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ツキノセ 作者:
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変化 - 4

 心の中で、父を「お父様」と呼ばなくなったのはいつからだろう。
 自分の中の思い出を手繰り寄せてみる。
――これは……お父さまとわたしたち? とっても上手ね廻。
 私が八歳のときだ。廻はいつものように絵を描いていて、私はその絵をとても気に入っていた。廻は風景、人、動物、様々なものを描くのが好きで、この日は私達家族の絵を描いていた。
 私と廻は隣同士に立っていて、少し離れたところに父がいる。皆笑顔だ。このときの私は廻の授業風景も知らず、父のことも尊敬していたし信頼していた。
――お父様。お母様はどうして亡くなってしまったのですか?
 私が九歳のときだ。母が廻を産んですぐに他界したことは知っていたが、私は母のことを何も知らなかった。体が弱かったのか、何か病に侵されていたのか。ただ純粋に母のことを知りたくて、父に疑問を投げかけた。何でも知っている父なら教えてくれると期待した。
 父は答えなかった。ただ悲しむような、悔やんでいるような表情をするだけで、母の死の詳細を語ることはしなかったのだ。思えば、あれは私の唯一知る『父の表情が歪んだ瞬間』だった。大好きな父の困っている表情を見たくなくて、私はそれ以上の追求はしなかった。
――何故廻にあんなことを言ったのですか、お父様。
 私が、十歳のときだ。
 平凡だと言い捨てられた廻の話を聞いて、私は父にそのことを問い詰めた。
 何かの間違いだと思いたかった。父はいつも私を誉めてくれたし、廻も同じように誉められていると思っていた。父の優しくて聡明な笑顔を向けられているのが私だけだと思いたくなかった。
――事実を告げたまでだよ。凡百が持っているようなありふれた力などこの家では無価値だ。
――お父様は、廻のことが嫌いなのですか?
――そうではない。だが、必要な能力を持ち得ない我が子には厳しい評価を下さねばならないのだ。月之世の跡取りに必要なのは、動物と無意義に戯れる才能でも、味の濃い紅茶を淹れる才能でも無い。過去と現代を学び、未来を見据え、何が価値あるものかを判断し、選択する力だ。お前にはその力がある。
 そうだ、このときだ。父は何やらもっともらしい言葉を並べ立てていたが、要するに廻の才能を認めなかったのだ。心のどこかでは廻のことを認めてくれているはずだという私の僅かな希望は、容易く切り捨てられた。
 思えば私は、月之世聡という人間のことを何も知らない。いや、父どころか、この家そのものについても。母の死の原因。父の半生――両親のことさえ分からないことだらけで、知っているのは名の知れた投資の家であるということのみである。
 私は父の部屋の前にいた。廻の腕の注射痕を見つけた直後は、父への怒りと、廻への心配が同時に湧き上がり冷静な判断が困難だったが、今は不思議と落ち着きを取り戻している。
 廻と久しぶりに会って、いろんな話をして――そういえば廻の淹れてくれた紅茶を飲むのも久しぶりだった。少しぎこちない再会になってしまったが、その後はいつも通りの私達だった。何気ない日常の再来が、私の心を落ち着かせたのかもしれない。
 それと同時に、現状を見直す切っ掛けにもなった。今までは父に負けないように、揚げ足を取られないように――そんなことばかりを考えていたが、それがそもそもの誤りだ。当たり前のことだが、月之世聡は私の父。私の言動の癖などは知り尽くしているはず。口論で勝負しようなどという考え自体が間違っている。
 廻は腕の注射について詳細を語らなかった。私はそれを父による口止めだと最初は判断したが、冷静に考えてみるとそうではない気がする。私に注射痕を指摘された廻に、『怯え』の色がなかったのだ。父に口止めをされているのなら、たとえ自ら望んで受けている実験だとしても、少なからず怯えとまではいかなくとも、不安な表情になるのが普通ではないだろうか。だが、廻の表情から窺えたのは、私を案ずるような、注射そのものよりも別の何かを気に掛けるような、そういう様子だった。
 父のことは信用していない。しかし、廻が私と並べるような人間になりたくて、父がそれを利用している、という単純な話ではないような気がしてきている。もっと複雑で私の知らない何かが絡んでいる気がしてならないのだ。
「お父様、綴です」
 扉をノックすると、中から「入りなさい」と返事が聞こえた後、私は扉をゆっくりと開く。父に不信感を抱いてからは重苦しく感じたこの扉だが、今は少しだけ軽くなった気がした。
 扉を閉めて、デスクに囲まれ椅子に座っている父に近付く。デスクは相変わらず一切無駄なものは置かれておらず、部屋そのものも見事に整理整頓されている。こういう部分は父に似てしまったのだと少しだけ憂鬱になる。
「廻と話をしました。久しぶりに会うので心配していましたが、元気そうな姿を見て安心しました」
「――」
 父の表情が、僅かに変わった。
 今までの私なら、廻の注射痕について血相を変えて問い詰めていたのだろう。恐らく父もそれを予想していたはずだ。現に最初それを目撃したときはそうするつもりだった。
 だが、それをしてしまっては何の進展もない。また上手くあしらわれて自室に戻るように促されて終わりだ。ならば、私のするべきことは詰問ではなく、観察。
 幼少期に母のことを訊いたとき、初めてみた父の笑顔以外の表情。きっと私は父のことを何も知らないのだ。当然だ。幼少期は父の身の上話など聞いたこともなかったし、父に不信感を抱いてからは会話すら避けていたのだから。
 愚かだった。相手の情報を何も持っていないのに、口論などできるはずもないのだ。私は月之世聡という人間と正面から向き合わなければならない。そうすることで、今この男が行っている研究や、廻の沈黙の理由について何か見えてくるのではないだろうか。
「そうか、二人はずっと一緒だったからな。私も心配していたのだが、それを聞いて安心した」
 父はいつもの表情に戻った。この取って付けたような気遣う言葉も、今はあまり不愉快な気分にはならない。全て父を知るうえでの重要な要素だ。
「私たちのことを心配してくださるのは嬉しいのですが、廻の身体のことも大事にしてあげてくれませんか」
 自分でも驚くほど落ち着いた声で話している。少し前までは湧き上がる怒りを必死に抑えながらでなければこうはならなかったというのに。
「注射のことかな? あれは体に害のある薬品は使っていない。見た目は少し痛々しいだろうが心配はいらないよ」
「だとしてもです。廻は自分でも大丈夫だと言っていましたが、妹が未知の研究の被験者になっていると聞いて、心配しない姉はいません。お父様の偉大な研究を否定するつもりはありませんが、それでも……」
「……」
 父が沈黙する。父と会話をするとき、私はいつも怒りや拒絶を向けていた。この男を気遣って言葉を選ぶことなど幼少期以来だ。普段とは違う私の態度を見て、父は何を思うのだろうか。
「確かにな。私は綴が精神的に成長していることに慢心して、廻を思いやる綴の気持ちに対する配慮に欠けていたかもしれない。済まなかった」
「では――」
「だが廻はこの研究に必要不可欠な存在だ。そして、この研究が成功すれば、人類はかつてない進歩を遂げるのだ。私は、綴にならこの重要性を理解して貰えると思っている」
 やはりこの程度では退かないか。娘に情が湧くような男なら、そもそも怪しげな研究に自分の娘を利用することもないだろう。見慣れない私の態度に少しだけ普段と違う反応を見せたが、それで現状が覆るようなら苦労はしていない。最初から「廻に酷いことをしないで」と泣きつけば良いだけのことだ。
「研究の重要性……それは、私達家族が離れ離れになって、廻の身体が傷付くことと引き換えにするほどのものなのですか?」
「先程も言ったが、廻に危険が及ぶような実験は行っていない。家を離れることについても、研究が終わればまた元通りの日常に戻る」
 言葉だけを聞けば、自分の研究を優先しつつも娘を案ずるできた父親だ。だが、父が過去に廻に対して取った態度を思い返せば、こんな言葉はその場限りの小細工であるということが分かる。本当に廻を思いやっているのなら、普段から廻の趣味に対して温かい反応を示しているはずなのだ。
 ならばこちらも、小細工を仕掛けるのみ。
「……元通りの日常、ですか。お父様がお母様を守ってくださらなかった時点で、そんなものは最早手に入らないのではないですか」
「――!」
 父の目が、見開かれた。
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