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おねえさん大家の人情派日記 ~こんなアパート、いかがでしょう?~ 作者:みづき
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第2章 事務所 山下忠久さん(8)

 1時間後、部屋のチャイムが鳴った。
「はーい、ちょっとお待ちくださーい」
 返事をしながら、空のままテーブルの上に放置してあったカレー皿を片付ける。今日の夕食は、レトルトのカレーで済ませてしまった。
 覗き穴を覗くと、そこには山下が立っていた。急いでドアを開ける。
「さっきは申し訳ありませんでした。すべて片付きましたので」
 唇の端には小さなバンドエイドが貼ってある。
「大丈夫ですか?」
 自分の唇を指さしながら、尋ねる。彼はそっと傷口に手を当てると、小さく頷いた。
「長い話になるかもしれませんので、上げていただいていいですか?」
「どうぞ。カレーのにおいが充満してるけど」
 彼は鼻がいいと言っていた。指摘される前に伝えておく。
「ええ。レトルトですね」
 山下はそう言いながら、部屋に上がってきた。においで手作りかレトルトかまでわかるのか? 私は驚愕しつつ、テーブルの奥にある椅子を手で示した。彼が座るのを見て、私も向かい側の椅子に腰かける。
「何から話したらいいですかねえ」
 そう言ったきり、彼はうつむいて黙り込んだ。重い沈黙が流れる。
「何か飲みますか?」
 私はそう言って立ちあがった。冷蔵庫を開け、缶ビールを2本取り出す。
「はい、どうぞ」
 山下の前に置くと、彼は少し驚いたような顔をしたが、やがて微笑んだ。
「いただきます」
 プルタブを開けて一口あおる。そして、彼はようやく話を始めた。
「さっき来てたの、野添だって気づかれましたよね?」
「ええ。テレビで何度も見たことありますから」
 私もプルタブを開ける。
「以前、同じ事務所だけどほとんど話したことないって、お伝えしましたよね? あれ、嘘なんです。実は、僕は野添と一緒に住んでいました。事務所も一緒に立ちあげて……」
 彼はそう言うと、また一口ビールを飲んだ。
「3年くらい前から、野添がメディアに出始めました。ルックスもいいし、探偵のイメージアップにってことで、所属していた協会の方から依頼されたのがきっかけです。僕は、あまり賛成しませんでした。探偵っていうのは、対象者に知られないように調査しなくちゃいけないこともありますから。顔を売ったら何かとやりにくくなりますし」
「たしかに、そうですね」
 野添に尾行されても、すぐに気付いてしまいそうだ。
「でも、野添は積極的に露出するようになっていった。その影響で探偵事務所への依頼も増え、スタッフも増員しました。まあ、仕事が滞りなくできればそれでいいわけですから、これもアリかなって思って見てたんですけど」
 山下は、小さく息を吐くと、缶ビールをテーブルの上に置いた。
「あいつは変わってしまった。自分の名前を売るためなら、何でもやるようになってしまったんです。そしてついに、ひとりの女性の人生をメチャクチャにしてしまった」
 山下は、こぶしを握って続けた。
「依頼の内容を明かすわけにはいかないので、詳しい話はできないんですけど……。僕は、彼のやったことが、どうしても許せなかったんです。これまでにも、考え方が違って議論になることはありました。だけど、人の道に反するようなことを、彼が押し通したことはなかった。それなのに」
 山下は、ギュッと目を閉じて黙り込んだ。音のない時間が流れる。少しして、彼は再び口を開いた。
「反省するどころか、『お前がいなくなったって、俺には他のスタッフがいる。考えが違うなら出て行け』なんて言い出して」
「それで、事務所を辞めたんですね」
 私の言葉に、彼は目を開けて頷いた。
「本当はすぐに辞めたかったんですけど、そんなに貯金がなかったんで。開業して当面回せるだけの資金を貯めるのに、1年近くかかりました。それから、置き手紙をして、行き先も告げずにマンションを出たんです。この近くには実家があるし、そのうち居所はわかるだろうと思ったんですけど、こんなに早くばれるとは思いませんでしたよ。さすが探偵ですね」
 山下はそう言うと、自嘲気味に笑った。
「さっき、殴り合ってスッキリしました。野添は言い過ぎた、戻ってきてくれって言ってましたけどね。給料をもっと上げてもいいって。それを聞いて、さらに冷めていく自分がいましたよ。昔の野添なら、札束で顔をはたくようなことは言わなかった」
「それで、野添さんは納得してくれたんですか?」
 私が尋ねると、彼は缶ビールを一口飲んで、こちらを見た。
「納得せざるを得ないと思いますよ。ばらされたら困る秘密も、僕は握ってますからね」
「ばらされたら困る秘密?」
「ええ」
 山下は、微笑みながら言った。
「大家さん、口はカタいですよね?」
「まあ、昔から言っちゃダメって言われれば、絶対言いませんでしたけど」
 アンタはハチ公みたいよね、と幼馴染に笑われたこともあるくらいだ。すると、山下は残りのビールを一気に流し込み、空になった缶を潰しながら言った。
「実はね、僕達、付き合ってたんですよ」
 あまりお酒が強くないのか、ろれつがアヤしくなっている。
「付き合ってた?」
 驚いて聞き返す。
「ええ。前に、大家さんの部屋の鍵を開けないのは、ポリシーの問題だって話、したじゃないですか」
 そう言えば、内覧に来た時に言っていた覚えがある。
「その、ポリシーってやつです。僕、女性は愛しません。恋愛の対象は男性だけなんです。野添も同じ。こんなことバレたら、女性のファンが一気にいなくなりますよ」
 たしかに、八重子が聞いたら失神しそうな話だ。
「職場恋愛って最悪ですね。上手く行ってる間はいいですけど、下手すると仕事もプライベートも、全部失っちゃうんだから」
 そう言うと、山下は突然、テーブルに突っ伏した。
「そういうわけで、僕、ここで頑張りますから、よろしくお願いします」
 何がどう「そういうわけで」なのか? 呆気にとられる私の前で、彼はそのまま寝息を立て始めた。
「ちょっと」
 起こそうとして、思わず手を止める。山下の頬には涙が伝っていた。
「仕方ないわね」
 まったく、手間がかかる店子さんだこと。
 私は、着ていたジャージの上着を脱ぐと、彼の背中にそっとかけた。
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