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ノブ、ずるいやん 作者:奈備 光
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第 7 章 「一夜明けて」

 亡骸はすでに猪背川の淵を離れ、流れに乗って橋の下をくぐっていこうとしていた。
 ちょうど一年前、佳代子の亡骸がそうであったように、清らかな波に頬をなぶられながら。

 集落を貫く一本の道が、民家の間をうねうねと登っていくと、やがて家並は途切れ、右側に視界が開けて猪背川を眼下に見ることになる。
 道路から川面まで二十メートルはあろう。蛇行した川が淵をなし、透き通った水が、ここだけはときとして緑や青に見える。
 猪背川の渓谷越し、向こう正面にはヒノキの植林が大きな斜面を見せ、その裾にわずかな田畑が貼りついている。
 道は山裾の小さなひだを回り込む。ますます細く急勾配になり、アスファルト舗装が滑り止めに丸くスタンプされたコンクリートに変わり、それさえもいよいよ途切れてその先は山道となる。

 采屋敷はそんなところにある。

 立派な自然石を積んだ石垣が巡り、イタビカズラが貼り付いて田舎びた趣を醸し出している。
 石垣の上には珍しいトキワマンサクの生垣や板塀が二千坪ほどもある敷地を取り囲んでおり、この屋敷が地域有数の格式を備えていることを知らしめている。
 石段を二十段ばかり登ると、間口二間ほどの門にたどり着く。茅葺きの屋根をもつ立派なものだ。ただ、築後長い年月を経て、材木は痩せて節が抜け落ち、触れると年輪の皺を指に感じる。

 門をくぐり、まず目につくのは大きなタブの木である。その木を中心にして、かつては立派な庭園が造営されていたのであろう。たくさんの石に囲まれた窪地は水景の跡であろうし、姿の崩れたサルスベリの木が赤味を帯びた立派な景石に寄り添っている。
 傍らには、野放図に伸び放題となったナンテンの茂みがあるし、大猿か小熊か判然としない一抱えもある石像がうずくまり、それに隠れるようにして石灯籠が恨みがましく苔むした姿を覗かせている。
 欠け落ち、沈み込んで列の乱れた白御影の敷石が、そんな庭園の跡を貫くように、訪れる人を母屋へと導いている。

 その向かい、前庭にでんと座った大きな平石を隔てて、離れが建っている。
 生駒はその建物の中座敷で目覚めた。

 寝覚めはそれほどいいものではなかった。飲み過ぎで頭が重い。
 しかも神経を少しずつ磨り減らすような昨夜の断続的な緊張のおかげで、疲れが残っていた。
 縁側に出て外の空気に触れると幾分すっきりして、晴れ渡った空に向かって深呼吸をした。

「いい天気になったね」
「ああ」
「山登り、行くんかな?」
 優がぐずぐずと布団を畳んでいる。
「そりゃ、予定通り行くやろ」
「ふうー」
「行かないのか?」
「行くって」

 昨夜、少女の堪忍袋の緒が切れたとでも言うべきいさかいと、それに連なるちょっとした事件が起きた。
 直後、激しい雨も降り出した。岩穴の中は瞬く間に蒸し暑くなり、興が削がれてしまった座談会は、一気に湿っぽい会になってしまった。
 もう誰も村の歴史やこの屋敷、あるいは采家のことをおもしろく紹介しようとするものはいなくなり、残りの時間は焼酎やワインのビンを空にすることに専念したのだった。

 岩穴に現れた老婆。
 「祟りじゃ」、などと芝居がかったことを言い捨てて消えた。
 この屋敷の持ち主、采千寿の妹、奈津だという。戦争で連れ合いをなくしてからというもの、嫁ぎ先から村に戻ってきて畑を耕しながらたったひとりで生きてきたという。

 岩穴座談会が始まった頃の心地よい雰囲気は完全に失われた。
 木元はやたらと岩穴の入口まで出てタバコを吸っていたし、健治は電話を借りるといって母屋に行ったきりなかなか戻って来なかったりした。
 久米は不機嫌な顔を隠そうともせず派手なため息をついたり、急に必要以上に甲高い笑い声をたてたりした。することが乱雑になり、上等のシルクのシャツを自分の手料理で汚したりした。そしてぞんざいな言葉遣いで周囲に酒を勧めたりもした。

 それでも生駒は久米に同情した。久米は今をときめくプライド高き芸術家なのだ。その彼が村に溶け込みたいと、西脇や仙吉や健治を招いて催した会なのである。
 その気持ちが、あろうことか屋敷の本来の持ち主である千寿の妹のぶしつけな言動によって、打ち砕かれてしまったのだ。
 腹立たしさというより、挫折感というべきかもしれなかった。

 やがて会は自然解散という風になり、仙吉が台所を片付けてくると席を立ったのを機に、順々に岩穴を出て行き、生駒と優も、寝室として用意されていた離れに引き上げたのだった。

 それでも久米は、生駒が起きてきたときにはすでに朝食の用意を整えていた。
 庭にある大きな石の周りに真新しい樹脂製のガーデンチェアを並べ、石の上にはさわやかな花柄のテーブルクロスが広げられていた。
 ハムや果物やサンドイッチなどが、品のいいバスケットに盛り付けられていた。

 縁側で歯を磨きながら庭を眺めていると、すでに道長と坂井が食事を始めているのが見えた。
 仙吉は家で済ませてきたのか、コーヒーカップを手にして、少し離れたところで佇んでいる。大きな格子柄のワークシャツにベージュの綿パン姿。準備万端、山行きの格好だった。

「朝からご馳走みたいやな」
「食欲ないよぉ。いつもこんな調子?」
「だいたいはな」
「久米さんって、変わってるよね。お金持ちは動かないのかと思ってたけど」
「ああすることを楽しんでるんや」

 飲み物を運んできた久米が生駒に気づいて手を上げた。生駒も歯ブラシを口に突っ込んだまま軽く頭を下げる。
「なに着ていくん?」
「なにって、Tシャツしか持ってきてない」
「また、黒いやつ? 山登りに合わへんのとちがう?」
「そか?」
 優は真っ青なキャミソール姿だ。
「お、おい、それだけ? 寒いかもしれないぞ」
 優の豊かなバストが強調されて、目のやり場に困る。きっと木元の目を釘付けにするだろう。
「これ羽織るねん」
と、放り出してあった白いウインドブレーカーを摘みあげる。
「いいもの、持ってきてたんやな」
 生駒はなんとなくほっとした。

 庭に出て行くと、道長が昨夜の残像を断ち切ろうとするかのように、晴れ晴れとした笑顔を振りまいていた。
「いい天気になりましたね! よく眠れましたか」
「まあまあです」
「いいわね! ふたりともお若くて!」
 生駒はそう言われるほど若くはない。四十半ばにもなって独身を通しているが、それは単に相手に巡り合わなかっただけのことだ。優ともそれなりにいい関係を保ってはいるが、結婚する相手として考えたこともない。
 ふたりがひとつの部屋で並んで寝たことを、道長はいいわねと言ったのだろうが、これはやはり嫌味だと受け取っておこう。

「先生もまだお若くて溌剌とされてますよ」
 道長とて、若いなどと言われて喜ぶような女性ではない。
 優はそう言ってさらりとお返しをしたのだろう。
 普段から優の寝起きは良くない。朝っぱらから険悪ムードか、と生駒はひやりとしてしまう。
 まだ、七時半だった。

「それにしてもすごい雷だったわね」
 しかし、道長はそういって優の攻撃をするりと受け流した。
「ちょうど僕が風呂に入っている最中に停電したんですよ」
 嫌味の応酬より天候の話題の方が、この場にふさわしい。
「いやあ、びっくりしましたよ!」
 昨晩の停電は長く続いた。
 都会ではすぐに直ることが多いが、こんな山奥では復旧も後回しになるのかもしれない。
 ただ、生駒は言わなくてもいいことも口にしてしまった。
「真っ暗な中でも、結構自分の体は洗えるもんですね」
「お相手の体は洗えないけど?」
 たちまち道長がまた見え透いた鎌をかけてくる。
「あれ、ひとりで入りましたよ。ジュンバンに」

 生駒は木元、優、生駒、健治という順に入ったのだと説明したが、弁解くさかったのか、道長は、
「顔、洗った?」などと、子供に言うような嫌味を返してきつつ、
「水が冷たくて気持ちよかったでしょ。やっぱり違うわね、井戸水は。二日酔いがうそみたいに飛んでいったわ」
と、両手で頬を押さえた。
 こんなとき、道長は年齢よりずっと若くみえる。そんな仕草も似合う可愛い人なのだ。
 しかし騙されてはいけない。
 案の定、次の一手は、
「朝食はちゃんととらなくてはだめよ」だ。

「おはよう! いい天気になったね。はい、熱いやつ」
 久米がコーヒーのいい香りを運んできた。
「今日の予定だけど、昨晩の約束どおり、八時になったら出発だ。西脇さんの案内で」
「ええ」
「伝説のアマガハラノを探しに。そんなに遠いところじゃなかったらいいね」
 優が素直に頷いている。
「どっちにしろ昼前には戻って来て、昼食の後は自由解散」
「わかりました」
「体力と時間に余裕があれば、僕の畑仕事を手伝ってもらえると助かるけど」
 生駒は優と顔を見合わせた。
 まあ、どちらでもいい。たいした予定はない。

「考えといて。あ、道長先生、足元は大丈夫?」
 道長はきれいなラメ入りの真っ白なスニーカーを履いていた。
「道なき道を行くということになるかもしれないよ。昨夜の雨でぬかるんでいるかもしれないし」
「そうねえ」
「長靴を貸そうか。女性用のもあるから。お、そうだ、麦わら帽子や軍手なんかも用意しないといけないな」
「でも、私はこれで結構よ」
と、道長が断るのに手を上げて応えながら、久米は母屋の裏手に消えた。

 橘文雄、綾の親子がやってきた。道長がふたりにも声をかける。
「朝食は済まされましたか。綾ちゃん、ヨーグルトなんか、いかが? イチゴもあるわよ」
 綾はこくりと頷いたが、遠慮したのか、父親に倣って離れの縁側に腰を下ろした。
「こちらにいらっしゃいよ」
「ううん。ここでいい」と、首を横に振る綾。微妙にかたくなな態度。
 昨夜のことがまだ尾を引いているのかもしれない。道長がイチゴを取り分け、アップルジュースとコーヒーを持って行ってやった。

「皆さん、おそろいですな」
 西脇が屋敷に入ってきた。
 首に巻きつけたタオルを解いて、額の汗を拭う。半袖のグレイの作業服に汗のしみができていた。
 また道長がテーブルサービスを仕切り始める。

「朝早くから、汗だくになっておれらますな」と、坂井が話しかけた。
「なんとか滝の上の方へ行けそうです」
 西脇はさっぱりとした笑顔をしている。昨夜のやり取りは心のどこかにきれいにしまいこんでいるようだ。

「目的地までは行きませんでしたが」
「へえ。見に行っておられたんですか」
「ハハハ。昨夜、ああは言ったものの、一応、前もって、ルートだけは確認しておこうと思いましてな」
「こんなに朝早く? それはどうもご苦労さまでした」
「いえいえ。立ち往生でもしたら、面目丸つぶれですからな。それにご婦人方を危険な目に合わせるわけにはいかんでしょう」
「それはどうも。で、どうでしたの? 栗の原っぱは見つかりそうでした?」
「さあ。途中で引き返してきましたから。あ、紹介させてください」

 西脇は後ろで突っ立っていた若者を手招きし、一同の前に引き立てた。
「私のせがれでして、恭介といいます。今日は皆さんとご一緒させていただきます。二十になりたての若造ですが、荷物持ちとして使ってやってください」
 顔つきは大学生くらいだが背丈はミニサイズ。父親と並んでいる様は、ブリとイワシだ。
 どんぐり眼のイワシが激しく瞬きし、ぺこりと頭を下げた。派手な縞模様のついた赤いTシャツの裾で手を拭い、目の前の椅子にヒョイと座った。
 事前踏査に付き合わされたことによる疲れなのか、見知らぬ大人たちと山登りに行く羽目になったことに腹を立てているのか。
 いずれにしろ、おもしろくもないという顔をしていた。

「皆さん、リュックサックなんかお持ちじゃないでしょう。恭介が皆さんの分も持っていきますから。大きなリュックを担いできてますんで」
 確かに恭介は、背丈と不釣合いなリュックを背負っていた。
「あら。私はこれで行こうかと思っているんですけど」
と、道長が平石の上に置いた真っ白なショルダーバッグを掲げてみせた。
「だめだめ。上等な鞄がいっぺんにアウトになってしまいますがな」
「そお?」
「それにそういうものじゃ、疲れてしまって歩けなくなってしまいます。貴重品以外、持っていくものは恭介に預けてください」
「よかった。助かります。じゃ、私は飲み物と食べるものをお願いしようかな。あとはこれがあるから」
と、ウェストポーチを見せた。道長もラフな服装をしている。薄い麻の長袖シャツにブルージーンズを履いていた。
「はい。じゃ、三条さんは?」
「ありがとうございます。でも、私は生駒社長に持ってもらいますから」
「もう、ばれてるって」
 西脇が笑って、石のテーブルについた。
「ご馳走ですな。さ、おまえも頂きなさい」
「うん」

 黙って座っていた恭介が、父親の許しが出るや否や、飛びつくようにして道長の前に細い腕を伸ばした。
 サンドイッチをふたつ掴むと、まとめて口に入れた。
 そして次の瞬間、生駒は唖然とした。
 恭介は「ミルク!」と、命令するように父親に言ったのだった。

 父親は紙コップを取り、パックの牛乳を注いでやる。恭介はそれを一気に飲み干すと、口の周りの白い泡を拭おうともせず、再びサンドイッチに手を伸ばす。道長がバスケットを恭介に押しやったが、今度はもう一方の手でビスケットを掴んだ。
 綾が恭介を睨みつけていた。
 ところが西脇はそんな息子にかまわず、道長が入れたコーヒーをすすっている。
「久米先生はもう起きておられるようですな。健治や木元さんは?」
と、なにごともなかったかのような口ぶりだ。

 恭介の動きに視線をあてながら道長がいった。
「まだ寝てるみたいね。生駒さん、申し訳ないけど、起こしてきてくださる?」

 昨夜、木元が離れの前の間、生駒と優が中の座敷、健治は縁側を通ってトイレや浴室を通り越した突き当たりにある奥の座敷、鮎の間で寝たのだった。

 縁側から声をかけると、木元が伸びをするうなり声が聞こえてきた。まだ寝ていたのだろう。再び声をかけ、おはようございますという返事を確認してから奥の座敷に向かったが、健治の返事はなかった。
 しばらく待ったがやはり声がない。入りますよと断って襖を開けてみると、部屋には誰もいなかった。
 布団はもぬけの殻で、紺色のボストンバックが部屋の隅に置かれてあるだけだった。
 振り返ると、道長や仙吉と目が合った。優は恭介に話しかけられて愛想笑いをしていた。

 久米が配ってくれたペットボトルや軍手や草刈鎌などを身に着け、出発の準備は整った。

 リュックサックなどに腕を通し、大阪に帰るという坂井を見送った。ホステス相手に下品で好色なアプローチを繰り返しているような「はげジジイ」の典型男が参加しないのはいいが、代わりに何をしでかすか分からない恭介という若者が加わった。
 生駒は今日もまた持続的な緊張感を強いられる山登りになるかもしれないと、かすかに気が重くなっていた。

「アマガハラノ調査隊、では、しゅっぱーつ!」
 久米の陽気な声が庭に響いた。
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