挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
おねえさん大家の人情派日記 ~こんなアパート、いかがでしょう?~ 作者:みづき
しおりの位置情報を変更しました
エラーが発生しました

ブックマークしました。

設定

更新通知 0/400

設定を保存しました
エラーが発生しました

カテゴリ

ブックマークへ

以下のブックマークを解除します。
よろしければ[解除]を押してください。

ブックマークを解除しました。

80/91

第7章 A棟104号室 伊佐治太作さん(10)

「ええ、そうなんです。当事者である店長の娘さんが、後日警察で、一部始終を話してくださいましてね。それに、定食屋に居合わせた他の常連さんも、伊佐治さんは一切暴力は振るっていないって証言してくれたんです。まあ、一番の決め手は、被害者のご家族が代理で出された被害届が、意識を取り戻した被害者自身によって取り下げられたってことでしょうか。そういう諸々の事情で、今回は不起訴とされました」
「そうだったんですか。本当によかったですね。――あ、ってことは、釈放されるんですよね、伊佐治さん」
 山久がうなずくのを見て、憲二郎の方を向く。
「だったら、ゴミの処分、キャンセルしなくちゃいけないわね。たしか、来週の火曜日だったわよね」
 憲二郎から、市の業者が来たら立ち会うように言われていたのだ。
「ああ。俺の方でキャンセルしとくよ。まだ部屋の中は触ってないし。なかなか日程が取れなかったのが、逆によかったかもしれないな」
 憲二郎が、背もたれから起き上がってうなずく。
「あ、いえ、あの、賃貸契約の解約と明渡しについては、先日の同意書のままで結構だと、伊佐治さんはおっしゃってまして」
「どういうことですか?」
 憲二郎と顔を見合わせる。山久は続けた。
「実は伊佐治さん、故郷に帰られるそうなんです。ずっと疎遠になっていた弟さんが保証人になってくださって、ホスピスに……」
「ホスピス?」
 憲二郎と同時に聞き返す。
「ええ。そうなんです。実は伊佐治さん、末期の肺がんでしてね。脳の方にも転移していて、手の施しようがないそうで。余命宣告もされているみたいです」
「でも、ラジオ体操にもマージャンにも行ってたんですよね? お仕事だって……。それなのに、手の施しようが無いなんて……」
 おかしいじゃないか、と口の奥の方でつぶやきながら、憲二郎が再びソファに体を埋める。
「宣告されたのは半年くらい前だったそうなんです。でも、アパートにおられた時には、嘘のように調子がよかったみたいで……。それが、この一連の事件で、ガクッと来てしまったのかもしれません。面会の度に弱って行かれて」
 山久の言葉に、しばしの沈黙が訪れる。
「で、伊佐治さんは、いつ釈放されるんですか? 私、ご挨拶したいんですけど」
 私が尋ねると、山久は首を横に振った。
「実は、昨日、釈放されたんです。弟さんが迎えに来られて、その足で病院に向かわれました。かなり弱っておられたので、そんな姿を誰にも見せたくないとおっしゃって」
「そうなんですか」
 私は泣きたい気持ちを抑え込もうと、湯呑みを手に持った。お茶を一口飲むと、湯呑みを茶たくに戻す。自分でも手が震えているのがわかった。
「伊佐治さん、字も書けない状態になられていまして。でも、どうしても岩内さんに伝言してほしいことがあるとおっしゃるものですから、今日はこちらにお邪魔しました。本当はご自宅を訪ねたかったんですが、伊佐治さんから、女性一人のお宅に若い男が出入りしているなんて、変な噂が立つといけないから、皆がいるところで会ってほしいと言われまして」
「こいつにそんな心配はいりませんけどね」
 憲二郎が余計な口を挟む。山久は、手帳の間から、折りたたまれた紙を取り出した。
「これは、伊佐治さんからの伝言を私が書きとめたものです。汚い字で恐縮ですが、どうぞ読んでください」
「ありがとうございます」
 私は受け取ると、その紙を広げた。憲二郎が後ろから覗き込む。見えやすいように少しずらして手に持ちながら、私はその内容に目を通した。

『お嬢さん、お世話になりました。
 自分は若い頃、将来を期待されたプロボクサーでした。ところが、目を怪我してボクシングを諦めることになり、酒におぼれていったのです。その上、自分はとにかく酒癖が悪く、妻にも逃げられ、弟にも愛想を尽かされ、ついには喧嘩相手に大けがを負わせて逮捕されるに至りました。一度逮捕されてしまうと、世間の目は冷たく、それに耐えきれずまた酒を飲んで暴れる、どうしようもない日々を送っていました。
 3回目の懲役を終えて出所した時、ついに住むところが見つからない状況になり、住居を探しながら更生保護施設で過ごすという生活をしていました。そんな時、アパートを貸してもよいという大家さんが現れました。それが、あなたの親父さんです。自分と面接した親父さんは、うちのアパートに来たらいいと言ってくれました。ただし、ひとつだけ条件がある、と。お酒を飲むと暴れるようだから、決してお酒を飲まないように、これだけは絶対守ってくれ、と。自分はとにかく住むところが欲しかった。とりあえず、わかったと言っておけばいいだろう、くらいにしか思っていませんでした。
 しかし、アパートの住人の方は皆、とても優しかった。特に角田さんは、強引なくらい、自分をあちこち連れ出してくれて、親しくしてくれました。そのうちに、親父さんは自分に職まで世話してくれました。自分は絶対に、親父さんとの約束を破っちゃいけない、そう思うようになっていったんです。
 今回、逮捕された時には、無力感しかありませんでした。酒を飲まず、真面目に生きていても、結局はこういうことになってしまうんだと、自暴自棄になっていました。でも、お嬢さんが面会に来てくれ、角田さんたちが変わらず待っていてくれ、定食屋の人たちも自分の無実を訴えてくれた。そして、疎遠になっていた弟が、酒を断った私の最期を看取ってくれるという話になりました。今は、真面目に生きることは素晴らしいことだと、心から思っています。気づくのが少し遅かったかもしれませんが。
 ご挨拶もせずに離れることをお許しください。こんなやせ衰えた姿をお見せしたくないのです。どうか、皆様にもよろしくお伝えください。お体、ご自愛ください。ああ、そうだ。あちらで親父さんに会ったら、あなたが大家として頑張っておられると伝えておきますね。さようなら、ありがとう』
 そこで、その文章は終わっていた。涙をこらえようと、天井を見上げる。その時、ふと、あの穏やかな伊佐治の笑顔が脳裏に浮かんだ。そうだ、人生なんて、終わりよければすべてよし、なのかもしれない。
 そう思って再び手元に目をやった時、私の背後から、憲二郎の派手な嗚咽が聞こえてきた。
cont_access.php?citi_cont_id=287044308&s
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ