1:24歳フリーターに突然の転機
人生に一度きりの転機。
それが突然、思いもよらない形で降ってきたらどうする?
◆ ◇ ◆
バイトから帰ってきて郵便受けを開けたら、この間出した履歴書が送り返されていた。あたしはそれを手に取ると、ぐしゃぐしゃに丸めてパーカーのポケットに突っ込んだ。他に郵便受けに入っていたのは、請求書やらあやしいチラシやらで、期待していた懸賞の当たりなどは届いていないようだった。
あたしはため息をひとつつくと、床に置いていた買い物袋を持ち直し、コンクリートの階段を上った。荷物を持って3階まで行くのは結構きつい。それに今日はよりにもよって缶詰ばかりを買ってきたのだ。袋の持ち手が指に食い込んで痛いし、重い。
やっと自分の部屋までたどり着いたころには、すっかり息も上がっていた。エレベーター、1週間前から故障しているのにまだ修理されていない。ちゃんと管理費も払ってるんだから早く直して欲しい。
あたしはフクロウのマスコットが付いた鍵を取りだすと、部屋の錠を開けた。そして滑り込むように部屋の中にはいり重い荷物を床に下ろすと、大きなため息をついた。
「また、駄目かあ」
ぽつり呟く。あたし一人しかいない部屋に、言葉は吸い込まれて消えた。なんだか体力的にも精神的にも疲れ切って、あたしはそのまま玄関で倒れ込んだ。
就職難とは言うけれど、落ちるのはこれで何回目だろう? ……考えただけで暗い気持ちになったので数えるのはやめた。大学を卒業して2年。この間誕生日が来て24歳になった。いつまでもフリーターを続けるわけにはいかないと分かっているんだけど、雇ってくれる会社がないんじゃ仕方がない。まだ当分は、今やっている食堂でのバイトを続けなければならない。
どうして就職先が決まらないのか……選り好みしている訳じゃないと思う。だって、一度はちゃんとお勤めしたのだから。まあ、でも3ヶ月で辞めちゃったんだけど……
耐えきれなくて。ほんと、やばかった。今ならもしかして頑張れるかもしれない……けど嫌だ。とにかくあの頃の、社会人1年目で世の中の恐ろしさを知らないあたしには、あの出来事は恐怖以外の何物でもなかった。
……あたしがその会社を辞めたのは上司のセクハラが原因だった。あのエロ親父め! 今考えただけでもおぞましさで鳥肌が立つ。そんなことが日常茶飯事だというのだから、社会って怖い。
「今月……やばいのに」
あたしは顔にかかっていた長い髪の毛を手で払うと、バックの中から財布を取り出した。そして「増えてますように」と願いをかけながらそっと中身を確認した。けど、そんなことしたって中身が増えるわけでもなく、あたしの黄色い財布の中身は小銭ばかりで札が2枚しか入っていなかった。一瞬一万円札が入ってると思って飛び上がったんだけど、それはよく見たら最近めっきり見かけなくなった二千円札だった。紛らわしいったらありゃしない。
結局あたしの所持金は三千二百九十六円だった。通帳にいくらか貯金はあるけど、それは光熱費の支払いのためにとっておかなければならない。だからこの三千円ぽっちで給料日までの残り10日間を過ごさなければならないのだ。うう。はっきり言ってきつい。
ここは親から救援物資が送られてくるのを願うか、現実逃避するしかない。とりあえずあたしは、今食べたいものを想像した。
「ハンバーグが食べたい……」
そう呟くと同時に、あたしのお腹がぐぅと鳴った。どんな時でも腹は減る。特に食べ物のことを考えると、あたしの体の消化酵素は突然活動し出すのだ。
あたしは重たい体をなんとか起こすと、買い物袋をシンクの上に置いた。2LDKのこの部屋は、玄関を入ってすぐがキッチンだ。空腹で帰ってきたときなど、すぐ食料にありつけるのはありがたい。
冷蔵庫を開け、わずかに残っていた食材を出した。レジ袋からは今日の戦利品である缶詰と、パン屋で貰ってきたパンの耳を出す。念のため冷凍庫も覗いてみるが、中にあったのは食べかけのバニラアイスと氷だけだった。
あたしはため息をつくと今日の献立を考えた。ハンバーグが食べたくても、残念なことにハンバーグを作れるような材料がなかった。ご飯も残っていなくて、そういえばおにぎりにしてお昼に食べたんだと思い出した。
仕方なくあたしは、牛乳をコップにつぐと、鯖みその缶詰を開けて、冷蔵庫から出した残り物のブロッコリーときんぴらゴボウと一緒に皿に盛りつけた。米のかわりに、ちぎったパンの耳を茶碗に盛る。それらをテーブルに置いてみたら、なんだかそれなりに美味しそうに見えて、あたしは満足げに微笑むとアンティークの(だと思いこむことでぼろさを気にしないようにしている)椅子に腰掛けた。
「いただきます」
静かに夕飯を食べる。
チクタクと置き時計の秒針の音が、部屋の中に響いていた。本当はテレビを見たいけれど、電気代節約のために我慢する。あたしはバイト先から貰ってきた今日の新聞を広げると、テレビ欄のあらすじを読んだ。テレビを見られないので、頭の中で見たかったドラマの場面を想像する。
「………」
けれどそんなことしたってうまくいくはずもなく、あたしは脳内テレビを諦め、テレビ欄の反対側にある4コマ漫画を読んだ。
鯖みそを食べ、新聞を読み、パンの耳を食べ、新聞を読む。
一口二口と箸を進めていくうちに、あたしはなんだかむなしさがこみ上げてくるのを感じた。どうしようもなく、惨めな気持ちになる。
あたしが食べたいのはハンバーグなのに今食べているのはしょっぱい鯖みそで、お米のかわりはぱさぱさと口の内側にくっつくパンの耳。ぱっと見た感じ美味しそうに見えるけれど、この料理は洋食なのか和食なのか分からないし、はっきり言って美味しくない。いや、盛りつけただけだから料理ではないか。
書類選考に落ちた憂さ晴らしにお酒でも飲みたいところだけど、コップに入っているのは昨日賞味期限が切れた牛乳だ。もちろんお酒なんか買う余裕はない。
……悲しい。
なんだかとてももの悲しい気分だ。
誰か友達におごって貰おうにも、携帯電話が止められてしまって連絡も取れない。本当は親の言うとおり、田舎に帰って実家の……トマト農園を手伝えば良いんだろうけど、あたしはどうしても田舎に帰るのが嫌だった。ゴミだらけで忙しない都会よりは、故郷の方がずっと住み心地も良いし、生活の心配をしなくても良いのは分かっていたけど……
東大に受かったのを田舎の友人達が祝ってくれたとき「かっちゃんは、うちらの希望の星だ!」と過剰な期待を寄せられてしまったため、このまま負け組として田舎に帰ることができなくなってしまったのだ。
「やっぱり、米がいいよ……」
一人暮らしをはじめてから、独り言が増えた。それもなんだか「肉が食べたい」とか「彼氏が欲しい」とか「お金が欲しい」とか俗っぽいことばかり。特に金銭的な欲は、貧乏生活を初めてからと言うものかなり付いたと思う。大学時代の友達なんかはあたしのことをからかって“ガメ”って呼ぶ。がめついからだとか。全然そんなことないのに。ちょっと……いや、かなり失礼だ。
その時、
ピンポーン
呼び鈴が鳴って、あたしは勢いよく立ち上がった。もしかしてあたしの危機を察知した友達が、食料を持ってきてくれたのかも知れない。ろくなものをここ最近食べていなかったせいか、あたしは全く警戒心を持たずに扉を開けてしまった。都会が恐ろしいところで、女の一人暮らしは危険がいっぱいだということを忘れて……
扉の向こうには黒いサングラスに黒いスーツ姿の男が立っていた。
「満嶋夏南さんですか?」
低く少ししゃがれた声で、男が言った。
「はい、そうですけど」
あたしは訝しげに男を観察した。サングラスをしていて目の色は分からないけど、背も高いし彫りの深い顔立ちからして外国人のようだ。さらりとした黒髪をしていて、結構ハンサム。年は、二十代後半〜三十代くらいじゃないだろうか。セールスマン? ……にしては妙に胡散臭い。
「お迎えに参りました」
彼はそういうと、にっと笑った。右側の頬にだけえくぼができる。
「はい?」
あたしは変な声を出してしまった。だって、突然黒ずくめの怪しい男に『お迎えに参りました』と言われたら、誰でも困るでしょ? いや、普通そんなこと起きないか。
「えーと、何かの間違いじゃないですか?」
あたしが尋ねると、彼は首を振った。
「いいえ。あなたに間違い有りません」
彼がやけにきっぱりと言うので、あたしはかえって胡散臭いと思った。それに男のしゃべり方もおかしい。外国人特有の日本語と違うアクセントはあるんだけど、欧米やアジアのそれとも違う。全く抑揚のない、まるでロボットが喋っているかのような発音なのだ。これは新手の詐欺かなんかではないのか? あたしは急に怖くなって扉を閉めようとした。
ところが、男が扉の隙間に素早く足を滑り込ませてそれを阻んだ。そしてあろうことか、男は扉の縁に手をかけあたしが引くのとは反対に思いっきり引っ張ったのだ。
「ひゃあ!」
男の力に負けて、あたしは扉の外に引っ張り出されてしまった。靴下のまま、マンションの廊下に転がり出る。勢い余って転びそうになると、男がふわりとあたしを抱き留めた。
「−−−−!」
男があたしの知らない言語で何事かを叫ぶ。すると、階段の方から彼と同じ格好をした人たちがぞろぞろと現れて、あたしを取り囲んだ。
(何? 何これ、何?)
あたしはパニックに陥った。とにかく助けを呼ぼうと口を開くと、男に口を手で塞がれてしまった。これでは声を出すことができない。逃げようとすると別の男に両腕を掴まれ、手足をばたつかせて暴れると、またもう一人強い力で押さえ込まれた。
危機的状況。あたしは心臓が早鐘のように鳴っているのを感じながら、なんとか冷静になろうと深呼吸をした。すると一番はじめに現れた男が、
「少し眠っていてください」
とあたしの耳元で囁いた。
瞬間、ぞわぞわ〜って鳥肌がたった。怖い!!
そして彼は布のようなものをあたしの顔に押し当てた。その布は何か、甘い匂いがした。
甘い……?
はっとして息を止めたけど遅かった。それがよくサスペンスドラマなんかで出てくるクロロフォルムだと気が付いたのは、おもいっきり吸い込んでしまった後だ。
あたしは意識を失い、次に目覚めたときにはとんでもないことになっていた。
|