チョコレートを、あなたに
手の中の“それ”をもてあそびながら、教室の扉を見る。
開く気配はない。廊下から足音が聞こえることもない。
当たり前といえば当たり前だった。
いつもより一時間も早く登校してしまったのだから。
こぼれてしまったため息を、小さく笑ってごまかしてみる。
たった一つの行動に、これほど思い悩むことができるなんて思ってもみなかった。
かわいらしいような馬鹿げているような、でも悪くない気分だ。
平たく言わなくても、この状態を言い表す言葉なんて一つしか知らない。
あたしは、恋をしてる。
陸上部のあいつに。
ありふれたキッカケだ、と自分でも思う。
机の上から転がり落ちた消しゴムを、あいつが拾ってくれただけ。
それで、なんとなく背中を眼で追うようになって。
決定的だったのは去年の10月。体育祭の最終リレー。
前の走者が転んで最下位になってたうちのクラスは、声援すら上がらないくらい意気消沈モードだったのに、あいつは諦めなかったのだ。
バトンを受け取るなり、しなやかに駆け出して、1,000メートルのうちに1人抜き、2人抜き、3人目、つまり1位の走者に迫ってすら見せた。
結局、うちのクラスは2位に終わったけど、あたしも含めてみんな、あいつの敢闘をおおいにたたえたものだった。
どさくさにまぎれてタオルを手渡した瞬間のあのドキドキは、今も忘れられない。
うっすらと汗をかいたあいつの背中を思いだして、あたしは机につっぷした。
天板の冷たさが、ほてった頬に気持ちよくて、少しだけ落ち着いた。
机の端に置いた小さな箱を横目で見つめてため息を一つ。
陸上部のあいつは、朝練の関係でいつも一番乗りだ。
誰にも知られずに渡すには、悪くないチャンス。
冷静に考えても、これは滅多にないようなチャンスなのだ。
最悪、受け取ってもらえなくったって、イベントに乗っかってみたフリで終わりにできる。
それでも、はじめに紡ぐ言葉は一つきり。
霞んでしまわないように。ちゃんと伝えられるように。
鏡の前でわざわざ練習した自分は、やっぱり馬鹿かもしれない。
最悪、なんて考えたくない。
受け取ってもらえなかったらどうしよう。
視線すら合わせられなくなったら?
義理のような顔をして、放課後とかに渡せばよかった。
そうしてしまおうか。
だって明らかに、そっちの方が楽だし。
少なくとも、こんなに心臓が慌てることは・・・
どうだろう。無いとは言い切れない気がする。
今ならまだ間に合う、と頭の中で誰かが言ったような気がしたそのときだった。
廊下から、足音が響く。
とっさに上半身を起こして、念入りにとかしてきた髪をもう一度撫でつけて、そうしてなんでもないような顔をとりつくろう。
でも。頭の中は大パニックだ。
どうしよう。どうすればいいんだろう。
ガラリ、と扉が開いた。
迷うあたしの前に、あっけにとられた顔のあいつがいた。
朝の7時半を回った教室に、他の生徒がいるなんてこれまでになかったんだろう。
そう思いながら、うっかりやつの顔を見つめてしまって。
あたしは笑った。
これまでに見たことのないその顔が、なんだか愛しくてならなかった。
「よかったら、受け取ってもらえないかな」
自然と、口をついてでた言葉に、うろたえながらチョコレートを差し出す。
心臓はもう爆発寸前だった。
「ずっと前から、好きだったの」
その後に、あなたが、といえるような勇気はない。
その代わりに、このチョコレートが、と続ける用意をしていたあたしの口は、あいつの顔が真っ赤に染まったことにびっくりして動かなくなった。
はじめまして。もしくは、お久しぶりです。
水音灯です。
あなたがそこに居てくださることが嬉しいです。
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