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おねえさん大家の人情派日記 ~こんなアパート、いかがでしょう?~ 作者:みづき
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第7章 A棟104号室 伊佐治太作さん(3)

「あった、あった、これだ」
 新聞の束をめくっていた憲二郎が手を止める。平日の朝の図書館。人は少なく、ちょっとした声でも響いてしまう。
 憲二郎が指差す場所を見ると、小さな記事が載っていた。
「男性を殴って現行犯逮捕、か。しかも相手は一時、意識不明になったんだってさ。伊佐治さん、元プロボクサーなんだな」
 憲二郎が声のボリュームを絞って、記事を指差す。
「みたいね。全然知らなかったけど」
 私も声をひそめて続けた。
「酔っぱらい同士の喧嘩みたいだけど、こういうのって喧嘩両成敗にはならないものなの? 伊佐治さんの方が、一方的に悪いような書き方されちゃって」
 どちらから吹っ掛けたかなんて、わからない話じゃないか。どうにも腑に落ちない。
「まあ、プロボクサーの拳っていうのは、凶器も同じだからな。それに、前科もあるわけだし」
 憲二郎が、開いたままの新聞の束を持ちあげて私の方を見た。
「一応、記事をコピーしておこう。お前、図書館の利用カード持ってるか?」
「うん、持ってるよ」
 前回、調べものをしに来た時に作っておいた。
「じゃあ、それで手続きとってくれよ。俺、忘れてきちまったから」
「わかったわ」
 憲二郎から新聞の束を受け取ると、受付に向かって歩き出した。

 帰りにコンビニで買ってきたパスタサラダを口に運びながら、私は先ほどの憲二郎との会話を思い出していた。
 店子さんが逮捕されると、当然のことながら、その店子さんが出所するまでの間、部屋は貸しているのに住人がいないという状況になる。家賃が毎月自動的に引き落としになっていて、十分に口座に残高がある場合には、すぐにすぐ問題にはならない。しかし、うちのように、月々に店子さんの方から支払ってもらう場合、直ちに家賃の支払いが止まってしまう。そこで、逮捕された店子さんから部屋を明け渡してもらい、次の店子さんを探すことが必要になる。
 ここで厄介なのは、逮捕されたからといって、大家が勝手に部屋の中にある残置物を処分してしまうわけにはいかないということだ。出所してきた店子さんから、勝手に家具等を処分したとして、逆に大家側が訴えられてしまうこともあるらしい。そういうトラブルを避けるためにも、ややこしい手続きが必要となるそうだ。
 まず、その店子さんに対して部屋の明け渡しを求める訴訟を起こす。そして、勝訴できたところで残置物処分の強制執行の許可を取り、残置物を処分できてはじめて、空室として次の店子さんを募集することができるのだ。
 一連の手続き自体は大家自身でも可能なのだが、一点だけ厄介なことがある。それは、逮捕された店子さんに、訴状を確実に渡さなければならないということだ。
 逮捕された店子さんは、留置所、拘置所、刑務所と身柄を移されることとなる。各場所にどれくらいの期間留め置かれるかは、罪の重さ等によって変わるため、はっきりとはわからない。
 一方、大家側が提訴しても、訴状が発送されるまでに長い時で1カ月ほど要することもあるそうだ。となると、逮捕された店子さんは、その時点で、一体どこにいるのでしょうという状況に陥ってしまう。つまり、訴状を確実に手渡すことができなくなってしまうのだ。
 店子さんの居場所は、警察に問い合わせても裁判所に問い合わせても、個人情報を楯に教えてもらうことはできない。その照会ができるのは、弁護士のみ。それも、収監された刑務所の場所しか照会できないため、実刑判決が出て、刑務所に収監されたと思われる時期にならないと手を付けることができないのだ。ただし、照会のみを引き受けてくれる弁護士はほとんどおらず、訴訟や強制執行の手続きの一環として委任するしかない。
 結局、大家は嫌でも訴訟以降の手続きを弁護士に委任しなければならず、諸々含めて総額100万円ほどかかってしまうというわけだ。
 その話を聞いた私は、憲二郎に向かって宣言した。
「だったら、そのままにしておけばいいわ。何年後になるかはわからないけど、そのうち伊佐治さんも出てくるわけでしょ? あの部屋はそのままにしておいて、戻ってきたらまた使ってもらえばいいじゃない」
 私の提案に、憲二郎は目を吊り上げた。
「お前なあ、その間の家賃はどうするんだよ。出てきてすぐに仕事があるとは限らないし、戻ってきた後の家賃だってどうなるか」
「仕事が見つかるまでは、生活保護ってわけにいかないのかしら」
「あのなあ」
 憲二郎がため息を吐く。
「伊佐治さんが逮捕されたってこと、今はまだばれてないけど、そのうちアパート中に知られるだろう。こんな田舎なんだし、どこかから耳に入るはずだからな。暴行犯がいずれ戻ってくる予定のアパートなんて、誰が新しく入ってくれると思うんだよ」
「でも、伊佐治さんが本当は悪い人じゃないってこと、今の店子さんたちはみんなわかってるわ。大丈夫よ」
 私の言葉に、憲二郎が吐き捨てるように言った。
「今までは、伊佐治さんの前科のことは知らなかったんだろ? そのことを知ってからも、同じように付き合ってくれるかどうかなんてわからないぜ。とにかく、出所を待つなんてこと、俺は反対だ」

――たしかに、それはそうなんだけど。
 空になったパスタサラダの容器を手に立ち上がる。ビニール袋に入れて口を結ぶと、ゴミ箱に捨てた。
 とにかく、伊佐治から直接話を聞きたい。
「どうしたらいいのかしら」
 考えたところで、いい方法は見つからない。私はただ、途方に暮れるばかりだった。
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