頭に刺さってるミケ猫PDFで表示縦書き表示RDF


頭に刺さってるミケ猫
作:猫舌ソーセージ


三階建ての古びた一棟のマンション。そのマンションを取り囲む様にしてカメラやマイクを手にした多くの報道マンが待機していた。空からはちらちらと雪が降り始め、寒さに震えながらも報道マン達はある一人の少女が出てくるのを待った。暫くするとそのマンションの出入り口が開く。そして中からは――。
「出てきました、彼女がCBA患者です。本当に頭に猫が刺さっています!!」
 報道陣から発せられるカメラのフラッシュに眩しそうに目を瞑りながら出てきた少女。少女はブランド色の綺麗な長い髪に、両手には全長80cm程の巨大なクマのぬいぐるみが抱き締められている。とても可愛らしい少女だ。だが、少女には人とは違う異質な部分があった。少女の頭には額から後頭部にかけて、まるで貫通しているかの様に頭と同化している猫がいた。その姿はあまりにも奇抜であり、報道陣もお茶の間の人々も頭に猫が刺さっている少女を気味悪く感じたのと同時に興味が沸いた。
「何か一言! 一言お願いします!」
 大量のマイクが少女の元へ集まる。するとそのマイクを掻き分ける様に少女の父と母がやって来た。
「やめてください! なんなんですかこれは!」
「ふざけるなっ! 人権侵害だぞ!」
 怒りに震える父と母。だが、報道陣はそんな両親の訴え等聞く耳も持たずマイクを下げる事はせず逆に、二人にもマイクを向けた。
「何故お二方のお嬢さんがCBAという病を持って誕生したんだと思いますか? 失礼ですが奥様は過去に猫に対してなんらかの性的行為を――」
 報道陣の一人がそんな人権を無視した質問をした刹那、妻を侮辱する言動に耐え切れずその報道陣を夫は殴っていた。殴られた報道マンは大きく後方に吹き飛び倒れた。一瞬辺りがしんと静まり返る。殴った後に夫はしまったと後悔したが、もう後の祭りであった。殴られた報道マンがゆっくりと立ち上がり、切れた口から流れる血を拭いながら叫んだ。
「皆さん見ましたか! 暴力です、私は暴力行為を受けました!」
 それを口切に報道陣が次々と責め立てる。妻は泣き崩れ夫は拳を強く握り締め、歯を噛み締め耐える事しか出来なかった。二人の苦渋の姿が次々と写真に収められていく。すると、今までただ怯えていただけの少女が両腕を大きく広げ、まるで父と母を守るかのように立ち塞がった。報道陣は標的を再び少女に移し、マイクを向けた。少女は強い瞳で報道陣を見据えながら言い放った。
「パパとママをいじめないで!」
 体を震わせながら、瞳に涙を溜めながら少女は立っていた。怖かっただろう、悲しかっただろう。だが、大切な人を守る為に少女は勇気を振り絞りそこに立っていた。報道マン達はお互いに視線を合わせ、カメラのフラッシュや質問等がぴたりと止んだ。さすがの報道陣にも罪悪感が芽生えたのだ。だが、一人だけ違った。それは少女の父に殴られた男であった。男はマイクを少女に向けたままに訊ねた。
「君がこんな酷い目に遭うのは、お母さんの所為なんだよ? 君のお母さんはきっと、猫と淫らな行為を――」
「貴様やめろっ!」
 少女の父が再び報道マンに掴みかかる。父は怒りで震えていた。報道マンはそんな父の姿を見て言った。
「また暴力を振るうつもりですか? 構いませんよ、その代わり訴えますからね。そうなればますますあの子の立場が悪くなるのではないですか?」
 報道マンの言葉に父は何も言い返す事が出来なかった。ギリギリと歯を噛み締めながらも報道マンから手を離した。
「ふん、親である貴方がそんなだから変な子が生まれるんですよ」
 ――ぱんっ!
 突然渇いた音が響いた。報道マンの頬に紅い手の平の形がじわりと現れる。
「いい加減にしてっ! 私達が何をしたっていうの? なんでこんな目に遭わなきゃいけないのっ! もう帰って、帰って下さい!」
 母が涙を目に溜め込みながら激しく訴えた。母の平手を食らった報道マンは、キッと睨むと言い返した。
「また暴力を振るいましたね。夫が夫なら妻も妻ですね! 裁判所に訴えさせて頂きます」
 報道マンはそう言い残すとその場を去った。他の報道マン達もあまりの悲惨な情景に耐えられず退散する事になった。母は少女に抱きつき泣き崩れた。また少女も大声で泣き出す。二人の姿を見て父は世間に対して激しい憤りを感じていた。
 
 それから数日後、若干七歳の少女が自宅マンションの屋上からフェンスを通って、あと一歩で地面へ落ちるという所で立っていた。辺りは暗く、空には満月が顔を現している。少女の頬を涙が伝う。満月を仰ぎながら少女は呟いた。
「もう、お父さんやお母さんに迷惑かけたくないもんね。私さえいなくなれば全て済むんだ。ねぇ神様、どうして私をこんな風にしてこの世に産み落としたのですか? 私には周囲の人達を不幸にする事しか出来ません。……生きている資格なんてないです」
 少女はゆっくりと瞳を閉じ、冷たい風が頬を撫でたのと同時に死への一歩を――踏み出した。落ちていく刹那、少女は激しい風の音に混じった声を訊いた。

 ――私のせいでごめんなさい

 それは額のミケ猫の声だと少女はすぐに理解した。


 翌日少女の死は世界中に知れ渡った。少女は即死しており、潰れた頭の中には一匹の小さなミケ猫が横たわっていたという。後に少女が残した遺書が大々的に新聞で取り上げられた。

 お母さん、お父さん。先立つ不幸をお許し下さい。
私はもうお母さんとお父さんに迷惑をかけたくありません。
そんなのは辛いです。本当にごめんなさい。そしてありがとう。
今度生まれ変わる時は普通の子に生まれたい。

 それは世界で一番深く悲しい遺書となった。

 皆さんは現代医学では到底解明の仕様がない一つの病気をご存知だろうか。
2005年、突如として誕生した不可解なる病気の持ち主。全世界はその病気の症状に震撼した。その病気の名は――。

 inherent cat brain assimilation a syndrome
(先天性猫脳同化症候群)。略称CBA。

 人間の頭部に猫が突き刺さっているかの様に見える、脳と同化してしまっている病である。原因は全くの不明。ただ一つ言える事は、CBA患者は決して長生きが出来ないという事だ。良くて一匹の猫の寿命と同じ年月だがほとんどは5,6年で死に到る。また精神的に耐えられなくなり自殺する者も少なくなかった。

 最初のCBA患者、まだ世界がなんの対応策も見出していなかった2005年。世間はCBA患者を奇異の目で見つめ、マスコミは患者の気持ちなど微塵も考えず公の場へと姿を晒させた。その結果、最初のCBA患者は自殺を図った。それは悲劇の結末であった。

 2006年、もう現れないだろうと思われたCBA患者が再び誕生した。世界は一人目の患者と同じ結果を生み出させない為に二人目の患者を社会から隔離する事にした。世界でも選りすぐりの医師達が二人目のCBA患者の研究に当たった。しかし――

 二人目のCBA患者が隔離されている寂れた石作りの棟、その棟はCBA患者が逃げ出さない様に厳重な警備が成されていた。棟の中でCBA患者である少年が部屋の隅で額の猫と会話をしていた。二人めのCBA患者である少年は一人目の患者とは違い、額の猫と仲が良かった。それは同年代の友達が全く出来ない環境であったが為なのかもしれない。
「ミィ、どうして僕はこんな所に閉じ込められなきゃいけないのかな」
「みぃー」
「そっか、わからないか」
 少年は地面に視線を移し溜息を吐いた。
「外に出たいな、お父さんとお母さんってどんな人なんだろう。会いたいよ」
 少年は物心つく前からこの研究棟に隔離されていた為、両親の顔を覚えてはいなかった。少年は自分の両親は優しくて強い人なんだろうな、と想像を膨らませる。しかし、実際は両親が少年の姿に恐怖を覚え、世間の目を気にして研究者達に自ら進んで引き渡した事を少年は知らない。
「食事だ」
 部屋に食事を運びに大人がやって来た。毎日三食、栄養等のバランスがしっかりと考えられた食事が運ばれる。しかしそれは少年の為ではなく、少しでも長生きをしてもらい、研究の時間を増やそうという研究者達の考えの元であった。少年は届けられた食事を見る。パンにポークソテー、そしてシチューがトレイに載せられている。少年はフォークとナイフを手に取り、ポークソテーを刻んでゆく。
「ねぇミィ、死んだらどうなるのかな。少なくとも此処からは抜け出せるよね?」
「みぃ……」
 ミィは悲しそうに鳴いた。少年はナイフを片手に洗面所へと向う。バケツにたっぷりと水を溜めると少年はミィに言った。
「ミィごめんね、もう僕は自由になりたいんだ」
 右手でナイフを握り締め左手首に押し当てる。ナイフを持つ右手に一滴の涙が落ちた。それを合図に少年は、その右手を思い切り引いた。切り裂かれた左手首から紅い血液がどくどくと流れ出る。その左手を水の溜まったバケツに突っ込むと、透明の水がどんどん血によって赤く染まる。
「今度生まれ変わる時は……自由になりたいよ……」 
 最期に一粒の涙を零し若干九歳の二人目のCBA患者は、この世を去った。再びCBA患者は悲痛なる結末を迎えてしまった。全世界は悩み考えた。もしまたCBA患者が現れた時、どんな対応をする事が最善であるかを。

 2007年、CBA患者保護法が成立。CBAの差別を禁じ、CBA患者を個人として尊重する。CBA患者に対しては、どんな暴力も禁じられ法を破った者には厳しい懲罰が与えられた。そして――。

 時は流れ2030年。全世界でCBA患者は十人に到る。世界で唯一戦争放棄を憲法で表明した平和な国、日本でも二人のCBA患者が確認されていた。


●猫舌ソーセージPRESENTS 「頭に刺さってるミケ猫」●

 「良いか裕太、母さんをお前が守ってやるんだぞ……」

  ある日
  パパとふたりで 語り合ったさ
  この世に生きる喜び
  そして 悲しみのことを
  グリーン グリーン
  青空には 小鳥が歌い
  グリーン グリーン
  丘の上には ララ 緑がもえる

 私立向日葵保育園、薔薇組の教室からグリーン・グリーンという歌が流れてきた。教室の中には多くの保育園児達が先生と一緒になって楽しげに歌っている。そんな保育園児達の中に一人、他の園児達とは明らかに違う違和感のある園児がいた。
「みゃー、みゃー」
 その園児の頭には、園児達と一緒になって楽しそうに鳴く一匹のミケ猫がいた。頭に猫がただ乗っているという訳ではなく、その園児の頭を貫通するようにミケ猫が存在していたのだ。この園児こそ日本で現在二人しか存在が確認されていないCBA患者の一人である。園児の額からミケ猫の小さな顔と前足が生えているかの如く突き出ており、後頭部からは尻尾と尻、うなじからは後ろ足が突き出ていた。園児の首には、ミケ猫の重さに耐えられるよう首を固定するギプスが付けられている。
「はーい、みんな上手に歌えたねー。それじゃーご飯にしましょうか」
 優しそうな二十代後半と思われる園児達の先生が手を叩き園児達に食事の準備を促す。園児達は「はーい」と元気良く返事をし、黄色い鞄からお弁当を取り出し広げる。
「あら、裕太君のお弁当おいしそうねー」
 頭にミケ猫が刺さっている裕太という名の園児の元へ先生が近寄りお弁当を覗き込む。玉子焼きにタコ型のウインナー、そぼろご飯に春巻きと……猫缶。
「しししっ! 僕の好物の春巻き一つあげるぞ」
「みゃー」
 裕太が箸で春巻きを一つ取り先生に差し出す。その春巻きを見て、ミケ猫が物欲しそうに鳴く。
「ミケには缶詰があるだろー。全く食い地が張ってるんだからなー」
 裕太とミケと名付けられたミケ猫のやり取りを先生はにこやかに見ていた。
「裕太くーん、ミケちゃんに私がご飯上げてもいいー?」
「あー私もー」
「俺も俺もー」
 園児達が裕太の周りに集まりだし、代わりばんこにミケにご飯を与えていく。ミケはおいしそうに差し出されたご飯にパクついた。

 現在CBA保護法という法律が存在してはいたが、現実には差別が消える事はなかった。だからこそ、裕太は周囲の境遇にとても恵まれていたと言えるだろう。心に闇というモノがほとんどない純粋な子が集まる保育園。先生は現状に安心していたが、先の事を考えると心が痛むのであった。

「みゃぁー」
 食事を終えるとミケの体がぷるぷると震え始めた。便意を催している合図である。裕太はバッグから携帯袋を取り出し腕を頭の後ろに回し袋をミケの尻にあてがう。頭にミケ猫。この状態は普通の人々よりも日常にて多くの障害があった。例えば服、頭から着る服は頭が通らず着る事は出来ない。例えば風呂、猫は体を洗われるのを嫌う為暴れる。その為なるべくミケにお湯がかからないように時間をかけて頭を洗わなければならない。そしてミケは濡れたタオルでふき取り綺麗にする。普段から頭の上にいる為、他の猫と違って汚れがそれ程無いのが幸いした。水を嫌う為、プールにも海にも入れない。また就寝中も気を付けなければならない。まず仰向けに眠る事は出来ない。ミケの体に負担をかけてしまうからだ。寝る時は必ず横向きにする。更に寝相にも気を付けなければならない。就寝中に体の向きを変えようとするとミケに負担がかかり当然暴れ出す。鋭い爪を突き出し裕太の額をひっかくのだ。おかげで裕太の額には数多くのひっかき傷の跡が残っている。他にも数多くの障害があり、CBA患者の意外な苦悩を綴った【CBA患者、日常の苦悩】というエッセ本は百万部の大ヒットを飛ばしていた。

 ミケの便の始末を終えると裕太は医師から毎日飲む様に言われている薬を取り出した。唯一現在CBAに対して多少は効果があるだろうと言われている薬である。CBA患者は世界にも圧倒的に数が少ない為、CBAに対する医学的な進歩はほとんど皆無の状態である。
裕太が薬を飲んだのを確認すると先生は「お昼寝の時間ですよー」と皆に毛布をかけるのだった。
「先生ー眠れませんー」
 一人の園児が言う。すると先生は優しい声で歌を唄い始めた。


  その時
  パパが言ったさ ぼくを胸に抱き
  つらく悲しい時にも ラララ 泣くんじゃないと
  グリーン グリーン
  青空には そよ風ふいて
  グリーン グリーン
  丘の上には ララ 緑がゆれる

 先生の優しい歌を聴きながら裕太は深いまどろみの中へと沈んでいった。

「いいか裕太? どんなに辛い事があっても泣くんじゃないぞ。お前は男の子なんだからな」
「うんっ、僕泣かないよ」
「よしっ、さすが俺の子だ。男同士の約束だぞ」
「うん、約束っ!」

 空もすっかり茜色に染まり、なんだか寂しさが漂う午後四時、園児達の母親達が迎えに来る時間。次々と訪れる母親達に連れて行かれ園児達が一人、また一人と帰っていく。先生は笑顔で手を振りながら園児達を見送っていった。そして――

「さっ、裕太君。何して遊ぼうか」
 一人残った裕太。裕太は教室の隅っこで一人積み木をして遊んでいた。「みゃー」となんだか悲しげにミケが鳴く。先生は裕太の目の前に腰を下ろすと一緒に積み木で遊んだ。
「いししし、桜先生は積み方がなってないぞ」
 不恰好に積み上げられた桜先生の積み木を見て裕太は笑う。裕太の積み木はまるで定規で幅を測ったかの如く綺麗に積み上げられていた。
「裕太君は上手ねー、先生にコツ教えてよ」
「おう、いいぞ」
 裕太は積み木を一から積み上げ、説明していった。
「これは構造的なアルゴリズム論を用いて、しっかりと計算して積み上げれば重力による負荷の限界に積み木が達するまで理論上は積み上げる事が可能なんだぞ。でも、色々と予測不可能な事態、例えば体感出来ない程の小さな振動や風の影響で負荷限界前に崩れてしまうと思うけどな、それに――」
「へ、へぇ」
 桜先生は相槌を打ったが、裕太の言っている事の半分も理解出来ていなかった。CBA患者は原因は全くの不明だが、全てが天才的な頭脳の持ち主であった。もしもCBA患者が短命でなければ人智を超え神にさえ成れると考える学者までいる。だが、だからこそ短命なのだろうと考える者も少なくはなかった。

 午後六時、すっかり空は茜色から暗闇に包まれた頃、一人の女性が保育園を訪れた。
「裕太っ」
 女性は積み木で遊ぶ裕太の背後から声を掛けた。その声に気付いた裕太の顔はパッと明るくなり走りながらその女性の元へと向う。裕太に続いて桜先生もその女性の元へ歩み寄る。裕太は幼稚園児らしい態度で女性に抱きつき甘えた。
「桜先生、いつも迎えが遅くなってすいません」
 深々とお辞儀をする女性、裕太の母である。ウェーブの掛かったロングの髪に優しい顔付きをした母は、仕事の為にいつも裕太を迎えに来るのが遅くなってしまうのだった。
「いえ、気にしないで下さい。私も裕太君と遊んでいるの楽しいですし」
「桜先生は僕に惚れてるんだもんな、いししし」
 屈託のない笑顔を見せる裕太。その裕太の頭を母はゲンコツで殴った。
「にゃーっ!!」
 ……が、咄嗟に裕太が避けた為、拳はミケの後頭部にヒットしたのだった。
「お母さんが動物虐待したーっ。いーけないんだいけないんだー、先生に言ってやろー」
 と言いつつも裕太とミケの神経は繋がっており、裕太にも痛みは伝わり痛そうに頭を撫でていた。
「あんたが避けるからでしょ! 全く桜先生をからかって! もう〜、ごめんねミケ」
 裕太に甲高い声で怒鳴りつけた後、母は申し訳なさそうにミケの頭を撫でる。ミケは自分の前足で後頭部を撫でていた。
「それに桜先生にも息子がご迷惑かけて、本当に毎日申し訳なく思っています」
「いえいえ、迷惑だなんて思ってませんから」
 桜先生は本当に一度も裕太の事を迷惑だなどと考えた事は無かった。むしろ守ってあげたいという気持ちが強く表れている。
「ありがとうございます。ほら、桜先生にさよならの挨拶しなさい」
 桜先生の言葉に再び母は深くお辞儀をすると、裕太に挨拶する様促す。
「それじゃー桜先生、また明日なー」
「はい、また明日」
 裕太は桜先生に大きく手を振りながら、母と共に去って行った。
裕太と裕太の母が見えなくなると桜先生は寂しそうな目をし、溜息を吐いた。教室に戻り部屋の後片付けを始める。裕太君がもっと毎日笑っていられる様に頑張らなきゃ。桜先生はそう決意するのだった。五分程すると教室の扉がガラガラと音を立て開き、向日葵保育園の園長先生が姿を見せた。
「桜先生、ちょっと宜しいですか?」
 初老を迎えた白髪の女性である園長は何やら神妙な面持ちであった。桜先生はそんな園長の様子に心配しつつも、園長に促されるままに園長室へと向った。

 園長室――広々とした清潔感ある空間に、壁には歴代の園長の写真がズラリと並んでいる。園長は自分の席へ座ると桜先生を手前のソファに座らせ、手を頬に当てながら困った風に話し始めた。
「実はですね……、何の因果かわかりませんが桜先生の薔薇組みに一人新しい子が入る事になりまして……」
 園長の声のトーンは低く、桜先生はそれが新しく入る子と関係があるのだろうかと考えた。園長先生は一度桜先生の瞳を見つめた後、「ふぅ」と溜息を吐き告げた。
「……その新しい子というのが、女の子なのですけれど……裕太君と同じなんですよ」
「え?」
 桜先生は思わず声を上げた。裕太と同じ、それはつまりCBA患者だということだ。日本にたった二人しか存在しないCBA患者。それがなんの運命か同じ保育園の生徒になる事となった。
「――という訳ですので、桜先生には大変申し訳ないのですが丁重に扱いの方お願いしますよ」
「はい、わかりました」
 桜先生に辛い重荷が更に圧し掛かる。だが、桜先生は持ち前の明るさと度量で二人のCBA患者を受け持つ事が可能だろうと園長は判断していた。


 一方、自分と同じ境遇の子が同じクラスになるとも知らず、保育園の帰り道を裕太と母はしっかりと手を繋いで歩いていた。
「裕太今日は晩御飯何が良い?」
「ハンバーグが食いたいぞっ! ミケもハンバーグが良いって言ってるぞ!」
「にゃー?」
「はいはい」
 幸せそうな温かな家族の様子が窺える二人と一匹。このままで十分幸せだから、どうか裕太を取らないで下さい。母はそう神に毎日の様に祈るのであった。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

      「頭に刺さってる黒猫」

 街外れにある一軒の古びた木造建ての家。この家のありとあらゆる所にラクガキや張り紙があった。
「この街から出て行け」 「不吉を齎す黒猫少女消えろ」 「ばぁーか」
「触れるな危険、疫病神に呪われます」 「なんで生きてるの?」
 数々の中傷と見られる張り紙やラクガキ、街の住民達のこの家に住む一人のCBA患者の少女に対する差別行動であった。これは完全な法律違反であるが街全体が少女のイジメに参加しており、さすがに警察も街の住人を全て検挙する訳にはいかず手に負えない状況であった。そこで一つの打開策が講じられた。日本で唯一幸せな環境の中、イジメもなく過ごしているCBA患者が住む街に移転させるという事だ。少女の母はその政府の打開策に承諾した。そして少女はもう一人のCBA患者が住む街の保育園へと転入する事になったのだ。

 全ては偶然等ではなく、必然の出来事である。

 九月五日 午前八時半

 向日葵幼稚園園長室に一人の老婆と長い黒髪で顔を覆い隠す様にしている少女が訪れていた。少女は暗く俯き加減である。
「こんにちは、佳苗ちゃん。私がここの園長です。よろしくね」
 少女と同じ目線まで腰を落とし園長は出来るだけ優しく笑顔で挨拶をした。
「……」
 佳苗という名の少女は園長の言葉に反応する事もなく、ただひたすらに俯いている。すると老婆が苦笑いをしながら申し訳なさそうに言った。
「すいません園長先生、この子はCBA患者であるという事で酷い扱いを受けて来たので人間不信に陥っているんですよ。ここに通う事で変わってくれれば嬉しいんですけれど」
 頬に手を添えて心配そうに孫を見つめる。
「大丈夫です、うちの学園には優秀な先生がおりますのできっと楽しい生活を送れるようになると思います。頑張ろうね佳苗ちゃん」
 園長は再びにこやかに佳苗に声を掛ける。
「……」
 しかし佳苗は、まるで死んでいるかのように微動だにしない。場の空気は重く暗い。なんとか佳苗の声を聞こうと園長が再び話しかけようとしたその時。コンコンと渇いた扉を叩く音が園長室に響く。園長は腰を上げ「どうぞ」と一言。扉がゆっくりと開き、今の園長にとってまさに救世主とも呼べる存在が現れた。
「失礼します」
「待っていましたよ桜先生」
 扉を開け入ってきたのは、佳苗の担任となる桜先生であった。園長は早速桜先生に佳苗と佳苗の祖母を紹介する。
「初めまして、佳苗さんの担任になる桜と申します。宜しくお願いします」
 桜先生はまず佳苗の祖母に丁寧に挨拶をすると、視線を佳苗に移し園長と同じように同じ目線で話しかけた。
「こんにちは。よろしくね」
 笑顔で握手を求め手を差し出す。だが、佳苗は園長の時と同じ様になんの反応も示さず桜先生の手は行き場を失ってしまう。すると突然桜先生は差し出した手の形を変え、言った。
「じゃんけん、グー!」
「あ、あの……桜先生?」
 突然の桜先生の行動に驚き園長が声を掛ける。祖母もなんの脈絡もない桜先生の行動に目を丸くしていた。桜先生は「私に任せて下さい」とだけ言い再びジャンケンを始めた。
「じゃんけん、パー! 出さなかったら負けだからね。これで私二連勝ーえへへ」
「……」
「いくよー、じゃんけん、チョキ! また勝っちゃったなぁ。佳苗ちゃんじゃんけん弱いのかなー」
「……」
 桜先生……頑張っているのはわかりますが、完全に無視されてますよ。
園長は桜先生の姿を見て不憫に思うのだった。それでも桜先生はじゃんけんを続ける。
「私じゃんけん強いでしょー、誰にも負けたことないのよー。次も勝っちゃうからね。じゃんけんー……」
 桜先生が手を振り形を変えて佳苗の前に出す。
「あ……」
「え……」
 園長と祖母がそこで起きた小さな奇跡に声を上げた。桜先生の手が出された場に、もう一つ小さな白い握られた手が出ていた。
「ふふふ、負けちゃった」
 桜先生はチョキの手を顔の前で左右に揺らしながら笑った。
「にゃー」
 少女が笑う事はなかったが、代わりに額の【片目の黒猫】が笑っているように見えた。桜先生と佳苗はその後、園長室を後にし佳苗のクラスとなる教室へと向った。

 向日葵幼稚園薔薇組の教室には、総勢十五名の園児達がにぎやかに話をしていた。その話は今日やって来る転入生の事で持ちきりである。噂をすればなんとやらで、すぐに扉が開き桜先生と噂の転入生が扉を開き入ってきた。
「はーい、みんな席に着いてねー」
 桜先生の掛声と共に園児達は席に着席する。園児達の視線が桜先生の後ろに隠れて入ってくる女の子に注がれる。
「今日から新しくこの薔薇組みのお友達になる佳苗さんです。みんな仲良くしてあげてね」
「はーい」
 桜先生の言葉に園児達は元気良く返事をした。その刹那――
「ミャーッ!」
「ニャーッ!」
 二匹の猫が鳴いた。クラス内が一気に騒がしくなる。一人の園児が言った。
「わーっ、あの子の頭見て! 裕太君と同じだよ!」
 園児達が裕太と佳苗を交互に見る。
「ほんとだーっ! 頭に猫がいる、しかも黒猫だっ!」
 どんどん騒がしくなるクラス内。桜先生がこれ以上騒がしくならないよう事態を収拾しようとするが、最早止まらない。裕太は自分と同じ境遇の人間を初めて見た為にどうリアクションを取ったらいいかわからず、呆然と佳苗を見ていた。一方佳苗は耳を両手で塞ぎ目を強く瞑っている。
 ――やめて、言わないで! 放って置いて!
 佳苗は自分の心にこれ以上傷を付けないよう心を閉ざす。
「ギニャーッ!」
「シャーッ!」
 佳苗と裕太の猫がお互いに目を合わせ、怒りの咆哮を上げている。
「ど、どうしたんだよミケ」
 普段は大人しいミケの豹変ぶりに驚きを隠せない裕太。
「ねぇねぇー、佳苗ちゃんの猫の名前はなんてゆーのー?」
 一人の園児が佳苗に近づき訊ねた、その瞬間。
「ギニャァッッ!」
 佳苗の片目の黒猫が鋭い爪を振上げ近づいてきた園児の顔を切り裂いた。
「ゆ、由美ちゃんっ!?」
 咄嗟の出来事に戸惑っていた桜先生が一人の園児の異常に気付き駆け寄る。由美と呼ばれた園児の瞼からは鋭い爪痕と真っ赤な血が流れていた。
「いたい……いたいよぉ……」
 由美は目を押さえながら痛みに苦しんでいる。桜先生が由美を抱きかかえ「みんな取り敢えず大人しく待ってて。先生由美ちゃんを病院まで連れて行くから!」と言い残し教室から出て行った。他の園児達は由美の姿を見て驚き、そして――。
「お前の猫最悪だな、由美ちゃんに怪我させやがって!」
「由美ちゃんが可哀想……」
「何か言いなさいよー、あんたの猫でしょー。代わりに謝ってよ」
 園児達が次々と佳苗を責め立てる。佳苗はただただ震えて耳と目を遮断し、自分の世界に閉じ篭る事しか出来なかった。
「フーッ! フーッ!」
 佳苗とは違い片目の黒猫は園児達に威嚇する。まるで佳苗を守っているかのように。
「なにこの猫、裕太君のミケと違って全然可愛くなーい」
「本当だよなー、由美に怪我させやがってさ」
「そういえば、黒猫は不吉の象徴ってお父さんが言ってたよ」
「へぇーっ、じゃーこいつのあだ名は不吉マン?」
「あははは、不吉マンいいねー」
 純粋が故の無垢なる悪。園児達のナイフのように鋭い言葉は佳苗の心を壊すのに十分な破壊力を持っていた。

 ――もう嫌……。

 佳苗は塞いでいた耳から手を離し、教室を飛び出した。廊下を走り抜け、向日葵幼稚園の門を潜り抜け外へと飛び出す。涙で目の前が良く見えない状態でも佳苗はがむしゃらに走った。

 どうして私だけこんな目に合わなければいけないの? 全部、全部レオンハルトのせいよ! 佳苗は額の黒猫レオンハルトを怨みながら走る。
「ニーッ!」
 突然レオンハルトが大声で鳴いた。その途端佳苗の体は消え去った。佳苗の意識が暗く深い闇へと堕ちる。


 どうして、どうして私だけ頭にこんなのがいるの? 私も普通の子と同じになりたい。

 ……私の中から消えてよ。

 何処までも深く、何処までも悲しい旋律が私の耳をつんざく。額にいるけがれた存在。私はその存在が許せなくて、憎くて、消えて欲しくて……それの漆黒の瞳にフォークを突き刺した。気色の悪い『ぶにゅり』という感触。その感触と共にそれは激しい咆哮を上げた。私も悲鳴を上げた。激しい痛みが私をも襲う。私とそれは一心同体、それが許せなかった……。
 
 なんで私にはお前がいるの!? 私にはお前なんかいらないのに! 

 激しい痛みの中、私は額の悪魔を呪った。もしかしたらそれは最初黒色をしてはいなかったのかもしれない。私の黒い想いがそれを黒く染めてしまったのかもしれない。悲しい旋律が「ごめんなさい」と何度も謝罪しているかのように聴こえた。

 ニィーッ! ニィーッ! ニィーッ!

 どれくらいの時間が経っただろうか、佳苗は真っ暗闇の中にいた。まるで洞窟の中にいるかのような音響のレオンハルトの声が響いていた。真っ暗闇の中、水の流れる音と車の走る音も響いている。そこは下水道であった。

 ニィーッ! ニィーッ! ニィーッ!

 レオンハルトは目を覚まさない佳苗の代わりに必死に助けを求め鳴き続けた。だが、車の音や水の流れる音に鳴き声が遮られる。時間が経つにつれ、レオンハルトの鳴き声は擦れ小さくなっていく。それでも振り絞る様に必死に鳴き続ける。それは佳苗を助けたいという強い想いからだろうか。

 ふと、佳苗がレオンハルトの鳴き声にゆっくりと瞼を開いた。佳苗は薄暗いながらも、音と匂いで自分が今何処にいてどんな状況なのか瞬時に把握した。レオンハルトが必死に助けを呼んでくれている事も。
「ごめん……ね」
 佳苗は小さく呟くと再び気を失ってしまう。

 ニィ……、ニィ……

 何百度目かのレオンハルトの鳴き声、その時下水道内に新しい音が響いた。
「桜先生っ! 佳苗いたよっ!」
 光が差し込む円形の穴から、裕太がひょっこりと顔を出し叫んでいた。その姿を見てレオンハルトは心底安心したのか、眠る様に片目を閉じた。

 その後、無事佳苗は救出された。

「ん……」
 佳苗が白いベッドの上で目を覚ました。此処は保育園内の休憩室。佳苗がベッドから体を起こすと目の前には、桜先生とクラスメイト全員が立っていた。佳苗は状況が把握出来ずにただ呆然とクラスメイト達を見る。すると桜先生が言った。

「良かった気が付いたのね。佳苗さん額の黒猫さんに感謝しなくちゃね。その子が必死に鳴いてくれたおかげで助けられたんだもの」
 その桜先生の言葉に佳苗は、急に大声を出して泣き出した。両手で顔を覆い、泣きじゃくる。レオンハルトに対して佳苗は怨みという感情しかなく、酷い事をしてきた。なのにレオンハルトは佳苗を助けた。その事を思うと佳苗は心が激しく揺さぶられ大声で泣く事しか出来なかった。
「ごめん……なさい、レオンハルト……私……」
 泣きじゃくりながら佳苗は額の黒猫に対して謝罪の言葉を口にしていた。そして心にはハッキリとレオンハルトに対して感謝の気持ちが芽生え、怨みの感情はスーッと消えていた。
 
 その後、クラスメート達それぞれが自分の行動を後悔し佳苗に謝罪した。園児達はとても素直だった。それは桜先生の教育の賜物でもある。そしてその中でも裕太は、そこらの大人よりもしっかりしていた。裕太はゆっくりと佳苗の元へと歩み寄る。
「ごめんな、怖かっただろ。だけどもう大丈夫。僕達は仲間だ、これから宜しくな」
 へへへと鼻を摩りながら裕太は握手を求め手を差し出した。佳苗は何も言わずにただ裕太の顔を見据えて手を差し出した。


 差し出された佳苗の小さな手の平はチョキの形を成していた。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 「後ずさり」

 十一月一日、秋。肌寒い風が吹き荒れ、木々を揺らし黄緑の葉を宙へと誘う。空から地へと大量に堕ちた悲しき命が集められ、炎に炙られ煙となって天へ赴く。ゆらゆらと揺れて紅い炎が踊り出す。情熱的に燃える炎を囲むは、十四名の園児達。ここ向日葵幼稚園では、年に一度の焚き火が行われていた。炎に手をかざしながら園児達は温かみを感じる。それは母の肌の温もりのような、優しい温かさ。園児達がわいわいと話しながら焚き火に当たっている頃、二名の園児が焚き火から離れた場所で退屈そうにその光景を見ていた。
「ちぇっ、つまんないなー」
「……」
 頭に猫を携えた二人の園児、佳苗は俯き加減に裕太は愚痴を溢していた。二人が何故焚き火に参加していないのか、それはクラスメートから仲間はずれにされたという訳ではなく、炎を嫌う動物であるミケ猫と黒猫の為であった。
「ミケー、お前の所為だからなー」
「にゃぁう」
 悪びれる事もなくミケは欠伸をした。
「はぁーあ、あいつらも薄情だよなぁ。僕達を放っておいて楽しんでるんだからさ、そう思うだろーレオンハルトー」
 裕太は佳苗の黒猫、レオンハルトの頭を撫でながら愚痴を零す。レオンハルトは片目で「フッ……まだまだ甘いな」とでも言いそうなクールな表情で裕太を見つめていた。

「君のご主人は本当に元気がいいな、羨ましい限りだ」
「そうかにゃー? ただ能天気なだけがするにゃー」
「フッ……そうかもしれないな」

 ミケとレオンハルトの間でそんな会話がされているのかもしれない。裕太はレオンハルトと佳苗を見るといつも疑問に思う事があった。それは佳苗とレオンハルトが会話をしているところを見たことがないという事だった。当然人間と猫なのだから、会話のキャッチボールは出来ないにしても、パートナーなのだから話かけるだろうと裕太は考えていた。佳苗とレオンハルトは、とても仲が良さそうには見えなかった。

 暫く退屈そうに裕太と佳苗が焚き火を楽しむクラスメート達を眺めていると、数人のクラスメートが二人の元へと銀紙に包まれた物を持って向ってきた。
「裕太くーん、佳苗ちゃーん、焼き芋だよー」
 クラスメートの一人、由美が銀紙に包まれた焼き芋を持って声を掛けた。
「おぉーっ! 待ってましたーっ!」
 パァンッと手を叩き、さっきまでうな垂れていた裕太が元気を取り戻す。
「佳苗ちゃん、はいどうぞ」
「……うん、ありがとう」
 佳苗に焼き芋を差し出す由美。佳苗と由美の出会いは最悪で、由美に怪我をさせてしまった佳苗だが、由美は裕太に負けず劣らずの優しい思いやりのある子で病院から戻った時にすぐに佳苗の事を許した、というよりも佳苗に対して怒りという感情は全く持ち合わせてはいなかった。佳苗は今まで辛い虐めに耐える為に心を閉ざしていたが、裕太と由美そして桜先生によって時間をかけて少しずつ心を開きつつあった。

 それから佳苗、裕太、由美の三人は良く一緒に遊ぶようになった。

 なげてとて

「はいっ! 取った!」
 ラジカセから流れる百人一首の句。三人は百人一首で遊んでいた。裕太の元気の良い声が教室中に響く。

 わがいほは

「はい」
 今度は佳苗が札を控えめにかつ素早く取る。
「ちくしょーっ、また佳苗にやられた」
「ふ、二人共すごいね……」
 由美は二人の持ち札を見て、言う。只今の持ち札、裕太二十枚、佳苗十六枚、そして由美は一枚もなし。それもその筈、裕太と佳苗はCBA患者にみられる天才的な頭脳のおかげで札をあっという間に全て完全に暗記し、下の句が読まれる前に全て取っていたのだ。ただの保育園児である由美が敵う筈も無かった。そんな由美を察してか佳苗が小さな声で裕太に呟く。
「ね、ねぇ他の遊びにしないかな」
「そうだな、じゃートランプでもやるか!」
「気を使ってくれてありがと、あはは……」
 由美は苦笑いを浮かべた。そして――。

「はい、これとこれだーっ! おっしゃ、また当たり」
 裕太が次々とトランプを捲っていく。三人は神経衰弱をしていた。只今の持ち札、裕太二十四枚、佳苗十八枚、そして由美は……。
「……いじめ?」
 泣きそうな顔で由美が二人に問う。由美の持ち札は再び一枚もなかった。
「いしししっ、冗談だぞ。そんなに怒るなよー由美」
 神経衰弱を提案した張本人の裕太が笑いながら由美を宥める。由美は頬をぷくぅーっと膨らませながらご立腹だ。そんな二人の様子を見て佳苗は笑った。その佳苗の笑顔を見て裕太と由美も笑った。三人は可笑しくて大笑いを始めた。ミケとレオンハルトも笑顔を浮かべている様に見える。そしてそんな幸せそうな園児達を見て、桜先生も笑顔になるのだった。佳苗は笑いながら先生やクラスメート達に深く感謝していた。初めて出来た友達、一緒に笑って喜びを分かち合う。佳苗は本当に幸せだった。

 しかし、神は残酷である。そんな佳苗とレオンハルトに安息を与える事はなかった。

 十一月二日、この日は朝からどしゃぶりの雨であった。雨音が全ての雑音を掻き消し、雨の中にいると自分の存在以外はこの世界から消え失せ、世界で一人ぼっちになってしまったのではないかという錯覚を覚える。だから雨は嫌いだ。教室の窓から外を眺め桜先生はそんな事を考えていた。今は丁度お昼寝の時間という事で、園児達は毛布を被りすやすやと穏やかな顔をして眠っている。桜先生はそんな園児達の寝ている姿を見ると、とても微笑ましくなり仕事の疲れなど吹っ飛んでしまうのだった。十六人全員の園児達の寝顔を見て回る、桜先生は一年前に自分の子を交通事故で亡くしてしまっており、それが故に人一倍子供を愛しく感じるのかもしれない。裕太と佳苗の前で桜先生は立ち止まる。二人を見つめる眼差しはとても悲しい色をしていた。

 お願いだから長生きしてね……。

 ただ願う事しか出来ない自分の無力さに悲しくなる。そしてその無力であるという現実を嫌という程に味わう事となる。

 十一月三日。この日も昨日に引き続き大雨が降り注いでいた。空は雨雲で覆われ太陽の光が地上を照らす事なく、薄暗い世界がある。
「先生おはようございまーす」
「うん、おはよう」
 次々と園児達が親と共にカッパと傘、長靴を身に付けてやって来る。
「昨日から酷い雨ですわよねぇ桜先生」
 一人の園児の母が話し掛けてくる。
「えぇ、本当にそうですね」
 灰色の濁った空を見上げながら桜先生は答えた。時折吹く冷たい風が身に凍みる。
「桜先生おっはーっ」
 なんだか寂しい気持ちに浸っていると、目の前で裕太が元気に挨拶をしてきた。
「こらっ! ちゃんと敬語使いなさいって言ってるでしょ。すいません、ほんとに」
 裕太の母がいつもの如く深く頭を下げる。普段通りの光景を目にするとなんだか心が温かくなるのを感じる桜先生であった。
「あっ、佳苗だ」
 裕太が後から登校して来た佳苗を発見し、指を差した。桜先生はその指で示された先に目線を移す。普段通りの光景が飛び込んでくると思っていた。しかし瞳に飛び込んできたのは、具合悪そうに祖母に手で支えられながら歩いてくる佳苗の姿だった。
「あの、どうかしたんですか?」
 心配になって桜先生は佳苗の元まで駆け寄り祖母に訊く。すると祖母は困った様な顔をして、話し始めた。
「実は今朝からレオンハルトと佳苗の具合が良くなくてですね、それで今日は休ませようと思ったんですけれど、この子がどうしても行きたいって言うものですから……なんでも初めて友達が出来たから――」
「……おばあちゃん、余計な事言わなくていいの……、私は大丈夫なの」
 祖母の言葉を遮って佳苗は照れながら言った。
「本当に大丈夫なの佳苗さん」
 桜先生は佳苗の事が心配になる。もしもの事があったら……と考えてしまうのだ。結局佳苗は具合が悪くなったらすぐに早退する事を祖母と約束し、出席する事となった。

 薔薇組の教室の扉を開き佳苗は中へと入ると、クラスメートの顔を見る。皆笑顔で楽しそうに会話をしており、佳苗もこの仲間に入れるんだと思うと自然と頬が解れる。
「あれ、レオンハルトどうしたの?」
 ふいに一人の園児が佳苗の額の黒猫の異変に気付き問い掛けた。他の園児達も視線をレオンハルトに移す。

 ぽたり……ぽたり……

 佳苗の目の前を何かが頭上から地へと落ちた。

 ぽたり……ぽたり……

 佳苗はなんだろうと思い、小さな手を前に差し出した。

 ぽたり……ぴちゃっ……

 手の平に何かが落ち、広がった。それは紅い液体――血。
「きゃぁっ! レオンハルトの口から血が流れてるよっ!!」
 誰かが言った。その言葉に続いて次々と園児達が騒ぎ出す。佳苗は状況が理解出来なくて、ただ目をまん丸にして慌てるクラスメート達を見ていた。
「か、佳苗……」
 裕太が不安な表情を浮かべながら佳苗を見ていた。レオンハルトではなく、佳苗を――


 お前も口から……


 裕太の言う意味を理解出来ず、ただ手を口元に当てた。そしてゆっくりと視線を手のひらに移す。

 小さな、小さな、真っ白い手。雪の様だと言われたその白い手が……紅く染まっていた。
「あ、あれ? ねぇ雄太君。これ何かな……」
 裕太の顔を見て佳苗は訊きながら裕太に歩み寄った。その顔は明らかに恐怖で歪んでいる。裕太はその時、血を流し近づいてくる佳苗を見て――決してしてはならない行動を起こしてしまった。
「あ……」
 佳苗は小さく声を上げた。その表情は恐怖から深く悲しい顔色へと変わる。裕太は佳苗の姿を見て、一歩後ずさりしてしまっていた。

 どうしてこうなっちゃうのかな。

 ゆっくりとスローモーションの様に佳苗の視界がぐにゃりと曲がる。
クラスメート達の騒ぎ声、激しい雨音、裕太の呼び声、全てが聞こえなくなった。


 そ し て 全 て が 消 え て ゆ く


 降り注ぐ雨がより一層勢いを増していた。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 「ピース」

 出て行け化け物!! あっち行け!! 黒猫を身に纏いし者、不吉じゃ。
 やめてください、お願いです。この子をいじめないで下さい。
 お母さん、お父さん、怖いよ。 大丈夫だ、私達が必ず佳苗を守ってやるからな!

 私は街の人達に囲まれて震えていました。お父さんとお母さんはそんな私を守る様に抱き締めてくれます。お父さんとお母さんの体は暖かくてほんの少しだけ恐怖が取り除かれました。けれど……。
「がぁっ!」
「あなたっ!」
 街人の一人が投げつけた拳大程の石がお父さんの額に当たりました。お父さんは額から紅い血を流して、泣いていました。だけれどそれは痛みによるものではなく、理不尽な暴力に晒されているこの状況を悔やんでの事だと思います。お父さんは街人達を睨み言いました。
「何故だっ! どうして、娘を攻撃するんだ! 娘は何も悪くないじゃないかっ!」
 お母さんもお父さんに続いて訴えました。
「私達は皆さんに決して迷惑かけません。お願いですから、これ以上責めるのは止めてください。お願いします……」
 お母さんは何も悪くないのに、街の人達に膝をついて頭を下げました。お父さんもお母さんの姿を見て同じ様に頭を下げます。二人とも沢山の涙を地面に落としていました。乾いた道路に次々と染みを作っていきます。本当は謝る必要なんてないのに、間違っているのはあの人達の方なのに、ただ私を守る為だけにお父さんとお母さんは頭を下げ続けました。でも、あの人達はそんなお父さんとお母さんの謝罪等聞き入れようとはしませんでした。
「謝って済む問題じゃないんだ。あんたらが近くにいると不吉でしょうがないんだよ」
 街人の集団の中のリーダーらしき小太りの中年男性がお父さんの前まで歩み寄り仁王立ちで言った。その男はお父さんの頭に汚い靴で踏みつけ、お父さんの顔を地面にこすり付けました。私はただ怖くてその光景をじっと見ている事しか出来ません。
「頼むからさぁ、出て行ってくれよ。なぁ、あんたの娘の『化け物』と一緒にさ」
 男が化け物というフレーズを言葉にした瞬間、お父さんの拳がぴくりと動き、その拳はそのまま男の顔面へとめり込みました。男は大きく後方に吹っ飛び、街人達は一瞬の出来事に呆然としていました。
「私の娘は、宝だっ! ふざけた事を言うんじゃないっ!!」
 今まで温厚で怒った姿なんて見た事のなかったお父さんがその時初めて大声で怒鳴りました。そんなお父さんの姿を見てお母さんが頭を上げ言いました。
「貴方、佳苗を私達で守りましょうね。どんな事があっても」
「あぁ!」
 その時私には、お父さんとお母さんの背中がとても大きく見えました。二人は私にとって尊敬できる憧れの人だったのです。だけど……。

 翌日、お父さんとお母さんは交通事故で亡くなりました。二人の乗っていた自動車のブレーキが不自然な壊れ方をしていたそうです。私はお父さんとお母さんは殺されたんだと理解しました。そしてそれからは、誰も信用出来なくなり心を閉ざす事にしました。自分の心を守る為に。

 
 【一日目:ナイフ】


 日本でも五本の指に入る最新の医療設備が整っている野木桜病院。倒れた佳苗はこの大病院へと運ばれていた。治療費、入院費等は膨大な額になるが全てはCBA保護法により、免除される。診察室には、医師と佳苗の祖母が向かい合っていた。
「それで、佳苗は大丈夫なのでしょうか」
 祖母は不安な面持ちで医師に訊ねる。医師はカルテを見ながらズレる眼鏡を上げ答えた。
「今の所は大丈夫です。しかし……」
 医師は言葉を濁す。何か言いづらそうにしている医師を見て祖母の不安は更に煽られる。祖母が黙って医師の言葉を待っていると、医師はカルテを膝元に置き話しを続けた。
「CBAの悪化症状が始まっています」
「悪化症状、ですか?」
「えぇ、佳苗さんはこれから著しいスピードで知能が低下していきます。それに伴い体の筋肉も萎縮し始め、まともに話す事も出来なくなるでしょう」
 祖母はあまりのショックに言葉を失ってしまった。だが、それに追い討ちをかけるように医師は更に言葉を述べる。
「佳苗さんは、今までのCBA患者さん達の統計から見ると、今日を含め後三日の命です」
「……え? あ、あの。なんとかならないのでしょうか」
 現実味がなく悲しいという思いよりも、どうにか出来るのではという思いの方が強く、祖母は医師に訊ねた。医師は視線をやや下に向け答える。
「残念ですが今の医学ではどうにも」
 それが現在の医学界、世界の答えであった。

 真っ白な壁に囲まれた広い病室。佳苗はこの個室のベッドで寝ていた。傍らでは桜先生が悲しい瞳で林檎を見つめながら皮を剥いていた。何もしてあげられない、助けてあげる事が出来ない。

 ――お母さん、私大きくなったら可愛いお嫁さんになるのが夢なの

 大切な娘を守ってあげる事が出来なかった。そしてまた、大切な生徒をも自分では助ける事が出来ない。なんて無力なのだろうか。桜先生は己の無力さを怨んだ。

 コンコン

 自分の無力さを悔やんでいると、病室の扉をノックする音が響いた。桜先生は剥きかけのリンゴを置くと扉へと向った。ドアノブに手をかけ扉を開くと目の前には誰もいなかった。
「佳苗のお見舞に来たぜ」
「! あぁ、裕太君にみんなも」
 足元にまだ小さい園児達がいた。その園児達に続いて園長先生が現れる。
「どうしてもこの子達がお見舞に行きたいと言うものですからね」
「園長先生、ありがとうございます。佳苗さんもきっと喜びます」
 園児達は桜先生の足元を縫うようにして佳苗の眠るベッドまで向かった。
「あ、皆さん来てくれたのですか」
 桜先生が園長と話しをしていると、医師から悲痛なる真実を聞かされた祖母がやって来た。
「あの、佳苗さんの容態は?」
 不安げな面持ちで桜先生は訊いた。
「えぇ、それが――」
「近寄らないでっ!!」
 突然病室から佳苗の甲高い声が響いた。驚いた桜先生達はすぐさま病室内に視線を向けた。するとそこには、さっきまで林檎を剥いていた果物ナイフを手にし、震えながら園児達に向けている佳苗の姿があった。園児達は怯え、中には泣いている子までいた。すぐさま祖母が佳苗の元へと駆け寄り声を掛ける。
「ちょっと佳苗、何しているの!」
「来ないでって言ってるでしょ! 私を殺そうとしても、そうは行かないんだから!」
「何、言っているのよ……」
 佳苗は全ての人間が敵に見え、自分の命を奪いに来る殺人者に見えていた。頭は錯乱し、本当に人を刺しかねない状況であった。誰もが金縛りにあったかのように、一歩も動けずにいた。一人を除いて。
 一歩一歩と佳苗に近づく。
「来ないでよ! 刺すから、本当に刺すからね」
 それでも足は止まらない。そのまま佳苗の目の前までやって来る。佳苗は興奮状態にあり、適切な状況判断が出来る訳もなくナイフを突き出した。その刹那、佳苗の体が優しい温かさに覆われた。
「大丈夫だから、皆佳苗さんの仲間だから。ね? 怯えないでいいんだよ」
 佳苗の体を優しく抱き締めながら桜先生は言った。直後、安堵してか裕太を除き他の園児達が全員泣き出した。佳苗も泣いた。幾度となく流した涙を流し続けた。
「桜先生大丈夫ですか!?」
 園長が桜先生の手を見て叫んだ。桜先生の右手には果物ナイフが握り締められ、紅い血が流れ出ていた。佳苗はその光景を見て、ただただ謝るばかりであった。しかし桜先生は笑顔で答えた。
「大丈夫ですよこれくらい、佳苗さんの心の痛みに比べたら」
「すみませんうちの孫が。とにかく幸い此処は病院ですし見てもらいましょう」
 祖母は深く頭を下げ、桜先生と園長を連れて病室を後にした。桜先生の手の傷は幸い相手が幼稚園児の女の子という事もあり、軽傷で済んだ。
「そういえば――」
 不意に園長が口を開く。
「佳苗さんの容態はどうなんですか?」
 さっき祖母が言いかけた事を園長は訊ねた。祖母は一瞬で顔色が変わり俯き加減になる。その様子を見て園長と桜先生の脳裏に「まさか」という仮定が浮かび上がってくる。永遠とも思える不安に押し潰されそうな時間を待つと、祖母は医師に言われた通りの事を二人に話した。
「そんな……」
 園長先生は呆然とし、桜先生は愕然と膝を付き泣き崩れた。


 【二日目:寄せ書き】

 この日も園児達は佳苗をお見舞にやって来ていた。佳苗はある程度元気の様に見えたが、レオンハルトはほとんど動く事もなくグッタリとしていた。
「佳苗、今日はお前に渡したい物があるんだ」
 裕太が皆を代表して佳苗にある物を差し出した。それは一枚の厚い紙であった。
「あ……、ありがとう」
 佳苗はそれを見て、心から笑い御礼を述べた。園児達もお互いに見つめ笑いあう。それは、寄せ書きであった。

 はやくげんきになっていっしょにあそぼう ゆみ
 佳苗もレオンハルトも頑張って病気治せよな 早く遊びまくろうぜ 裕太
 いちにちもはやくげんきになることをいのってまーす 信也
 おべんとうまたこうかんしようね みか
 ジャンケン、こんどはまけねーぜ! れいじ
 みんなまっているからね あやか
 がんばってください ふうた
 くびをながくしてかえってくるのまってるよ ミチル
 がんばれ きょうすけ
 まいにちわらっていこうー♪ まゆ
 ごめんね 正助
 こんど【語り】っていうおもしろいしょうせつかしてあげるね ねね
 あんまりはなしたことないけどげんきになったらいっぱいあそぼう なな
 フレー! フレー! かなえー! まさと
 えへへ、ふぁいとです かおる
 みんな、仲間です。安心していいからね 桜先生

 計十六名からの寄せ書き、それは佳苗の宝物となった。佳苗は寄せ書きを読みながら先生に訊ねた。
「桜先生、裕太君の所と桜先生の所読めないです」
 裕太と桜先生は漢字を使っていた。まだ幼い幼稚園児が読めないのは当たり前であった。しかし、その台詞を聞いて桜先生は愕然とした。何故なら裕太も佳苗もCBA患者というものは天才的な頭脳を持ち、この程度の漢字は読めて当たり前だったからだ。つまり佳苗の知能低下の兆しを意味していた。それを悟り桜先生の心は大きく揺さぶられた。
 いけない、今動揺してはならない。佳苗さんを不安にさせてはならない。そう自分に言い聞かせる。
「先生?」
 桜先生の異変に気付き佳苗は名前を呼んだ。
「あ、うん。ごめんね、この漢字はね――」
 桜先生は必死で涙を堪え、笑顔で佳苗に接した。平然を装うのはあまりにも辛かった。

 この日は多くの園児達に囲まれながら笑顔が絶えず佳苗は過ごした。沢山の友達に囲まれ佳苗は本当に幸せだった。こんな日がこれからも続くんだ。そう思うと佳苗は嬉しくてしょうがなくなるのだった。しかし、死の足音は確実に佳苗の元へと訪れていた。

 【三日目:カウントダウン】

 深夜、外には大きな月が地上を照らし虫の音が泣っていた。消灯時間になり月の光だけが病室内を照らす。佳苗はベッドで園児達の書いた寄せ書きを胸に抱き締めながら眠っていた。その隣では祖母が椅子に座りながら佳苗を見守っていた。明日には佳苗はこの世を去ってしまうかもしれない。そう思うと祖母は心が千切れそうになる。
「娘が事故でいなくなって、お前までいなくなったら私はどうしたらいいんだい。死ぬならこの老いぼれでいいじゃないか」
 強く拳を握り締め、小さく呟いた。

 虫の音が鳴り止み、祖母がうとうととし始めた頃。突然それは起きた。
レオンハルトが急に雄叫びを上げ、それと同時に佳苗が苦しみ始めたのだ。祖母はすぐに目を覚まし佳苗に声を掛けた。
「佳苗、どうしたの!?」
「うぅ、苦しいよおばあちゃん」
 佳苗の顔を見ると顔は青ざめ、レオンハルトに到っては痙攣を起こしていた。祖母はすぐにナースコールを押す。
「佳苗、大丈夫!?」
 佳苗の手を握りながら祖母は必死に呼びかける。佳苗は最早苦しそうに唸るのみであった。すぐに看護婦と医師がやって来て佳苗の様子を見る。一通り佳苗を診察すると医師は口を開いた。
「筋肉の萎縮が始まっています。このままでは朝まで持つかどうか……」
「そ、そんな。佳苗っ! 佳苗っ! お願い死なないで! 私にはもう佳苗しかいないのよ。お願いだから生きておくれ、お願いだから……」
 祈る様に佳苗の手を両手で包み祖母は叫んだ。
「おばあ……ちゃん……、わた……し……死ぬ……の?」
 筋肉が萎縮しまともに佳苗は話せなくなっていた。たどたどしく祖母に訊ねる。だが祖母はその言葉に返答する事が出来なかった。
「わた……し……せっかく……とも……だち……でき……たの……に」
 佳苗の瞳から一粒の涙が流れた。その言葉を最期に佳苗は一切喋らなく、いや話せなくなった。祖母は佳苗の傍らで声を上げて泣き続けた。医師達も為す術がなく苦い顔をしている。窓の外は仄かに明かりが増していた。



  ある朝
  ぼくは目覚めて そして 知ったさ
  この世に つらい悲しいことがあるってことを
  グリーン グリーン
  青空には 雲が走り
  グリーン グリーン
  丘の上には ララ 緑がさわぐ



「おっはよー!」「にゃーっ」

 午前九時、裕太は皆よりも一足先に佳苗の病室へとお見舞にやって来た。しかし裕太は目の前の違和感にすぐさま気付く。佳苗の体のありとあらゆる箇所に管が付けられ、よく重症患者がつけているようなマスクを装着していた。隣で俯き加減に疲れ切った顔をしている祖母に裕太は聞き取れるか聞き取れないかぐらいの小さな声で訊いた。
「佳苗どうしたの? ねぇ?」
 裕太の問いかけに祖母が答える事はなかった。
「うそだよ、だって昨日まで元気だったじゃんか」
 裕太は眠る佳苗の元まで歩み寄る。佳苗の顔は苦しんでいる様に見えた。またレオンハルトは死んでいるかの如く全く動きもしない。
「ははは、嘘だよな佳苗。起きろって」
 裕太は佳苗の体を揺すった。
 もう諦めるしかないのさ、どうにも出来ない現実ってものがこの世にはあるのだから。
 祖母はそんなことを考えながら裕太の行動を見つめていた。裕太は佳苗の姿を見て、体を振るわせる。しかし決して涙は流さない。それは裕太の中で絶対の約束があったから。
「ねぇ、治らないの? 佳苗はどうしたら起きるの?」
 裕太はすがるような気持ちで祖母に訊く。だが祖母は何も答えてはやれない。ただ涙を流す事しか出来なかった。そんな祖母を見て裕太は再び佳苗の元へ戻ると――急に唄い出した。

  あの時
  パパと 約束したことを守った
  こぶしをかため 胸をはり
  ラララ ぼくは立っていた
  グリーン グリーン
  まぶたには なみだがあふれ
  グリーン グリーン
  丘の上には ララ 緑がぬれる


 ごめんなさいパパ、僕約束守れないよ。


「佳苗の……せいだからなぁー……うぅ、起きろよばかぁ……」
 
 裕太が物心付いたばかりの頃、今は亡き父と約束した「泣かない」という決まり、それを裕太は初めて破った。まるで今まで溜め込んできた全ての涙が流れ出ているかのように、とめどなく大量の涙が頬を伝わり流れ出た。沢山の涙の粒が落ち、佳苗の頬に触れ弾かれた。その刹那、奇跡は起きた。

「裕……太、君?」
「か、佳苗!?」
 ゆっくりと瞼を開け、佳苗が口を開いた。佳苗は震える手で自分のマスクを外す。祖母も裕太同様驚き椅子から立ち上がった。
「大丈夫なのか佳苗!? 生き返ったの!?」
 裕太は驚きと嬉しさで声を荒げる。そんな裕太を見て佳苗は笑顔になった。
「わた……し……ね。嬉し……かった、よ。友……達……でき……て」
 途切れ途切れだが、それでも必死に佳苗は想いを言葉にして伝える。祖母も裕太も黙って頷きながら訊いた。二人とも顔中涙でぐちゃぐちゃの酷い有様であった。
「今……までの、何年か……より、この……友達……と……一緒に、過ごし……た、短い……間の……方が……ずっと……幸せ……だった……よ」
 佳苗の笑顔の奥にキラリと涙の雫が光った。裕太は何度も頷きながら答えた。
「そうだよ、これからだって沢山遊ぼうぜ、みんなお前の事待っているんだからさ」
「そうよ、これからは一杯友達と一緒にいられるの。そして沢山の事を学ぶのよ」
 祖母もこれからの希望ある未来を話す。
「えへへ……楽し……そう……」
 本当に穏やかな笑顔を佳苗は見せる。その笑顔を見て裕太も祖母も心底ホッとする。これからだ。絶対佳苗を幸せにしてやろう。そう二人は決心した。
「あり……が……とう」
 佳苗はお礼と共に手を天井に向けた。その手はチョキの形を成していた。
「なんだ佳苗? またジャンケンか?」
 裕太がその手を見て訊く。すると佳苗は――。


 『ピース』


 小さく笑顔で呟くと、瞼を閉じ、掲げられたその手がゆっくりと、力なく……倒れた。
「あれ? どうした佳苗。まだ話している途中だろ、寝るなよな」
「……」
 幸せそうな笑顔を浮かべながら。
「ほら、起きろって。もっと一杯話そうぜ、なぁ」
「……」
 佳苗とレオンハルトは。
「おい……起きろって。な? お願いだからさ。これからもっと一杯楽しい事あるんだよ、何寝てんだよ。みんなで一緒に笑って、騒いで、時には喧嘩したりして、それでも楽しくやっていくんだろ? 寝てたら何も出来ないんだぞ、起きろって。頼むから起きてくれよ、起きろってなぁっ! 佳苗ーっ!!」

 裕太の大きな、とても大きな泣き声が病室内を包んだ。祖母は裕太とは対照的に静かに涙を流していた。その二人の泣き声はまるで佳苗への鎮魂歌の様であった。

 ――佳苗、もういいのか?
 
 ――うん、待たせてごめんねレオンハルト。それじゃ行こうか。

 ――あぁ、お前の両親に会いに行こう。

 ――裕太君、おばあちゃん。 バイバイ

 佳苗と佳苗の頭から開放され自由の身となったレオンハルト。佳苗達は笑顔で天国への階段を上り始めたのだった。



  その朝
  あの子は出かけた 遠い旅路へ
  二度と 帰って来ないと
  ラララ ぼくにもわかった
  グリーン グリーン
  青空には 虹がかかり
  グリーン グリーン 
  丘の上には ララ 緑がはえる

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 最終章 「僕の未来」


 
 佳苗がこの世を去ってから一ヶ月あまり、佳苗が眠っていた病室には裕太がいた。裕太は痩せ細り、額のミケもぐったりとした様子である。裕太は佳苗が死を迎えた数日後に精神不安定により体調を崩した。最初はただの体調不良のみかと思われた。だが、さらに数日が経過した後、裕太の母は医師から予想はしていたが出来るだけ考えないようにしていた事を告げられた。
「CBAの悪化症状が始まっています」
 母は泣き崩れた。いつかはこんな日が来るだろうと考えてはいたが、もっと先の事だと母は思っていた。突きつけられた悲痛なる現実に母はとても耐えられそうにはなかった。すると医師は言った。
「お母さん、貴方が裕太君を守ってやらず誰が守るんです? 信じましょう、奇跡を。今の裕太君にはお母さんが一番頼れる存在なのですから」
「……はい」
 母は涙を零しながらも、決して裕太の前では涙を見せない、常に笑顔でい続ける事を決意した。

「なぁミケ、僕もやっぱり佳苗と同じ様に死んじゃうのかな」
 ベッドに横たわりながら裕太はミケに訊ねた。だがミケは何も答えない。答える元気すら残っていないのだ。
「まだ僕死にたくないんだ。お母さんがさ、一人ぼっちになっちゃうだろ? それに友達と会えなくなるのも悲しいしさ。訊いてるかミケ?」
 裕太は死自体よりも、母を一人ぼっちにしてしまう事、友達と会えなくなってしまう事に恐怖を覚えていた。裕太はいつだって自分よりも他人の事を考えてきた。
「あーあ、なんとかならないのかな。どうにもならない現実があるって前、佳苗のばあちゃんが言ってたろ? けど僕はそうは思わないんだよな」
 そう言いながら裕太は病室の窓から空を眺めた。

 【天からの贈り物】

 ふわり……ふわり……まるで宙を浮いているかのような感覚がある。僕はどうしたんだろう? ゆっくりと瞼を開けてみる。瞳に光が差し込み、目の前に不思議な光景が映し出された。目の前には、緩やかに流れる川。その川を挟んで向こうには――。
「佳苗っ!」
 にっこりと笑顔で僕を見つめる佳苗がいた。僕はつい嬉しくなって佳苗の方へ行こうとした。
「まだ来ちゃ駄目だよ裕太君」
「え?」
 佳苗に言われ足がぴたりと止まる。ふと佳苗の後ろにもう一人大きな男の人がいるのに気付いた。僕はその男の人を見て自然と涙が溢れ出た。
「おいおい、俺の顔を見ていきなり泣くなんて酷いぞ」
「だって……だって……パパなんだもんっ!」
 僕はすぐにでもパパと元へ駆けて抱きつきたかった。
「動くなっ! お前はまだこっちに来ちゃいけないんだ。わかるな?」
「なんで? わからないよ。僕パパと一緒に――」
「母さんはどうするんだっ!」
「あ……」
 僕はようやく理解出来た。そうだ、僕はこんなところにいる場合じゃない。お母さんを一人ぼっちになんてしちゃいけない。
「どうやらわかってくれたみたいだな。うん、裕太大きくなったな。体だけじゃなく心もな」
 いつかみた優しい笑みをパパは浮かべてくれた。それを最期にパパと佳苗は消えていった。

 ありがとう

  
  やがて
  月日が過ぎゆき ぼくは知るだろう
  パパの言ってた
  ラララ 言葉の意味を
  グリーン グリーン
  青空には 太陽がわらい
  グリーン グリーン
  丘の上には ララ 緑があざやか


 【グリーン・グリーン】

 それから一ヵ月後……。

 裕太の家で母は一人、テーブルに座って一枚の絵を見つめていた。画用紙に書かれたその一枚の絵には、父、母、裕太、そして地面を駆け回るミケの姿が描かれていた。母はその絵を手でなぞる。
 
 ピンポーン

 母が感傷に浸っていると、呼び出しのチャイムが鳴った。母はゆっくりと立ち上がり扉を開く。扉の先には――。
「こんにちは、裕太君のお母さん」
「桜先生、どうも。あの、どういったご用件で?」
「えぇ、実はお母さんに見せたい物がありまして」
「?」
 桜先生はポーチから一枚の紙を取り出し、母に渡した。
「雄太君が書いたものです。手術前に書いたもので、私が預かっていたんです。でも、もうお見せしてもいいかなと思いまして」
 母は桜先生から差し出された一枚の紙を受け取り読み始めた。


 僕の大好きなお母さんへ

 お母さん、僕がこんな体に生まれて迷惑かけちゃってごめんな。
でもね、僕はミケと一緒にいれてすごく良かったと思う。そりゃハンデとかあったし
たまに嫌になる事もあったけど、それでも僕はいつだって一人じゃなかった。
だから僕は今まで笑って生きていく事が出来たんだ。お母さんにはすっごく感謝してる。
お母さん、もし僕が死んじゃっても自分を責めないでよ。僕はね、お母さんの笑顔が好きなんだ。だからさ、ずっと笑っててよ。そしたら僕も笑えるから。お母さん、大好きだよ。ありがとう。

 全てを読み終えた時、母は視線を上を向けて微笑んだ。
「ほんと、裕太は馬鹿なんだから」

 私の方こそ、ありがとう。


  いつか
  ぼくも 子供と 語り合うだろう
  この世に生きる喜び
  そして 悲しみのことを
  グリーン グリーン
  青空には かすみたなびき
  グリーン グリーン
  丘の上には ララ 緑がひろがる





 ただいまお母さん! にゃーっ!

 おかえりなさい裕太、ミケ。


まだまだ未熟ですが、宜しくお願い致します。













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