今日は、最悪の日だ。
彼氏とは喧嘩するし、明日は塾の学力テストだし…。
「はぁ…。」
私はこれ以上ないってぐらいの大きなため息を吐くと、いつものように図書室に入っていった。
中学3年制―別名 受験生―になって、
私の通っている塾では毎月のように学力テストがある。
そのせいで、授業が終わった放課後は、『図書室に行ってテスト勉強』
というのが私の日課になっている。
【ガラガラ】
図書室の引き戸を開けると、いつもと同じ古い紙の匂いがする。
最初はこの匂いがあまり好きじゃかったけど、
毎日のように通っている間に、この匂いも私にとって心地いい匂いになった。
「また…。」
私は、無意識に呟いていた。
私は帰りの会が終わった後、すぐに図書室にくるのに、いつも先客が一人いる。
同じクラスの坂下さんだ。
私は、仕方なく坂下さんの隣の席に座って、参考書を開いた。
しばらく、沈黙の時が流れる。
私は、考えるのに少し疲れて、顔を上げた。
坂下さんは、私が隣に座ったことに気づいていないのか、
もしくは、私のことを無視しているのかわからないけど、
ずっと目線を本のほうに落としたままだ。
私も、もう一度参考書に目を落として、シャーペンを忙しく動かし始めた。
でも、一度集中が切れると、もう一度集中力を張り巡らせるのは難しい。
私は、坂下さんの読んでる本が気になって、そっと覗いてみた。
― 時の世界 ―
これが坂下さんの読んでいる本の題名だった。
「時の…。」
私は、思わず呟いてしまった。
「えっ!?」
私の声に驚いて、坂下さんが顔を上げた。
「あ…っとぉ…。何の本読んでるのかなぁ…って。」
私は、焦って適当に言い訳をした。
「え?これ?」
坂下さんが本を指して言った。
「あぁ、これね。これは、ん〜…過去とか今とか未来とか大まかな時間について書いてあるの。ちょっと…難しいんだけど…。」
そう言うと、坂下さんは曖昧な笑みを浮かべた。
「ふぅ〜ん…。どんな話なの?」
別に内容には興味なかったけど、
自分から聞いておいてそのままにするのも坂下さんに悪いと思って、適当に聞いてみた。
すると、私の質問に対する答えとは全然違う質問が返ってきた。
「歩村さんは、今、なにか悩み事ある?」
「悩み事!?ん〜…今日、彼氏と喧嘩しちゃってどうしよう?とか?」
「そうそう。そんなの。ちなみに、それは過去の事ね。」
「?」
私は、坂下さんの唐突な質問に困惑してしまった。
私が黙っていると、坂下さんは本を閉じて、本を見つめて話し始めた。
「この本によると、私たちはみんな時の住人なんだって。
自由に時を使うことができるの。
過去を振り返って時を戻すこともできるし、現在にしがみついて時を止めることもできる。
未来を予想して時を進めることもできる。
そう、本には書いてあるの。でも…」
坂下さんは顔を上げて私の目を見つめると、もう一度話し始めた。
「でも、私はもっと大事なことがあると思うの。
私は『一瞬』を大切にすごすことがもっと大事だと思う。
過去を振り返るのも大切だと思うし、
現在にしがみつくのも必要だと思うし、
未来を予想するのも大事だと思う。
でも…それは私たちができることで、やらなきゃいけないことじゃない。
私たちがしなきゃいけないことは、
私たちが生きてる『一瞬』を壊さないように、一人歩きさせないように、
微妙なバランスを保って過ごさなきゃいけないと思うの。
だって、過去も、未来も、全部『一瞬』で、できてるでしょ?
過去は、もう過ぎてしまった一瞬、
未来は、まだ来てない一瞬が集まってできてる。
過去を後悔するってことは、過去のどこかの一瞬が壊れてしまっているから。
現在に絶望するってことは、未来のどこかの一瞬が強くなって私たちにその存在を押し付けているから。
過去を見てても、現在に居座ってても、未来を考えてても、
時が戻ったり、止まったり、進んだりするのは私たちの中でだけ。
本当に存在する時は、ずっと永遠に動いているんだから、
もう終わってしまったこととか、
まだどうなるのか分からないことに時間を潰してちゃもったいないでしょ?
だったら、やってくる一瞬を後で後悔しないように、やってきたときに絶望しないように、
大切に使うほうがいいと思わない?」
坂下さんはそこまで話し終わると、「ね。」とでも言うように笑顔になった。
「いま…。」
坂下さんは、話し終わってからもずっと私の目を見つめている。
坂下さんの目は吸い込まれるように黒い。
この奥には、私の知らないモノが写っているのかもしれない…。
どのくらいそうしていたんだろう?
私は、図書室に鳴り響いたチャイムの音で、現実に引き戻された。
「歩村さん、大丈夫?」
坂下さんが、ちょっと心配そうに私の顔を見ている。
「え?あ、うん。大丈夫、大丈夫。その話、私には難しすぎたみたい。」
私は、坂下さんに苦笑して見せた。
「でも、話の内容はいまいち理解できないけど、坂下さんの言いたいことは、なんとなく分かるような気がする。」
私の言葉に、さっきまで心配そうな表情だった坂下さんの顔が、パァっと笑顔に変わった。
「そっか。よかった。」
坂下さんはそう言うと、また本を開いて、時の世界へ行ってしまった。
私たちは、これからもずっと、時の世界に居続けるのかもしれない。
でも、私たちが過ごしているのは現実世界。時の住人でありながら、そうじゃない。
時を自由に使おうなんて思わない。
だけど、いつの間にか、過去を振り返っては後悔して、
未来に期待しては、現在に絶望していたのかもしれない。
坂下さんの言う『一瞬』で過去も、未来も、全てが変われるのなら、
彼氏と喧嘩したっていう過去のことも、明日が塾の学力テストだっていう未来のことも、
一瞬にかけてみようかな?って思う。
一瞬を大切に過ごせば、明日には今日とは違う結果が待っているのかもしれない。
時の住人としてしなきゃいけないことをやり遂げれば、
やってくる結果がたとえ望まないものだったとしても、満足できるのかもしれない。
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