呼び出すはずだろう」
「この儀式は本物だったんですよ」ペックが、親友のヒッピを、助けるように抱える。「古臭くて、試した者もなくて、少なくとも僕らはやった人間を知らないけど、本物だったんだ」
「ならば、なぜ国王が出てこなかったんだ!」
「こういうことではないですか? ……ぼくらはハッツ王の霊魂を呼び出すつもりだった。でも、ハッツ王は死んでいなかった」
「この子はなんだ? 国王の代わりに出てきたとでも言うのか?」とビスコは言った。「死人なのか?」
 霊魂にはとても見えん……と彼はつぶやいた。
 ヒッピは、さきほどその女の子と意識を共有した。だから、彼女が死んでいないことを知っている。血まみれで、ぼろぼろ、呼吸もしていないように見えるが、ちゃんと生きていると彼は思った。
「あなたはこんな儀式、信じていなかったのではないのですか?」
 ヒッピはペックに助け起こされながら、ひどくしゃがれた声で言った。ビスコは少年を睨みつけた。
「いったい誰なんです?」ペックが言った。「僕らとおなじサイポッツですか?」
 ビスコが蔑むように言った。「黒髪のサイポッツなどいない。きっと別種族だろう……」
 ノーマはうなずいた。ビスコはいけすかない差別主義者だが、頭のつくりは合理的だ。
「死んでるんですか?」
 ペックが訊いた。ノーマが答えようとしたが、その前に、女の子はうめき声をもらした。四人が見守る中で、その子はゆっくりと身を起こした。

    十八

 うめき声がもれる……。
 骨がひしゃげ、肉の裂ける痛みがあった。
 意識がまたはっきりとした。彼女は自分が唾を垂らしているのを知っている。おまもりさまに来たことも、お堂で銅の鏡に吸いこまれたことも覚えている。だが、なぜ、そんなことになったのかがわからなかった。
 利菜は坪井の家で見た、黒い渦を思い出した。あのときはあの穴から登美子が出てきた。自分はあの向こう側に来たんだと思った。
 なんとか起き上がろうとするが、視界がかすんでひどく気分が悪かった。喘息にかかったみたいに、息がうまく吸えない。顔を上げることもできなかった。
 大鏡を抜ける瞬間、彼女は誰かと意識を共有した(少年……相手は少年だった)。佳代子や紗英たちと手をつないだときより、ずっと強くその少年と絆を持った。
 吐きそうになり、利菜はゆっくりと体を仰向けにする。わずかだが、吐き気が遠のいた。
 ぼやけた視界を、三つの顔がのぞきこんでいた。利菜はなめ太郎に捕まったんだと思った。なめ太郎と、溺死女と、坪井善三に。それとも、また別の殺人現場に居合わせているんだろうか。利菜は銃剣をもった兵隊を思い出した。今度はこの三人に殺されるんだ……。
 焦点があった。その三人はまだ少年といっていい年で(とくにその中の一人)、外国人だった。三人ともみごとな金髪をしている。
 利菜は青い目玉をのぞきこむ。そこには気遣わしげな色さえあった。
 だんだん知覚がはっきりする。彼女は三人の顔を越して、森の景色を眺め渡した。雲をつくような巨大な木々だ。ここは少なくともおまもりさまではない。あの森の、草木一本までもが発していた邪悪な妖気を、ここでは感じない。
 利菜は、不思議と、とある映画のワンシーンを思い浮かべた。虚無におかされた太古の森に、どこかしら似ていた。
 利菜はこの三人もわるいものの見せる幻覚かと思った。でも、彼女は、あの少年と、まだ意識を共有している。その少年の目が、自分の視覚と重なり、利菜は血みどろの自分の姿を目にする。裂けたシャツが体に貼りつき、幼い胸のふくらみがわかる。血に濡れそぼった髪のせいで、できそこないの溺死女みたいに見えた。
 胃袋の中身が喉を突き上げ、利菜はまたその場に突っ伏した。硬い岩の地面に頭部が落ちて、その痛みがまた彼女の意識をまたいっそうとはっきりさせる。利菜は佳代子たちとやったときのように、なんとか意識を遮断しようとした。五感と重なりあっていた少年が少し遠のき、利菜はどうにか落ち着きを取り戻した。それでも少年の感情や考えを読み取ることができた。
 こいつわるいものなんかじゃない、と利菜は思う。幻覚ではないんだと。なぜかそのことが怖かった。自分の中にいた少年の名はヒッピだ。涙がこみ上げる。ヒッピのことは感じられる。でも、佳代子たちのことは、どこにも感じないのだ。
「ここはどこ?」
 彼女は口を片手で覆うようにする。
「君こそ、誰だ?」
 と青年の一人が言った。名前はビスコだ。利菜はその青年を知っていることが恐ろしかった。佳代子や紗英のことを知っているみたいに、その青年のことを知っている。おまけにビスコが、まったく知らない異国の言葉をしゃべっているのに(少なくとも日本語ではまったくなかった)、自分はちゃんと理解してもいた。
 疲労から震えが起きる唇を、ぞろりと舐めた。ビスコが貴族で、ヒッピを嫌っているのは、平民だからだ。ビスコは平民を見下し、それでヒッピは彼のことを快く思っていない。まるで、自分が嫌われているみたいな、ひどい扱いを受けたみたいな気になった。記憶を共有しているせいだ。まるで失った記憶を、取り戻したような感覚だ。
 のっぽの青年はノーマで、どうやらこの人はいい人らしい。ヒッピは嫌ってはいない(もちろんヒッピが弟のような扱いを受けているからといって、自分が妹のような扱いを受けるとは限らない。そんな考えは危険だ)。
 利菜は重い頭を持ち上げた。三人とは離れたところでうずくまっているヒッピを見る。彼は腰を抜かすほどに驚いている。見開いた瞳の奥に自分がいるような気がして、また岩に頭を預けた。ヒッピから流れこんだ情報は、全体から見ればごく一部だった。それでも整理ができずに、めまいが起こる。百科事典を、むりやり頭につめこまれた感じだ。その逆もおこったんだと思うと、彼女は逆上した。
「あんたたちが、あたしを呼び出したのね」
 しゃべりながら、利菜は自分が彼らの言葉を口にしていることに気づき困惑した。彼らも当惑している。「あんたたちのせいじゃない。元いたとこに戻してよ!」
「僕らはハッツ王を呼び出そうとしたんだ!」とペックが言った。
「あたしはそのハッツなんかじゃない!」
 ビスコが冷笑した。「そんなことはわかっている」
「なにがおかしいのよ、この身分差別のサディスト野郎」
 ビスコは最初面くらい、次に真っ赤になって怒りをあらわした。
「貴様はいったい何者だ。なぜサイポッツの言葉をしゃべってる? この血はなんだっ?」
 利菜はビスコに腕をとられて顔をしかめた。腕の傷に、指がふれたのだ。
 同時に、ヒッピも驚きの声を上げた。彼も腕を押さえている。
「怪我をしてるのか?」
 ビスコが手を離す。ノーマが彼女に近づいた。その青年がものすごい男前だったので、彼女はちょっとどぎまぎした。ヒッピのせいで、つい心を許してしまいそうになる。気をつけなくちゃいけないはずなのに、この三人が仲間みたいな、そんな気になってくる。
 ノーマが言った。「元いた場所とはどういうことだ? いや、大鏡から出てきたことは知っている。だが、我々が呼び出そうとしたのは、死人だ」
「わたしは死んでない……」と彼女は確信をもてずに言った。「ここって、外国? あんたたちこそ死人じゃないよね」
 三人は、困惑の表情をかわしている。
 うずくまったままのヒッピ、
「君はまったく別の森にいたんだ。この子は、サイポッツじゃない」
 やっぱりあいつもあたしのことがわかってるんだ。利菜は怒りに唇をかみしめた。知らないやつに、自分のことを残らず知られるのは嫌な気分だった。
「僕だっておんなじだ」とヒッピが言い返した。こっちの考えを読み取ったものらしい。彼は立ち上がった。
「この子は友達と一緒にいたんですよ。恐ろしい目にあったんだ」ヒッピは一瞬記憶をたどるようなそぶりを見せた。「だから、血まみれなのか?」
 利菜がうなずいた。ヒッピは大鏡を通して、おまもりさまで利菜の身に起こったことを、まさしく体を通して体験した。彼は見知らぬ子供たちの苦悩を知り、身震いをする。だけど、それは三人の仲間の与り知らぬところだ。
 ペックが、「なんでこの子のことを知ってるんだ?」と訊いた。
 ヒッピは唇を舐めた。説明するのは難しかった。彼は懸命に言葉を選んだ。
 利菜には彼の頭をぐるぐるまわっている言葉が目に見えるようだった。
「僕らは大鏡をはさんで手をくっつけあった。そのとき、その子が僕の中に入ってきたんだ」
「何を言ってるんだ?」とビスコは眉を寄せる。
「この子の感情とか、痛みが入ってきたんです、記憶も。まるでこの子になったみたいな感じだった。名前はリナだ。友達の名前もわかる」彼は腕を押さえる。「さっきビスコがさわったとき、僕も腕が痛んだんです。傷はないのに、今も腕が痛い。この子の考えが読めるような気がする……」
 ヒッピが利菜に腕を伸ばし、目をのぞきこんできた。
「やめてよ」
 と視線をそらす。彼女はヒッピのことが怖くなる。こんな目にあっているのに、氷みたいに冷静なやつだ。利菜は佳代子たちと意識の共有を体験しているが、ヒッピは初めてのはずだ。それに、彼を見ていると、心の奥まで読み取れそうな気がするのだ。
 おまもりさまにいたときより、ずっと力が強くなっている。それにすごく眠たかった。脳の疲労が顔全体に降りて、皮膚がごわごわする。いますぐに眠りこけてしまいたかった。ここが自宅のマンションなら、どんなにかよかったのに。
 それよりも、佳代子たちはどこにいったんだろう? あの子たちがぜんぜん感じとれない……。
「この子は向こうの世界でも、友達とこんなふうにつながり合ってたんだ。心を一つにしていた」
「おい」
 ビスコが怖い顔をして、ヒッピの肩をつかんだ。利菜は自分の肩もつかまれた感触がして(もちろんそれはヒッピが感じているものよりずっと薄らかなものだったが)、右肩に目を落とした。
「お前は今、向こうの世界と言ったな。向こうの世界と……」
 それはヒッピに対するというより、自問に近いものだった。利菜は唾を呑んだ。心が冷たくなった。
 利菜だって、心のどこかではその可能性を考えた。でも、取り上げたくはなかったのだ。
「そうとしか言いようがないんです」
 ヒッピがビスコの腕を振り払った。
 ノーマが言った。「いつもの幻覚ではないのか?」
 利菜は驚いて彼を見た。
「幻覚を見てるの?」
 彼女の目は、いつもの二倍ぐらいに見開かれる。驚きで心臓の鼓動が早くなる。胸が痛かった。脳だけではなく、心肺機能もいかれている。脳に酸素を送るために、無理な呼吸をしてきたからだ。いますぐに眠りこけるかして、少しでも疲れをとらないとやばいと彼女は直覚する。だけど、この四人に訊くことがある。
「幻覚を見てるの? 夢はどうなのよ? 無意識に行動したり……自分で考えてることが、現実に起こったりする?」
「なにをいってるんだ……」
 ビスコは否定しようとしたが、その声は弱弱しかった。だけど、ヒッピの目は、彼女の質問を肯定していた。肯定しているのが、感じられる。
「あんたたちもなの?」と彼女はまた訊いた。
「それはどういう意味だ……」とノーマが言った。
 利菜は癇癪を起こした。胸に手を当てた。「あたしにもなのよ。あたしにも、この子の考えやいろんな記憶が流れこんできた。全部じゃないけど。だからあんたたちのことがわかるの! あんたたちは……すごくやばいことになってる。まわりで人が死んでるんでしょ? 詳しいことはわかんない……でも、追い詰められたから、ここに来たんじゃないの? ここで儀式をしたんだ。ちがう?」
 四人は彼女の強い視線に、顔をそむける。
 頭のアンテナがどんどんふくれあがっていく。ここはおまもりさまじゃない。もうどんなにアンテナを伸ばしても、友達のことも父さんのことも、神保町のことも感じとれない。自分はすごく遠い所にきた。もしかしたら、ヒッピの言うとおり、ほんとに別の世界にやってきたのかもしれない。
 利菜は言った。「手を出しなさいよ」と手を差し出す。ヒッピは後じさった。
 とまどうヒッピに歩み寄ると、その手を握った。利菜はヒッピに向けての記憶を流しこんでやった。自分たちがこの夏に経験したこと、わるいもののこと、友達との間に起こったこと、おまもりさまでの出来事を。何でこんなことができるのかはわからなかった。でも、できることを知っていたのだ。
 ヒッピが痙攣を起こし、唾をたらした。彼はうめきを上げている。
 ビスコが利菜を殴りつけた。
「やめろ!」
 ノーマがビスコを突き飛ばした。ペックが利菜を助けおこした。彼女の口の端から血が流れるのを見て、ペックは言った。
「ひどいじゃないですか」
「俺は、こんなことのために、危険な森に来たんじゃない」ビスコは憎悪のまなざしで身を起こす。「貴様ら、よく考えてみろ、大鏡から出てきた、血みどろの子供だぞ!」
「出てきたくて来たんじゃない!」
 利菜は口の中を切ったようだ。ぺっと唾を吐くと、赤いものが地面に落ちた。
「ヒッピ、大丈夫か?」
 ビスコが言った。ヒッピは両手をついて頭を振っている。利菜は、この子のほっぺたにもおんなじ痛みが走ったんだ、と思った。
 ヒッピが唾を吐くと、やはり赤いものが混じっていた。みんなは、ぞっとその光景をみた。ヒッピはその唾を見ながら、
「君の世界もおんなじなのか? 犯罪が増えてるんだな?」
 利菜はうなずいた。
「親や周りの人間がおかしくなってるんだ、そうだな?」
 またうなずく。
「どういうことだ?」ノーマが訊いた。
「この子が僕に見せてくれたんだ。なんだかわかってきたぞ」
 利菜にもわかった。同じことが、別々の世界で起こっているのだ。だけど、状況はこの世界のほうがずっと悪いようだ。ヒッピたちは、いろんな国と戦争をしている。禁制だらけで、自由に物を言えない状態だ。
 それにこの四人の、憔悴しきった表情。この顔は達郎たちとおんなじだ。幻覚や、頭のなかの空想が現実になることで、追い詰められていった者の表情。
 利菜は頭を抱えこんだ。割れるように痛かった。立っているのもやっとだ。利菜の中にはまだヒッピがいたから、この四人が幻覚を見ていたことも、素直に信じられた。おさそいのことを、悪いものと呼んでいたかどうかは別として、おなじ体験をしているのが感じられたのだ。
 足元がふらつきだす。
 ヒッピが利菜に変わって言った。
「この子たちも幻覚や幻聴を聞いていたんです。まわりの人間がおかしくなってることまでおんなじだ」
「そんな馬鹿な、そんな馬鹿げた話が信じられるか?」
「でも、現実としてこの子はいるでしょう?」
 ビスコとヒッピが言い争いをはじめた。
 ヒッピから受け取った知識だけを点検してみても、この四人が大変な目にあってここまで来たのだということはうかがい知ることができた。ここは、サイポッツの国からは遠く離れている。この森は、おまもりさまのような、町の近辺にあるキャンプスポットではなくて、富士の樹海のように危険なところなのだ。
 ついに、肩膝をついた。ペックとノーマが支えた。利菜はそのとき、二人の着ているのが、豪奢な生地でできた神官衣であることを知った。本気で死者を呼び出そうと考えていたのかどうかはわからないが、行為を行ったことだけはわかる。そのおかげで、自分はあのお堂を抜け出すことができたのだ。
 それが、よかったのかどうかはわからなかった。だけど、ここは少なくとも、おまもりさまほど危険じゃない。
 ノーマが森の奥を透かし見ている。利菜も空気の異変を感じ取った。不自然な静寂があった。その静寂を切り裂く音がした。
「くそ」
 とノーマは言った。森の木々の影には、巨大な獣が群れをなしていた。利菜は熊かと思った。でも、熊にしては動きが変だ。
 完全な二足歩行をしているように見える。
「お前らやめろ。ナバホ族だ!」
 巨大な槍がうなりをあげて飛来し、ビスコの足元に突き刺さった。太鼓やシンバルの音が森に響き、戦いを告げる鬨の声が上がる。
 木々の合間から、毛むくじゃらの男たちが躍り出てきた。
第六巻に続く……
評価
ポイントを選んで「評価する」ボタンを押してください。

▼この作品の書き方はどうでしたか?(文法・文章評価)
1pt 2pt 3pt 4pt 5pt
▼物語(ストーリー)はどうでしたか?満足しましたか?(ストーリー評価)
1pt 2pt 3pt 4pt 5pt
  ※評価するにはログインしてください。
ついったーで読了宣言!
ついったー
― 感想を書く ―
⇒感想一覧を見る
※感想を書く場合はログインしてください。
▼良い点
▼悪い点
▼一言

1項目の入力から送信できます。
感想を書く場合の注意事項を必ずお読みください。


+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。