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ツキノセ 作者:
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38/51

偽り - 1

 

 異臭、罵声、嬌声、喧嘩、暴力、汚物、薬物――私が生まれたこの場所は、そんなもので溢れかえっている。
 生まれたときから希望というものを持ったことはなかった。
 薬漬けの母親と酒に塗れた父親。両親とは自分を苦しめる最大の敵だった。
 いつかこの二人を殺して自由になろう。そう思いながら埃と嫌な臭いのついたボロ布の上で毎日を過ごしていた。

 妹が生まれた。よくもまぁあの腐りきった体で子供を産めたものだ。私は母親を心底軽蔑した。私だけでは飽き足らず、もう一人不幸になる人間をこの世に産み落としたのだから。
 体中の傷が痛む。今日は足と腹を集中的に狙われた。そんなことをしなくともお前を殺すまではここから逃げることはないというのに。妹も同じ目に遭わないか心配だ。
 咳をすると腹部に重い痛みが走る。この痛みがあるうちは、憎悪を燃料にまだ動くことができる。この感情こそが私の原動力だった。

 母親が死んだらしい。詳しい事情は分からないがどうせ自業自得だろう。警察は来なかった。この手で殺してやれなかったのが少し残念だがまぁ良い。本命はあのクソ男だ。あの女がいなくなったから手軽な相手がいなくて困るなどとほざいていた。死ねば良い。
 当たり前だが妹の世話は全て私がやっている。名前は「りこ」にした。漢字は書けないので平仮名だ。妹は可愛い。暴力も振るわないし汚いモノもついていないし不快でだらしない女の声もあげない。この子は純粋だ。お漏らしの処理なんて何の苦でもなかった。ただ、母乳をあげられないのが心苦しかった。



 あのクソ男が、目の色を変えて、私を、押さえつけて、あの女のように、汚らわしい、男の、嫌だ、汚い、気持ち悪い、嫌だ嫌だ嫌だ、痛い、痛い痛い痛い痛い――。



 ある日私たちは、父親に半ば強引にとある場所まで連れて行かれた。人気のない場所で、自分たちよりもずっと綺麗な格好をした白い服の外国人たちがたくさんいた。
 父親が白い服の奴らから大金を受け取っている。それを見て、私たちは売られたのだと理解した。
 自らの性欲に溺れ、身勝手に命を作り、嬲るだけ嬲って金の為に捨てる――許せなかった。生まれ落ちてからこの日まで溜まりに溜まった怒りが、憎悪が、この男の行いを断じて許すなと私を奮い立たせる。
 父親は大金を恍惚の表情で眺め、緩みきった顔をしている。私は今しかないと、父親の首に飛び掛かり、死に物狂いでその肉を噛み千切った。奴は大量の血を撒き散らしながら苦しみに苦しんで死んだ。その絶叫が私の心の淀みを洗い流すようでとても良い気分だった。白い服の男たちは少しも動揺を見せなかった。
 連れて来られた車の中で眠っていたりこを抱え、私は妹だけでも見逃してくれないかと懇願した。すると、奴らは私たちの臓器を売ったり命を奪ったりする気はないという。安心して欲しいと言わんばかりの笑顔が逆に怪しくて、私はりこを抱えて全力で逃げようとしたが、背中に一瞬の痛みを感じたあと、意識を失った私はあっさりと捕まった。

 気が付くと、私は病院の個室のような場所にいた。すぐに周りを見渡し、隣にりこがいることを確認して私は安堵した。すやすやと眠っていて、特に何かをされた様子ではない。
 私の意識が戻ったのをどこかで見ていたのか、あの白い服の連中が部屋に入ってきて、私たちは保護されたのだということを説明した。
 私たち以外にも戦争孤児などがこの場所で保護されているという。胡散臭いとは思ったが体に異常もなかったので、一先ず私はその言葉を信用することにした。


 そこから数年は、不自然な程に平穏な日々が続いた。何かをされるわけでもなく、好きなように時間を使い、決まった時間に食事ができるという、前の暮らしからは想像もできない恵まれた環境だった。そのお陰でりこも健やかに育っていった。無理矢理連れてこられたという経緯もあり警戒心は消えなかったが、下手に動いて立場を危うくするのは愚行だと判断し、私は大人しくしていることにした。
 折角時間を好きに使えるので、私は施設内の図書室を利用し、読み書きの勉強や医学の勉強をした。医学を選んだのは、人間の体のことを把握しておけばいざというときに自分の身は自分で守れると思ったからだ。
 結局、内容が難しくてほとんど理解できなかったが。

 更に数年後、りこも大分大きくなった。私のことを「おねぇ」と呼ぶようになり、内気だがとても愛らしい子に育った。この子がいなければ、私はあの男を殺した後、どこかで野垂れ死んでいただろう。
 漢字も分かるようになったので、りこの名前に漢字を当ててやることにした。数日悩んだ末、「理己」という漢字を当てた。「理」「己」にはまとまり、おさめるなどといった意味があるらしい。薄汚れた場所で秩序も何もない場所で育ったからこそ、この子にはそんな人生を歩んで欲しくないという思いを込めた。

 そんな私の思いを踏み潰すかのように、平和な日常は唐突に崩壊した。
 施設には私たち以外にもたくさんの国の子供たちがいたのだが、子供たちが少しずつ減っていたことに私は気付いていた。気になった私は、誰かが職員に連れていかれる後を付けていくことにした。
 職員と子供は長い通路を歩き、ある部屋に入る。窓が付いていたのでこっそりと中の様子を窺うと、そこには目を疑う光景があった。
 この世の物とは思えない、不思議な輝きを放つ物体。それは歪な宝石のように見えた。隔離されたガラス張りの個室に子供が入れられ、その物体を触ろうとしている。職員たちはその様子を少し離れた場所から見守っていた。
 一体何をやっているんだろう――そう訝しんでいると、子供が光る物体に触れた。その瞬間物体の放つ輝きが子供を包み、辺りを眩い光が照らし、数秒後にその光が収まる頃――
「ぎっ、いぃ――」
 子供が、頭を抱えて奇声を上げ始めた。
 想像を絶する異常な叫び声に私は驚き、その場で尻もちをついてしまう。中からはまだその子の絶叫が聞こえている。私はどうしていいか分からず、訳の分からない恐怖に支配されて固まっていた。
 数秒後、奇声は収まり、窓の隣にあった扉から一人の職員が姿を現した。
「リセ。来てたんだね。大丈夫、怖がることはないよ。残念ながらウニルには才能がなかったけど、リセなら成功するさ、あの綺麗な宝石を見てご覧。あれに触ると特別な力が手に入るんだ。わくわくするだろ?」
 職員の声は、寒気がする程穏やかな調子だった。
「お、おかしい、よ。なにこれ。人体実験じゃん、これ」
「違うよリセ。僕達は世間に捨てられた皆を助けたいんだ。これは皆を進化させる為の素晴らしい儀式なんだよ」
「助ける? ウニルは? 殺したんでしょ?」
「それも違う。ウニルは自分から望んでこの儀式に参加したんだ。僕達も最大限サポートしたけど、本当に残念だよ」
 言葉が出なかった。目の前の職員がいつも私たちに優しかった人間と同一人物に思えない。
 あの子供――ウニルは日本人ではなかったので、あまり会話をすることはなかったが、いつも職員と親しげに接していたのを覚えている。そんな彼を、こいつらはモルモットのように使い捨てた。
「ウ、ウニルはもう助からないの?」
 やっとの思いで発した声は、自分でも分かるくらいに酷く乾いていた。
「うん、残念だけど……。けど、リセの活躍次第では生き返るかもしれない。ほら、一緒にウニルを助けよう」
 今までと何ら変わらぬ、優しい職員の笑顔。
 これは嘘だ。きっと自分も使い捨てられる。逃げなければ、あのとき父親を殺したときのように。
 そう分かっているのに、私は何の抵抗もできず、職員の差し出した手を握り返していた。そうしなければ、今ここで口封じの為に殺されるかもしれないと思ってしまった。


 それからの私は、あの物体に触れる為の準備期間に入った。得体の知れない薬を打たれたり、よく分からない問い掛けや映像を見せられたり。
 知らぬ間に妹も同じことをされていたようだ。私は殺意のままに暴れまわったが薬を打たれてあっさりと眠らされた。目が覚めると、次に同じことをすれば妹を先にあの物体に触らせると言われた。
 私たちは気付かないうちに、ここの職員たちに命を握られていたのだ。
 不思議だった。あの暴力男には怖くても立ち向かえたのに、暴力も暴言も吐かないこの職員たちの方が余程怖くて、逆らう気になれない。逆らえば死ぬよりも辛い目に遭うんじゃないかと体が無意識に抵抗を拒否している。
 理己が泣いている私を心配そうに見ている。真実を話してこの子にまで恐怖を与えることはしたくない。私は職員に対する恨みは口にしつつも、真実を口にすることはなかった。
 そして、研究所にいる子供たちが数える程しかいなくなった頃、再びあの場所へ行く日が訪れた。
「オールクリア」
 職員が無機質な声で難しい単語を淡々と発した後、私はウニルを破壊したあの物体のある個室に入れられた。
 その物体は銀色というよりは灰色で、欠けた石のような形をしており、よく見ると細かい線で彫られたような模様があった。淡い青の輝きを放っており、普通であれば綺麗だ、という感想が出るであろうその輝きは、今はとても恐ろしいものに見える。
 こんな手のひらに収まりそうな欠片に、ウニルは命を奪われた。一体この物体は何なのだろう。
 周りを見渡すと、職員たちが優しい表情で私を見ていた。駄目だ、どうあっても逃げられない。外面を取り繕っても、奴らが決して私を逃すまいと考えているのが伝わってくる。
 私の命はここで終わるのか。ゴミ溜めで生まれ、ゴミのように扱われ、救われたと思ったら今度は実験動物に転身し、何も成せないまま死を迎える。
 ……いや、ある。私がここで死んでも、あの子の為にしてやれることが。
「ねぇ」
 近くの職員に声を掛けた。先程までは震えて声も出なかったが、不思議と今は落ち着いている。
「私がこれに適合してもしなくても、これが終わったら妹を解放してよ。ここまで付き合ってあげたから良いでしょ、今更サンプルの一つ二ついなくなってもさ。あの子は何も知らないから」
「もちろん。他ならぬリセの頼みだ。それにサンプルだなんて言っちゃ駄目だよ。僕達は仲間なんだから」
 嘘かもしれない。無駄かもしれない。けどそれで良い。もう私にできることはそれくらいしかない。
 私はお姉ちゃんらしいことをしてやれただろうか。きっと何もできていないだろう。こんなことに巻き込んで、普通の幸福すら与えてやれなかったのだから。
「ごめんね、理己」
 私はゆっくりと、淡く輝くその物体に触れた。




 数時間後、私は研究所の自室にいた。
 結果から言うと、私はウニルのように発狂して死ぬことはなかった。あの光に包まれたあと、私の体には何の変化も起きず、光はそのままゆっくりと収束し、元の輝きに戻ったのだ。
 だが、変化はその後起きた。私が死ななかったことに職員たちは喜び、「安定したデータが取れるようになってきた」だの「もう少しだ」だのほざき、それが気に食わなかった私はあることを考えていた。

 "こいつらにもウニルが覚えた苦痛を味わわせてやりたい"と。

 その瞬間、職員の一人が突然奇声を上げてその場に倒れ込んだ。人間のものとは思えない醜い叫びを上げなから、頭を抱えてのたうち回っている。
 職員の一人が慌ててそいつに駆け寄り、もう一人は何かを察したのか私に近寄ってきてこう言った。
「やったなリセ! 成功だよ! あとのことは僕らがやるからリセは一先ず部屋で休んでてくれ! 部屋まで送ろうか?」
 状況を上手く飲み込めなかった私は、職員に言われるがまま自室に戻った。いま思えば、あの行動は状況をより悪化させないように私を追い払いたかったのだろう。
 自室に戻り、私は考える。私が死ななかった理由と、職員が突然苦しみ出した原因。
 自分でも不思議なくらいに理由ははっきりと分かっていた。あの物体は、触れた者に特別な力を与えるのだ。しかし、素質がなければウニルのように発狂して命を落とす。
 そして、物体に適応した私は超人的な力を手に入れた。

 そう、私は所謂、「超能力」を使えるようになっていた。
 その能力とは、「精神操作」だ。

 何故自分でもここまですんなりと理解できるのかは分からない。これもあの物体の力なのだろうか。この力を使った直後は分からなかったが、自室で改めて考えた今、あの現象が私の力によるものだとはっきり理解できる。
 私はあのとき、職員の精神状態を"発狂したウニル"と同一にしたのだ。あのときのウニルの苦しみを理解していたわけではないが、恐らくは私の想像がそのまま職員に反映されたのだろう。結果、私の精神操作によってあの職員はウニルのように苦しみだした。
 妹が心配そうに私を見ている。その純真無垢な表情を見て、自分がこの子とは違う生き物になってしまったんだと実感する。この力は人間が本来持ち得るものではない。それを思うと、何故か涙が溢れてきた。
「おねぇ、いたいの?」
「大丈夫、大丈夫だよ」
 だが構わない。この力は強大だ。これを使えば妹を逃がすことだってできる。やっとお姉ちゃんらしいことができる。理己をここから脱出させて、悪い人間のいないところで静かに暮らそう。

 私の望みは、また叶わなかった。
 理己は既に、あの物体に触れていたのだ。私よりも数時間早くに。
 それが分かったのは妹が何気なくあの物体の話をしたからだ。きらきらした綺麗なものがある場所に連れて行かれた――その話だけで何があったかは理解できた。
 あのとき私は妹を解放しろと言った。職員は快く引き受けた。だが、内心ほくそ笑んでいたのではないだろうか。お前の妹の方が既に人の道を踏み外しているのだと。
 駄目だ。
 これもう駄目だ。
 壊そう、殺そう、全部。

 理性が弾ける。結局は誰も私たちを人間だと思っていないのだ。
 そうだ、初めから分かっていたはずだ。私たちはあの日、意識を奪われて無理矢理ここへ連れてこられた。その時点でどういう扱いを受けるかなんて分かり切っていたはずなのに。甘かった。憎かった父親を殺すという目的が達成できて、私の心は緩んでいたのかもしれない。
 人間なんて信用してはいけなかったんだ。
 もう一度あの男を殺したときの感情を取り戻そう。
 私たちをモルモットのように扱ったあいつらに報いを与えよう。

 一人には、全身を細切れにされる妄想を。
 一人には、刃物を一秒おきに延々と突き立てられる妄想を。
 一人には、肉塊になるまでゆっくりと圧縮される妄想を。
 一人には、意識がはっきりとしたまま四肢をもがれる妄想を。
 一人には、愛する者を目の前で殺され、その肉を口に放り込まれる妄想を。
 一人には、惨殺されては蘇生を繰り返す終わらない死の妄想を。
 一人には、骨を引きずり出され、自らの骨で体を貫かれる妄想を。
 一人には、体が骨になるまで酸で溶かされる妄想を。
 一人には、肺が焦げるまで灼熱の炎に炙られ続ける妄想を。
 一人には――

 ああ、もういい。疲れた。ここまで様々なシチュエーションを用意してやったのだ。彼らも満足だろう。あとは、そうだ、お互いを親の敵とでも思わせて、一人残らず殺し合いでもさせてやろう。
 真っ白な研究所が赤く染まっていく。こいつらが全員死んだところで、あの物体によって命を奪われた子供の数には遠く及ばないのが悔しい。皆、皆いなくなってしまった。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ」
 どうやら最後の一人になったようだ。体中を血で装飾した職員が、真っ赤な目で私を見ている。こいつは――そうだ、ウニルを殺した直後に現れ、妹の解放を約束し、嘘くさい演技で私を自室に追いやった奴だ。
「ざまぁみろ人でなし共が! やった、やった! 俺は復讐を成し遂げたぞ! 見てるか、親父、お袋! 俺はやっと――」
 五月蝿いので精神操作を解いてやった。
「――……は? あ、え。何だ、これ」
 男は滑稽な面で血の海となった研究所を見渡している。手にしていたナイフを落とし、静寂に包まれた研究所に乾いた金属音が響いた。
「な、何してんだ、俺。え、何だ、何で殺してんだ」
「親の仇だからでしょ」
「……リセ? ああ、そうか、そうかそういうことか。お前、弄ったんだな、俺たちの精神を。やっぱりお前の力はそういう類のものだったんだ。だから俺はあのときすぐにでもお前を拘束するように言ったんだそれなのにあいつら倒れたデイヴのことばっか気にしやがってこれだから凡人はッ!! クソッ! 最後の最後でしくじりやがってッ!!」
 状況の飲み込みが早いのは流石だ。そうか、あの後私は拘束されるかもしれなかったのか。だが、私が職員の一人を発狂させた所為で判断が遅れ、結果私がこんな行動に出るのを見過ごしてしまったらしい。
「らぁっ!!」
 直後、男は落としたナイフを拾って虚空へと投げつけた。
「え、はっ?」
「ああ、そこに私がいると思ってんだ」
 先程までの精神操作は解いてやったが、今度は私の姿を認識できないように精神を操っている。その判断は正解だったようだ。
「リ、リセ。僕はね、世の中をより良くしようとこの研究をやっているんだ。残念ながら数多の犠牲を払うことになったけど、こうして君みたいな成功者が現れてくれた。本当に感謝してるんだ。精神操作ができるんだろ? それは使い方を間違えなければ世界を幸せにできる最高の能力だ。だから僕と協力して――」
「悪いけどお前には一番苦しんで死んでもらう予定だから無理」
「ああああああッ!! くそッ!! このメスガキがッ!! てめぇ誰が今まで面倒見てやったと思ってんだ!! やめろっ! やめろ殺すな!! ふざけんなお前妹がどうなってもいいのか俺の情けで生かしてやってんだからそれを理解したうえで意見を――」
 五月蝿い。五月蝿いのでこいつには孤独な無音の世界で永遠に彷徨ってもらおう。何かの本で読んだ。人間は無音な空間に居続けると自分の体の音が聞こえ始め、その気味の悪さに発狂してしまうらしい。
 こいつには未来永劫その世界で生きてもらう。死は与えない。この男には死程度の報いでは生温い。
 それにしても、メスガキか。やはり女は侮られるらしい。男なんて汚くて臭くて野蛮でいらないものまで付いてて大嫌いだが、舐められないようにする為に、「他人から見た私」を変えることは必要かもしれない。
「……リセ?」
 物陰から一人の子供が私を見ていた。
「ああ、いたの、エスペロ。誰もいないから皆殺されたのかと思った」
 彼女の名前はエスペロ。その名前は、ここに来たときに名無しだった彼女に職員たちが与えたものだ。確か、どこかの国で「希望」という意味を持っていたはずだ。何という皮肉だろう。
「みんな、シンでる?」
 彼女はヨーロッパの方の出身だが、言葉というものを知らなかった。故に、私が理己に言葉を教えたときのように、暇を見つけてはエスペロに日本語を教えていた。片言だが、コミュニケーションを取れるまでにはなっている。
「うん、精神的にか肉体的にかの違いはあるけど、まぁ皆死んでる。だからエスペロももうこいつらに怯えなくて良いんだよ」
「そう、リセが、ミンナを助けてクレタんだね」
「助けられてないけどね。皆いなくなったから。まぁ、でもエスペロが無事で良かったよ」
 エスペロは血塗れで倒れている職員を無表情で眺めている。彼女は戦場で生まれ、毎日人が死ぬのを目の前で見てきたからか、あまり驚いている様子はない。
「……リセ、ちょっとオオきい?」
 私に視線を戻したエスペロが、少し驚いた声でそう言った。
「ああ、そっか。もう男に見えてるのか」
「セイテンカン?」
「まぁそんな感じ。ああ、出口らしい場所は開けさせたから。もういつでも逃げられるからね」
「うん、アリガト」
 エスペロは礼を言うと、私が指差した場所に向かって歩き始める。
「リセ、じぶんを見失わないでネ」
 最後にそれだけを言い残し、エスペロは曲がり角の向こうに消えて行った。
 あまり感情の起伏を表に出さない子だとは思っていたが、最後まであの調子というのは少し驚いた。普通はこの状況を見て何故とかどうしてとか、何かしらの疑問をぶつけてくると思うのだが。まぁ、世界にはいろんな人間がいるということだろう。
「……おねぇ?」
 今度は理己が、幼い足取りで私の側まで歩いてきた。死臭が不快なのか、顔を少ししかめている。
「ああ、理己。もう怖い大人は誰もいないよ。わた――……おれ、が、皆やっつけたから」
「痛いの、もうない?」
「うん、もう大丈夫。これからはずっと一緒だよ」
 理己は状況をよく理解していないようだが、それで良い。そんな汚いことは知らなくて良い。世界の難しいことを知るのは、ここじゃない平和な場所に行ってからで良いだろう。
「ねぇ理己。今度からおれのことは、おにぃって呼んでくれるかな」
「おにぃ? なんで?」
「その方がかっこいいから」
「……よくわかんないけど、いいよ」
 少し寂しそうだが、理己は言うことを聞いてくれた。
 これからは、男として振る舞おう。理己を守る為にもその方が良い。ここが世界のどこなのかは分からないが、安全な場所に行く為にはどうしても人と関わることになるだろう。なら姉妹より兄妹の方が良い。話し方ももっと男らしくしなくては。

 そうして、私たちは研究所を脱出した。
 出る直前に研究所で秘匿されていた重要資料なんかを見てみたが、あの物体は「ルナキューブ」というものの欠片らしい。
 英語ばかりで何が書いてあるのか詳しくは分からなかったが、要は人間に特殊なはたらきをするルナキューブの効果を調べる為に、私たちのような世間から姿を消しても問題ない子供たちが使われていたということだ。
 地位と金を手にした奴らが、何も持っていない子供たちを利用する。その成果で奴らはまた金を手にする。救いのない世界だ。
 理己も私も、ルナキューブの欠片に触れていながらもこうして生きている。理己にどんな能力が発現したのかは分からないが、もう普通の人間でなくなった以上、いつどんな奴らに目をつけられるか分からない。
 私一人なら人気のないところでひっそりと暮らすのだが、理己にまでそんな生活を強いるのは酷だ。であれば、やはり人間の手を借りるしかない。
「てんじょうが高いね」
「空っていうんだよ。おれたちがいた場所とは違って、あの空はどこまでも続いてて終わりがないんだ」
 研究所の外はどこかの森の中だった。
 数年ぶりに吸った外の空気はとても澄んでいて、それだけで今までの苦痛が和らいでいくような気がした。

 それからの私は、理己の安全が確保できる場所を探した。私たちがいるこの場所はどうやらどこかの島だったようだ。少し歩けば海があり、私たち以外に人はいなかった。エスペロの姿もない。別の組織に捕まってしまったのだろうか。
 次の日、研究所の異常を察したのか数人の男が船に乗ってやってきた。私はそいつらの精神を操り、取り敢えずは近くの港まで私たちを運ばせた。
 それからも精神操作を駆使して、私はあらゆる情報を手に入れた。ここがロシアであること、日本語が分かる人間のいる場所、空港の場所、飛行機の乗り方。そうして、何とか日本まで辿り着くことができた。
「今まで大変だったね。大丈夫。これからは私たちが付いてるよ」
 私が向かったのは北海道の田舎にある若葉園という養護施設だった。生まれが東京だった所為もあり、こういう場所が一番安全だと思ったからだ。
 まずは養護施設の関係者全員に「この兄妹は親に虐待を受けた挙句捨てられた」という認識を植え付ける。そうすれば後は勝手に向こうが保護に努めてくれた。つくづく便利な能力だ。
 若葉園は至って平和な養護施設だった。あの研究所のような造られた平和ではない。伸び伸びと育つ子供たち。地域行事への積極的な参加。外界との関わりがあるというだけで信用に足る施設だと思った。
 このまま、若葉園で健やかに過ごし、私は独立して、理己も友達ができて、裕福とまではいかなくともそれなりの幸せを――
 ――そう、願っていたはずなのに。
 どうして私は、その幸せを自ら手放すようなことをしてしまったのだろう。
 あの男、あの男にさえ出会っていなかれば、私はあのまま適度に能力を駆使しながら平和な日々を過ごせていたはずなのに。

 月之世聡にさえ、出会っていなければ。





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