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おねえさん大家の人情派日記 ~こんなアパート、いかがでしょう?~ 作者:みづき
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第6章 B棟102号室 仁科進さん・美代子さん(3)

 仁科夫妻の入居は、10日後に決まった。それまで住んでいた自宅を売却し、移ってくるとのことだった。
 夫の名前は仁科進にしなすすむ、妻は美代子みよこ。70代後半の夫婦だ。年金はそこそこあるらしく、家賃は5万3千円ほど支払ってもらえるそうだ。うちのアパートでは最高値の家賃。この家賃は、八千代の会から振り込まれるらしい。万が一、仁科夫妻が支払えない状況になっても、八千代の会が肩代わりをする仕組みになっているそうだ。
「これで、B棟は埋まったな」
 我が家に上がり込んでインスタントコーヒーを飲んでいる憲二郎が、ほっとしたように言う。来月中には、吉田幸一と森戸志穂未が2階の空室に移ることになっている。102号室に仁科夫妻が入り、B棟はとりあえず満室になった。
「でも、仁科さんご夫妻、どうしてうちなんかに来られたのかしら。ご自宅を売ったのなら、その売却益もあるだろうし。月々5万円以上も家賃に使えるんだから、どこか有料老人ホームに入ることもできたんじゃないかしらね」
 私は疑問に思っていることを口にした。すると、憲二郎はコーヒーカップをテーブルに置いた。
「まあ、俺も高階さんからちょっと聞いただけなんだけどな」
 憲二郎が小さく息を吐いて続ける。
「何年か前に、一人息子を肺がんで亡くしたらしいんだ。スポーツマンで健康体そのものだったから、ろくに保険にも入ってなかったらしくてな。治療費だ入院費だって、仁科さんご夫婦が蓄えを全部吐き出して支払ったそうなんだ。土地を担保にお金まで借りて。その時の借金は、年金の中から何とか返済してたみたいなんだけど」
「それは大変だったわね」
 愛しいわが子だ。少しでも良くなるのならばと、無理して治療費を支払う気持ちはよくわかる。
「息子さんを亡くしてから、奥さんが精神的に参っちまったらしくてさ。息子さん、同居してたらしいから、家にいると思い出すこともあったんだろうな。その上、腰を傷めて階段の上り下りが難しくなっちまった。それで、自宅を売却して、どこかに移ろうって話になったそうだぜ」
「土地を担保にされてたってことは、家を売っても、その売却益は借金の返済に回っちゃったんでしょうね」
 私の言葉に、憲二郎はうなずいた。
「ああ。そういうことらしい。ま、少しは手元に残ったみたいだけどな。安い老人ホームはどこも満室で、高い部屋しか空いてなかったらしくてさ。結構な額の一時金がいるところも多いそうだし。そんなこんなで、賃貸住宅しか選べなかったってわけだ」
「そんな状況の方から、たくさんお家賃をいただいちゃって、いいのかしら」
 何だか心配になる。
「こっちもリスクを背負って部屋を提供するんだから。向こうが支払えるって言うなら、いいんじゃないのか」
 憲二郎が苦笑いする。
「まあ、そうだけど……」
「ところでさ。高階さんの話だと、仁科さんご夫妻、ここに越してくるのを楽しみにしてるらしいぜ。外壁まで綺麗にしてよかっただろ?」
 憲二郎が話を変えた。
「そうね。この間、A棟に入ってくれた平本さんの後輩の吉原よしはらさんも、喜んでくれたって話だったし」
 私の言葉に、憲二郎が眉をひそめる。
「本来なら、家賃が上げられたはずなのにな。平本さんと同じ3万円でいいなんて話を、お前が勝手にしちまうから、結局3万円しかもらえないことになっちゃったじゃないか」
「だって、平本さんからは3万円しかもらってないのに、後輩さんからそれ以上もらったら、平本さんの立場がなくなっちゃうじゃない」
「そんなら、平本さんの家賃も上げたらよかったんだよ。社会人になったんだから」
 憲二郎は時折、こういう無茶苦茶なことを言う。
「『せっかく入居者を紹介したのに、なぜか家賃が上がりました』なんてことになったら、誰も紹介してくれなくなるわよ」
「ははは、たしかにな」
 憲二郎は楽しそうに笑うと、また話題を仁科夫妻に戻した。
「それにしても、うまい具合に1階が空いててよかったよな。2階じゃ、奥さんが無理だっただろうから」
「そうそう、それなんだけどね。奥さん、腰が悪いってお話だったわよね? 本当に和室でいいのかしら。私も腰を傷めたことがあったけど、布団の上げ下ろしとか、座り込んでて立ち上がるのとか、意外とつらいわよ」
 私は憲二郎の方を見た。
「俺も気になって確認したんだよ。そしたら、どうしても和室がほしかったのは、ご主人の方みたいだな。布団で寝るのが好きなんだとさ。奥さんはベッドを使ってるから、心配はいらないって話だったぜ」
「ふうん。そういうことだったの」
 私はコーヒーを一口流し込んで、続けた。
「で、普段のケアは、八千代の会さんの方でやってくれるのよね?」
「ああ。市の方も、定期的に巡回してくれるらしいしな。気になるなら、お前もちょいちょい様子を見に行ったらいいだろう。まあ、角田のじいさんも同じくらいの歳だし、気にかけてくれるんじゃないのか」
 角田とは、A棟に住む70代の男性だ。このアパートでは重鎮で、私もいつも助けてもらっている。
「そうね。みんなもいるんだし、大丈夫よね」
 私は残っていたコーヒーを飲み干した。
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