挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
おねえさん大家の人情派日記 ~こんなアパート、いかがでしょう?~ 作者:みづき
64/91

第6章 B棟102号室 仁科進さん・美代子さん(5)

 3日後、A棟の廊下を掃除していると、あちらから仁科が歩いてきた。手には近所のスーパーのビニール袋を提げている。
「こんにちは」
 声をかけると、彼は私に気づいてほほ笑んだ。
「ああ、大家さん。お掃除ですか」
「ええ。昨日は風が強かったので、ゴミが吹きこんじゃって」
 手にしていたチリトリを見せる。中には、枯れ葉やお菓子の包み紙などが混じっていた。
「道路から入り込んでくるんですかねえ」
「ええ。ここ、小学校や中学校の通学路なんですよ。ポイ捨てしていく子供もいて、ちょっと困るんですけどね」
 主に中学生だが。
「そうなんですか。親のしつけの問題ですかねえ」
 仁科が眉をひそめる。
「そうかもしれませんね」
 私はうなずいた後、話題を変えることにした。
「仁科さん、今日はお買い物ですか?」
 すると、彼は手にしていたスーパーの袋を掲げて見せた。
「いやあ、女房がまた腰を傷めましてね。横になっていて、料理を作るのは無理だというもんですから、スーパーで弁当を買って来たんですよ。お昼に食べようと思いまして」
 仁科の妻の優しそうな笑顔を思い出す。引っ越しが終わって疲れが出他のかもしれない。
「そうなんですか。大変ですね。近所に店屋物をとれるお店もありますから、後でチラシをお持ちしましょうか」
 こんな田舎にしては、けっこう美味しいお蕎麦屋さんがある。一人前でも持って来てくれるので、体調が悪い時など重宝していた。
「ありがとうございます。今朝、八千代の会さんに相談したら、今夜からお弁当を持って来てくださるそうなので、何とかなると思います」
「それはよかったですね」
「ええ。本当に助かってます」
 仁科はそう言うと、私の方を見た。
「ところで、この辺で、美味しいケーキ屋さんはありませんかね」
「ケーキ屋さんですか? 西砂橋の駅前まで行けばあるんですけど、ここら辺では思い当たりませんねえ」
 私の答えに、仁科は少し寂しそうに微笑んだ。
「そうですか。いや、実は、私も女房も大の甘党でしてね。前に住んでいた家には、近くにケーキ屋さんがあったもんですから、週に1度はケーキを買って食べていたんですよ。アップルパイが特に好物でねえ。まさか、八千代の会さんに『ケーキを買ってきてくれ』とも言えないもんですからね。また、女房の調子がよくなったら、駅前まで一緒に買いに行きますよ」
 そして、それじゃあ、と言い残し、B棟に向かって歩いて行った。
 妻の体調が悪い時は、ああやって夫が面倒をみる。当然、逆のこともあるのだろう。私のような独り身には、うらやましい限りだ。
「あー、結婚したいー」
 ただし、お金を持ち逃げしない人と。そう思って何だかむなしくなる。はあっと息を吐いて、私は再び箒を動かし始めた。

 B棟の階段の手すりをふき終わり、本日の掃除は終了。汚れた水の入ったバケツを持って、階段を降りる。
「あ、大家さん。ご苦労様です」
 声のした方を向くと、八千代の会の代表、高階が立っていた。
「あら、高階さん。今日はどうされたんですか?」
 階段を降り切って、バケツを地面に置く。
「実は、角田さんに頼まれて、八千代の会の資料をお持ちしたんですよ。何かあって、大家さんにご迷惑をかけることになったらいけないからとおっしゃって」
 角田には身内も保証人もいない。それで、気を遣ってくれているのだろう。
「角田さんは私よりお元気なくらいですし、当分何もないと思いますけどね」
 私が言うと、高階は微笑んだ。
「そうは言ってもねえ。やはり、歳を取ると不安になるものなんですよ。気持ちは若いつもりでも、だんだん老いを感じるようになりますからね。私なんて、不安な思いばかりですよ」
「え? 高階さんもですか?」
 驚いて尋ねる。
「もちろんです。私は、15年前に妻を亡くしてましてね。息子は海外勤務、娘は遠方に嫁いでいて、今は一人暮らしです。やれ血圧の薬だなんだって、医者でもらった薬を飲みながらね。ふと不安になることもあるんですよ。自分はあとどれくらい生きられるんだろうかとか、誰かに看取ってもらえるんだろうかとかね」
 こんなに元気そうに見えるのに、やはりそんな不安を抱えているのか。私も同じ一人暮らしの身だ。他人ごとではない。言葉を探していると、高階は微笑んだ。
「いやあ、年寄りの愚痴は言わないことにしているんですが、ついつい。ごめんなさいね」
「いえ、そんな」
 慌てて顔の前で手を振る。
「これから、仁科さんのお宅にお邪魔しようと思ってるんですよ。奥さんの腰痛が再発してしまったみたいなので」
「ああ、さっき、ご主人にお会いした時、そうおっしゃってました。腰が痛いと、本当に動けませんものね」
「そうなんですよ。今回はそれほどひどくないみたいなんですが……。往診に来たお医者さんからは、念のため1週間は安静にと言われているらしいです」
 高階が眉間にしわを寄せる。
「そうなんですか。お引越しのお疲れも出たのかもしれませんね。お大事にとお伝えください」
 さっき、仁科に伝え忘れたことをお願いする。
「ええ。わかりました。伝えておきますね」
 高階はそう言うと、B棟に向かって歩き出した。
cont_access.php?citi_cont_id=287044308&s
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ