そこにいたこと
立ち入り禁止の看板をそ知らぬ顔で通り過ぎ、その先の岩陰に座りこむ。
見つめるともなく眺めた海は、今日も静謐の体を晒していた。
かたわらに投げ出した革製の学生カバンから転がり落ちた単語帳を、そっと拾う。
教室や自室でするように、血眼になって英単語を追う気にはなれなかった。
叫びだしたいようなむずがゆさが、体中を駆け巡っている。
叫びだしてもどうにもならないことは分かっていて、習い性のように唇を噛んだ。
潮騒が子守り歌のように耳に響く。
うるさいと思いながら、どこか心地よく甘受している自分に、私はもう気づいていた。
思えば、はじめてここを訪れた日からそうだった。
あの日。
終わる気配のない試験勉強と、いっこうに覚えられない化学式に疲れ果てて、私はこの場所にやってきた。
知らぬわけではなかった。
ここが、自殺の名所だということを。
別に、死ぬ心積もりはなかった。
ただ。実感が欲しかったのだ。
文字や数字や、本なんかからは到底感じられないような、生きている実感が。
生きている
そう呟きかけて、止めた。
言葉にしてしまえば、何かがこぼれおちてしまうだろう確信があった。
代わりに強く吐きだす吐息は、笑声のようでも泪声のようでもある。
何ら特別なことではないかのように時を過ごす自分が、もどかしくてならないのだ、と不意に思った。
何十億分の一かの確率で、人はこの世界に産まれるのだという。
それを習ったのは、小学校の理科の時間だったろうか。
たまたまこの豊かで安全な国に生まれた自分は、その何十億分の一の更に何十億分の一かの確率で恵まれていると言うより他にないのだろう、と考えたのはいつだったろう。
何不自由なく育ててもらえる子どもなど、この世界にいくらもいないだろうに。
そう思いながら、私はきっと、心のどこかで切望していたのだ。
生きている証となるような、輝かしい何かにふれることを。
けれど、ただ生活し、学ぶ日々の中に。
そんなものは何一つないような気がした。
生きている今を、もっと生きたい。
その衝動に、動きかたすら喰われたようで。
何が正しいのか考える自分も、大切な何かを見落としているようで。
その何かが何なのか、答えはいつも遠い。
透き通った紺とそこに浮かんでは消えゆく白い泡を見るともなく見つめながら、膝を強く強く抱きかかえる。
スニーカーの下で、岩が鳴った。
途端、世界がひどく不確かなものであるかのような気分が、体を震えさせた。
どこに、たどりつけたら。
何を、証として差し出したならば。
私は生きていたことになるのだろうか。
自らに問うてみたけれど、答えは見つからず。
ただただ、叫びだしたいようなむずがゆさがつのる。
海は、今日も。静謐の体を目の前に晒している。
眼を細めて見やれば、透き通った紺と泡の向こうに、珊瑚の亡骸が白く佇んでいた。
はじめまして。もしくは、お久しぶりです。
水音灯と申します。
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