第十章 第二節 悠久の絆砕ける亀裂
九月七日、松田千秋大佐に代わって大野竹二大佐が大和三代目艦長に就任した。その後、松田は軍令部第一部第一課出仕兼大本営参謀という役職に就任した。彼はそこで伊勢型戦艦の航空戦艦改造を誰よりも支援していた。実は伊勢型戦艦を航空戦艦に改装するのを提案したのが、この松田だったのだ。
そんなこんなで松田の後任には大野竹二大佐が当たった。彼は『大和』の前は最上型重巡洋艦三番艦『鈴谷』の艦長をしていた。ちなみに、『大和』初代艦長の高柳儀八大佐も以前は『鈴谷』の艦長だったりする。
ともあれ、こうして戦艦『大和』新司令部が発足した。
就任初日、大野は司令部の人事異動を行った。その際、翔輝は大尉に昇級。及び通常航海士から先任航海士に昇級した。先任航海士とは、航海長の補佐を行う数人の優秀な航海士に与えられる役職である。
この翔輝の昇級に、大和達は大喜びし、その祝賀会を開いた。
「では、戦艦『大和』先任航海士に格上げ、及び大尉に昇級した長谷川翔輝航海大尉を祝って、乾杯ッ!」
『かんぱーいッ!』
長門の掛け声で、艦魂達は嬉しそうにお酒(特別許可)やラムネを飲み始めた。気分はもう祝賀会ではなく宴会である。
「おめでとう。長谷川君」
満面の笑顔で言う長門の激励に、恥ずかしそうに頬を赤く染める翔輝。その襟には銀色の桜章が三つ輝いている。
「ありがとうございます。でも、こんなに祝わなくてもいいんですよ?」
「何言ってんのよ。相変わらず低姿勢なのね」
「いや、低姿勢も何も、一兵士の一階級昇進くらいでこんなに祝うのもどうかと」
「長谷川君。こういう時は羽を伸ばしなさい。いつも大変なんだから」
そう言って長門は優しく微笑んだ。そんな長門の笑みに、翔輝も自然と笑顔になる。
「中尉――じゃなくて大尉。おめでとうございます。はぁ、また言い方が変わってしまいました」大和は疲れたようにため息を吐く。
「ははは、ありがとう。階級で呼ぶのが面倒なら、名前で呼べばいいだろ?」
「そ、そんな恥ずかしい事できないですよ!」
翔輝の言葉に、大和は顔を真っ赤にさせて顔の前で手をブンブン振って否定の意味を表す。鈍感な翔輝に複雑な乙女心を理解しろという方が無理な話だ。
「そうか? 別に恥ずかしい事なんてないと思うけど。それに武蔵は名前で呼んでるし」
「武蔵は武蔵。私は私です」
「まぁ、お前がそれでいいならいいけど・・・」
「・・・翔輝」
小さな声が響き、振り返ると、そこにいたのは数多くの艦魂の中で唯一彼の事を名前で呼ぶ親しい存在の艦魂――武蔵だった。武蔵は口元に小さな笑みを浮かべる。
「・・・翔輝。おめでとう」
「武蔵。ありがとう」
翔輝も嬉しそうに微笑む。そんな二人を見て、大和は赤い頬のまま唇を尖らせる。
「いいなぁ武蔵。中尉の事を名前で呼べて」
「・・・姉さん。翔輝の階級間違ってる」
「あ・・・」
「おいおい、また同じ間違いをするつもりか?」
「ちょ、ちょっとした間違いです!」
顔を真っ赤にして反論する大和を見て、翔輝はおかしそうに笑う。笑われた大和はさらに顔を真っ赤にして怒る。
「中尉ッ! 何がおかしいんですか!」
「ほら、間違えてる」
「うっ」
言葉に詰まる大和に、翔輝はそっと優しく微笑んだ。その時、
「お兄ちゃん! 昇級おめでとう!」
勢い良く走って来た隼鷹が嬉しそうに翔輝に豪快に抱き付いた。おもわず転びそうになるのをなんとか耐える。こうした日々の奮闘が、彼をたくましく成長させている理由のひとつでもあったりする。そんな翔輝に抱き付いて満面の笑みを浮かべている隼鷹は昨日翔鶴達機動部隊と共にトラックに来たばかりだったが、まさか着いて次の日にこんな祝い事があるとは誰も思わなかっただろう。
「こんなに早く大尉に昇級できるとは、たいしたものだ」
「おめでとうございます。長谷川大尉」
頼もしい笑みを浮かべる翔鶴と天真爛漫な満面の笑みを浮かべる瑞鶴は嬉しそうに激励する。翔鶴は「まあ、これからもがんばれ」と念押しをする。さらに、
「・・・(無言でラムネを突き出す)」
「大尉。全駆逐艦を代表して言います。おめでとうございます」
山城らしい激励と、雪風の純粋無垢な笑顔の激励に、翔輝も嬉しそうに「ありがとう」とお礼を言う。
「ふん。貴様にしては上出来だ」
「大尉か。よくやくまともな階級になったじゃねぇか」
そう言って素直じゃない激励をするのは金色の髪を流して不敵な笑みを浮かべる金剛とポニーテールまでもが元気いっぱいに揺れる榛名。そんな二人にも祝ってもらい、翔輝は嬉しそうに笑う。
陸奥がいなくなって三ヶ月。自分にはまだこんなにも多くの仲間がいる。そう思うと嬉しくてたまらない。
こうして昇級を祝ってくれるみんながいるから、自分は今ここに立っていられるのだ。決して一人ではなく、みんなと一緒に。
翔輝は満面の笑みで皆の激励に応えると、山城から受け取ったラムネを天高くに突き上げる。電気に照らされた透明なビンの中で、シュワシュワと炭酸が心地良い音を奏でる。
「よーしッ! 今夜は徹夜で飲みまくるよぉッ!」
『おおおおおぉぉぉぉぉッ!』
部屋にいる多くの艦魂達の嬉しそうな咆哮が、深夜の『大和』第三会議室を力強く震わせた。
翔輝は先任航海士になり、今まで以上に忙しくなった頃、艦魂達を震撼させる出来事が起きた。
それは航海科に新しい航海士達が配属された日に起きた。
その日、大和は武蔵を共に『大和』艦内の通路を歩いていた。
「・・・そっか、いよいよ最終防衛線を考えないといけないわね」
「・・・最終防衛線は千島列島、小笠原諸島、マリアナ諸島、中西部カロリン諸島、西部ニューギニア、スンダ列島、ビルマに決定して防衛作戦を考えるべき。敵がこのいずれかを攻略した場合、日本の破滅へと繋がる。最悪敵がこの最終防衛線に侵入した場合は、本土防空用の全本土基地航空隊を向けてでても敵の侵攻を食い止めなくてはならない。その時は、私達連合艦隊も命を懸けて敵艦隊に殴り込みを掛ける事になる」
武蔵の言葉に、大和はうなずく。
日本本土近海の制海空権を失えば、日本は南方資源地帯との補給路を失う。そうなれば、資源のない日本はすぐに枯渇する。艦を修理する鉄も、艦を動かす石油も、何もかも失ってしまう。そうなれば、継戦能力を完全に失われる。その先に待つのは破滅だけ。
「何としても、守らないと」
大和の言葉に、武蔵もうなずく。
日本を守るには、もう日本軍の全力を挙げて戦うしかない。総力戦だ。
大和と武蔵は具体的な防衛作戦を練りながら歩く。と、対向方向から一人の青年士官が現れた。青年は大和と武蔵を見ると、にっこりと微笑む。
「「・・・え?」」
驚く二人に、青年は優しく言った。
「こんにちは。俺は坂井昇航海少佐。本日付で『大和』勤務に任命された。で、大和はどっちなの?」
青年――坂井昇航海少佐は満面の笑みでそう言った。
――それが、新たな出会いであり、亀裂の始まりだった・・・――
「坂井昇少佐? あぁ、今日配属された航海士の一人だけど。それがどうしたんだ?」
艦橋で海図に書き込みをしていた翔輝に、大和は興奮した表情で言う。
「坂井少佐って、艦魂が見えるんです」
「艦魂が?」
これには翔輝も驚いた。乗組員二五〇〇名のこの『大和』であっても艦魂が見えるのは今まで自分一人だったのだ。それが今回もう一人現れた。これは翔輝も嬉しい事だった。
「坂井少佐か、これは話が合いそうだな」
そう笑っていると、ドアが開き、ご本人――坂井昇航海少佐が現れた。
「あれ? 君は大和。どうしたの?」
坂井が不思議そうに首を傾げると、翔輝はそんな彼の前に立った。
「あの、僕の名前を覚えてますか?」
敬語を使うのは役職が上と言っても、階級も年齢も相手の方が上だからだ。
坂井はにっこりと微笑む。その笑みは翔輝に負けず劣らずの優しげなものだった。
「あぁ。戦艦『大和』先任航海士、長谷川翔輝航海大尉だろ?」
「よく覚えてましたね」
「もちろんだ。階級は私の方が上だが、役職上一応上官だしな。覚えなければならん。あぁ、でも、敬語は抜きでいいよな?」
「はい。もちろんです」
微笑む坂井という青年は、どこか幼さが残る翔輝と違ってしっかりとした大人の雰囲気を纏っている。そんな彼に、翔輝も優しく微笑んだ。
「あなたは艦魂が見えるんですか?」
「な、何でそれを・・・ッ!」
驚く坂井に、翔輝は嬉しそうに優しく微笑む。
「実は、僕も見えるんです――艦魂が」
「え?」
再び驚く坂井に、翔輝は隣に立つ大和を紹介する。
「もう知ってると思いますけど、彼女は戦艦『大和』の艦魂。僕の知り合いです」
翔輝が何気なく言った《知り合い》という単語に、大和は寂しさを覚えた。
(私は、大尉にとってはただの《知り合い》でしかないんですか)
悲しげな瞳を揺らす大和に気づかず、翔輝はにっこりと微笑む。すると、坂井も嬉しそうに笑みを浮かべる。
「そうだったのか。これは嬉しい事だ。前に乗っていた艦には俺一人しかいなかったからな。これは楽しくなりそうだ」
「以前は何に乗られてたんですか?」
翔輝が何気なく訊くと、突然坂井は悲しそうに微笑んだ。その悲痛な笑みを、翔輝は知っている。
「あいつはもう、ソロモンの海の底だ」
「・・・沈んだ・・・のですか?」
「あぁ。俺は以前――戦艦『比叡』に乗っていたんだ」
「「『比叡』!?」」
二人は驚く。
忘れもしないその名前の戦艦。
金剛型戦艦二番艦として連合艦隊の中でも重鎮的存在だったその戦艦の艦魂は、凶暴な姉と乱暴と内気という正反対な性格の双子の妹との間でいつも優しく微笑んでいた。その笑みに、一体どれだけの艦魂が救われてきたか数知れない。そんな彼女は、一九四二年十一月に適否工場砲撃任務を受けて出撃し、待ち受けていた敵艦隊や敵機の猛反撃を受けて妹艦『霧島』と共に海に沈んだ。
目をつむれば思い出せるその優しげな笑みに、翔輝と大和も悲しそうな瞳をする。
「そうですか・・・以前は・・・『比叡』に・・・」
「あぁ。比叡とはかなり仲のいい関係だった。沈没する際、俺は強く艦に残る事を希望してあいつと運命を共にしようとしたんだが、あいつは無理やり俺を甲板に転送し、俺はそのまま海に投げ出された――俺は、比叡に助けてもらって、ここにいるんだ」
寂しそうに言う坂井の肩は震えていた。そんな震える彼の肩に、翔輝はそっと手をのせる。上げられた瞳をじっと見詰める。
「比叡さんとはあまり親しい関係ではありませんでしたが、同作戦で沈没した『霧島』の艦魂とは、仲のいい友達でした。だから、そのお気持ちはわかります。だからこそ、彼女達の為にもがんばりましょう」
翔輝の強い志が込められた笑みに、坂井はうなずいた。
「当たり前だ。あいつの為にも――それに、大和達の為にもな」
「え? あ、はい」
いきなり話を振られた大和は油断していて慌てて答える。
「へぇ、ずいぶんと仲良くなったじゃん」
嬉しそうに笑顔で言う翔輝に、どことなく不満の残る大和だった。
その夜、翔輝はみんなに坂井を紹介する為に会議が終わった直後の会議室に向かった。
長い会議が終了した直後に翔輝はドアをノックして部屋の中に入る。思ったとおり椅子から立ち上がろうとしていた艦魂達が一斉に自分達に注目する。
「中尉? どうされたんですか? それに坂井少佐まで」
驚く大和に優しく微笑むと、後ろにいた坂井を前に出す。
「みんな、紹介します。彼は坂井昇航海航海少佐。本日付で『大和』に配属されました。ここに連れて来た訳は、彼は艦魂が見えるからです」
翔輝の紹介に、その場にいた艦魂達は全員坂井に注目した。好奇な目や、警戒する目が集まる中、坂井はにっこりと微笑む。その時、
「うん? 坂井昇? 貴様確か、『比叡』に乗っていなかったか?」
何かを思い出したように訊く金剛に、坂井はうなずく。
「あぁ、乗ってたよ」
「――そうか、比叡から聞いていた艦魂の見える航海士とは、貴様の事であったか」
「あいつが、比叡姉さんが言ってた」
特に坂井をジロジロと見る金剛と榛名。そんな二人の名前を翔輝が言うと、坂井は嬉しそうにうなずき、彼女達に近づく。
「君達が比叡の言っていたお姉さんと妹か。初めまして、坂井昇航海少佐だ。よろしく」
「――ついでに口が悪いと言っていたが、それは当たりのようだな」
無礼者を金剛は不機嫌そうな瞳で見詰める。だが、坂井はそんな事を気にした様子もなく二人に話し掛ける。そんな坂井のまわりには多くの艦魂が集まっている。彼の優しげな雰囲気が彼女達を引き付けたのだろう。
長門は艦魂達に囲まれて微笑んでいる彼を嬉しそうに見詰めている翔輝の傍に寄る。
「いいの? あんなに明るい人なら、艦魂達がみんな坂井について、あなたから離れていくかもしれないわよ?」
長門はからかうように言うが、翔輝は気にした様子もなく微笑む。
「別に。それは僕よりも坂井さんの方がいいという判断でしょう。僕は、それでそいつが幸せになれるなら構いません。僕から離れたければ、離れればいいだけです」
笑顔で言う翔輝。聞き様によっては悲しい言葉に、長門は黙ってしまう。
「わ、私は絶対に大尉から離れませんから!」
「・・・翔輝以外の男なんて、近寄りたくもない」
そんな翔輝に必死な声で言う大和と武蔵。そんな二人の言葉に翔輝は嬉しそうに微笑む。
「ありがとう。大和。武蔵」
笑顔で言う翔輝は本当に嬉しそうだった。そんな笑顔を見て、長門はきっと大丈夫と思った。今までの思い出が、彼らの絆の深さを思われる。
長門はわいわいと騒ぐ大和達を見詰め、優しく微笑んだ。
坂井との出会いから数週間後が経った頃、『大和』の会議室では緊急の艦魂会議が開かれていた。極上幹部会の幹部である各部の部長副部長がほぼ全員参加した。
武蔵は会議の開口一番に驚くべき訃報を口にした。
「イタリアが、降伏しただと・・・ッ!」
金剛が怒りの表情一色で武蔵を睨む。そんな彼女に睨まれる武蔵は無表情で手に持つ資料を見ながら淡々と説明する。
「・・・連合国の反撃を受けてイタリアは陥落。ドイツもスターリングラード攻防戦(一九四二年八月〜翌年二月にかけての第二次世界大戦最大の陸上戦。ドイツ軍五〇万人は三倍以上の兵力を持つソ連軍に包囲されて大敗北した)で劣勢に追い込まれている。ドイツも陥落するのは時間の問題」
「ふんッ! 所詮は欧米のクズ国家か。降伏など、武士の誇りに反する愚策をしおって・・・ッ!」
金剛はいつも以上に不機嫌そうだ。欧米に対しすさまじい嫌悪感を持つ金剛は、イタリアが陥落した事にすさまじく腹を立てていた。
「ちっ、所詮騎士道なんてそんなもんか。武士道の足元にも及ばねぇ。だがよ、俺は騎士道も嫌いじゃなかった。武士道と騎士道、どこか似通っているものがあると思ってた。だが、イタリアの連中は騎士精神も忘れた――ただの愚民でしかなかったかよッ!」
榛名もすさまじい嫌悪感を露にする。そんな二人の言葉に、皆は何も言えずに沈黙する。
「ヒトラーとやらも、所詮は欧米人。いつかは降伏するだろう。だが、我が不滅の大日本帝国は、決して欧米諸国には屈せんッ! その民族の魂尽きるまで戦い、一億総玉砕の覚悟で欧米諸国に最後まで抗うッ!」
――金剛の瞳に刃が灯る。
「例え、日本人が全て滅ぶとしてもだ・・・ッ!」
金剛の言葉に、全員が息を呑む。彼女のすさまじい愛国心は、人並み外れている。だが、ここにいる大和の民は、全て同じ想いだ。
――その命尽きるまで戦う――
それは、誰もが敬愛すべき天皇陛下に誓った――絶対必須な責務なのだから。
「・・・おそらくイタリアは米英の傀儡国家となって、対日独戦に参加する。そうなれば、ドイツの命も風前の灯になる」
武蔵の言葉に、金剛は椅子を蹴って立ち上がる。その瞳には紅蓮に燃え上がる闘志があった。
「例えドイツが滅んでも、我が神国大日本帝国は永久に不滅ッ! アメリカやイギリスには絶対に屈せんッ! 民族の魂尽きるまで戦う! 銃がなければ竹槍で串刺しにしろッ! 竹槍を失ったら殴り殺せッ! 両腕をもがれれば蹴り殺せッ! 脚を潰されれば噛み殺せッ! 首を断たれれば睨み殺せッ! 最後の一人まで欧米人に挑み掛かれ! それが真の日本人であり、真の武士道だッ!」
金剛のすさまじく過激な言葉に皆呆然としたが、ほとんどの者がうなずいた。ここにいる皆も同じ志を持つ大和の民なのだ。
だが、長門や大和、武蔵といった数名の者は、うなずく事はしなかった。
「日本人全てが死ぬなんて、そんなの・・・絶対にダメなんだから・・・」
長門の小さな声は、頭に血が上っている金剛達には聞こえる事はなかった。
会議が終わり、大和は艦橋に向かった。艦橋のドアを開けると、そこでは翔輝が忙しそうに仕事をしていた。そんな彼の姿に嬉しそうに微笑むと、大和は彼に近づく。
「大尉。何か手伝える事はありますか?」
大和が笑顔で尋ねると、翔輝は仕事の手を止めぬまま「会議終わったんだ」と明るく声を掛けてくれる。
「はい。それで何かお手伝いは」
「いや、何もないよ。ありがとね」
翔輝は笑顔で答えると、すぐに海図に目を戻す。大和はそんな翔輝の横に付いて一緒に海図を見る。その表情は嬉しそうだ。
いつもと変わらぬ、平和で幸せなひと時。だが、
「おぉ、大和」
「坂井さん!」
艦橋に戻って来た坂井に、大和は満面の笑顔で翔輝から離れ、彼の下に寄った。そんな大和に坂井も嬉しそうに微笑む。
「相変わらずかわいい顔してるな」
「そ、そんな、かわいいだなんて。照れてしまいますぅ」
「ははは、そうやって恥らう仕草もかわいいな」
「んもう。坂井さんったら」
「ははは」
大和は照れたように頬を赤らめながらも嬉しそうに笑う。そんな彼女に坂井も嬉しそうに微笑む。その会話はとても楽しそうだ。そんな楽しげに話す二人を、少し離れた場所にいる翔輝は少し寂しげな瞳で見詰める。
「・・・翔輝」
「え? あ、武蔵」
いつの間にか、翔輝の横には武蔵が立っていた。相変わらず神出鬼没で、何の感情も窺えない無表情をしている。だが、その瞳はしっかりと翔輝に向けられている。
「・・・どうしたの?」
「うん? いや、あの二人、仲がいいなぁって思ってさ――えへへ、ちょっと、悔しいな」
「・・・翔輝?」
翔輝らしくない言葉に武蔵は驚いて彼の顔を見上げる。小さく微笑んでいるが、その表情は悲しみを秘めた笑顔だった。そのまま、翔輝は口を開く。
「いやね、最近大和と坂井さんが仲がいいから。大和も坂井さんの所に行く事が多くなったし。なんか、ちょっとね」
小さく「悔しいなぁ」とつぶやく彼に、武蔵は楽しげに話し込む実の姉を睨む。
「・・・姉さん。最低」
「コラ。自分の姉の事を悪く言うなってば」
翔輝はそう言って苦笑いする。いつもと変わらない言葉だが、その表情はどこか暗い。そんな彼を、武蔵はしっかりと見詰める。その瞳にはしっかりとした意思が込められていた。
「・・・でも、安心して。私は翔輝から決して離れないから」
凛とした声で言う武蔵に翔輝は唖然とする。その気まずい沈黙の中、武蔵の頬がだんだん赤く染まる。自分の言った事が恥ずかしい事だと脳が理解し始めたのだろう。そんな武蔵がかわいくて、いじらしくて、翔輝は笑ってしまった。
「・・・な、何で笑う」
武蔵は顔を真っ赤にさせたまま不機嫌そうに唇を尖らせる。
「いや、なんかかわいかったからさ」
「・・・か、かわ・・・ッ!」
武蔵は先程以上に顔を真っ赤にさせる。
「・・・ほ、本当?」
不安げに問う武蔵に、翔輝はしっかりとうなずいて答える。
「もちろん。基本的に僕はウソつかないでしょ?」
翔輝の言葉に、武蔵はコクリとうなずく。
「・・・翔輝はウソをつかない。だから、今の事は本当な訳で――」
再び顔を赤く染めて黙ってしまう武蔵に、今度は翔輝まで頬を赤らめて慌てる。
「も、もうその話はやめよう! なんかこっちまで恥ずかしくなってくる」
「・・・了解」
二人は頬の赤いまま互いを見詰め合い、笑った。
翔輝と武蔵は楽しそうに話を弾ませ、武蔵は翔輝の仕事を手伝う。そんないつもと変わらなく見える日常。だが、その日常は確実に変化しつつあった。
時は一九四三年九月某日。
翔輝と大和の固い絆は坂井の乱入により乱れ、解けつつあった。
日に日に大和は翔輝から離れていく。他の艦魂も坂井の人の良さに引き込まれ、次々に坂井の側に行ってしまう。
そんな激変する翔輝を取り巻く状況を見て、長門は一人ため息をついた。彼女の信じていた翔輝と大和の絆が、解けていく。
だがそんな中、翔輝に絶対の信頼を寄せて彼から離れない艦魂が二人いた。
それは、翔輝と心から話せる仲である――武蔵と山城だけだった。
ある日、極上幹部会の定例艦魂会議は緊急事態となった。
「・・・何で貴様がここにいる」
敵意むき出しの武蔵が睨み付けている先にいるのは、ほがらかな笑みを浮かべている坂井だった。
「いやぁ、艦魂達は一体いつもどんな会議をしているのかなぁって思ってさ。見学させてよ」
にこやかに笑みを浮かべる坂井を、武蔵は怒りの込められた鋭い視線で睨み付ける。
「・・・断る。それにそこは翔輝の席だ。即刻去れ」
「いいじゃん。今日ここに長谷川はいないんだし」
榛名は気にした様子もなく資料を見詰める。それよりさっさと会議を始めろと言いたいのだろう。
「・・・反対者はいないの?」
武蔵は見回すが、誰も何も言わない。あの規則にうるさい金剛でさえも不機嫌そうだが何も言わない。たった数週間でここまで艦魂達と親しくなれるとは、坂井はたいした人間だ。だが、武蔵はそんな彼が気に入らなかった。
「・・・反対者はいないの?」
武蔵が周囲を睨み付けていると、一人挙手が上がった。その人物に皆は少なからず驚いた。それは常日頃あまり自分の意見を言わない山城だった。
山城は無表情ながらもしっかりとした意思のこもった瞳を向ける。
「私は反対。航海士ならともかく、そんなどこの馬の骨ともわからない奴など、ここにいる許可を与える必要はない」
山城の意見に武蔵は無表情だが、味方の登場に嬉しそうにうなずく。さらに、
「私も反対だなぁ」
そう言って手を上げたのは緊張感のカケラもない笑みを浮かべた長門。長門が反対派になった事に全員が驚いた。
「長門。なぜお前が反対するのだ」
金剛が不機嫌そうに問うと、長門は笑みを消して真剣な顔で腕を組んで対峙する。
「そんなの、私が認めている人間は長谷川君だけだからよ。それより金剛こそ何で彼がここにいるのを止めないのよ」
「坂井は長谷川よりも有能な意見を言う事が多いからな。効率的に彼を参加させた方がいいと判断しただけだ」
金剛の感情のこもっていない事務的な返答に、長門の眉がピクリと動く。
「それって、長谷川君が無能だって事?」
「そうは言っていない」
長門の異様な食い付きに金剛は戸惑う。すると長門は不機嫌そうに坂井と楽しそうに話をしている大和を見詰める。
「大和。あなたは何か言わないの?」
突然話し掛けられた大和は驚き振り返る。その顔は何もわかっていない。
「え? どうしてですか?」
「金剛が長谷川君を無能って言ったのよ?」
「だから私は――」
「え? そんなひどい事を言ったんですか?」
バンッ!
すさまじい打撃音が響き、全員が驚いて音の発信源を見詰める。音の正体はテーブルを勢い良くぶっ叩いた武蔵だった。彼女らしくなく顔を真っ赤にさせて肩をブルブルと震わせ、身体全体から怒気を全方位に放っている。
「・・・もういいッ! 今日は会議を中止するッ!」
そう怒号を叫び、先程の十倍の大きさの激しい音でドアを勢い良く閉め、武蔵は部屋を出て行ってしまった。
唖然とする一同。さらに山城も無言で出て行ってしまった。さらに呆然とする一同に長門はため息。
「これは・・・マズイわね」
長門のつぶやきが聞こえたのは、誰もいなかった。
その頃、艦橋で仕事を終わらせて休憩をしていた翔輝の下に、すさまじく怒っている武蔵が現れた。
「む、武蔵? どうしたの?」
「・・・姉さんなんか最低! もう知らないあんな因業女ッ!」
持っていた資料を思いっ切り床に叩きつけ、肩で息をする。そんな彼女の姿に翔輝は呆然としている。
しばらく武蔵は荒い息をしていたが、呆然としている翔輝の視線に気づき、慌てていつもの無表情に戻すが、時すでに遅し。
「何かあったの?」
「・・・べ、別に」
「別にって雰囲気じゃなかったし――それに、因業女って?」
翔輝は真剣な瞳で武蔵を見詰める。武蔵自身こういう目が苦手だったりするので、結局根負けして先程の会議の事を話した。すると翔輝は軽く言う。
「別にいいんじゃないの?」
翔輝の意外な返答に、武蔵は一瞬驚くがすぐに首を横に振る。
「・・・良くない。姉さんは今まで第一に翔輝の事を考えていた。それが今や坂井とかいう男に夢中。節操のない最低な女だ」
「それは大和のせいじゃないよ。僕がのほほんとしてるのが悪いんだから」
「・・・翔輝は悪くない!」
武蔵は声を荒げて怒鳴る。いくら翔輝でも、自分が大好きな彼の事を悪く言ってほしくないのだ。だが、翔輝はそれでも首を横に振る。
「ううん。僕が悪いんだ。何事にもハッキリしない性格だから」
「・・・翔輝」
翔輝の悲しい瞳に、武蔵は何も言えなくなってしまう。翔輝のこういう目が、武蔵は嫌いだった。彼にそんな目をしていてほしくない。でも、翔輝はときどき一人でいるとこういう目をする事がある。でも、人前ではあまりしない。そんな目を、翔輝は今している。それが、武蔵を苦しめる。
「・・・翔輝」
「ごめん。励まそうとしてくれたのに、何か変な空気になっちゃったね」
力ない笑みをする翔輝に、武蔵は再び何も言えなくなってしまった。
笑みを終えると、翔輝は少し悲しい表情を見せた。彼のそんな顔を武蔵は見たくない。だから――
「む、武蔵?」
武蔵は――翔輝の胸の中に飛び込んだ。驚く翔輝を気にせず、武蔵は翔輝の胸の中で優しい声で言った。
「・・・翔輝。私は翔輝を裏切らない。絶対」
「武蔵・・・」
翔輝は心の底から嬉しそうな笑顔をする。そして、
「ありがとう」
翔輝はそっと、武蔵の小さ身体を抱き締めた。
愛しい彼の腕の中で、武蔵は幸せそうな笑みを浮かべながら、心に決意する。
――例え、世界中の全てが彼の敵になっても、自分だけは彼の味方でいよう――
小さな少女の胸に決意された想いは、いつまでも輝き続けた。
その夜、仕事を終えた翔輝が部屋に戻っても、大和の姿はなかった。それもそのはず。大和はさっき坂井の所に行ったからだ。「坂井さんの所に行ってきます!」と、楽しそうに言って。そんな彼女を、翔輝は「いってらっしゃい」と、寂しげに見送った。
だから、今大和は坂井と楽しい会話をしているだろう。そんな事を考えると、自然にため息が出てしまう。
翔輝はとぼとぼと歩き、机に向かう。そして、机の上に置いてある翔香の写真を持ち、寂しげにそれを見詰める。
こちらに優しい笑みを向ける二度と会えない妹の姿を見詰める。
最近またこの写真を見る事が増えてきた。今までは大和がいたから寂しくなかったが、今ではその大和は自分から離れて行ってしまった。そのせいで悲しみがまたぶり返してきたのだ。
「翔香・・・」
翔香の写真を、翔輝は抱き締めた。目をつむり、もはや記憶の奥にしかない翔香の顔、声、匂いなどを思い出す。
「やっぱり、僕には翔香がいないと・・・」
「・・・翔輝」
突然の声に驚いて振り返ると、そこには気まずそうな顔をして立ち尽くす武蔵がいた。
「む、武蔵・・・ッ!?」
「・・・あ、その、ドアが開いてたから・・・ごめんなさい」
武蔵は目を泳がせながらそう言うと、慌てて部屋を出ようとする。
「待って!」
翔輝は逃げる武蔵の腕を掴む。
「・・・は、離して」
「どうして、逃げるの?」
「・・・だって」
武蔵は翔輝が手に持っている物――翔香の写真を見詰める。武蔵の視線に気づき、翔輝はそれを慌てて隠すが、効果はない。
「その、これは・・・」
気まずそうに視線を逸らす翔輝。だが、それが武蔵には辛かった。
「・・・ごめんなさい。翔輝の邪魔をしてしまった」
「いや、そんな事ないから・・・逃げないでよ」
最後の《逃げないでよ》はとても小さく弱々しい声だった。そんな翔輝の言葉に、武蔵は「・・・ごめん」と謝る。
「お前が謝る必要はないよ」
そう言って、二人は黙ってしまう。その間には気まずいという雰囲気が流れている。お互い何を言っていいかわからず、口を閉じたまま。そんな中、翔輝はなんとか話題を作る。
「でもどうしたの? 僕に何か用?」
そう訊くと、武蔵はうつむいてしまう。その頬はほんのりと桜色に染まっている。何度か口を空けたり閉じたりを繰り返し、意を決して心の中の気持ちを口に出す。
「・・・一緒に寝ようと思って」
翔輝は基本は一人で寝ている。添い寝を嫌がり、いつも一人で寝ているのだが、今日は翔輝が心配で武蔵は添い寝の申し込みをしに来た――というのは言い訳で、本当は翔輝と寝たい一筋であったりる。
「・・・ダメ?」
武蔵はいつものように断られるのを覚悟していた。が、
「いいよ」
翔輝の返事は意外にもオーケーだった。武蔵は瞳を見開いて驚く。
「・・・いいの?」
「うん――今は、あまり一人にはなりたくないから」
翔輝の言葉に武蔵は他人に向ける無表情を緩め、優しげな笑みを浮かべる。
「・・・じゃあ、寝よう」
「うん」
翔輝と武蔵は着替えを終わらせると、そのまま一緒のベッドに入った。
武蔵は緊張して何も言葉が出ない。元々基本的に無口な方である武蔵が何も言わなくても、あまり違和感はない。そんな武蔵を、翔輝は背中から抱き締める。そんな行為に武蔵はビクリを震える。明らかにいつもと違う。
「・・・翔輝?」
「昔ね、翔香と一緒に寝る時はいつもこうしてたんだ。こうしていると、身体全体で武蔵を感じられるから。武蔵もそうでしょ?」
確かにその通りだった。背中から、彼の温もりを感じる。死角である背中は見えない恐怖ある。敵に背中を見せないのは後ろが怖いからだ。でも今は、そんな背中を愛しい彼に優しく抱いてもらっている。これほど嬉しい事はない。
自らの背中を任せられるのは、一人だけ。
「・・・うん」
武蔵はいつの間にか緊張が解け、幸せそうに翔輝の腕の中で眠りについた。
翔輝も武蔵が寝たのを確認すると、ゆっくりと眠りについた。薄れる意識の中、翔輝は一度大和の事を考えたが、すぐに消えて眠った。
――結局、大和は帰って来なかった―― |