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ゆめのいきもの
作:幸谷遥


 わたくしは生きものだった。白い壁、私の外側にあるもの。たくさんあるケージの一つに私はいた。私を捕らえた人間は私をたいへん珍しがって日毎、定期的に私の様子を伺いにきた。私は壁の向こうから聞こえる隣人の物音に怯えていた。そして私が視線を交わすことの出来る向かいのケージには一匹の美しい蛇がいた。
 蛇の声はか細かったけれど私ははっきりと聞き分けられた。赤い鱗を持つ毒蛇は何でも知っていた。私に捕まるまでの出来事をおかしく話してみせた。わたくし達は友人だったのだろうか。蛇も私も人の手によって捕らえられた仲間という心はあった。でも友情というものとはまた違うよう感じる。
 日々は単調だ。わたくしは目を閉じる、開く。与えられるままに餌を喰らう。どうにも我慢がならなくなると音をたて体の向きを変えようとする。しかしケージは狭いので思うようにならない。動くたびに壁にあたって音がした。
 食事は一日に二度。食べると、たいてい吐き戻してしまった。餌は見たことのない塊だった。外で暮らしていたわたくしは他のいきものを捕まえていた。晴れの日には晴れの日の味がして雨の日には雨の日の味がした。私はあの密林が恋しかった。
「あんた。あんたのいたところはあたしのとこにそっくりなんですね。」
「午後には激しい雨が降って大きな枝を持つ木をの下を探した。」
 蛇に故郷のことを話すと少しばかり気が晴れた。
「はいそうです。雨に打たれて赤い花があたしのちょうど目の前に落ちて嬉しく思ったこともありました。」
 嬉しそうに蛇は体をくねらせ舌をちろりと見せた。蛇は美しかった。わたくしは己の不粋に呆れながら彼の細やかさを羨んだ。
「あんただってきれいですよ。誰があんたの近くにきて目を奪われないなんて言うんです!土に埋もれた乙女の石像のようにあなたは不思議な魅力を持っています。」
そうでしょうか。あの人間達はわたくしを化け物だと言います。自分でもそうだと思うのです。あなたは蛇です。しかしわたくしにはそれがないのです。私は蛇ではないし、人間でもありません。獣ですらない。わたくしの曖昧さはわたくしを醜くしている。あなたはわたくしに答えを与えられますか。」
 ちろっちろっとすばやく舌なめずりをして蛇は笑った。するっと鎌首をもたげ私を見据えた。
「答えならあたしが考えてあげますよ。あたしは長く生きてきた。海を渡り空を飛んだ。草叢に潜み女のかかとに噛み付いたこともあります。あたしが人間に与えるのは死と誘惑です。持っているのは毒と知性です。古くから決まっていてあたしはそうしてきました。」
 蛇は腹の鱗まで赤い色をしていた。それはもしかすると蛇もまた蛇ではない印だったのかもしれない。
「でもいいですか。あたしがあんたに答えをやったらあんたは死なないといけません。それもまた古くからの決まりなんですよ。だったらもう少しあとでいいと思わないですかね。」
 いま言うのとあとで言うことに違いなどありはしないだろうに。わたくしは蛇の言葉に従った。
 蛇のケージには金網が張られていた。蛇の体が細長いために、鉄棒だけでは閉じ込められないからだ。しかし、私には蛇がわざとその中に留まっているように思えた。彼は出ようすればいつでも出れる。そんな確信を持たせるものがあった。
 わたくしはと言えば、日に何度か開かない扉にぶつかっていった。鍵の掛かった扉はびくともせず硬質な音をたてる。
 ぶつかれば痛かったし血で汚れた。それでも諦めることは駄目だと訴えるものがあった。私が出ようとあがくことをやめれば蛇が自分の檻を抜け出して私の前に来るだろう。蛇が私を殺すだろう。暗い予感があった。
 死にもせず、かといって生きているわけでもなくわたくしは存在していた。不意に外が雨であることに気付いた。雨音がケージのさらに外の壁を叩く音が聞こえた。やってきた人間の服の裾がぬれていて、雫が床に落ちた。
 餌はせまい隙間から押し込まれる。私がおとなしいことを確認すると人間は注射の針をわたくしに刺した。打たれると体を動かすことが億劫になる。注射を打たれるようになってからの数日は眠ってばかりいた。何も出来る気がしなかった。
 蛇は何の言葉も掛けてこない。ただこちらの方を観察するように見ている。人間が立ち去り明かりが消されると、蛇の目が薄暗いところで金色に光っていた。
 目が覚めたら見たことのない人間が私を見降ろしていた。普段見かける人間に比べるとおおよそかけ離れた奇抜な服と髪の形をした男で、ずいぶん親しげな眼差しを私に向けた。
「あんたはあと十日で死んじまいますね。」
 彼はわたくしの目が開いたことに気付くと腰を降ろしわたくしに言葉をかけた。話し方でそれが蛇であることに気付いた。彼はやはり美しく、太古の生き物である風格を備えていた。
「ああ本当、こうまでやせちまって。自分でもいけないとわかるんだろ。」
 蛇は鉄棒の隙間に腕を差し入れわたくしの前脚を撫でていた。私は何も言わなかった。蛇はやけに威圧的だと感じたけれど、私を憐れんでいることも感じ取れた。
「ねえあんた。あたしはこの鍵を開けてやることも出来るし、あんたを帰りたいところに連れてってやることも出来るよ。そうしたらあんたは生き延びることが出来るんだ。あたしとちょっとした約束をしさえすればね。」
 私にはこれが蛇の誘いに乗るたった一度のチャンスであるとわかった。これ以上遅くなると私は逃げ出しても外で生きていけない。
 それでも私は蛇の誘いかけに応じなかった。悪魔でも時期を見誤るのだ。既に私から生き延びようとする意志は省かれていた。私は人の形をした蛇の金色の眸を力なく見上げていた。首を動かすことも叶わなかった。蛇は悲しげに笑った。
 蛇は私に契約を持ちかけることを躊躇っていたのだ。掟に従って見返りを要求せねば何もしてやれない己を恥じていた。多くを語らなくてもその表情がすべてを物語っていた。
 私は最後が来たとき蛇に私のことを尋ねようと決めた。
 謎が解かれることで死ななければならないのは私への掟だった。蛇はきっとその瞬間がやすらかであるよう手助けをしてくれるだろう。
 私の言葉にださない決心を蛇は理解していた。
「ああいいでしょうとも。承りました。」
 そう答えると若い男の姿のまま暗闇のなかに姿を消してしまった。
 一連のやりとりを私は夢であるかと思った。しかし朝になっても蛇のケージは空だった。
 毒蛇が建物の中に潜んでいると、人間たちは慌てたが、私と約束をした以上、蛇がそこにいる理由はなくなったのだろう。また蛇はやって来る。そう考えてわたくしは最後の日々を営み始めた。
 皮肉にも人間が打つ注射が私を苦痛から遠ざけていた。私は眠った。不安な夢を見て目覚め、それを振り払い再び眠り新たな夢を発見した。
 ああ、そしてついに予告された十日が経っていた。
 蛇が現れたのは夜になってからだった。小さなランプの明かりを携えて、大きな布に包んだ鏡を持っていた。
「さて、鏡を見るのは初めてかしら。緑色に濁った沼より鮮明に我々の姿を映しだすものさ。ああまったく。あたしは丁度いい鏡を見つけるために奔走しましたよ。」
 人間の姿の蛇は、はるかに表情が豊かだった。鉄棒の前に布が掛かったままの鏡が置かれた。
「御覧よ。」
 さっと蛇が布を取り去った。私は鏡に映る自分の像に見入った。
 鏡は私の姿を映し出していた。蛇の言うとおり自分の全身を目にすることは初めてだった。
 私の仲間という生き物に遭遇したことがないことに気付かされた。畏れ多いことに私の姿はこの地上に私のほかに存在しえないものだったのだ。
「わたくしはいったい何という生き物ですか。」
 蛇の口唇がつりあがった。
「あんたは綺麗ですよ。」
 そっと静かに蛇は鏡を伏せた。
 ケージの扉から小さな金属がぶつかる音がして鍵が開き、蛇が上半身を前かがみに私と間近で顔を突き合わせた。蛇の金色の目が私の目と同じ高さに来ると蛇はゆっくりと口を動かした。
「あんたはね………。」
 蛇のくれた答えはわたくしを満たすものだった。私は蛇の告げた答えを聞くとすべてが運命であることを思わずにいられなかった。
 蛇の顔が離れ、彼は私に赤い花を差し出した。この目の前にある花はかつて蛇が話したあの花だろうか。甘い蜜の香りと、花弁の隙間に落ちた露の匂い、そして花を咲かせた根元の土の匂い。それらがわたくしの鈍った嗅覚にかろうじて届き、私は花を口に含んでいた。
 口の中で花弁はくしゃくしゃになった。でもわたくしは悲しくもなく、嬉しさに似た思いで涙を流した。
 私のせせの辺りをさっと手で払うと蛇は私の項に首を巡らし、次の瞬間にはその毒の牙を食い込ませていた。
 刺される痛みがわずかの間、感覚を支配し、私は声もなく息だけを吐き出した。流した涙が頬を滑り落ち、蛇の髪をぬらした。
 蛇が口を離すころにあったのは死に向かう慢性の弛緩だった。しばらく私たちは無言だった。毒が回りきるのを待っていた。
 その時がやって来ると蛇は私の顔を持ち上げて、額と頬にキスをした。それからどんどん私の視界は暗くなって、目を開けているのに蛇の顔が見えなかった。
「さよならスフィンクス。」
 蛇が私の名前を呼ぶのが聞こえた。
 それは夢の生き物。永遠の謎であるスフィンクス。それが私だった。ああ私はこれで死んでしまうので、私の話はこれでおしまい。














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