第十一章 第六節 天翔ける鶴 歴戦の戦士翔鶴の最期
一方、第一機動艦隊本隊こと機動部隊は大変な事態に陥っていた。
旗艦『大鳳』は後部エレベータを下げ、窓を全部開けて発生した気化ガスを逃がしていたが、断続的に第二次攻撃隊が帰艦し、その度にエレベーターの上げ下げしなくてはならないので換気は思うように進まなかった。しかも帰って来るのは悲惨なほど機数が減った攻撃隊。そのあまりの消耗率に、艦隊将兵皆愕然とした。
だが、この戦いは日本海軍が挑む、残存戦力上最後の決戦。決して負ける訳にはいかない戦い。それがこのあ号作戦だった。
第一機動艦隊本隊・乙部隊、第二航空戦隊空母『隼鷹』『飛鷹』『龍鳳』の三空母から第三次攻撃隊の発進命令が出された。
第二航空戦隊旗艦・空母『隼鷹』の防空指揮所では、甲板を蹴って次々に空へ舞い上がる艦載機を見送る隼鷹の姿があった。
「がんばってねぇッ! 応援してるよぉッ!」
軍帽をブンブン振って笑顔で見送る隼鷹。
三隻の空母から発進した第三次攻撃隊四九機(零戦十七機、爆装零戦二五機、天山七機)は上空で旋回しながら編隊を組み終えると、一路敵機動部隊を目指して空の向こうに向かっていった。
雲の向こうに攻撃隊が消えると、笑顔で帽を振っていた隼鷹から笑顔が消える。
軍帽を被り直すその表情は先程までの笑顔に対し悲しげにゆがんでいる。
今までずっと搭乗員達の訓練を見続けてきたが、明らかに自分が大活躍した南太平洋海戦の頃とは比べられないほど腕は落ちている。その力はあの頃を荒鷲とするなら雛鳥だ。まだ巣立ちには早い、そんな雛達。
先程帰って来た第一航空戦隊から出撃した第二次攻撃隊は、全体の四分の三を失って帰って来た。
情報によると敵艦隊は事前にレーダーを使って迫るこちらの攻撃隊の来襲を探知し、迎撃の戦闘機をこちらの攻撃隊の数と同等、またはそれ以上の数で迎え撃ち、なんとかその空中戦から脱しても、敵艦隊は最先端の対空砲弾である近接信管と艦艇の数を使ったすさまじい防空能力を発揮し、襲い掛かる攻撃隊を殲滅しているのだという。
これでは、今飛び立って行った攻撃隊の運命も、同じ道を辿るのではないか。そんな不安でいっぱいだった。
笑顔で仲間と笑い合っていたあの少年兵も、少年兵達を支え続けたあの青年兵も、少年兵達を厳しく指導していたあの下士官も、みんな死んでしまうのではないか。そんな想いが重なり、胸が苦しくなる。
それでも、戦わなければならない。それがこの戦いなのだ。
隼鷹は腰に挿した軍刀を引き抜く。その柄にあうネコのストラップが彼女の幼さを表しているかもしれない。だが、彼女だって日本海軍の軍人。銀色に輝く刀身が、その全てを表している。
「お兄ちゃん、私、がんばるからね」
そうつぶやき、隼鷹は自分達を守る為に敵艦隊に肉薄する第二艦隊が展開する海を見詰める。そこには、大好きな兄と慕う彼がいるから。
きっと、彼は自分を応援してくれている。そう想うだけで、力が溢れる。
銀色に輝く軍刀を天に上げ、真剣な顔で天を見詰める。
「お兄ちゃんの為にも、私、がんばるから!」
第二航空戦隊から飛び立った第三次攻撃隊は母艦隊の期待に応えようと敵艦隊目指して空を飛翔した。だが、誘導の失敗により攻撃隊は敵艦隊を捉える事はできずに引き返した。その際に七機(零戦一機、爆装零戦五機、天山一機)の未帰還機を出してしまった。
続いて第四次攻撃隊五〇機(零戦二〇機、九九艦爆二七機、天山三機)が発進。この攻撃隊は攻撃後にグアム島かロタ島経由でヤップ島に向かう手はずだったが、敵艦隊を発見できなかった上にグアム島付近で敵戦闘機の迎撃を受けて二六機(零戦十四機、九九艦爆九機、天山三機)が撃墜された。
第二航空戦隊の攻撃は、隼鷹の想いに反して大失敗に終わった。
一方第一航空戦隊が基幹となっている第一機動艦隊本隊・甲部隊、空母『大鳳』『翔鶴』『瑞鶴』は第二航空戦隊の攻撃の不発の連発に第五次攻撃隊の編成に掛かっていた。
気化ガスの排気に躍起になっている空母『大鳳』の艦橋には依然咳を続ける大鳳と、看病する瑞鶴がいた。
「・・・ゲホゴホッ! ケホッ! コホッ!」
「だ、大丈夫大鳳?」
「・・・(コクリ)。ゲホコホッ!」
激しく咳き込む大鳳の背中を瑞鶴はそっとさするが、たいして効果はない。
いつもは無表情の彼女が苦しそうに咳き込む姿は、瑞鶴の心を苦しめる。
また、自分が傷つかずに仲間が傷ついてしまった。これではまるで幸運の女神ではなく仲間を傷つける死神ではないか。
「ごめんね。あなたの代わりに、私が被雷すれば良かったのに」
「・・・(フルフル)」
「でも、だって私はいつもいつも守られてばっかりで・・・ッ!」
「・・・ゲホゴホッ! 守られる事は、幸せな事です」
「そ、そりゃそうだけど・・・」
「・・・私も、守られてます――翔輝さんに」
「長谷川大尉に?」
「・・・(コクリ)。幸せです」
「・・・そっか」
「・・・だから、瑞鶴さんも、守られている事を気に病む必要はありません。それが、皆を結ぶ関係なんですから」
大鳳はそう言うと、辛いのにも関わらず小さな笑みを浮かべた。その笑顔は小さくも力強い、瑞鶴を励ますものだった。
「大鳳・・・」
瑞鶴は胸が温まるのを感じた。
大鳳はこんなにもいい子なのだ。いい子で、優しく、たくましい。感情表現が少なくも、その奥にはこんなにも温かい心を持っているのだ。
こんないい子を、守ってあげたい。そう思ってしまう。
「大鳳。あなたを、私も守ってあげるからね」
瑞鶴はそう言うと、満面の笑みを浮かべる。その笑顔に、大鳳もまた小さく微笑む。
「・・・ありがとうございます」
その時、甲板に轟音が響き渡った。第五次攻撃隊の編成が終わったのだ。
「じゃあ、私行かなきゃいけないから」
「・・・(コクリ)」
瑞鶴は立ち上がると静かにその場から消えた。残された大鳳は再び激しく咳き込むと、窓から見える空へ飛び立っていく第五次攻撃隊を見詰め、小さく敬礼した。
「・・・ご武運を」
空母『大鳳』『翔鶴』『瑞鶴』の三空母から発進した第五次攻撃隊十八機(零戦四機、爆装零戦十機、天山四機)は敵艦隊目指して進んだが、結局敵艦隊は発見できずに引き返し一部不時着、九機(爆装零戦八機、天山一機)が未帰還となった。
この第五次攻撃隊に呼応して乙部隊(空母『隼鷹』『飛鷹』『龍鳳』)から第六次攻撃隊十五機(零戦六機、彗星九機)が発進した。第六時攻撃隊は敵艦隊を発見して空母目掛けて襲い掛かったが、全く戦果は上げられなかった。この戦いで九機(零戦四機、彗星五機)を撃墜された。
いくら攻撃しても戦果に対して圧倒的に損害が多い中、第一機動艦隊司令部はその壮絶な被害の多さに頭を悩ましていた。さらに『大鳳』艦内に充満する気化ガスが全然排出できず、濃度が高まってついに兵達が倒れる事態に陥っていた。防毒マスクを付けた兵達が懸命の復旧作業を行っているが、成果はいまだ上がっていない。
待ちに待った決戦だというのに思うように戦果が上がらない機動部隊。だが、そんな機動部隊をさらなる災難が襲う。
それは『大鳳』が被雷した三時間後に起きた。
蒼い空の下、翔鶴は防空指揮所で少し早い昼食を取っていた。
「今日の握り飯は塩加減が絶妙だな」
翔鶴はそう言って嬉しそうに握り飯を頬張る。ちなみにこの握り飯は先程兵達に配布されたうちの一つだ。どさくさに紛れて一個失敬したのだ。
翔鶴はそれをさっさと片付ける。食べ終わってから自分の頬に米粒が付いているのに気づいて顔を赤くする。
「・・・良かった。誰にも見られなくて」
恥ずかしそうに顔を赤らめながら心の底からそう思う翔鶴だった。もしも今のを他の誰か――特に翔輝になんか見られたら恥ずかしくて外が歩けなくなる。
翔鶴は気を取り直して外を眺める。そこには兵達が忙しく動き回る甲板。遠くには『瑞鶴』、復旧作業を行っている『大鳳』が見える。
翔鶴はため息する。
ここまでの戦いで機動部隊は大小合わせて合計六次に亘る攻撃隊を送ったが、そのどれもが接触失敗や接触できても大損害を受けて戦果がほとんど挙がらないという惨憺たるものだった。
ようやくの決戦なのに、この結果は納得できないものだ。
だが、状況はより悪い方へ転がっている。そう感じていた。
自分は真珠湾の頃から、この大東亜戦争の最初から見続けてきたが、今の飛行機は性能こそは以前より高いが、搭乗員の質は圧倒的に落ちている。そこへさらに敵艦隊の最先端の防御体制と物量戦。これでは勝てるはずがない。あの頃の搭乗員が揃っていても、この戦いはあまりにも厳しい。今の搭乗員では荷が重過ぎる。
このまま第七次攻撃隊を編成でも、犠牲が増えるだけで戦果はたぶん上がらないだろう。でも、諦める訳にはいかない。自分はこういう苦境をいくつも乗り越えてきたのだから。
その時、ふと思い浮かんだのは翔輝の顔。一瞬それに顔を赤くするが、すぐに軍帽を深く被り直して、口元に小さくも不敵な笑みを浮かべる。
「見ていろ長谷川。必ず貴様を驚かせるような勝利を掴み取ってみせる」
翔鶴は軍刀を引き抜くとそれを天に向ける。夏のように強い日差しが、銀色の刀身に跳ね返されてキラキラと輝く。その光を見詰め、翔鶴は不敵な笑みを浮かべ続ける。
「覚悟しておけ」
そう宣言すると翔鶴はすぐに緊急の作戦会議を開いて今度の打開策を練る事にした。その為に瑞鶴の所へ行こうとした時、それは襲い掛かった。
「くぅッ!」
突如胸を締め付けられるような鋭い痛みが電撃のように走った。その鋭い痛みに翔鶴は苦しそうに胸を押さえる。それは戦場を駆け抜けた彼女だからこそわかる殺気・・・
「な、何だ・・・この胸を締め付けられるような痛みは・・・ッ!?」
翔鶴は脂汗を垂らして振り向く。そこには蒼く輝く空があった。いや――空には脅威はない。残るは海・・・
「あれは・・・ッ!」
翔鶴の人間離れした視力が捉えたのは、遠くの海に浮かんでいる棒状の何か――それは、潜望鏡だった。
「敵潜水艦!?」
翔鶴に見付かったのに慌てたように潜望鏡が海に消えた。刹那、海中を六本の魚雷が自分に向かって白い軌跡と共に翔け出した。
「敵潜魚雷!? くそッ! 『大鳳』をやった奴か!?」
正確に言えば『大鳳』を攻撃した敵潜水艦とは違う潜水艦だが、今の彼女はそんな事を知る由もない。今の彼女がわかるのは――自分に危機が迫っているという事だけだった。
「右三〇度方向より魚雷六本接近!」
翔鶴の隣にいた見張り兵が青ざめた顔で伝声管に向かって叫んだ。その絶叫に『翔鶴』艦長、松原博大佐が急いで取舵を回すが、航海速度で航行していた『翔鶴』の速度では回避するのは間に合わなかった。
左に急速回頭する艦は大きく右に傾斜し、甲板にいた兵や飛行機が右に流れる。それだけのカーブをしても、海を翔けて迫る魚雷の射線はほとんど変わらなかった。そして・・・
ズドドドドドオオオオオォォォォォンッ!
すさまじい振動と爆音が響き、『翔鶴』の右側面に四本の水柱が高く立ち上った。刹那、翔鶴の脇腹から真っ赤な血が肉を切り裂いて飛び出た。一瞬にして防空指揮所は見えない血で真っ赤に染まる。
すさまじい痛みが体中を駆けるが、翔鶴は決して倒れる事はなかった。
「くそぉ・・・ッ! ゲホッゴホッ!」
激しい咳と共にべっとりとした血の塊を吐き、翔鶴は唇を噛んで痛みに耐える。その痛みは彼女が今まで体感した痛みとは異なるものだった。
翔鶴は震える身体を必死に立たせながら真っ青な顔で不気味に笑う。
「さ、さすがに爆弾と魚雷では痛みの桁が違うな・・・ッ!」
今まで『翔鶴』は珊瑚海海戦と南太平洋海戦で損傷したが、その両海戦での被害は爆弾だった。だから今回受けた魚雷の痛みは初めてだった。
生温かいぬるっとした血が腹を押さえる手にべっとりと付着している。それを見て翔鶴は苦笑いする。
「私ともあろうものが、魚雷ごときで倒れるとは・・・な・・・」
その途端、翔鶴はついに必死で足に入れていた力が抜け、その場にぐったりと崩れ落ちた・・・
「『翔鶴』被雷ッ!」
「姉さんッ!」
後方で陣を張っていた『瑞鶴』の防空指揮所から瑞鶴は叫んだ。その瞳からはボロボロと涙を流し、顔は真っ青で身体は小刻みに震えている。
「『翔鶴』の被害状況を確認しろッ!」
僚艦被雷の報告を受けて防空指揮所に慌てて駆け込んで来た貝塚は急いで命令を下す。そんな彼にすぐに瑞鶴が駆け寄る。
「瑞鶴・・・」
「艦長! 姉さんが・・・姉さんが・・・ッ!」
「落ち着け! 今『翔鶴』に発光信号を打ってる。お前は急いで翔鶴の所に行ってやれ」
「で、でも・・・」
涙でいっぱいの不安そうな瞳で瑞鶴は貝塚を見詰めるが、そんな彼女に貝塚は優しい笑みを送る。
「安心しろ。お前の本体は俺が守ってやる」
貝塚の言葉に瑞鶴はしばらく黙っていたが、泣きそうな顔のままコクリとうなずく。涙でいっぱいの瞳に輝く光には、彼を信頼しているという意思が込められていた。
「艦長・・・私の命、任せましたよ!」
「おう」
瑞鶴は急いで『翔鶴』に向かって消えた。残された貝塚は黒煙を上げて傾斜している『翔鶴』を見詰め、その煙の量を見て苦しそうに唇を噛んだ。
「瑞鶴・・・最悪の状況を考えておけ・・・」
そう苦しげにつぶやくと、貝塚は艦橋に戻った。
「姉さんッ!」
瑞鶴は急いで『翔鶴』の防空指揮所に向かった。そこには・・・
「ね・・・姉さん・・・ッ!」
今までの戦いで傷ついた時とは違い、翔鶴は血の海に倒れて苦しそうに顔をゆがめていた。だが、瑞鶴の姿を見ると、その顔にわずかに余裕が生まれる。
「瑞鶴・・・お前また・・・作戦中に自艦を離れおって・・・」
翔鶴は不機嫌そうに言うが、その声は常の彼女のと違ってすごく弱々しいものだった。
瑞鶴が慌てて近づくと、翔鶴はそれを制して立ち上がろうとするが、すぐにまた倒れて小さな悲鳴を上げる。
「姉さん! 無理しないでよッ!」
「耳元でやかましい声を立てるな・・・」
翔鶴は血でべっとりと濡れた拳で瑞鶴の額を小突く。その時の彼女の表情はいつになく優しいものだった。そんな翔鶴らしくない姉の表情に瑞鶴は恐ろしい戦慄を覚えた。
「ね、姉さん・・・?」
「瑞鶴・・・私の被害はどうやら・・・致命傷らしい・・・」
この時『翔鶴』は四本の魚雷を受け、燃料庫や火薬庫、弾薬庫に次々誘爆して艦内は火の海になっていた。とても、復旧できるような状態ではなかった。
突如鈍い振動と爆音が響き、翔鶴は吐血を吐いた。
「ね、姉さんッ!?」
「ど、どうやら・・・航空機格納庫にまで火が回ったようだ・・・瑞鶴。貝塚に伝えろ。もうすぐ『翔鶴』は沈む・・・その爆風を警戒して『瑞鶴』を離れさせろと」
瑞鶴の顔から血の気が失せて真っ青になる。その言葉に含まれていた《沈む》、それは艦の死、艦魂が死を迎える瞬間であった。
「瑞鶴・・・聞け・・・」
翔鶴の言葉に瑞鶴は首を振って聞きたくないという意思表示をする。ギュッとつむられた瞳からはボロボロと涙が溢れ続ける。だが、翔鶴はそんな妹に一喝する。
「聞け瑞鶴! この辺は敵潜水艦が潜伏している。早くこの海域から離脱するんだ! このままではお前まで――」
「そんな事できないよ! 姉さんや大鳳を置いて私一人逃げられないよ!」
「逃げるんだ! ここで空母が全滅すれば、出撃した攻撃隊はどこに戻るというのだ! ミッドウェー海戦の悲劇を繰り返すつもりか!」
「でも・・・でも・・・ッ!」
瑞鶴はいつの間にか瞳からぽろぽろと涙を流して真っ赤に染まった自分の姉を抱き締めていた。そんな妹を、翔鶴もそっと抱き締める。
「『大鳳』はあの煙なら・・・たぶん大丈夫だろう・・・・だが・・・ここで正式空母をこれ以上失う訳には・・・いかんのだ・・・わかってくれ・・・」
翔鶴の言葉に、瑞鶴は泣きながら叫ぶ。姉を失う、それだけは絶対に嫌だった。
「お姉ちゃんは何もわかってない! お姉ちゃんが死んだら、私はどうしたらいいの!? 私、一人じゃ生きていけないよぉ・・・ッ!」
「情けない顔をするな。お前は私の妹だ。お前なら大丈夫――それに、お前は一人じゃない。飛鷹達空母もいれば大和達のような奴らもいる。そして貝塚もだ。決して、お前は一人ぼっちじゃない――そうだろ?」
翔鶴の問いに、瑞鶴は小さくうなずく。彼女の瞳にはいつも憎まれ口を叩く扱いにくい姉の姿はなかった。あるのは、幾多の戦場を翔け抜けて敵空母部隊を殲滅してきた最強の武人の最期の姿だった。
翔鶴は瑞鶴から視線を外して蒼い空を見上げる。蒼い空はここが戦場である事を忘れさせるくらい輝き、煌いていた。
「空は美しい。人間や私達艦魂がいくらその命を削って戦いに身を投じていても、空の美だけは変わらない。暗く重い雲の向こうは青く輝く空があり、夜が来れば星達の煌きが世界を包む。過去から現在、現在から未来、未来永劫その輝きは失われる事なく続く」
空の美しさは決して変わらない。その言葉に瑞鶴もうなずく。
「そうだね。それは美しい事だけど、何かすごく寂しい」
「そうだ。無限の美しさは同時にそれと比べる自分の儚さや空しさに繋がる。私達のしている戦争など、空から見れば些細な国同士のケンカに過ぎん。だが、その些細な事に触れる人間や艦魂の数だけ物語がある。所詮それが短く儚いものでも、それはたった一つだけの物語に変わりはない。その中に生きる者がその平和を守る為に戦って何が悪い? 私はそれを守る為にこの命を捧げても悔いはない、そう思う。例え、そんな中にある私の物語がここまでだとしても、私に悔いというものはない。あるとすれば・・・お前が心配なくらいだ」
「姉さん・・・」
瑞鶴はぐったりとしている姉を抱き締める。
自分の姉は強い武人だと心から思う。幾多の戦いの中でも決して弱音は吐かず、いつも情けない自分の傍にいてくれた。いつも力になってくれたたった一人の姉――それが翔鶴だ。
自分はいつも彼女の背中に憧れ、安心し、守られてきた。
今の自分にできるのは、姉が自分に向ける心配を消してあげるくらいだ。
もう私は大丈夫。姉さんがいなくても私はみんなと戦い続けられるよ。そう言うだけだった。だが、
「姉さん・・・お姉ちゃんッ!」
自分の情けなさに、本当に呆れてしまう。だがそれでも、自分のたった一人の姉を失いたくない。その気持ちにうそはつけなかった。
「嫌だよぉ・・・死んじゃ嫌だよぉッ! 私はお姉ちゃんがいないと何もできないんだよ! だから死なないでよ! 生きて一緒に日本に帰ろうよ!」
泣き叫ぶ瑞鶴を、翔鶴は怒鳴る事なくそっと言い聞かせる。
「瑞鶴。私はお前が無事ならいいんだ」
「私は嫌だよッ!」
「これからの戦い、お前が先頭に立って空母達の陣頭指揮を執るんだ」
「そんなのできないよぉ」
「お前がしなくてはならんのだ。日本機動部隊を再び再建するには、お前の力が必要なのだ。今までは私が、これからはお前がするんだ」
「嫌だよぉ、お姉ちゃんじゃないと、お姉ちゃんがいないと・・・ッ!」
「いつまでも私に頼るな。お前はもう一人前だ――これ以上私を心配させてどうするのだ?」
翔鶴の言葉に、瑞鶴は「だって・・・ッ!」しか言えなくなる。そんな瑞鶴の頭を、翔鶴はそっと撫でる。その表情は妹を優しく励ます姉の姿そのものだった。
「どうせ、時間が来れば私は死ぬ。今は、私に言わせろ」
翔鶴はいつもの力強い瞳で瑞鶴を見詰める。
「生きろ瑞鶴。お前は天翔ける鶴――この翔鶴の妹だ。何も恐れる事はない。前だけを見て、戦い抜け。自分の大切なものを守る為に」
その言葉に、もう、瑞鶴は何も言わなかった。
必死に涙を拭いてがんばって笑顔を作る。そして・・・
「うん。わかったよ・・・お姉ちゃん」
瑞鶴の言葉に、翔鶴は嬉しそうに笑う。
「そう。それでいい――もう行け。もう私の命も短い。お前にはする事があるだろう?」
翔鶴はそう言って自分の軍刀を瑞鶴に渡す。自分の形見として。
「うん――わかった」
瑞鶴はそれを受け取って翔鶴を床に座らせ、立ち上がる。その瞳には我慢できずに涙が溜まり、溢れ、流れているが、瞳の輝きは強く輝いていた。
「じゃあ、姉さん。またいつか――平和な世界で会おうね」
「あぁ。その時を・・・楽しみにしてるぞ」
翔鶴の嬉しそうな笑みに、瑞鶴も最高の笑みを送る。
「さようならは言わないよ? またいつか会うんだから」
「そうだな――なら、またいつか会える日まで」
「うん。また、いつか・・・」
瑞鶴は踵と踵をカッと合わせ、右手を構えて見事な敬礼をする。そのまま光に包まれて消え、二度と『翔鶴』に現れる事はなかった・・・
一人残された翔鶴はどこまでも澄み切った蒼い空を見詰め、目をつむる。
「我が名は翔鶴。大日本帝国海軍翔鶴型空母一番艦、空母『翔鶴』の艦魂。我が使命は果たされ、消えゆく運命。だが・・・」
翔鶴は目を開ける。その目は濡れ、淡い日の光をゆらゆらと映していた。
「我が志は、妹の瑞鶴に託され生き続ける。我が人生に一点の悔いなし。そうだろ? 瑞鶴」
翔鶴はそう優しくつぶやく。
しばし洋上に浮かぶ『翔鶴』は、すでに総員退去の命令が出されていた。その命令は、乗組員達が死に逝く艦を捨てる事を意味していた。
自分はもうすぐ死ぬ。なのに不思議と恐怖は一切なかった。絶望は、していない。
妹は立派に自分の下から巣立っていった。これでもう自分に心残りはない・・・はずだった。
「・・・くそぉ・・・もう少し早く・・・自分の気持ちに素直になっていれば・・・良かったなぁ・・・」
そうつぶやき、翔鶴は瞳からぽろぽろと涙を流す。
思い浮かぶのは生きて帰ってもう一度告白すると約束した彼の笑顔。
もう少し早く気づいていれば、彼といる時間を、少しでも充実したものになったはず。自分の素直になり切れない一面のせいで、こんなにも後悔をするなんて。
自分に素直に・・・
大鳳の言葉をもう少し早く実践していれば、こんな後悔もしなかったのに。
悔いのないように生きてきたつもりだったのに、最後の最後でこんな失態をするとは、自分もまだまだ甘い。そう思った。
「長谷川・・・すまない・・・約束を・・・守れなかった・・・」
死ぬなと言われ、自分はうなずいた。生きて帰って来る事はできないかもしれないと覚悟していたのに、彼はそんな自分に生きる意味を教えてくれた。
生きて帰って、もう一度想いを伝えよう。そう思った矢先にこの状況。悔しくて仕方がない。
もう、二度と会う事はできない。それは辛く悲しい。だけど、受け入れなければいけない現実なのだ。
「もっと早く・・・自分の気持ちに素直になれば・・・こんな事には・・・」
もう少し早くこの気持ちを伝えていれば、彼と両想いになれただろうか。
さぁ、それはどうだろう。今現在だって翔輝は大和や武蔵、伊勢といった強硬派のすさまじいアタックにも負けない(気づかない?)猛者だ。きっと不可能だっただろう。だが、可能性はゼロじゃない。努力すれば、きっと今よりはもっと良い関係が築けていただろう。
今さら後悔しても遅いが、そんな想いが胸を痛める。
「・・・大和達に・・・長谷川を取られるのは・・・嫌だなぁ・・・」
胸が熱く、痛くなる。これがやきもちという感情なのだろうか。
良かった。
こんな感情を抱くとは、自分も一人の女子だったのだ。
今も目を閉じれば思い出せる彼の笑顔。
いつも笑顔で優しく、誰にでも好かれる真っ直ぐな心を持ち、皆の心の支えとなっている。だがその優しい笑顔の奥にはとてつもない闇があって、本当は誰よりも弱い一面を持つ。それが長谷川翔輝という少年――自分が好きになった奴だ。
いつの間にか、彼の笑顔に自分は支えられていた。彼と会える。彼と話せる。そんな楽しみが自分に生きる希望を与えていた。
だから、今度は自分が彼の闇を支えてあげよう。そう思った――なのに、もう自分には何もできない。
やっぱり・・・死にたくないな・・・・
そんな想いが胸を満たす。それはそうだ。誰が好き好んで死を受け入れる覚悟なんてできるものか。
だが、これは変える事はできない辛い現実――受け入れるしかない。
「長谷川・・・」
内部の爆発状況を見ると、もうすぐ最期の瞬間が訪れる。
せめて最期に、翔輝の笑顔が見たかった。
優しく包む、まるで太陽のような明るい笑顔。
あの笑顔を最期に見れれば、きっと迷わず成仏できただろうに。
そう思うと、思わず笑みが浮かんだ。
こんな状況でも、こんなにも自分らしさを保っていられる自分に驚く。
誰も見てはいない。だけど、せめて最期に自分の最高の笑みを残したい。
翔鶴は一度大きく深呼吸をする。もう呼吸するだけで痛いのに、自然と今はそれが気にならない。
そして、目や眉、唇を柔らかに曲げ、頬を優しく上げた。
「長谷川・・・」
翔鶴が浮かべる最期の笑み――それは、わずか約三年しか生きていない、だけど充実した短き艦生の中で、最も優しく、柔らかい、最高の笑顔であった。
「・・・貴様を・・・心から・・・愛している・・・頼むから・・・私を・・・忘れ・・・ないで・・・くれ・・・」
そう言って瞳から一筋の涙が流れた刹那、翔鶴は静かに目を閉じた。
直後、日本が誇る世界最強の空母の一隻――空母『翔鶴』はどこにこれほどまでのエネルギーがあるのか、と思わせるほどの火炎を天高く奔出させると、艦体を真っ二つに折り、艦首と艦尾を抱き合わせるようにして沈んだ。
それは悲壮の中にも雄々しさを感じさせる堂々たる最期だった・・・
――空母『翔鶴』、日本の空母技術の粋を結集させて完成した最新鋭最強空母。太平洋戦争の火蓋を切った真珠湾攻撃から常に日本海軍の最前線で戦い抜き、ミッドウェー海戦で機動部隊が壊滅した後も妹艦『瑞鶴』と共に太平洋を縦横無尽に駆け回りながら全力で戦い続け、幾多の敵空母を葬ってきた歴戦の空母。妹艦の代わりに自らの体を傷付けながらも戦い抜いた武勲艦は、日本海軍が挑んだ最後の決戦とも言うべきマリアナ沖の決戦で、敵機の攻撃ではなく、敵潜水艦の雷撃を受けて致命傷を受け、その激動の歴史についに終止符を打ち、その長き戦いの間で傷ついた巨体を海深くに沈めていった。常に最前線で戦い続けたその歴戦の空母の艦魂は、その激動の艦生には不釣合いなほどうら若き少女であった。常に勇ましく、一騎当千の強さを持った武人は、いつもまわりの艦魂達の希望として先頭に立ち続けた。そして、そんな少女は自分の本当の気持ちを隠し続けていたが、ようやくその気持ちに正直になり、初恋を認めた。だが、すでに時遅く、少女はこの決戦で命を落とした。本当はまだ生きたい。もっと彼と一緒にいたい。そんな想いも空しく、少女はその激動の艦生に終止符を打って永遠の眠りについた。その少女の壮絶な最期を、機動部隊の艦魂達は敬礼しながら、看取った――
空母『翔鶴』沈没の訃報は、すぐに大和達の前衛部隊にも伝わった。もちろん、大和や翔輝の耳にも入った。
「翔鶴が・・・死んだ・・・ッ!」
翔輝はその報告に愕然とし、悔しそうに拳が真っ白になるくらい強く握った。その拳は翔鶴を殺した敵に対しての怒りでもあり、何もできなかった自分への憤りも合わさっていた。
「翔鶴さんが・・・そんな・・・ッ!」
大和は翔輝に抱き付いて泣いている。そんな大和の頭を翔輝は苦しげな顔を必死に隠しながらそっと撫でてやる。
翔鶴は大和や翔輝にとっても長い付き合いを持つ友人だ。幾多の戦いを駆け抜けた真の武人である彼女を、二人は少なからず尊敬していた。
そして何より、彼女は翔輝に恋をしていて、つい先日告白されたばかりだった。この戦いが終われば、もう一度告白すると言っていた。
彼女の勇ましい常の顔と、月明かりの下の乙女らしい顔が重なり、翔輝の胸は引き裂かれるような痛みを受けた。
本当の彼女の一面を知ったばかりだというのに、そんな彼女はもういない。
涙を流さないようにするのが必死だった。
「さっきは『大鳳』が被雷して、今度は『翔鶴』が被雷して沈没。それに対し戦果はほとんどない。このままじゃ惨敗だよ」
翔輝の言葉に大和は瞳を見開くと、怒りに染まった瞳で睨みつける。
「そんな事今はどうでもいいじゃないですか! 翔鶴さんが死んだんですよ!? 今はそっちの事の方が重要じゃないですか!」
「・・・別の事を考えてないと、やってられないんだよ・・・ッ!」
悔しそうに唇を噛む翔輝を見て、大和はそれ以上何も言えなかった。
落ち込んでいる二人を見詰め、森下もうつむく。
「艦長? どうしたのだ」
森下の様子にいち早く気が付いた宇垣が声を掛ける。
「いえ、長谷川と大和が『翔鶴』沈没を知って落ち込んでいたので」
宇垣は艦橋の隅で海図を見詰めている翔輝を見詰める。翔輝は唇を噛んで海図を見詰めている。そんな翔輝に宇垣は立ち上がると近寄る。
「長谷川君」
「な、何ですか?」
宇垣に突如呼ばれて驚いたように翔輝が顔を上げると、宇垣は優しげな眼差しで翔輝を見詰めていた。
「少し落ち着け。友人が死んだのに落ち着くなと言う方が無理かもしれんが、今は冷静になるべきだ。わかったか?」
宇垣の言葉に、翔輝は素直にうなずいた。それを見て宇垣は満足したのか司令官席に戻る。そんな宇垣を見て翔輝は大和を見詰める。
「大和。宇垣司令の言うとおりだ。今は落ち着いて作戦に集中しよう」
大和は小さくうなずくと、涙を拭き取る。
「そう・・・ですね・・・翔鶴さんの死を無駄にしない為にも。私達の活躍によっては、瑞鶴や大鳳達を危険にさらす事になりますから」
大和も真剣な眼差しで窓の外の空を見詰める。
多くの死を体験したのか、大和は友人の死にもある程度の対応ができるようになっていた。それは決していいとは限らないが、軍人としてはそれは大事な事だ。だが、翔輝から見れば大和はまだ子供。そんな子供にそんな辛い免疫ができてしまうのは、正直辛い。
翔輝と大和は瑞鶴達のいる空を見詰め、無事を祈った。 |