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ノブ、ずるいやん 作者:奈備 光
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第 6 章 「老婆」

「もっと他には?」
 会話を楽しんでいるときの癖で、久米がしきりに手の指を揉んでいる。
「そうねえ。正直にいうと、あまりいい話がなくて。なにしろ近郷一番の庄屋さんでしょ。昔話ってだいたいが、弱い立場の村人が大金持ちの庄屋さんを懲らしめるっていう話だから」
「そういやそうかな。どう? 他の人は?」
 久米が健治や西脇に顔を向ける。
「うーん、そうですなぁ」
 道長の権現さんの話に、西脇が当然のように尾ひれハヒレをつけてくるものだと思っていたが、唸っているばかりだ。健治にしても仙吉にしても黙り込んでいる。やはりこれは采家の秘密ということなのだろう。どことなくシラッとした雰囲気になった。

 その微妙な空気を揺らすものがあった。
「采家の呪われた歴史とか?」
 そう口にした若い男の顔は笑っていたし、軽い調子で場に投げたのだ。笑いを取ろうとしたのかもしれない。
 しかし間が悪かった。今までほとんど黙っていた人物が唐突に口にする言葉としてはストレートすぎた。

 木元勝。
 猪背川を下ったところにある原田という町で、レンタルビデオ店を任されているという二十一の男だ。

 まあまあのルックスを持っているのだが、どうしてここまで太れるのかと思うほど肥えている。腹回りはとうに百五十センチは超えているだろう。前から見ても横から見ても、干しダコのような菱形をしている。
 しかし運動神経はいいようで、身のこなしはすばやい。
 ただ、一番の特徴はほとんどしゃべることがないということだ。いろいろな場面に顔は出してはいるものの、常に仲間の輪から外れたところにいるような人物。無口は悪で社交的なものは善という短絡的な判断をするわけではないが、生駒は木元とは親しくなれそうにないと思うようになっていた。

 若者が期待したであろう反応を誰も見せなかった。
 多くのものが虚を突かれたように唖然とした顔を見せただけだ。ただ道長が口ごもって、それは……、と言ったきり黙り込んでしまったところをみると、案外、的を射ている部分もあったのかもしれない。

 采家。
 代々大西村の名代を務め、下の原田の町を含めたこの地域一帯の名家。
 生駒は縁もゆかりもないが、少し変わった立場で親しみを持っている。
 久米に誘われてこの屋敷に出入りするようになって、采家の人たちがこの屋敷でいきいきと暮らしていた名残を目にし、実際に手にとって触れていたからだ。
 いや、名残というほど美しいものではない。むしろ悲しき証拠というべきかもしれない。

 久米からアトリエの設計を打診された二年ほど前。
 まだ屋敷の中は千寿が住んでいたときのまま、ありとあらゆる生活道具などが残されていた。久米の要請に応えて、知人達がボランティアとして屋敷の清掃や草刈などを手伝っていた。
 集まっていたのは、生駒の他に久米が行きつけの飲み屋の主人や、塗料メーカーの社員、絵画教室の生徒、取り巻きの婦人連中、画廊の主人といった人たち。生駒はそこで道長や坂井と知り合ったのだし、村人である仙吉や橘や綾と出会い、顔見知りになったのだった。

 庭の片隅に積み上げられている不要な材木をドラム缶の焼却炉で燃やす。納屋の中のものを、農協に引き取ってもらうもの、あるいは専門業者に引き取ってもらうもの、ごみに出すものとして分別し、所定の場所に運ぶ。日曜日ごと、そんな作業に汗を流していた。
 大勢の人間が大阪や京都から行楽気分で屋敷に参集し、めいめいが思いつくままに体を動かしていた。誰かが誰かの役割を決めるわけでもない。自分ができることをするというだけのルールでも、前向きに行動する気持ちのある人だけが集まるという環境の下では、それなりに機能するものだ。唯一の暗黙の了解は、生駒ら中年グループはかつてこの屋敷に住んだ人たちの生活空間の整理や片づけを担当し、比較的腕力のある若者たちは、中高年組が空っぽにした不要なたんすや食器棚を裏の空き地まで運び出す、といった分担にしようということだけだった。

 この屋敷の主は、采千寿チズという。
 千寿が使っていた部屋は、母屋の右の端にある小さい方の角座敷と部屋続きの寝室、および廊下を隔てた八畳間。後は箪笥部屋、そして玄関脇の茶の間だけ。
 つまり塔の間、竹筒の間、石像の間とその周辺の小諸室いうわけだ。
 これらの部屋と佳代子が使っている奥座敷、そしてふたりが主に過ごしていたリビングやキッチンは完璧なまでにきちんと整頓され、千寿や佳代子の潔い人柄が表れているようだった。

 しかしそんな千寿や佳代子も、他の家人達が残していった暮らしの残滓までは手が回らなかったのだろう。あるいはそのままにしておきたかったのかもしれない。
 屋敷中が、まるで一家の資産を食い散らかしたかのような荒れようだった。
 おそらく何十年もの間、片付けたり、ごみを出したり、といったことはなかったのだろう。
 高価そうにみえる置物や着物などが無造作に開け放たれた段ボール箱の中から溢れ、埃にまみれていた。
 ありとあらゆるものに染み付いた体臭が、いつしか、ものが朽ちてゆくときにわずかに発する埃まじりの土のような臭いに取って代わられていた。

 破れてゴキブリの卵が張り付いた紙袋や、ネズミの巣作り材料にされて粉々の切れ端になった枕カバーなどが乱雑に詰め込まれている押入れ。
 山積みになって埃をかぶった贈答品の箱。もはや持ち上げることさえできないほど腐ってしまった無数の木箱。子供の描いた絵やノートが詰まった底の抜けたスチール缶。
 一昔前の勉強机が、ガラスの外れた窓から入り込んだツタに半ば覆われながら、かろうじて原形をとどめていたりした。
 歴史民芸博物館に収蔵されていそうな用途不明の木製道具などもいたるところに散乱していた。

 まるで、住人が神隠しにあって忽然としていなくなった後で泥棒に入られ、その状態のまま何十年もの月日が流れ、やがて廃墟になってしまった、そんな状態だった。
 生駒は箱や押入れや箪笥を開けるたびに、口にあてがったマスクの圧着具合を確かめずにはおれなかった。

 昔の大家族制が完全に崩壊し、高齢化が究極まで進んだ村。
 とり残されたものは、大きな家族を収容した家という入れ物。
 そして、かつての家人たちの残滓の中でぽつねんとたたずむ老人。
 そんな光景は日本全国いたるところで目にする。
 生駒にとって、采家の屋敷はその象徴のような存在だった。

 ただ、もうそんな情景も今は思い出話でしかない。
 今の屋敷は完全に片付けられ、最後はプロの清掃業者の手によって磨き上げられている。あのころの面影をとどめているのは庭と蔵の中だけ。庭は、久米が自分でこつこつ造り直して楽しむということだったし、蔵は手をつけないでおくということだったのである。

 岩穴の中には気まずい空気が流れた。「采家の呪われた歴史とか?」などと口走った木元は、目を伏せて、おずおずとジーパンの尻ポケットから押しつぶされたタバコの箱を取り出した。ライターを探してほかのポケットに手をやる。気を利かせた仙吉が自分の百円ライターを取り出す。ライターにはパーラーハラダと、街のパチンコ店の名が印刷されていた。

 木元が手を出そうとしたとき、
「ここは禁煙」と、道長がぴしゃりと止めた。

 木元の居心地がますます悪くなった。のそりと立ち上がると、ライターを受け取って岩穴から出ていく。それにつられるように橘も立ち上がった。

 生駒はふと思った。木元がこの岩穴座談会にふさわしいメンバーなのだろうか。おもしろい話を持っているのかもしれないが、あの無口だ。久米はあの男になにを期待したのだろう。

 久米が和やかなムードを取り戻そうとしていた。満面の笑顔を作って仙吉に視線をあてた。
「じゃ、そろそろ仙吉さん」
 仙吉が話す番だ。いよいよ、生粋の村人の登場だ。この村に住み続けている男からどんな話が聞けるのか、と生駒も興味を持った。

 生駒はこの屋敷の本来の主である千寿に会ったことはない。しかしその老婆の寝所を片付け、押入れの隅から下着を引きずり出し、箪笥の引き出しを片端から開けて中身を放り出したものとしては、千寿に奇妙な親近感を抱いていたし、この屋敷に住んだ人々の生の歴史を聞いてみたいとも思っていた。
 ところが、久米は、
「采家の呪われた歴史とか」と、座り直したのである。

 木元がその言葉を口にしたときには憮然とした表情を見せた久米だが、今になって、さもおもしろいという顔で仙吉を促す。また手の指を揉んでいる。道長も団扇を動かし、隣に座った仙吉に風を送ってやり始めた。
 さすがに仙吉は困った顔をして久米に目をやり、
「ちょっとそれは……」と、尻込みした。

 失礼な話である。
 仙吉の祖先の話である。それを呪われたなどいうのは、悪ふざけとしかいいようがない。しかも、それを仙吉の口から話せとせがんでいるのだ。
 采家の郎党である仙吉や西脇、そして健治が気分を害してもいい場面ではあった。胡坐をかいた西脇の膝が貧乏ゆすりを始めたのは、そんな気持ちを表していたのかもしれない。
 しかし仙吉は困り果てたように、しきりに顔を手で擦っているばかり。

 ようやく久米が柔らかい声をはりあげた。
「仙吉さん。すみません。いいんですよ。失礼なことをいいました。僕が村のことを何でも知りたいなどと変な注文をつけたものですから、皆さんに気を使わせてしまって。いえ、軽い、お気楽な話でいいんです。お集まりいただくのに、なにかテーマがないといけないかなと思ったものですから。仙吉さん、どうぞお気楽に」
 久米が高らかに今更ながらに吐いた台詞は、呪われたなどと失礼な督促をしたことを詫びたのか、無理に話をさせようとしていることを詫びたのかわからなかった。
 ただ久米はそれで気が済んだようにますます陽気になって、酒を注いで回った。やがて橘や木元が戻ってきたのを見て、新しい焼酎の瓶を立て続けに開けた。

「仙吉さん、今年は豊作かしら」
 道長がワインの色を確かめるようにグラスをかざしながら話題を変えた。
「は? さあ、どうですやろか。まだ、田植えをしたばかりなんで、なんとも……」
「井戸は?」
「あっ、そういうことですかいな」と、仙吉が久しぶりに目じりの皺を深くした。

「どうでしょうかなぁ。最近、あんまりそのことは言わなくなったもんで」
「そう。残念ねぇ」
 と言いながらも、道長はほっとしたような顔を見せている。
「ねえ、ねえ、あのときって、子供たちにヨモギ餅が配られてなかった? そんな記憶があるんだけど」
「ああ、そうでしたなぁ」
「どういう話?」
 久米がしびれをきらして尋ねる。
「私、じらしてた?」
「ああ」
「フフン。聞きたい? 私ばかり話しすぎかなと思って」
「いいから、いいから」

 久米と道長がじゃれあっている。
 ふたりの関係とはどういうものなのだろう。古い付き合いだとしか聞いたことがないが、彼らが自然体で接するときの様子は、単に知人と表現するだけでは言い足りないような気がすると生駒は感じていた。

「じゃ、仙吉さんから」
 道長が笑みを浮かべて仙吉に話を譲った。口火を切る水先案内をしてやったということなのだろう。
 仙吉に視線が集まった。
「村の真ん中に井戸がありますんです。昔から不思議な井戸やといわれてましてな。今年が豊作やと、かすかな湯気を上げるんですわ。時期は田植えの前、春の彼岸の頃ですな。朝早く日の出の時刻になると、ほのかなふわっとした湯気を。んー、湯気というより、霞が漏れ出るという方がいいですかなぁ。ま、そういうことですな」
 仙吉が顔を擦って、自ら頷いた。
「で、その日は村の行事ということで、少しだけ食べたり飲んだりもしましてな。村の子供たちにとっては、ちょっとしたお祭りやったんですな」

 仙吉の話はそれだけだった。
 話好きだが、決して流暢な口ではない。果たして質問攻めにあうことになる。
「ほう。それは水温とか気温に関係してるのかな」
「さあて。わしにはようわかりません。井戸から水蒸気が発生するならそういうことなんでしょうけど。それでなぜ豊作なのかは……。ま、昔はそういう言い伝えもあったということです。今はそんなこと、誰も信じちゃおりませんけどな」
「当たっていなかった?」
「さあ、どうですやろ」
「なにしろ、私たちが子供だったころのことなので、よく覚えてないわ」

 などと、仙吉と道長が交互に答え始める。生駒も質問に加わった。
「井戸は今、どうなっているんです?」
「蓋をしてあります。年末だけですな。蓋を取るのは。餅つきのときに。今は井戸そのものが使われなくなってますんで」
「どこにあるんです?」
「そりゃ、村の広場ですがな」
「広場?」
「集会所のあるところ。ほら、道が広くなってますでしょう」
「集会所のところ? あそこが?」
「ハハハ。村ではあれでも広場というんです」
「井戸なんかありましたっけ」
「ね、生駒さん。明日、見にいきましょう」
 道長がにっこりと提案した。
「仙吉さん、蓋とってみてもいいんでしょ?」
「蓋? そりゃあ、いいでしょう。単に木の板を上に乗っけてあるだけですから」

 いつもの道長は人の神経を逆撫でするようなことを言うが、今日は今のところ朗らかだ。自分が場の中心になったときには一気に輝きを増す。上手に会話を裁き、コントロールする。そんな人だ。

 井戸の話題が一段落した。
「道長さんもこの村の方だったんですね。知りませんでしたよ」
 そういった生駒に、道長が瞳を光らせた。優が道長のグラスにワインを注いだ。
「ありがとう。そう。故郷って気持ちはあるわ。でも、昔々に一家ごと出て行ったから、もう記憶のかなたね。親戚もないし、知っている人も誰もいないし」
「そうなんですか」
 残念ながら生駒が出した話題は、これ以上広がりようがなかった。

 生駒はわずかに疲労を感じた。改めて岩穴に集う面々を見渡してみた。
 大げさに言えば、坂井には嫌悪感、橘には漠然とした不安、木元とは距離を保っておきたいという気持ち、道長には近寄りがたい、あるいは構われたくないという思い。そんな感情を持ちながら、いつものように自分中心の久米と狭い部屋の中で夕食を共にするのは、いくら和やかであっても、神経がじわりと疲れていくようだった。

 会話に少し間が空いた。ちょっとした中休み。
 めいめいが料理に箸を伸ばし、口を動かしている。
 メザシをかじりながら、ぼそりと西脇が口を開いた。
「ところで久米先生。例のアトリエの新築工事。もうまったくない話なんでしょうかねぇ」
「ああ。もうそのつもりはありません」
 久米のはっきりとした応えに、西脇はフウッと鼻から息を吐き出す。
「しかし、せっかくこの屋敷をお借りになったわけですし、生駒先生のすばらしい設計図もできあがっているわけで……」
 西脇が視線を寄こしてきたが、生駒としては無関心を装うしかない。設計者がとやかく言う話ではない。
「もったいないことですなぁ。この岩穴で絵を描かれるとしても、納屋を改装なさるとしても、なにかと不都合があるんじゃないでしょうかねぇ」
 アトリエ工事を諦めきれないのだ。
「いえ。絵なんぞはどこででも描けます」
と、久米はそっけない。
「そりゃあ、先生の腕前のことですから、そうなんでしょうけど。しかしやはり、その場の雰囲気やそれなりの設備なんかも重要なんじゃないかと、素人ながらに思うんでございますけどねぇ」
 この回りくどいねちこさが、彼の営業スタイルなのかもしれない。ただ、久米がアトリエの新築を断念した理由、つまり佳代子があんな死に方をし、猫の首が地鎮祭をぶち壊しにしたことなど、とうに忘れてしまったかのようなものの言い方だとも言えた。
 久米がそのことでどれほど苦痛を味わったのか、ということにも関心がないのかもしれない。
 久米が不機嫌にならねばいいが、と生駒は案じた。しかし、これに反応したのは久米ではなく、小学五年生の少女、綾だった。

「おじさんは佳代子おねえさんが死んで、悲しくないんですか?」
 西脇がまぶたを瞬かせた。
 そして目を剥き、綾を睨みつけた。
 しかし綾はひるむどころか、驚くべきことを口にした。

「いくら連れ子だからって、佳代子おねえさんはおじさんの娘でしょ!」

 少女の鋭い声が岩穴の中で反響した。
 そして静まりかえった。

 久米が目をせわしなく動かして、綾と西脇を交互に見た。坂井も道長も扇子の動きを止めた。健治が口をぱくつかせ、ぴたりと西脇に目を据えた。仙吉さえも口を半ば開け、中のものを見せていた。

「こら、綾、つまらないことをいうな」
 橘が慌ててたしなめたが、綾は頬を紅潮させて西脇を睨みつけたまま。
 導火線についた火がちりちりと燃えているような短い沈黙。

「かわいそう」
 それを破ったのはまた綾だった。
「私、佳代子おねえさんに誰にも言うなって口止めされてたんだけど」
 西脇が腰を浮かせた。
「言っていいことと悪いことが」
「佳代子おねえさん、あんなに優しい人だったのに、おじさんは仕事のことしか考え……」
「なにをいうか!」
「だって、そうでしょ!」
 久米が両手を広げ、エスカレートしそうなふたりに聞かせるために、落ち着いた声を出した。
「それは知らなかった。まあ、采さんの遠縁の人だろうとは思っていたが、西脇さんの娘さんだったとは」
「いえ、籍は入っておりませんのでね。妻の連れ子には違いありませんが」
 綾がまた噛みつく。
「おねえさんはおじさんに嫌われているって、悲しんでいたんだよ!」
「悲しんでなぞおらん。むしろ……」
 西脇が言葉を飲み込んだ。
「むしろ、なんなの!」
「ここで働けるようになって喜んでいただろ」
「おじさんら家族と他人のふりをして? うれしいはず、ないじゃない! おねえさんは一所懸命、おばあさんのお世話をしてたけど、でも寂しかったんだよ! 私もここへ来たとき、最初はひとりぼっちでとっても寂しかった」
 綾の声が震えていた。

「せっかくお友達になれたのに……。あんなふうに死んでしまって……。なのに、他人事みたいに、お葬式もしてあげないなんて……」
「ふん」
 私生児が、と言いかけて西脇はさすがに口が滑ったと思ったのか、あわてて咳き込むふりをした。
「なんてこと……」
 綾の言葉はそれ以上、声にならなかった。

 代わって声を荒げたのは健治だった。
「自殺したにしろ殺されたにしろ、そんな言い方はないでしょう!」
「殺されたんじゃない。自殺だ。自業自得……」
「誰が自殺したなんてことをまともに!」
 健治がいきなり立ち上がった。
 道長が色めきたち、久米も聞き捨てならないと思ったのか、三人が同時に声をあげた。
「どういうことですか!」「それは言い過ぎでしょう!」
 たじろいだ西脇が、
「せん……」と言いかけて言葉を飲み込んだ。
「なんと! そういうことだったのか! あんたは!」
と、健治が叫んだが、その声は途中で消えた。
 突然、聞きなれない声がした。

 岩穴の入り口から流れてきた、しわがれた重々しい声。
 短い言葉が部屋にいる全員の耳にはっきりと届いた。
「た た り じゃ」

 全員がぎょっとして振り向いた。

 老婆がひとり。入り口を少し入ったところに腰を下ろしていた。
 いつからそこにいたのか、岩穴の中のものたちが凍りついたように見つめる中、老婆は彫像のように動かない。
 かがり火が逆光となって小さな体の線がくっきりと浮かび上がっていた。

「どちらさんですか?」
 ようやく久米が問いかけた。
「さっきの権現さんの話も、アマガハラノの話もおもしろかったぞ。村の年寄りなら誰もが知っている話じゃ」

 老婆は久米の問いには答えようとせず、そういって口を開けて笑った。
 振り乱した白い髪を載せた頭が揺れた。
 そして濃い緑色の着物の袖をすっと上げ、曲がった指を誰に向けるともなく差し出すと、再び告げた。

「祟りじゃ」

 あまりに芝居じみて、映画の中でしか聞いたことのない言葉……。

 しかし、夜、こんな山奥の岩穴の中で耳にすると、赤い炎を上げているかがり火を背にしてうずくまっている老婆の口から繰り返し聞かされると、意味を持ったひとつの言葉としていやおうなく胸に沁み込んでくる。
 恐怖心が湧いたわけではない。叫びだしたい衝動が生じたわけでもない。
 雨に濡れる苔のように、生駒の胸は妙に平静だった。それでも視線は老婆に釘づけになっていたし、視界は狭まり、ぽっかりと開いた岩穴の入口と老婆の姿だけがクローズアップされているような錯覚にとらわれた。フワリと、幻想の世界に引き込まれたような気分がした。

「ちょっと!」と、久米が腰を浮かせた。
 明らかに狼狽し、瞳は潤み、怯えの色があった。
 猫の首を掘り出したときに見せた色に似ている。
 助けを求めるように部屋の中を見回したが、老婆に何者かを質そうとするものはいない。
 久米が矢も盾もたまらず立ち上がったとき、また老婆の口が動いた。

「利郎」
 視線が一斉に西脇に向かう。
「周りのことに気を配れ。いよいよ、采家のものとして、おまえの務めを果たすときじゃ。よいか」
 西脇が口をぽかんと開けたが、たちまち苦りきった顔になる。
「綾よ」
 老婆は次に少女の名を呼んだ。
「はい」
 綾に視線が移動する。
「話してあげなさい。呪いの話を」
「え、私が?」
 綾は驚いたようだったが、もっと驚いたのは父親の方だ。
「綾! やめなさい!」
 そう言われた綾は父親を睨みつけると、さっと立ち上がった。
「私、もう帰る」
 老婆の前を足早に通り過ぎ、出て行く綾。
 娘を追って橘もあわただしく久米に礼を述べて出ていってしまった。
 と同時に、老婆も姿を消した。
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