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おねえさん大家の人情派日記 ~こんなアパート、いかがでしょう?~ 作者:みづき
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第6章 B棟102号室 仁科進さん・美代子さん(11)

 午後3時少し前。相変わらず空はどんよりとしているが、雨はどうにか持っているようだ。昼食は、いただいたチーズケーキで済ませてしまった。しかし、夕食となるとそういうわけにもいかない。
「仕方ない。買い出しに行くか」
 念のため、傘を持って家を出る。
 階段を降り切ったところで、自転車を引いている角田に出会った。どこかに出かけるところらしい。本当に、じっとしていられない人だ。
「こんにちは。昨日はありがとうございました」
 声をかけると、彼は片手を上げながら答えた。
「ああ。何にしても、大樹君が無事でよかったなあ」
「本当ですね」
 私は微笑んで続けた。
「今朝、高田さんがうちに来られたんですよ。角田さんから声をかけていただいて、本当に嬉しかったっておっしゃってました。ありがとうございます」
「いやいや、何も礼を言われるようなことはしてないよ。俺は子供を育てた経験がないから、子育てのアドバイスなんて、とてもできないし」
 角田はそう言いながら、照れくさそうに頭をかく。と、その時、B棟の方から、大樹の声がした。2人でそちらに目線を移す。
 そこでは、大樹が102号室のチャイムを鳴らしている様子が見えた。その後ろには、紙袋を提げた高田の姿もある。少しして、ドアが開いた。高田が頭を深々と下げた後、紙袋を掲げる。
「おや、嬉しいねえ。ありがとう」
 という仁科の大きな声が聞こえ、2人がドアの中に消えて行った。アップルパイ作戦は成功だったようだ。
「どうやら、無事に仲直りができそうだね」
 角田が私の方を見る。
「そのようですね」
 2人で目を見合わせて、にっこりと微笑み合った。すると、角田が、思い出したように口を開く。
「あ、そうだ、お嬢さん」
「何ですか?」
 私が尋ねると、彼はこちらを見た。
「実はね。俺も八千代の会に入ることにしたんだよ。そしたら、何か色々と書類を書かなくちゃいけないらしくてね。お嬢さんにも手間取らせちまうと思うけど、よろしく頼むよ」
 仁科夫妻との契約の時にも、色々な書類に署名した覚えがある。
「わかりました。――角田さん、私に気を遣われたんじゃないですか? 別によかったのに」
 私の言葉に、角田が首を横に振った。
「いや、これだけ楽しく生活させてもらってるのに、最後の最後に迷惑かけたんじゃ、俺の気が済まないよ。どうしようかと思っていたところだったから、ようやく肩の荷が下りた。これで、いつでも逝けるよ」
「そんなこと、おっしゃらないでくださいよ。角田さん、私より断然お元気じゃないですか」
「そうだね。肩の荷が下りて、ますます体が軽くなったって言う方が正しいかもしれないね。逆に、『あのジジイ、なかなかくたばらないな』って思われちまうかも」
 角田が笑う。
「私の方が、先に逝っちゃったりして」
 私がそう言うと、角田は真面目な顔になった。
「お嬢さん、ここにこもりっきりで、全然運動してないんじゃないのかい? 今日はこれから、公民館で健康体操の講座があるんだよ。一緒に行って体を動かそう」
「え? 今からですか?」
 驚いて聞き返す。
「ああ、そうだよ。参加資格は60歳以上だけど、俺の付き添いってことにすりゃあいいさ」
 角田がしれっと言う。
「参加したはいいけど、一番初めに息があがっちゃったなんてことになったら恥ずかしいんで、今日はやめておきます」
 私が丁重にお断りすると、角田は楽しそうに笑った。
「ほんとだね。じゃあ、もう少し運動不足を解消してから、参加してもらうことにするか」
「ええ。そういうことにしてください」
 私が頭を下げるのを見て、角田はもう一度笑うと、自転車にまたがった。
「じゃあ、またね」
 そう言い残し、元気にペダルをこいでいく。
「まだまだ長生きしてくれそうね」
 その後ろ姿を見送りながら、一人つぶやいた。こうやって、いろんな人とつながりながら、私はこれからもここで生活していくのだろう。
「大家さんも、悪くはないか」
 見上げると、雲の切れ間から、青い空が顔を出していた。
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