「ごめんなさい」
あの子の口からこの言葉を聞いたとき、初めて僕は“罪の無い謝罪”を知った。高校生の頃だった。
「別に、あなたのことが嫌いなわけじゃないんです。でも……」
まるで、自分に罪があるんです、と言いたげに顔をしかめ、制服姿の彼女は頭を下げた。そのとき、彼女のトレードマークとなっている、まるで男の子のような短髪が、柴犬の毛色のように輝いた。柴犬を連想したせいだろうか、僕は彼女の頭を撫でたい衝動に駆られた。事実、手を伸ばした。でも、僕の手はまるで見えない壁に遮られるように、彼女の柔らかそうな髪の毛には届かなかった。
謝られている間中、僕はずっと彼女の髪の毛を、―僕が本当に大好きだった―、茶色がかった髪の毛を見ていた。彼女の謝罪の言葉は聞こえなかった。僕が真剣に恋した、あの茶色の髪の毛を、ただ目に焼き付けていた。
「それじゃ……」
彼女は、謝罪をするだけして僕の答えを待たないまま、そそくさと体育館裏から去っていった。女の子特有の、甘いにおいを残して。今にして思えば、あの子は卑怯だった。
空を見上げた。
青い空に白い雲。言葉にすればただそれだけの空の色だった。けれど、次第にその空の光景が歪んでゆく。まるで、鏡のように滑らかな水面に、石を一つ投げ込んだかのように。あるいは、目薬を差したときのように。どうやら、後者の表現の方が、僕のこの時の状況を見事に表しているらしかった。
僕は、体育館裏の壁に寄りかかり、そしてずるずると座って、ただ泣いた。
薄暗い体育館裏で、まるでこの世を呪う悪魔のように、泣いた。学ランをハンカチの代わりにして、泣いた。そういえば、ティッシュの代わりにもした気がする。でも、とにかく、泣くに泣いた。
そんな僕の横をトカゲが横切った。
こんな風にして僕は失恋した。繰り返すけれど、高校生の頃だ。
「そっかぁ、ダメだったか」
「ああ」
タダシは、道に寄り沿うように立つ壁に区切られて、長方形に切り取られている空を仰いだ。すごくバツが悪そうにして、僕の横を歩く。壁の横に立つ電信柱に向かって、僕は石を蹴った。その石は電信柱に当たったけれど、まるで何事も無いかのように電信柱は立っていた。なんだか、電信柱にまで馬鹿にされたような気がした。
今にして思えば、女の子に振られたがために肩を落とし、通学路を歩く高校生なんて、傍から見ていても本当に情けなかっただろう。
「まあ、そんなに気を落とすなよ。女なんて、男の数だけいるんだから」
そう、タダシは遠慮がちに言った。
「……」
僕は、何も言わなかった。そんな僕に、タダシは景気付けでもするかのように、さらに言葉をかけてきた。
「あ、そうだ! 今度合コンやろう! ほら、南高のマユミっているだろ? アイツに話を振れば、きっとメンツを取り揃えてくれるって! 女なんか、星の数ほどいるんだから」
僕のことを励まそうとしてくれるのは判る。でも、その言い草に腹が立って、思わず怒鳴ってしまった。
「女は星の数ほど居るかもしれないけど、あの娘はこの世界に一人しかいないんだよ! 」
僕の言い分にタダシはため息をついた。
「まあ、わかるよ」
「お前に僕の――」
僕の怒鳴り声を遮って、タダシは続けた。
「わかるよ。だって、お前との付き合いも、もうそろそろ10年を超えるんだからさ」
タダシと僕は、端的な言葉を使ってしまえば、腐れ縁だった。
小学校1年の入学式にて派手な喧嘩をして以来、タダシとは同じ小学校を共有したし、同じ中学校を共有したし、高校まで共有する羽目になった。僕は、あんまりタダシのことを友人として意識しているわけでもないし、きっと向こうも僕のことを意識しているわけではないだろう。でも、気づけば僕のことを一番理解しているのはタダシだ、ということになってしまったし、タダシのことを一番理解しているのは僕だ、ということになってしまった。世間一般ではそういう関係のことを“親友”という言葉で括るらしいが、どうにもそういう言葉でタダシのことを括るには抵抗があった。親友、というほどには、僕はタダシを不可欠に思っていないし、タダシもまた同様だろう。
事実、僕とタダシは性格がまるで違うし、学生としてのあり方も微妙に違う。僕はどちらかというと制服をびしっと着る学生なのに対して、タダシは制服の下に赤いTシャツを着てしまうようなタイプのヤツだ。腐れ縁でもない限り、こうやってあれこれ話すような関係にはなりえなかっただろう。
「まあ、お前ってけっこう思いつめるタイプだからな」馬鹿にするようにタダシは言った。「それにお前、中学校の頃から、あの子にご執心の模様だったからな」
「ご執心って……、わざわざそんな難しい言葉を使わなくても」
タダシは、悪戯っぽく笑った。
そう。僕が告白した女の子、 ―便宜上「Tちゃん」と呼ぼう―、 は、僕の初恋の人だった。
あの人に初めて出会ったのは、中学校の二年生の頃だった。たまたま同じクラスになって、たまたま隣の席になった、という、運命なんてまるで感じさせない出会い方だった。
でも、僕は彼女に魅了された。授業中、先生の話に飽きては彼女の顔を盗み見ていた。いつも彼女は、僕のことなど意に介さないように、前を向いていた。実は、そんな彼女の横顔があまりにキレイすぎて、僕は彼女の顔そのものは見ていなかった。いつも、彼女の茶色がかったボーイッシュな短髪を眺めていた。
そんなTちゃんとは、中学の三年の頃には別のクラスになってしまったけれど、でも、彼女のことが気がかりで、彼女に関する話を、それなりに集めていた。その中に、“Tって、兵高が第一希望らしい”という情報があった。兵高というのは、僕の住んでいるあたりではけっこう有名な進学校で、正直僕みたいな頭のヤツが入れるような高校ではなかった。でも、人間死ぬ気で頑張ればどうにかなるものだ。二年生まではそれこそ墜落寸前の飛行機のような軌道を描いていた僕の成績が、急にスペースシャトルの高度にまで跳ね上がった。そうして彼女と同じ高校の受験を受け、そして首尾よく同じ高校に進学したのだった。
なのに。なのに、振られたのだ。僕は。
「つうかよ」タダシは呆れ顔で言った。「そういう昭和な考え方、どうにかならねえか? 」
「昭和な考え方、ってなんだよ? 」
「簡単だ」タダシは指を振った。「“あの人が好きで好きでたまらないの! あの人に操をささげちゃうの! ”みたいな考え方さ」
後半、タダシは体をクネクネさせながら、誰かを抱きしめるような仕草を見せた。ああもう、そういうことを、通学路でやって頂きたくないものだ。道を歩く小学生はアホ面下げて僕らの顔を覗き見るし、同じく道を歩く大人なんて、明らかに僕らから視線を外した。タダシの姿を見て、さっきと変わらないリアクションを見せていたのは、電信柱くらいのものだろう。
けれど、クネクネと腰をくねらすタダシを見ながら、コイツはいいなあ、と思った。
きっとタダシは、僕のように女の子に振られても、“ま、そういうこともあるよね”って次の女の子に突っ走っていけるヤツなんだろう。そして、“昔、あんな女に惚れちゃってさ”とネタにすることさえ出来るのだろう。でも、それはきっと僕には出来ない。ただ一人、想い続けた人にだけ想いを捧げ、そして振られてもなお、こうして引きずるんだろう、と。
「ま、とにかくだ。振られたんだからしょうがない。もう、あの女のことは諦めるんだな」
「諦める? 」
余りに僕にとっては意外な提案だったものだから、思わず声が上ずってしまった。それを嗤うように、タダシは言った。
「判ってねえよなぁ。女、って生き物はさ、一度“ダメ”って言ったものに対しては、一生ダメって言い続ける生き物なんだよ」
そうやって、女の子の心理をぶてるほど、タダシは女の子と深く付き合っているのだろうか、と僕はふと思った。でも、その答えは、案外すぐに知ることになる。でも、まだ、この時の僕は知らない。
そうやってダラダラと喋っているうちに、駅に着いた。僕とタダシが同じ中学校(ついでに言えば、僕が好きだったTちゃんも同じ中学校出身)だった、というのは話したと思うけど、僕の住んでいるところは、学校の最寄り駅から30分ほど電車に揺られたところにある。当然、僕と同じ中学校出身のタダシも、僕の家の近辺にある。だから、同じ駅を使っているし、通学に同じ電車を使う。
「そう、しょげるな、って」
タダシはsuicaで改札を通りながら僕の方に振り返って言った。僕も、タダシに続いて改札を通る。suicaの、ピッ、という電子音さえ、なんだか僕のことを馬鹿にしているように聞こえた。
電車の中でも、僕は沈んでいた。
振られた直後に明るくしろ、っていうのに無理があるのだ。なのにタダシは、「いい加減振られたことを引きずるな」「新しい女を捜せばいいじゃねえか」「昭和なマインドを捨てろ」「そもそもお前、昭和顔なんだよ」「つうか、ネクラなんだよ」などの言葉をぶつけてくる。……最初は励ましだったのかもしれないけど、そのうちなぜか僕に対する罵倒に変わっているのが不思議で仕方が無かった。
そうして、僕らを乗せた電車は、降りる駅の1個前の駅で、扉を開いた。
思わず、反射的に開かれたドアの外に目を遣った。
と、いうのも、昨日まで、こうやって開いたドアの向こう、つまりはこの駅のホームを見るのが習慣だったからだ。
実は、Tちゃんが使っている駅が、この駅なのだ。Tちゃんの住んでいるところと僕の住んでいるところは(同じ中学校だったといっても)かなり遠くて、降りる駅まで違ってしまうのだ。
そう、電車がこの駅に着くと、彼女がいないかと彼女を探すのが、僕の日課だったのだ。気持ち悪い? ああ、その通り。でも、不思議なもので、そうやって探しているうちには、まるで彼女の姿は発見できなかった。今にして思えば、それは何かの思し召しだったのだろう、と思う。
とにかく、いつもの要領で、僕は駅のホームを見てしまったのだ。もう、意味の無い行為だというのに。
でも、なんと、そのホームに彼女が歩いていた。
あの、茶色の、まるで柴犬の毛のように柔らかそうな短髪をたなびかせて。さっき、僕を振ったことなんて意に介していないかのように、しゃんとして歩いていた。
けれど、そんな彼女の隣には、男がいた。
僕より10センチは大きいだろうか。しかも、僕より100倍はかっこいい。僕が着たら七五三のようになってしまいそうなジャケットをスタイリッシュに決め、僕のお小遣いの5ヶ月分じゃ買えなさそうな時計をはめていた。
けれど、そんな男のことなんか、どうでもよかった。むしろ、僕がショックだったのは。
あまりに、彼女がきれいだった。
彼女が、男を見たときの何気ない表情。ちょっと目を外したときの、何とない表情。そして、男の話に同意するときの、完璧な笑顔。
あんな笑顔、僕は見たことがなかった。
ずっと、Tちゃんのことを追いかけていた。でも、あんな真っ直ぐな笑顔、見たことが無かった。いや、見たことがなかったのではないのだろう。きっと、彼女が僕には見せてくれなかった笑顔だったのだろう。そして、僕には、見る権利のない笑顔だったのだろう。
「あちゃ〜」
タダシは頭を掻いた。ふとタダシの顔を見ると、Tちゃんたちの様子を見て苦々しい顔をしている。きっと、タダシにも目に入ったのだ。
「あれ、加藤先輩だよ」
「加藤先輩? 」
訊いた事のない名前に、僕は首を傾げた。
「ああ、今年の春に卒業した先輩だよ。ほら、卒業式のとき、スピッツの“空も飛べるはず”をカバーした先輩たちがいただろ? 」
居た。確か、卒業式の二次会で、ロック調に改造した“空も飛べるはず”を演奏した三年生の先輩方が居たはず。その人たちは皆、もう大学生のはずだ。
そう思い出す僕の横で、タダシは続けた。
「その先輩達のバンドの中で、ドラムを叩いていた人だよ。確か、水泳部に所属していたはずだ。っていうか、あの人、水泳の世界では有名らしいし」
水泳部? ああ、Tちゃんが所属している部だ。
「加藤先輩、確かすごい気さくで優しい人だよ。俺だって、よく世話になったし。それにあの人、すげえ手品が得意でな……」
ほう、僕より10センチは身長が高いのに僕より100倍はかっこよくて、スピッツの“空を飛べるはず”をハイテンポで叩き、水泳部に所属していてしかも水泳が上手い模様、しかも気さくで優しくて、手品が趣味……。Tちゃんの横を歩く加藤先輩なる青年の姿と、そのタダシの評が、どうにも結びつかなかった。
なるほど。けれど、ようやく全てを飲み込んだ。
その僕が飲み込んだ言葉を、タダシが先回りして言ってしまった。
「なるほどな、あいつら、付き合っているのか」
そうとしか思えない。
きっとTちゃんは、同じ部の先輩である加藤先輩のことを、好きになってしまったのだ。タダシが言うには“気さくで優しい”“手品が得意”な加藤先輩に。そして、付き合っていたのだ。僕はそんな基本的なことさえ知らずに、彼女に告白してしまったのだ。
僕は、ピエロだったのだ。
電車内に、ようやく発車を知らせるベルが鳴り、ドアが閉まった。そして、少しずつ動き始め、どんどん景色を後ろに追いやってゆく。加藤先輩の横で嬉しそうに笑うTちゃんたちも、どんどん後ろに追いやられていく。そして、彼女たちが歩いている駅のホームが遠ざかっていった。
「……ま、なんだな」バツが悪そうにする必要も義務もないのに、つり革を弄びながらタダシはバツが悪そうにした。「……これで、踏ん切りがついたろ? 」
踏ん切り? つきそうも無かった。
そんな僕に、タダシは顔をしかめながら続けた。
「まったく、にしても、あの女、もう少し考えやがれってんだ。こんな、誰かに見られかねないところで男と連れ立って歩くなよ」
まるで、“男を振ったあとにデートなんかするなよ”と言いたげな、タダシの口調だった。
タダシと別れて家に帰ってからも、やっぱり諦めがつかなかった。
3年も片思いをした相手だ。そう簡単に諦めがつくものか。
ふと、ベッドに寝転がっていた僕は、時計を見た。デジタル表記で、午後の5時を示していた。壁にかかるカレンダーも見た。木曜だった。
木曜の午後5時から、Tちゃんはここからバイクで10分ほど離れたコンビニでレジ打ちのアルバイトをしている、と小耳に挟んだことがあった。
その瞬間、僕の頭に、妙な電気が流れた。
「……よし」
僕はベッドから起き上がると、机の脇の棚から、バタフライナイフを取り出した。通販で買ったヤツだ。昔は不良少年がファッション代わりに買って問題を起こしたことがあったらしいから買うのに難儀したけれど、でも兄貴の名前で買ってしまえば大したこともなかった。ともかく、そんな虎の子のバタフライナイフをズボンのポケットに入れ、机の上に置かれた財布を手にとって、部屋を出た。
リビングには誰もいなかった。我が家の家族たちは皆働いているから、この時間の我が家はガランドウなのだ。そして、リビングの、いつも父親が座る椅子の前に立った。父親はヘビースモーカーの上に頑固な人で、家族が文句を言うのにも関わらず、こんな特等席でタバコを吸うのだ。当然、そこには灰皿が常備されていた。そして、ここは父親という人間の面白いところなのだけれど、家ではライターを使わなかった。父親曰く、「ライターというのは、見せびらかすためにあるものだ」。だから、家ではライターを使わず、マッチを使っている。
実は、用があったのは、そのマッチだった。
そのマッチを手に取った。明らかに飲み屋、しかも女の子が酒を注いでくれそうな名前の店のマッチだった。それを取り上げて、胸ポケットに入れた。
そして、鍵置き場からバイクの鍵を取り、玄関で靴を履いた。
彼女に、会いに行こう。そう思った。
バイクを走らせること10分。遂に、彼女が働いているコンビニに着いてしまった。
コンビニの駐車場に入ってバイクから降りると、フルフェイスのヘルメットを脱いで、左手に抱えて持った。
そして、僕は気取りもせずにコンビニに入った。
「いらっしゃいませ」
女の子の声が響いた。その声は、どこまでも突き抜けていきそうなくらいに明るい声だった。ふとその声の主を探すと、その主は果たして、Tちゃんだった。Tちゃんは僕の方を見ていなかった。販売しているタバコを補充しているところで、僕のことなんて見ていなかった。 僕が入ったとき、ピンポーンと鳴ったから、きっと彼女は僕の姿を見ていらっしゃいませを言ったのではなく、むしろピンポーンの音に対して、反射的に挨拶の言葉を述べたのだろう。
でも、彼女はバイト中でも、僕をひきつける何かがあった。あの横顔、そして、あの茶色い柔らかそうな髪。それだけは、コンビニの制服を着ていても隠しようが無かったようだ。
コンビニの中は、案外閑散としていた。どうやら、午後の五時に仕事が終わるなんていう人種は、この日本では少数派になってしまったのだろう。
商品を物色する振りをしながら、僕はコンビニの様子を眺めた。閑散とするコンビニには、僕しか客は居なかったし、店員も彼女しかいなかった。きっと、バックルームの方には他の店員がいるのだろうけれど、しばらく出てはこないだろう。
好都合だ。
僕は、行動を開始した。
本のコーナーまで移動した僕は、“18歳未満禁止図書”の一角に入った。その中の本、つまりはエロ本を一冊手に取り、そそくさとレジに向かった。レジに向かう途中にふとその表紙を見てみたところ、「可愛いお姉さんは、好きですか」と、昔TVで流れていた何かのCMのような惹句が躍っていた。
「いらっしゃいませ」
僕の気配に気づいたのか、Tちゃんがレジに立った。
今日、自分が振った男が眼の前に立っているというのに、彼女は驚いた様子も困ったような様子も見せなかった。普通の客と変わらない応対振りを見せた。
僕は、エロ本を彼女の前に置いた。「可愛いお姉さんは、好きですか? 」と、エロ本はTちゃんに向かって訊いていた。
けれど、彼女はそんなエロ本のことも僕のことも目に入らないかのように、黙々とレジ打ちをした。
「680円です」
彼女は、どこまでも事務的にお金を要求した。彼女に言われるがまま、僕は1000円札を出した。
「1000円ですね、お預かりします」
彼女はエロ本をビニール袋に入れた後、まるでブラインドタッチのように液晶画面を眺めながらレジを操り、お釣りを僕に寄越した。
僕は、エロ本が入ったビニール袋を手にとって、彼女に背を向け、コンビニを後にしようとした。そして、自動扉が開くか開かないかの、丁度そのときだった。
「サイテー」
小さな声で、彼女は言った。
けれど、僕はそんなこと意に介さず、コンビニを後にした。
彼女の、「ありがとうございました」という声は、聞こえなかった。だから、彼女が言わなかったのか、それとも言ってくれていたのに僕の方が聞き取れなかったのかは最早判らなかったし興味もなかった。
バイクが、夕方の道をひた走る。
その上に跨りながら、僕はなんだか清々しかった。
きっと、これで彼女の記憶に、僕という人間が居座るのだろう、と。きっと、これで彼女は、これから僕の知らない男を振るたびに、僕のことを思い出す。“振ったその日に自分の働いているコンビニに来て、エロ本を買っていく男”なんて、そうそう忘れられるものでもないだろう。
これは、ささやかな復讐なのだ。
僕を振った、彼女への。
でも、実は、僕が一番したかったのは、彼女の記憶に僕を刷り込ませる、なんていうまどろっこしいことではなかった。だって、そんなことをしたところで、僕の彼女への気持ちは治まらないのだから。
だから、“僕が本当にやりたいこと”が出来そうなところを探しているうち、進行方向に、見慣れた姿を見つけた。僕は、バイクの速度を緩めた。
「おい、お前、タダシだよな? 」
そこは、道の途中にあった短いトンネルの中だった。その見慣れた影は、壁に背中をくっつけたまま、座って下を向いていた。けれど、着ている制服が僕の学校の制服だし、髪型も完璧に見慣れた腐れ縁・タダシだった。
「……あ、お前か。嫌な所に現れるやつだな、お前」
タダシだった。下を向いていたタダシは僕の声に反応して、僕の顔を眺めた。
けれど、その顔を一目見るなり、タダシに何事かがあったことが判った。
トンネルの中というロケーションのせいでよくは見えなかったけれど、目が充血していたし、鼻水もだらしなく垂れていた。そういえば、声が震えていた。まるで、これは……。
僕のモノローグよりも早く、タダシは答えを言った。
「はは、さっきのお前と、一緒だな」
自嘲の後には、涙がついてきた。涙を拭おうともせず、しかも鼻水をかもうともせず、タダシは続けた。
「俺さ、付き合ってた女がいたんだ。でも、今日、振られちまった。“アンタみたいな頭の軽い男は嫌い”だってさ。ははは、笑わせるよな、頭が軽いのは、お前も一緒だろ、ってなもんだ。でもさ、俺、俺ぇ……」
所々、声がしゃくっている。けれど、構いもせずに続けた。
「それでも、アイツのことが好きだったんだよなあ……。それでも、じゃないか。そんなところも、俺は好きだった。バカだったけど、でも優しいやつだったし、可愛いヤツだった。なのに……、なのに……」
まるで、振られた直後の僕のように、タダシは泣いた。
そんなタダシの姿を見ながら、僕は気づいた。
恋愛で痛みのないヤツなんて、どこにもいやしないんだ。ただ、皆その痛みを口にしないだけで、皆傷ついて、つらい体験をして、それでも人は恋をするんだ。
それに気づいた瞬間、タダシが急に身近に感じられた。僕の恋愛を「昭和な考え方」と僕を馬鹿にしていたタダシだって、「昭和な考え方」をしてたんじゃないか。
けれど、不思議と反発は感じなかった。むしろ、(不思議な表現だけど)可愛らしささえ感じてしまった。
「おい、タダシ」
僕はバイクに跨ったまま、声をかけた。
「……なんだよ」
「その彼女、アルバイトやってるのか? 」
「あ、ああ……」タダシは鼻をすすりながら答えた。「コンビニで、レジ打ちのバイトをやってるけど……」
「今日は? 」
「ああ、今頃もうレジ打ちしてるはずだよ」
「なるほど」
僕は、ニカっと笑った。
「おい、お前、そんなに性格が悪いヤツだったか!? 」
バイクの後ろに跨るタダシは、僕に言った。そう指弾された僕は、あえて反論しなかった。
夜の街が、どんどん後ろに流れていく。光と闇のコントラストが、キレイだった。
「まさか、振られたその日に、振られた子が働いているコンビニで、エロ本を買わされるとは思ってなかったぞ!」
そう。僕は、タダシに提案したのだ。
“その子のコンビニに行こうよ”と。タダシはちょっと悩んだけれど、首を縦に振った。そして、そのコンビニの前に着いた瞬間、こう言い放った。“じゃあ、あそこでエロ本を買ってきて。あの子の前で”と。もちろん、最初は意味がわからない! と噛み付いてきたけど、“僕も同じことをしたんだ”と、さっき買ったエロ本をチラッと見せて、ようやく諦めたように店内に入り、そしてエロ本を買ってきた。
バイクのアクセルを握りながら、僕は反論した。
「でもさ、結構楽しかったでしょ? 好きな人に、エロ本を売ってもらうの」
「……いや、まあ……」
まんざらでもありませんがね、といった声色で、タダシは呟いた。そしてそのまま僕へ噛み付かなくなった。きっとタダシも、彼女にささやかな復讐を果たしただろうから、その快感に気づいたのだろう。僕へ噛み付く代わりに訊いてきた。
「なあ、これから、どうするんだ? 」
「そうだなあ、実は、何かを燃やしても大丈夫そうなところに行きたいんだけど」
「は? 燃やす? 」
「どこか、無いかな? 」
「そうだなあ」
タダシは何かを思い出すように、言葉を夜の街に踊らせた。
そういえば、とタダシは言った。
「いいところ、思いついたよ」
タダシが示したのは、河川敷の、大きな橋の下だった。
まったく、タダシはクレバーなヤツだ。“何かを燃やす”と言っただけで、それが人に見られたらマズイ、とか、水が近くにあったほうが安全とか、そういう僕の言葉の背後にあるモノを一気に先読みして、河川敷を示した。もはや宵闇に覆われた河川敷には人っ子一人見えないし、近くには川、という水もある。
「へっへ、ここなんか、お前のお眼鏡に適うと思うんだが? 」
「いいね」
僕はバイクを止め、降りた。タダシも、それに続く。
「で」タダシは僕の背中に訊いた。「これから、どうするんだ? 」
僕は、ポケットをまさぐった。そして、バタフライナイフを手に取ると引き抜いて、片手で刃を出した。バタフライナイフの、俗に“バタフライアクション”と言われる開き方は、闇によく映えた。けれど、その行動をタダシは別の意味に取ったらしかった。
「おおおお、お前、いくらら振られたからって、腹いせに俺を刺す気か!? 」
「バカ」
僕は、左手に持っていたエロ本のビニール袋を、バタフライナイフで裂いた。そして、そのエロ本の封印をナイフで切り取ると、ナイフを逆手に持ち直してその切っ先をエロ本に突き刺した。その様子を、意味が判らない、とでも言いたげな顔をして、タダシが見守っている。
「お、おい? 」
むしろ恐れ半分に訊くタダシ。僕は可笑しくなって、さらにエロ本をビリビリに切り裂く。エロ本で素敵な肢体を晒しているお姉さんも、ビリビリに破け、スッパリと斬れていた。
わざと、エロ本の上にバタフライナイフを突き刺してから、僕は言った。
「いや、これが僕なりの、彼女へのお別れなんだ」
「は? 」
判らない、という口調で、タダシが頓狂な声を上げた。僕は続けた。
「好きだった人から買ったエロ本を、一回も実用に供さずにバラバラに切り裂く。これ以上に彼女とのお別れになることってあるかい? 」
「……いや、どうだろう」
顔をしかめながら首を傾げるタダシに、僕は遂に噴き出した。そして、種明かしをしてしまった。
「いや、実は、僕だってなんでこんなことをしたくなったのか、判らないんだ」
「え? 」
「今日、家に一人、ベッドで寝転んでたら、エロ本をナイフでビリビリに裂いてそれを盛大に燃やす、っていうイメージが浮かんでさ。それで」
いや、正確には、イメージ、なんて柔なものではなかった。むしろ、まるで強迫観念のように僕に迫ってくる、それこそ砂漠の真ん中で咽喉が渇いて水を欲するような、本能に裏打ちされた感覚だった。そして、その感覚に襲われてからずっと、僕は本能のままに行動していたというわけだ。
「実行しようとしたわけか」
タダシの問いに、僕は頷いた。
「いやあ、我ながら、変態的なイメージだなあ、って思ったよ。でも、どうせヒマだし、それで気がまぎれるなら面白いかな、って思ってさ。やってみようって思い立ったわけ。まったく、バタフライナイフを買っておいて良かった。何かの役に立つんじゃないかな、って思って以前に通販で買ったんだけど、正解だった」
「まさか、そんな役の立ち方とはな」
タダシの言い分に、僕は笑った。
「でもまあ、楽しいよ? 」
「……なあ」
小さい声で、タダシが声を上げた。
「何? 」
「いや、あのさ……」
言いにくそうに、タダシはもじもしとしている。
「何? 」
僕はあえて、先回りをしない。タダシからの言葉を待つ。
タダシは、しばらくモゴモゴと口を動かしていたが、口を開いた。
「俺にも、やらせてくれないか」
その言葉を、僕は待っていた。だから、バタフライナイフをエロ本から抜き取って一旦折りたたんでから、タダシに投げ遣った。
「ほら、使いなよ。僕はもう、満足したから」
結局この後、僕ら二人はエロ本をビリビリに裂きまくった。抉って、斬って、裂いた。途中、タダシが感慨深そうに、「まさか、モデルになってるお姉さんも、こういう風に自分の写真が使われているとは思わなかっただろうなあ」と言ったのには笑った。確かに、まさか本来の目的にも使われないままにビリビリにされるなんて、モデルのお姉さんからすればまさに晴天の霹靂だろうし、脱ぎ甲斐もないのではないだろうか。
そうして、ビリビリの細切れになったエロ本が、僕らの足元に溢れた。ずたずたになったお姉さんたちの写真が、僕らのことを見ていた。それを僕らは一つにまとめ、山のようにした。それを、嬉々とした顔で見下ろすタダシ。きっと、僕も似たような顔をしているのだろう。
「で、どうするんだ? 」
子供みたいに目をキラキラさせて、タダシは僕に訊いてきた。決まってるだろ、とばかりに、僕は胸ポケットからマッチを取り出した。
「これを、燃やす」
「おい、これ、俺にやらせてくれないか? 」
タダシはそう提案してきたけれど、さすがにそれは譲れなかった。
「いや、これだけは譲れないな」
ちぇ、と唇を伸ばすタダシを尻目に、僕はマッチを擦った。瞬間、シュポ、と燐部分が光り、赤い火が灯った。赤い火は、弱い風に吹かれてちょっと揺れた。
そのマッチを、僕はエロ本の細切れの山に投げ入れた。
最初は、煙るだけだった。でも、そのうち、煙が大きくなっていき、赤い炎がちょろっと顔を出してきた。もうすこし待つと、その小さな炎が風にあおられ、大きくなっていった。
「おお! 」
タダシが声を上げた。
その炎は、さっきまでエロ本だったはずの紙くずを、容赦なく焼いていった。そのついでに、炎の熱が僕の頬を軽く撫でていく。なんだか、キャンプファイアーのようだ。
タダシは燃える炎を、まるで甲子園の応援をする応援団長のように両手を上げて、どういう風にも聞き取れない大声を出して応援していた。応援したところで火が大きくなるわけがないことくらい、タダシにだって判っているだろう。でも、タダシはこうやって心の中に居座っている女の子にお別れしているのだろう。いや、もしかすると、そういう性質のものですらないのかもしれない。タダシはきっと、騒がねばならなかったのだ。そして、僕もまた、こうして騒がねばならなかったのだ。理由というのは、常に後付のものなのだ。今はエロ本を燃やすというお祭りなのだ。祭りの意義なんて、偉い学者の先生が決めればいいことだ。
僕も、タダシと一緒に叫んだ。心なしか、火が大きくなった気がした。
きっと僕は、と、まるでキャンプファイアーのように燃え盛り始めた炎を眺めながら、ふと思った。
きっと僕は、もう、彼女のことを恋しく思うことは無いのだろう。そして、彼女のことを思い出そうとしても、きっとこのかがり火のようなエロ本のことを思い出して、ただ笑うのだろう。そして、「若かったんだな、僕も」と、ありきたりな事を言って苦笑いして、記憶の本棚にそっとしまってしまうのだろう。
「さよなら」
橋にぶつかって、ちょっといびつに空に向かう煙に、僕はさよならを言った。
まるで手を振るように、炎が揺らめいた。
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