寧日
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「お母さん、そんなに早くじいちゃんの家壊す必要あったのかなぁ?」
携帯を片手に膨れっ面をした娘の実穂が助手席に座りながら言った。四月に入り雪が漸く溶け、私達母子は多少時期はズレたものの、お彼岸を兼ね昨年亡くなった父の墓参りの為に車で約二時間の場所にある私の生まれた街へと車を走らせていた。
「お母さんもそう思うんだけど、やっぱりあの古い家を維持するにもお金がかかるからねぇ」
父の家は木造で平屋の造りであった。外観はとても古くくたびれており、お世辞にも住みやすい家とは言えなかった。それでも私が生まれて嫁ぐまでの二十三年間を過ごしてきた家だ。
「おじちゃんの嫁が悪いんだよ。金に目が眩んでさぁ」
私の弟に毒を吐く娘の言葉に苦笑いを返す事しかできなかった。何故ならば、弟は父に実家の土地の権利を譲られたのを良いことに、父が亡くなった直後、四十九日を待たずと隣家に住む幼少の頃からお世話になっていた八重子さんに、あっさりと家の土地を売ってしまったのだ。
いくら権利があるとは言え、父の築き上げてきたものをたかだか三百万に変えてしまっては空しすぎる。私達家族の思い出は、ものの数時間で跡形も残らず消えてしまった。
「お母さん、小さい時の実家の思い出とかある?」
そんな実穂の一言から毎年この時期に家の周りに生えるあの雑草を思い出した。
「知らねーの? ハルジオンって貧乏草なんだぞ。踏んだら貧乏になるんだ。お前の家はハルジオンだらけだな」
幼少の頃、同級生の男の子にそう言われよくからかわれたものだ。その都度、家の周りに生えるハルジオンを毟ろうとしては母に怒られた記憶がある。私は春の季節が大嫌いだった。
大きくもない木造平屋の周辺には次々と新しい家が建ち、私の家は瞬く間に汚い古家となったのだ。そして雪が溶け、春になると家の汚さが余計に目立ち男子のからかいの格好の餌となる。
特に隣の八重子さんの家には花や植物が沢山あり、家の前に造られた花壇にはチューリップやマーガレット、林檎の木や葡萄の木が植えられて、より取り見取りだった。そんななか、私の家の周りに生える雑草はより一層に目立っていたのだと思う。色とりどりの花々を横目に何もない自分の家へと帰るのが無性に恥ずかしくて仕方なかった。
「雑草だなんて思わないの。他の花と同じように名前があるのだから」
母は泣きながら帰宅する私の頭を撫でながら、よくそう言っていた。私から見れば名前があろうがなかろうが、雑草は雑草でしかないのだ。それが原因で私は男子によく苛められていたのだから。
「あの花はハルジオンて言うの? 知らなかった。タンポポに比べると色が地味だよね。でもじいちゃんの家には、すずらんだとかマリーゴールドとか沢山咲いていたよねぇ?」
私の思い出話を黙って隣で聞いていた娘が口を開く。
「それはあまりにお母さんが泣きながら帰るものだから、じいちゃんとばあちゃんが種を植えたのよ」
決して裕福ではなかった父の僅かな収入で、いつからか家には雑草以外の花々が咲くようになった。外観は相も変わらずボロボロだったけれど我が家にも赤や黄色の色がついたのだ。近年、家には隣家に負けじと様々な花が咲いていた。それは母が亡くなった後にも、父がきちんと手入れを行っていたからだ。遊びに行くと、余計に生える草を黙々と抜いていた父の姿をよく見たものだ。
「お母さん、今でもハルジオンだけは好きになれなくて、見る度に貧乏くさい花だって思ってしまうの」
母が言うには、生い茂る雑草と同じくらいあるハルジオンは私の祖母が亡くなった次の年の春から家に咲くようになったらしい。雑草だらけだった家の周りに、前触れもなく突然に咲いたハルジオンを、母と父は大切にしていた。
特別綺麗な訳でもなく、かといって特徴のある花でもない事から、私はその母や父の思いに賛同する事が出来ずにいた。
長い一本道の農道をそんな思い出話を語りながら走っていた。もう何年も走っているこの農道には平日は非常にトラックが多い。思い出話に水を差すように排気音がすれ違い様に会話を妨げる。春の日差しがフロントガラス越しに私達を照らし、父に会いに行くには申し分ない天気だ。
つい先月まではまだ雪が何度か降っていたというのにも関わらず、今はジャケット一枚でこうして出歩く事ができるまで気温が高くなっている。午前中ということもあるが人の姿もちらほらと見えてとても穏やかな日である。
「お墓参りの後に八重子さんの所行くの?」
八重子さんに最期に会ったのは父のお通夜が最期だった。生前何度も父がお世話になったこともあり、私は菓子折りを用意していた。お通夜などではバタバタしていた事もありろくにお礼をする事も出来ないでいたのだ。
「ううん。お墓行く前に渡していこう」
業者が入り家を壊してから、まだ一度も跡地を見に行っていない。気持ちの整理がついていなかった事もあるが帰る場所を失くしてしまったように思えて行くのが恐かったのだ。すき間風が酷く納戸を閉めても湯たんぽがないと寝れなかった冬や、殺虫剤を撒いても虫が湧き出る和式トイレ、窓際にあったサボテンの花と母の大事にしていた化粧品。そして、孫が産まれ喜んだ父が孫の背丈を計る度に家の柱に付けた傷。その全て何も残っていないのだ。
「どんな風になってるんだろうね。じいちゃん家」
実穂もまた複雑な思いを抱えているのだろう。特に母が先に逝ってしまった後は父と共に過ごす日も多く、元々おじいちゃんっ子と言う事もあり亡くなった直後は私まで心配してしまうほど塞ぎこんでいた。父の家が壊されると知った時には只一人それを反対していたのである。
「今更だけどお母さんね、じいちゃんの声を電話にでもテープにでも何でもいいから録音しておけばよかったって思うのよ」
親を看取れるだけ幸せなのだと思う心とはよそに、写真ではなくもっと直に父に触れたいと願ってしまう。父の使用していた箪笥の奥にまだ小さな時の実穂との電話を録音したテープがあった。何を言っているかも分からない実穂の言葉に耳を傾け、時折笑う父の声を私は何度も何度も繰り返し聞き直した。
「本当に今更だねぇ」
私の気持ちとは裏腹に実穂は大きく欠伸をし、窓の外に目を向けてしまった。
大きな橋を渡ると私の通った母校が左手に見える。私が過ごした時の校舎ではなく天窓が付いた随分とおしゃれなものに変わっていた。着るのが嫌だったセーラー服もブレザーへと変わり時の流れを身にしみて感じるのだ。
「もう着くわよ」
高校を通り過ぎるとよく母と出かけたこの街唯一のデパートが並ぶ通りに出る。休日以外はほとんど人がいなく、年老いた人たちが昼食を取ろうと店に入っていくだけだ。いつかのような活気もなく、最近では夏に行う祭り以外には人が大勢賑わう事はない。母が好きだった和菓子屋に立ち寄るとお墓に供えるお団子を購入した。
「お花は? 買っていかないの?」
「お墓のすぐそばに道の駅あるでしょ? あそこの方が沢山種類あるのよ」
坂を下り私がよく遊んだ公園を通り過ぎると中道へと入る。ここら辺もまた段々と景色が変わっていく。ずっと変わらずにあった幼稚園まで最近建て替えの工事をしたのだ。昔ながらの風景を今の人たちの簡単に壊す事に対し、何も抵抗などを感じはしないのだろうか。
「見て! じいちゃんの家本当に何も無くなっている」
父の家の前に着いた時、先に声を出したのは実穂の方だ。私はそれに釣られるように視線を窓の外へと向けた。そこには確かにあったはずの家が、本当に綺麗に何も遺されておらずまるでそれは初めから何も無かったかのようだった。花壇にでもなるのだろうか、跡地には石段が積みあがり、正方形の形をつくっていた。もう平気だろう、と思っていたけれどやはり心は素直で喉の奥から声にならない痛いものが込み上げ、瞼を何かに押し付けられているかのように開いておく事が出来ない。
「泣いたら駄目だよ。お母さんとおじちゃんが決めた事なんだから」
そう一言残すと実穂は先に車を下り、八重子さんが飼っている犬のチロを触りに行ってしまった。そうだ、実穂の言う通りなのだ。弟の決めた事に対して私は反対をしなかった。ここで私が泣くのは間違っている。ぐっと堪えると後部座席に置いていた菓子折りを持ち車を下りた。今日は本当に天気がいい。車のボンネットに太陽の日差しが反射して思わず目を細めてしまう。
八重子さんの家にはあの頃と変わらず、今年も様々な花が咲くのだろう。花壇の中には一足早くパンジーが咲いてあり、黄色や紫の色がとても可愛らしい。チャイムを鳴らすと八重子さんはすぐに表に出てきてくれた。もわもわの髪の毛と小太りの体にいつものようにエプロンを巻いていた。飼い主が出てきた事で実穂がじゃれていたチロも尻尾を振り飛びついてくる。
「あら、久しぶりだね。今日はどうしたの」
少し訛りのある話し方は昔と少しも変わっていない。八重子さんは足下にいるチロを撫でながら私を見上げた。顔に出来た染みや皺を見ると八重子さんもまた年老いたことを実感する。私が五十五になったのだから、この人はきっと六十後半くらいだろう。
「父のお墓参りに。お彼岸とか忙しくて来れなかったから。これいつも父がお世話になっていたからほんのお礼です」
用意してきた菓子折りを差し出すと、八重子さんはありがとうと言って受け取った。わざわざ良かったのに、と言っていたが、父にしてもらった事を考えるとこんな菓子折り一つじゃとても足りないのだ。
「あ、そうだ」
何かを思い出したように八重子さんは立ち上がり、空き地になってしまった私たちの家を見た。何か取り壊しの際にあったのかと心配した私をよそに八重子さんは笑顔で私の方へ振り向く。
「お墓参り行くのかい? じゃあ一緒にあれも持って行ったらどうだい」
そう言うと八重子さんは家の丁度、庭があった場所へと移動し私たちを手招きした。何かと思いながらも私たちは八重子さんの元へと歩いていくと、そこには私もよく知っている見慣れた雑草があるのだ。八重子さんはその場にしゃがみ込むとそれを指差していた。
「持っていけってこれをですか」
見慣れた雑草、それは私が嫌いな雑草ハルジオンだ。家が無くなり空き地になったというのに性懲りも無く今年も咲いたのだ。八重子さんは何故こんな雑草を毟り取る事もせずに残しているのだろうか。せっかく花壇にするのであれば、ハルジオンなんてさっさと抜いてしまえばいいのに。
「昔からケイちゃんはハルジオンを嫌っていたっけねぇ。まぁ嫌なら無理にとは言わないけれど」
そう言うと八重子さんは立ち上がり、せっかく来たのだから花の苗をくれると言って一度家の中に入ってしまった。言葉にはしなかったけれど、八重子さんが淋しげな表情をしているようにも見えた。
家を壊し土に戻ってしまったこの場所に、曲がることなく凛と咲いたハルジオンはまるで私に何かを訴えているようだ。その訴えている何かを私は汲んであげることを出来ずにいるのだ。
「お母さん。八重子さんから苗もらちゃったよ」
美穂が花壇の前でビニール袋をぶら下げ手招きをしている。私は実穂の元に戻ると八重子さんに礼を言い早々と車に戻った。もうここは私の帰る家ではないから、あのハルジオンに対してもどうこう言うべきではないのだ。八重子さんが好きならそれでいいじゃないか。ところが、車のエンジンをかけても一向に実穂が車に乗ろうとしない。
「実穂、お墓に行くから車に乗りなさい」
「ごめん。ちょっと忘れ物」
そう言うと実穂は花壇の方へと入って行くのだ。よく見ると実穂の手には八重子さんから借りたのか、枝バサミを握っている。何のことだか状況を呑み込むことが出来ない私をよそに、実穂はあろう事にハルジオンを摘みだした。
「何してるの実穂! おじいちゃんの花は駅で買うって言ったでしょう!」
窓を全開に私は声を大にして叫んだが、実穂は私の言葉を無視し作業をする手を止める事をせずにまた一本、とハルジオンを摘むのだ。頼むからこれ以上、私を苛々させないでほしい、と車から降り、花壇に入ろうとしたその時に実穂は振り向きハルジオンを私に見せつけた。
「お母さん! どうしておばあちゃんとおじいちゃんがハルジオンを大切にしてたかわかったの」
しゃがみ込み、ズボンに土をつけお気に入りのスニーカーを汚しながらも実穂は何故か笑っている。そして私には知ることが出来ない母と父の思いに気付いたと言うのだ。
「お母さん、ハルジオンって貧乏草なんかじゃないんだよ」
立ち上がり土を掃い私の元へと歩み寄る実穂の手の中で、ハルジオンが柔らかく揺れている。先程の凛とした姿ではなく、花に表情などある訳がないのに実穂に抱えられる事により幸せそうに揺れているのだ。実穂は私の目の前にハルジオンを差し出すと笑った。
「貧乏草じゃないって……」
「しのび花」
私の言葉を遮るように一連の様子を黙って見ていた八重子さんが静かに口を開く。エプロンのポケットから四つ折になっていた紙を開き私にある箇所を指差し見せてきた。その紙はもうずっと昔の紙なのか、紙は黄ばみ所々、隅は破れていた。
「……追想の愛?」
紙にはしのび花とは書いていないものの、ハルジオンの花言葉が綴られていたのだ。
「ハルジオンにはね、貧乏草なんて言われているけれど亡くなった人を思いだし、偲ぶという意味があるんだよ」
八重子さんが自身で調べたのか達筆で書かれたその文字には赤い丸印までつき、私に見せようとしていたのだろうか?
「ケイちゃん、だからおばさんもおじさんもハルジオンが大好きだったんだよ。お母さんが亡くなった翌春に前触れもなく咲いてねぇ」
花言葉を知ったときはそれは嬉しそうに私に言ってくれたのよ、と八重子さんは笑った。
「お母さん、ハルジオンお墓に添えてあげようよ。じいちゃんもばあちゃんも喜ぶって」
手に持っていたハルジオンを私の手の中へと実穂が移した。何十年振りに触れたハルジオンは、いつかの時よりもずっしりと重く私に響く。
「……そうね。持っていこうか」
父や母がどんな思いでこの花を見ていたのか、私はもっと早くに知っておくべきだったのだ。本来ある本当の姿を見ようともせずに見てくれや中傷ばかりにこだわり、素晴らしい言葉を持っていたという事実をこんな年になって気付く。なんて愚かなのだろう。
「八重子さん。春になったらまたハルジオンを貰いにきてもいいでしょうか?」
私の口から意外な言葉が出たせいか八重子さんはとても驚いた顔をした。穴という穴が開き、信じられないと言いたげな顔だ。でもすぐにいつもの顔に戻ると大きく頷いてくれるのだ。
「ケイちゃんがおばさんやおじさんを思う限り、毎年ハルジオンは咲くさね。いつでも来なさいな」
私はきっと来年もハルジオンは必ずこの場所に咲くのだと思う。何故ならば、母と父が祖母を思いハルジオンを咲かせたように、私にも母と父に対する確かな思いがこの胸の中にあるからだ。
今はまだ気持ちは違えども、来年は母と父と同じ思いでこのハルジオンが咲くことを楽しみに待ち望んでいるに違いない。母と父を思う確かなものが種となり、また来年もハルジオン、いいや、しのび花を咲かせるのだと私は信じているのだから。
今回は春・花小説企画に参加させていただきありがとうございました。この企画に参加した時に本来は別の花が思いつきましたが、色々と調べてる内にこのハルジオンがでてきました。貧乏になると言われながらも、追想の愛という素敵な花言葉があり、心揺らされこの作品ができました。らしさを出せたら、と思う反面に自分の祖父にもう一度会いたいとこの作品を書きながら思ってしまいます。他の作者さまの作品を読むのが今からたのしみです。