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ツキノセ 作者:
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実験

 体内を侵し蝕む理解し難い物質を排除しようと、或いは体の一部が破壊された痛みでもがいているのか。それは既に理性を失いつつある人間の動きから読み取ることは出来ない。
 喉を掻く。仰け反る。手足を振り回す。頭を振る。体の自由が利いているならば、そのような行動を取っただろう。しかし、彼にはそれらの内一つさえ取ることは許されない。できることといえば、目を見開き、口から泡を噴き、感覚機能に与えられる暴力的なまでの情報に拒絶反応を起こして、痙攣することくらいである。
 既に彼の頭からは正常な思考能力が失われている。今感じている痛みを拒絶する為の言葉すら発することができない。全身全霊を込めれば言葉くらいは発せられるかもしれないが、自らの体を蝕む何かを拒絶する為に暴れることだけで精一杯なのだ。
 尤も、彼自身は暴れているつもりかもしれないが、第三者には捻り出すような苦痛の声を上げながら痙攣しているようにしか見えないだろう。
 ついには叫ぶ力さえ使い切り、体中から体液や汚物を垂れ流し始める。絶望という言葉では表現し切れない程の絶望。彼の絶望は誰にも聞き届けてもらうことすらできず、無意味な発狂を繰り返し、ただ悪戯に肉体と精神を壊された。
 一体どうすれば自分は許されたのか。この拘束された状態で、何をしろと言うのか。自我を破壊された彼は、ようやく理不尽な境遇に対する怒りを覚えた。だがその怒りは、彼の肉体を再び動かすだけの燃料にはならない。疾うに体は壊れてしまった。
 宿主を失った怒りは、やがて肉体を離れ霧散する。誰にも観測されることなく消滅していくと思われた怒りは――消滅する直後、事象を引き起こした。
 空気が揺らいだ。その瞬間、彼を中心に辺り一帯の空間が異様な力に支配される。そして、彼を拘束していた椅子にひびが入り、砕け散った。椅子に拘束されていた彼にもその力は及ぶ。彼の体は内側から破裂し、その中身が椅子だったものを赤く染め上げる。
 ――事象はそこで終わった。彼が死の間際に抱いた怒りは、ぶつける相手が分からなくなったかのように暴れ、彼自身を破壊した。
 一人の男が、今起きた出来事の一部始終を観察していた。先程まで彼が存在していた場所まで歩み寄っていく。散らばった瓦礫と肉片。そこに巻き散らかされた真っ赤な水溜りを踏んで靴を汚さないよう、その人間はある程度の距離で歩みを止める。そして、その光景を見下ろしたまま――心底うんざりした様子で呟いた。
「どうせ死ぬんなら壊すなよ」
 男は血溜まりに背を向けると、片手で頭を掻きながら、気怠そうに壁際に向かって歩いていく。無機質で静寂な部屋に、男の足音だけが響いている。やがて足音が聞こえなくなると、部屋全体を振動させるように重い機械音が鳴り響いた。
 男が慣れた手付きで壁に取り付けられたパネルを操作すると、瓦礫と肉片で汚れた床がゆっくりと開き、それらを奈落の底へと落としていく。散らばったそれらを全て落とすと、床は元の姿に戻る。
 床が片付いたのを確認すると、男は先程と同じように、気怠そうに歩いて部屋を出ていく。辺りは無慈悲な静寂に包まれ、部屋の中心の血溜まりだけが、この場所で一人の人間が一方的に破壊し尽されたことを静かに物語っていた。





 彼は走っていた。自分でもどこを走っているのか分からないが、とにかくあの男から離れなければという思いが彼を突き動かしていた。必死で足を動かしても、目に映る景色は変わらない。それでも、走っていればいつかは出口に辿り着けるはずだ。
 どれだけ走っただろうか。まだ一分しか経っていないようにも思えるし、一時間以上走り続けているような気もする。そういえば、全く息が切れていない。あの男から背を向けて走り出した直後は気が動転していて息が荒くなっていたが、走っていることによる息切れが起きていない。もしかして、自分もあの人間達と同じようにおかしくなってしまったのだろうか。それとも、恐怖で体が麻痺しているのか。
 彼は頭の中の余計な考えを排除した。どちらでも良い。疲労が貯まらないのなら寧ろ好都合だ。このままあの男から逃げ切ってやる。そう思って走る速度を更に上げた彼の頭に、あの男の声が響いてきた。
『なぁ、人間ってずーっと変わらない景色の中を進み続けても、正常なままでいられると思うか?』
 人を嘲笑するような不快な声。こんなに走り続けているというのに、何故あの男の声が聞こえるのか。彼は走りながら耳を塞いだ。
『俺はさ、別に発狂はしないと思うんだよ。科学者じゃねえからよく分かんねえけどさ』
 それでも、男の声は不自然なくらいはっきりと聞こえてくる。ならば、と彼は大声を出すことでその声を掻き消そうとした。
『だってよ、同じ景色がずっと続くなら、進むのを止めちまえば良いと思わねえか? 別に進み続ける必要なんかねえんだ」
 声は聞こえ続ける。彼の叫び声は彼自身に届くことはなかった。彼は走るのを止め、耳を塞ぎながら大声を出し続けようとする。
『俺が嫌だなあって思うのはそこからよ。進むのを止めたら、ずっとその場所に居続けることになんだろ? 自分以外誰もいない、音も聞こえない。ん? ってことは結局走ってんのも止まってんのも変わんねえのか?」
 彼はとうとう膝から崩れ落ち、声を上げながら地に頭を打ち付け始めた。何をどうしても一向に止まない声から逃れようと、闇雲に頭を振り、顔中を掻きむしる。頭から血を垂れ流そうと、顔の皮が剥がれようと、彼はその行為を止めようとはしなかった。
『悪いな。俺馬鹿なんだ。発狂しないっつったけど訂正するわ。まあ、走ってた方が狂うのを先延ばしにはできるかもしれねえけどな』
 最早彼に男の言葉は届いていない。延々と聞こえ続ける男の声への恐怖が頭を支配し、狂ったように叫びながら暴れるという行為をひたすらに繰り返している。
『で、疲れも痛みも感じない無音の空間で俺の声を聞き続けた気分はどうだ?』
 ぴたり、と彼の動きが止まった。それまで認識できていなかった男の言葉が、すっと自分の脳へ入り込んでくる。そして、彼は自分の置かれた状況をやっと理解した。自分は逃げられてなどいなかった。最初からあの男の手の平で踊っていただけだったのだ。自身の叫び声が聞こえないのも、疲れを感じないのも、こんなに出血しているのに痛みを一切感じないのも、全てあの男に仕組まれたことだったのだ。
 ――なんだ、ならもう抵抗しなくて良いじゃないか。彼は笑った。おかしくて堪らない。何がおかしい? よく分からない。笑ってもその声は聞こえない。そもそも自分は何の為に走っていたのだろう。あの男の声はこんなにはっきり聞こえるのに。後はずっと彼の言葉に耳を傾けていよう。
『――』
 おかしい。あの男の声が聞こえない。それまでずっと自分に語り掛けてくれていたのに。彼は男が話すのを待ち続けた。
『――』
 一分、五分、十分。どれだけ待っても男の声は聞こえない。再び訪れた無音の時間に彼は恐怖した。どうすればまた話し掛けてくれるだろう。彼はもう一度走り始めた。どれだけ走っても声は聞こえない。奇声を発しながら暴れ回ってみた。どれだけ喚いても男は応えてくれない。
 急に、耳鳴りがした。数日ぶりとも思えるその音に彼は安堵したが、その耳鳴りを切っ掛けに様々な音が聞こえてくる。何かが呻く音。液体が揺れるような音。妙に生々しいそれらの音が、合唱を始めたかのように重なり彼を支配する。やっと聞こえた音だというのに、とても不快な音だった。彼の意志に反して音は次第に大きくなる。もう何度目になるか分からない無音の絶叫を上げ、彼は音から逃れようとした。こんなことをしても無駄だと先程思い知ったというのに、叫ばずにはいられない。暴れずにはいられない。
 何故ならその音が、自分の中から聞こえているような気がするからだ。自分の体にこんな音を発するものなど入っていない。それなのに、その音は――血や肉が蠢くような音は、明らかに彼の体から発せられていた。
 それは無音状態から逃れようとした彼が作り出した幻聴だった。肺が生む空気の音、血管が脈打つ音、血液の流れる音――だが、やがては自らの生み出した幻聴からも逃れようとして、新たな幻聴を生み出す。無限に続く幻聴の発声に、彼の精神は耐えられなくなった。
 思考が音に支配され、何も考えられなくなる。彼はこの無音空間に迷い込んでから、僅か一時間で完全に発狂した。


「あーあ、やっぱ駄目だったか」
 男は椅子に深く掛け直すと、溜息たっぷりに落胆の声を吐き出した。男と向かい合うようにしてもう一人男性が椅子に腰掛けているが、目の焦点は合っておらず、口から涎を垂らして空を見ている。使い物にならなくなったこれを片付けるのが面倒だな、と思っていたところで、後ろから部屋の扉が開く音がした。
「あ、お疲れさんです。ああこれですか。いやあ、無音の空間にいる人間って一時間足らずで発狂するらしいじゃないですか。だから俺なりに工夫してみたんですよ。走れるような設計にしたり、ずっと声を掛け続けてみたりってね。でもこいつ、最初は良い感じに狂ってたのに、段々俺の声に慣れちまったんですよ。だから結局無音状態で放置してたんですけどね、すぐに発狂しちまいましたよ。で、開花した様子もナシ。まぁハズレですわ。……え、意味ナシ? ウッソ、俺のアイデア全くの無意味ですか? うわあ、ちょっと凹むわぁ」
 男は長々と言い訳をし尽くした後、気怠そうに立ち上がり、部屋の壁際へと歩き出した。そして壁のパネルを操作し、いつものように使い終わった材料を処理した。男は頭を掻きながら訪問者に向かって笑い掛ける。

「まぁ気長にやりましょうよ。こいつらまだいっぱいいるんですよね?」

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