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おねえさん大家の人情派日記 ~こんなアパート、いかがでしょう?~ 作者:みづき
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第1章 A棟103号室 角田昭光さん(7)

「あの、何か?」
 立ちあがって尋ねる。すると、そのお爺さんはアトリエの中に入ってきた。
「お嬢さん、大家さんの娘さんだね?」
 初対面のはずなのに、どうしてわかるんだろう。私はいぶかしく思いながら、頷いた。
「そうか。大家さん、具合悪くて入院するって言ってたけど、元気になったかい?」
 優しげな笑顔を私に向け、そのお爺さんが尋ねてくる。
「あ、いえ、父は先日亡くなりました」
 私が答えると、お爺さんは一瞬目を見開いた。そして、口元を抑えて嗚咽を漏らし始めた。父とはどういう関係の人なんだろう。よくわからず困惑する。
 そのまま黙っていると、やがてお爺さんは涙をぬぐって顔を上げた。
「大家さんには、本当にお世話になったからね。A棟の103号室に住ませてもらっている角田昭光かくたあきみつという者だけど」
 鼻をすすりあげながら、お爺さんが自己紹介を始めた。このアパートの住人だったとは。話が長くなりそうな気配を察して、私は一人掛けのソファを手で示した。
「よろしかったら、おかけください」
 お爺さん――角田は頷くと、ソファの上に載っていた碁盤をテーブルの上に移して座った。
「大家さんとは、よく一緒に碁を打ったんだ。本当にさみしいねえ」
 その碁盤をゆっくりなでながら、しみじみと言う。父の死を心から悼んでくれている様子に、思わず胸が熱くなった。
「こちらにお住いになられてから、長いんですか?」
 私が椅子に腰かけ直して尋ねると、角田は頷いた。
「そうだねえ。妻が亡くなってすぐだったから、もう8年になるかねえ」
 そして、彼は懐かしそうに天井を見上げた。
「大家さんはね、俺の命の恩人なんだよ」
「命の恩人?」
 聞き返す私にそっとほほ笑むと、彼は話を続けた。
「ああ。俺は会社勤めをしてたんだけど、定年で退職してね。その後は妻が切り盛りしていた一膳飯屋を手伝ってたんだ。そんな時、妻が1週間ほど寝込んだ後、急に亡くなっちまった」
 角田は小さくため息をついた後、再び口を開いた。
「俺は、一膳飯屋を継ぐことはできなかった。ろくに料理も作れないしね。で、いざ店を閉めようとなったら、結構な借金があることがわかったんだ。相続放棄って手もあったんだけど、保証人に迷惑かけることになったら申し訳ないと思ってね。とりあえず、手つかずで置いてあった退職金で、それをきれいにしたんだけどさ。貯金はスッカラカンになっちまった」
 彼は両手を振って見せると、続けた。
「おまけに、当時住んでいた賃貸アパートが取り壊されることになってねえ。どこか他のところを探さなくちゃいけなくなったんだ。でも、無一文の年寄りに部屋を貸してくれる大家なんて、なかなかいない。子供がいれば保証人にでもなってくれるんだろうけど、うちは子供がいなくてね。出て行く約束の日になっても、次の部屋が決まらなかった。結局、バッグひとつでアパートを追い出されて」
 私が頷くのを見て、角田は床に視線を落とした。
「もう何もかも嫌になっちまってね。で、大砂橋から川を見てたんだ。飛び込んでやろうかと思ってさ。そしたら、そこを通りかかった大家さんに、声をかけられた」
 大砂橋とは、この街を流れる川にかけられた橋だ。以前は人通りも多かったが、最近になって新大砂橋という大きな橋が下流にかけられ、そちらに人通りを取られていた。
「うちに住めばいいって言ってくれたんだよ。大家さんがね。俺は勤め人だったから、厚生年金がそこそこもらえる。家賃をきちんと払ってくれさえすりゃあ、保証人なんていらないよって、大家さんは冗談っぽく笑いながら言ってくれてね。貯金が無いって話をしたら、敷金も礼金も必要ないってさ。地獄に仏とは、まさにこのことだね。本当に、嬉しかった」
 角田は目頭を押さえると、しばし黙り込んだ。私はかける言葉が見つからず、じっと角田を見つめていた。すると、彼はゆっくりとこちらを向いた。
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