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おねえさん大家の人情派日記 ~こんなアパート、いかがでしょう?~ 作者:みづき
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第7章 A棟104号室 伊佐治太作さん(7)

「よかったなあ、同意書に署名、捺印してもらえて。いや、印鑑じゃなくて親指だから、拇印になるのか。それにしても、警察署でする拇印って、指紋とる時と同じ黒いインクになるんだな」
 警察署から帰る車の中。憲二郎は運転しながら、いささか興奮気味だ。
「国選弁護人の名前も教えてもらえたし、困った時にはそっちと話をすりゃあいいってことだもんな。何にしても、こんなにすっと話が進んでよかったじゃないか」
「まあ、それはそうだけど」
 一気に老け込み、いつもより更に表情のなかった伊佐治の姿が目に焼き付き、手放しで喜ぶ気にはなれない。どこか体が悪いんじゃないだろうか。出所した後、行く宛てはあるのだろうか。
「どうしたんだよ。心、ここにあらずって感じだな。100万円浮いたんだぞ。喜べよ。俺もいい勉強になったよ。これまでこういうことってなかったからな。まあ、しょっちゅうあったら、困るけど」
 憲二郎は無神経にガハガハと笑った後、横目でちらっと私の方を見た。
「まったく、お前の人がいいのにも呆れるなあ。謝る必要もないのに頭下げた上、差し入れまで申し出たりして。眼鏡と本、わざわざ持って行ってやるのか?」
「そりゃ、頼まれたんだから、当たり前でしょ」
「そうか。じゃあ、これから部屋を見に行って、見積もりざっと出しちまうから、それも一緒に持って行ってくれよ。どっちにしても、明日と明後日は、伊佐治さんの方の事情で面会できないんだろ?」
「ええ。次に会えるのは3日後ってことになるわね」
 そう言いながら、車窓を眺める。視線の先に、わがアパート、メゾン・ド・アマンが見えてきた。

 その日の夕方、駅前まで買い物に行こうと階段を降りたところで、山崎と鉢合わせした。
「あら、おはようございます。今日はどちらにお出かけですか?」
「ちょっとマージャンをしに。角田さんと仁科さんと待ち合わせしてるから、もうすぐ来られるはずなんですけどね」
「奥様方はお留守番ですか?」
 私が意地悪な質問をすると、山崎は頭に手をやりながら答えた。
「女性陣は女性陣で楽しんでるみたいですよ。今夜は、うちのとこと仁科さんとこと、あと加藤さんのお姉さんと3人で、仁科さん宅で夕食会だそうで。本人たちは女子会なんて、ふざけたこと言ってますけどね。俺はひそかにバアサン会って呼んでますよ」
「もう、口が悪いんだから」
 怒って見せると、山崎がペロッと舌を出す。そこに、仁科が現れた。
「やあ、お待たせしましたね。あれ、大家さんもマージャンやられるんですか」
「いえ、まったくできません。ちょうどお買い物に行こうと思ったところで、山崎さんにお会いしたもんだから」
「そうだったんですか」
 仁科が笑う。そこへ、角田もやってきた。
「おっと、お嬢さん。両手に男子でモテモテだねえ」
「男子? どこどこ?」
 私がわざと大げさに聞き返すのを見て、男性陣が盛り上がり始めた。もう少し若い方がいいよねえとか、自分には妻がいるから角田さんどうですかとか、好き放題言っては楽しそうに笑っている。
 ひとしきり話した後、短い沈黙が訪れた。
「それじゃあ、私はこれで」
 バイク置き場に向かって歩き始めると、角田から声がかかった。
「ちょ、ちょっと待って。実は、聞きたいことがあってさ」
「何ですか?」
 足を止めて振り返ると、3人は再び私の前に集まった。
「実はさ、ちょっと小耳に挟んだんだけど……」
 角田が小声になると同時に、男性たちの間に緊張感が走る。角田は小さく喉を鳴らすと、意を決したように口を開いた。
「伊佐治さんが逮捕されたんだってね」
「そんな話、どこで?」
 動揺を隠しつつ尋ね返す。
「いや、ラジオ体操でも、囲碁の会でも、噂になっててさ」
 憲二郎の言っていた通りだ。こんな田舎では、情報はあっという間に広まってしまう。何と答えてよいか迷っていると、今度は山崎が話し始めた。
「前科もあったとか……。とても信じられないんですよ。僕らが知っている伊佐治さんとは、あまりにイメージが違い過ぎて。でも、新聞にも書いてあったし、何が何だか……」
 すると、仁科も口を開いた。
「私もお付き合いは浅いですけどね、人の良し悪しを見抜く力はあると思ってるんですよ。たしかに無骨ではあるが、とうてい悪い人とは思えなくて……」
「実は、俺は彼に前科があることは知ってたんだ。前の大家さんから相談されてね。入居させるか迷ったんだけど、話してみたら悪い人間じゃないみたいだから、入ったら相手してやってくれないかってさ。もしダメなら、すぐに追い出すからって。
 たしかに、最初はなかなか心を開いてくれなかったんだけど、何度も声をかけているうちに今みたいになってさ。不愛想で誤解されやすいタイプかもしれないけどさ、根はいい人なんだよ、伊佐治さんは」
 角田が続ける。
「噂では、酔っぱらって喧嘩になったって話になってるんだけど。そこが、どうしても腑に落ちないんだよねえ」
「どういうことですか?」
 思わず聞き返すと、角田が答えた。
「いやね。俺たち、時々、夜にも飯食いに行ってたんだけどさ。伊佐治さん、いくら誘っても酒を飲まないんだよ。どうしても飲めない理由があるんだって言って。だから、酔っぱらって喧嘩になったなんて、とても信じられないんだ。仮に喧嘩になったんだとしても、酔っぱらってなんてバカな理由じゃなくてさ、もっと深い理由があるんじゃないかと思うんだよね」
 そう言えば、昨日の面会の時、伊佐治自身もお酒は一滴も飲んでいないと強調していた。
「本当に。考えれば考えるほど、納得できないですよね。うちのも、絶対何かの間違いだって言ってますよ」
 山崎が相槌を打ったところで、また沈黙が流れる。
「今度、伊佐治さんに会いに行く予定なんですけど、ご伝言があれば伝えますよ」
 重い空気に耐え切れず、3人の顔を見回す。
「えっ、そうなのかい? じゃあ、出て来たら、また一緒にマージャンやろうって伝えてほしいなあ」
 角田が私の方を見る。
「いいですねえ。このままじゃあ、マージャンのメンツが一人足りませんし。とにかく、体に気を付けて過ごしてくれって」
 山崎が付け加えると、仁科が隣で、大きくうなずいた。
「わかりました。必ず伝えますね」
 彼らの話を聞いたら、伊佐治はどう思うだろう。3人に別れを告げると、私は再びバイク置き場に向かって歩き始めた。
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