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ノブ、ずるいやん 作者:奈備 光
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第 4 章 「ギンバエ」

「次は僕が」
 宮司が口を開いた。年齢は三十路に入った頃だろう。村人には珍しく、さほど日に焼けておらず整った顔立ちをしている。

 生駒はこの男にも会ったことがある。ちょうど一年前、久米のアトリエの新築工事の地鎮祭でのことだ。祭場に宮司として登場したのが、この男、采健治だった。

 あの日起きた出来事は、脳裏に鮮烈に焼きついている。その記憶に伴ってこの男の印象も残っているのだ。しかしこの男の残像は、あの事件の舞台装置のひとつである、ピカピカした若葉色の狩衣をまとい、烏帽子をつけた宮司の姿としてであり、生身の人間である健治の印象としてではない。

 今夜の健治はクリーム色のサマーセーターに白いスラックスをはいて、窮屈そうに長い足を折り曲げている。胸ポケットから携帯電話のストラップが覗いているが、この山奥の村には電波は届かない。ライトバンに商売道具の祭壇などを積み込んで走りまわるときなどには重宝するのだろう。

 久米が健治を、このあたり一帯の神社を統括する宮司で、もちろん大西村の岩代神社の宮司でもあると、改めて紹介した。
「お忙しいんでしょう」
と、道長も声をかける。
「いえいえ。各神社で年に数度の祭礼があるくらいで。最近は婚礼もないし、地域全体がどの業界も不景気ですから」
 そう応えて、ざっくばらんに分けた豊かな髪に手をやった。

「僕がする話は、皆さん、もうよくご存知でしょうし、西脇おじさんや仙吉さんの方が適任ですが、一応分担ということで話をさせてもらいます」
 八重歯が覗く笑顔で堅苦しい前置きをした。
 健治は西脇利郎や大葉仙吉と同様、この屋敷の本来の持ち主である采家の一族である。健治から見れば、ふたりは父親の従兄弟にあたる人物ということになるらしい。
 健治がメモを取り出した。
「おっ。そんな準備までしてきてくれたんですか。それは恐縮です」
 久米が健治の手元を覗き込もうとした。
「あっ、いえ。ポイントを書いてきただけです。言うことを忘れるといけないので。僕はすぐにあがってしまうたちなんですよ」
「まあ」
 嫌味に聞こえなくもない道長の声に、健治はせっかく書いてきたメモをポケットにしまいこんでしまった。

 采家。
 母屋の建物は間口十二間、奥行き六間。上手背面に角座敷を突出させた形式を持つ入母屋造りで屋根は茅葺き。周囲のひさしは本瓦葺き。平屋ではあるが棟が高く、軒下に連続した明り取りの小窓があることで、広い屋根裏部屋があることを示唆している。すなわち、周辺の農家とは明らかに異なる形式をもち、良質で洗練された意匠を有している建物である。
 間口のほぼ中央に玄関があり、両側に広縁のある座敷が連なって……と、健治は各部屋の説明を始めた。
 道長が健治の話に割り込んだ。
「お屋敷の各お部屋に私たちで名前をつけたのよ。主な部屋だけね」
 道長は健治の長話に一区切りをつけようというのだろう。
「玄関の正面はカラの間。なにもないから。向かって左は舟底の間。襖に船の絵が描いてあるから。その奥が松の間。お庭に立派な五葉松があるでしょ。その横の裏庭に面した部屋が仏の間。以前、お仏壇があったのね……」

 順に説明していくのだが、これとて生駒には馴染みの名前で、新味のある話ではない。
「そして一番広い座敷が鶴の間。今、久米さんが寝ている部屋よ。反対側の角座敷、千寿さんが暮らしてらした部屋が塔の間。そして増築部分が奥座敷。佳代子さんがいた部屋ね。離れはというと、手前から単純に前の間、中の間ときて、奥の座敷が鮎の間。どう? 分りやすいでしょ」
 道長はこれで健治の長い解説を終わりにしたいようだ。

「なかなかいい感じじゃないですか。なんだか、料亭みたいですけど」
「フフ。いつのまにかそう呼ぶようになったのよ。片付けなんかをするとき、呼び名がないと不便だったから」
 健治は頷くだけだ。
「そうそう、昔のお台所は若い人たちは飯炊き土間なんていって、新しいキッチンとは区別して呼んでたわ」
 久米もただ頷いている。道長の話の腰を折るのは気が引けるのだろう。
「それ以外にも奴隷部屋とかお仕置部屋とか拷問部屋とか、小さい部屋にも変な名前をつけておもしろがっている連中もいたけど。あ、そうそう、ここはなんて言ってたか、ご存知?」
「いえ」
「岩牢」
 道長はフフと笑って、生駒に流し目を送ってきた。あからさまに首を回して、この話には飽きたわね、というサインを出している。

 しかし、健治はそれに気づかない。再び話し始めてしまった。
 屋敷の建物は、国の重要文化財として登録されるという話も出たことはあるが、他人に出入りされるのは困るといって断ったといわれている。府の調査では母屋の屋根裏から古い天井板が見つかっている。幅三十三センチ、長さ百五十センチ、厚さ六センチほどの杉板で、「寛保元年酉卯月 采清衛門西村 大工久吉削之」と墨書されていた。つまり、一七四一年の陰暦四月に西村の采清衛門が施主となり、大工の久吉がこの建物を建てたということである。
 坂井が生あくびをかみ殺した。
 そうやく場の気分を察したのか、健治の声のトーンが変わった。
「久米さん、今日拝見したら、畑が少し復活していますね。僕が小さいころにはあそこにゴマなんかが植えられていましてね。中庭で乾かして、種を落として。そんな光景を思い出しましたよ」
「いやぁ、見よう見まねです。畑なんていえるほど立派なものじゃありません。仙吉さんに教わりながら、菜っ葉なんかを植えてみただけのことです」
 ようやく健治の自慢話は終わりだ、と思ったが、まだそうではなかった。この若い宮司は村で作られていた主な作物についての説明を始めたのだ。

 生駒は健治の話から関心が薄れていった。
 代わりに蘇ってくるのは昨年の出来事。さっき蛍が服にとまったとき心に浮かんだ断片的な残像が、まだ心の隅に留まっていたのだろう。健治の横顔を眺めていて、あのときの心境も甦ってきたのだ。

 そして気がついた。
 明日の朝で、あれからちょうど丸一年になる……。

 母屋の前庭の奥、アラカシの木立を抜けると比較的まとまった平地がある。かつては鶏小屋などがあったらしいが、今はまったくの空き地で、湿りけのある土にガマやチガヤなどがまばらに生えているだけだ。周りをコナラやクヌギなどの落葉樹に囲まれ、あたかも林の中の広場のようで、母屋や離れとはまた違った雰囲気を持つところ。
 よく言えば、流行の別荘地のような雰囲気だといえる。しかし、陰気だと感じる人もいるだろう。それは取り囲んでいる林がまったく手入れもされないままに放置されているためであって、下枝を払い、樹形を整え、不要な幼木などを抜けば、見違えるように明るく気持ちのいい林になるはずだ。
 生駒はその土地に久米のアトリエを設計したのだった。

 一年前のあの日、空き地に紅白の幕が張り巡らされ、仮設のテントが設営されていた。
 生駒は祭場に並べられたパイプ椅子の最前列に、かしこまって座っていた。

 左隣には工事を請け負う六島建設の森口所長、右隣には中央の通路を挟んで施主である久米荘一、その右隣には来賓の町会議員が座っていた。後方には、西脇利郎や大葉仙吉、そして坂井や道長も座っていたと記憶している。

 地鎮祭は六島建設の営業担当者の司会で始まった。
「祝詞奏上。皆様、ご起立ください」
 宮司である健治のよく通る細い声が式場に流れ始める。
「此れの所をいつのいわさかといわひ定めてをき奉る、掛けまくも……」

 祭壇がしつらえられ、酒や野菜が供えられている。宮司は腰を半ばかがめるようにして、巻物に書かれた文章を読み上げた。
 久米が頭を垂れて祝詞に聞き入っていた。

「かしこみかしこみまほさく……」

久米は二メートル近くもある巨漢で、一見痩せ型に見えるが実は肩幅も広く骨太で、引き締まった体をしている。髪はいつも通りきれいに七三に分け、真っ白なジャケットを着こなし、こういう晴れの場では特に存在感が際立つ。並んで立つと、もともと華奢な体型のくせに腹だけが中年太りしてしまった生駒がどうしようもなく貧弱に見えてしまう。

「この度、久米荘一が新しいアトリエを六島建設が請負ひ建てむとして、此の所の荒草木根を刈除き大石小石を拾ひならして、今日のいく日のたる日にしもことしずめ祭を慎み敬ひとりおこなはむと……」

 祭壇の周りを大きなギンバエが飛び回っていた。
 このハエ一匹が羽音を唸らせているだけで、行事の奥ゆかしさが損なわれていた。司会者がどうにかハエを式場から出そうと、時々手で追おうとするが、ハエはますます激しく飛び回り、神経を逆撫でする音をたて続けていた。

「四方祓い!」
 宮司は神前から切麻きりぬさを恭しく取り上げると、紅白の幕から一旦退場する。
 数日来降り続いている雨が祭場のテント屋根を重たげにたわませ、雨粒がテント地の上をツーと流れている様子が内側からも見えた。
 現場用の仮設クーラーがブーンという騒々しい音をたてていたが、テント内の気温はぐんぐん上がっていく。蒸し暑い。生駒は締め慣れないネクタイを少し緩めた。
 列席者の頭の上を相変わらずハエが飛び回っていた。

 六島建設の現場担当者がヒノキの折敷に白手袋を載せて運んできた。それを久米、生駒、森口の順に取っていく。
 宮司が戻ってきて着席した。
「刈初め(かりぞめ)の儀!」
 ここからが本番。地鎮の行事である。
「設計事務所、有限会社アーバプラン、代表取締役、生駒延治殿」
 司会の声に従って立ち上がり、神前に進む。宮司の手から忌鎌を受け取り、金幣に向かって一礼。傍らに設けられた盛砂の前に立つ。
 そしてゆっくりとした動作で前屈みになり、細い透明なプラスチック容器に差し込まれた草を左手で掴んだ。
「えい、えい、えーい!」
 鎌を左から、右から、左からと順に振り、刈る所作をして草を引き抜いた。草はごく普通の茅で、奉書で巻かれ紅白の水引で結ばれてあった。
 生駒はそれを盛砂の横に置こうとした。が、そこにハエが止まっていた。そして、ふと、この場に不似合いな臭いを鼻腔の奥に感じた。草を置くとハエはまた飛び立ち、羽音をたてた。

「穿初め(うがちぞめ)の儀! 施主、久米荘一殿」
 久米の巨体が立ち上がると、祭壇の前が急に狭くなったように感じた。しかし緊張しているのだろう。宮司から忌鍬を受け取った久米は、あわてたようにパタパタと足を動かし、盛砂の前に立った。
 顔が紅潮している。生駒は、世慣れた久米でも緊張することがあるのだと、少しおかしかった。付き合い始めて十年ほどになるが、初めてかすかな優越感と親近感を持った。久米はぎごちなくガバッと前かがみになると、大きな掛け声をかけて勢いよく鍬を盛砂に突き立てた。

 ザクリ。



 打ち水をされて湿った砂が、鍬の刃の形を残してきれいにえぐり取られた。ザクリ。
 久米がかき出した砂が生駒の引き抜いた草にかぶさった。そして三度目。
 ザク。

 鍬が硬いものにあたったかのように、一瞬砂の中で止まった。久米が手首で鍬を返し、強引気味に砂を掘り取った。

「あっ」と、隣に座っている森口が小さな声をあげた。
 掘り取られた穴の中から転がりでたもの……。
 鼻腔に先ほどの異臭がまた入り込んでくる。

「ぎゃ!」
 久米が鍬を投げ出し、のけぞって大きく一歩後ろに下がった。

 腐ったものの臭いがさらに強くなる。ハエが狂ったように飛び回る。
 森口がさっと立ち上がった。
 屈みこんでその黒いものを確認するやいなや、白手袋をはめたままの手でおもむろに砂を掻き分け始めた。
 手がかすかに震えていた。
「申し訳ございません!」

「盛砂に異物が入っておりました!」
 ぴょんと立ち上がり、振り向きざまに森口は言うと、盛砂を出席者の目から隠そうとするかのように両手を広げた。
 白手袋の指先に赤黒い染みがついていた。
「皆様! 地鎮祭は一時中断させていただきます。いま一度、控え室のほうにお戻りください。不手際、まことに申し訳ございません!」
と、ほとんど叫ぶようにいった。

 生駒はそのときすでに腰を浮かしていた。森口があらわにした黒い物体を見て、それがなにかをすでに理解していたのだ。

 乾いた血が黒い毛に絡みついた猫の頭部。
 砂の粒が痛々しく張りついた眼球。
 わずかに開いた口から覗いた小さな白い牙の硬く緻密な質感が、獣の無念さを如実に表しているかのようだった。

 宮司、すなわち采健治は立ち上がりざまにパイプ椅子を後ろに倒していた。そして盛砂の異物を食い入るように見つめていた。
 その目には恐怖と驚きが貼りついていた。

 生駒も同じような顔をしていたことだろう。真っ青になって祭壇の前に立ち尽くしている久米の肩を抱くようにして、式場を出ようとした。

 目の隅に、健治が森口を押しのけるようにして盛砂に駆け寄っていく姿が映った。そしてその直後に健治が取った行動。
 このときの印象が、生駒の健治への第一印象、すなわち「奇異な行動をとることもある要注意人物」という印象の元となっている。
 そのときの健治の行動とは、猫の首をもっとよく見ようと、地面に手をついて屈み込んだのだった。
 まるで生臭い匂いを嗅ごうとでもいうように顔を近づけて。

 祭壇の前には脱げた浅沓あさぐつが転がっていた。

 岩穴では健治の話が続いている。あがり症という言葉とは裏腹に、話すことが苦にならない性格のようで、独壇場が続いていた。
「久米さんにこの屋敷を借りていただくことになって、村に活気が出てきました。久米さんがおいでになる週末には、今日のようにお知り合いの方を連れて来られるし、その皆様が、なんと言いますか、勢いのある人ばかりで、村に新しい風が吹いてくるような感じがします」
 健治はそういって久米や生駒たちをを持ち上げてから、祖父の姉にあたる老婆の話を始めた。采千寿という九十四になる女性である。久米が借りるまではこの屋敷の当主であったが、今は、原田の町に建った老人ホームで暮らしている。
 久米はその老女が好きなときに屋敷に帰ってきてひとときを過ごしてもいい、と申し出ているという。

「久米さんのお心遣いには本当に感謝しています。それで今年になってから二度ほど、婆さんを屋敷に連れてきました。やはり自分の家はいいんでしょうね。その後しばらくは元気になるそうなんですよ」
 さすがに健治の話に飽きたのだろう。久米が注文をつけた。
「ねえ、健治さん。神主さんなんだから、神社の由来なんかは? さっき坂井さんからもおもしろい話が出たけど」
「そうですね。でも、正直にいうとあまり知らないんですよ。岩代神社も僕の管轄には入っているんですが、出番がほとんどないものですから。それに最近なんですよ。跡を継げということでサラリーマンを辞めて帰ってきたのは」
と、無邪気に笑った。
「妹の真美が大葉さんのところへ嫁に行きましてね。寂しくなった両親にむりやり呼び戻されました。ハハ」
 ようやく健治の話が終わった。橘が露骨に吐息をついた。

 久米は興が乗ったのだろう。酔いもまわってきたらしく、ピシッと分けた白髪交じりの頭の生え際まで真っ赤になっている。
「不動明王をお祭りしたというのが最初の起源か」
 満面の笑みをたたえて、張りのある声を出した。
「ということは寺院になるはずだが、神社とは。昔のことはよく知らないが、神も仏も、それほどはっきり区別はされていなかったということかな。ところで坂井さん、その山伏が現れたというのは、いつごろのことでしょうかな」
 坂井が話の冒頭に、京に都があった頃だと言ったことをすでに忘れてしまっている。しかし、さあ、と坂井は首を捻る。
 久米はひとり勝手に得心したらしく、大きく頷いた。
「その山伏は神業としか言いようのない術を会得していた。もしかすると役行者えんのぎょうじゃではないかな」
 道長が小さく鼻を鳴らした。歴史家としては承服できかねるといいたいのだ。
 坂井の物語は平安時代以降だ。平家落人の村だという説もある。役行者では時代が合わない。霊力によって何百年も生きたというのなら話は別だが。

 しかし、資産家であり著名人である久米をあえてたしなめるものは誰もいない。しかも久米は性格なのか、長く中央官庁の役職を勤めたものが身につけるものなのか、どんなときでも自己中心主義を貫く男なのだ。

「ふうむ」と、今まで黙っていた西脇利郎が口を開いた。
「左吉が行者に会ったのは、岩代神社の左手の山道の途中ということですな?」
 坂井は首を捻っただけだが、西脇が身を乗り出した。あからさまに久米の関心を買おうとしていた。
「今もその山道はあります。廃れてはおりますが」
 久米の目が好奇心に輝き始めていた。
「しかし、はて、その栗の木のある原っぱってのは、どこのことかな……」
 西脇の自問に、道長が口を開いた。
「でも、もう栗の木は枯れたんじゃないの?」
「ええ、千年以上もの寿命はないでしょうが……」

 西脇利郎。
 この五十過ぎの日に焼けた男は地元工務店を経営しているが、細々と林業も続けているらしく、山のことには詳しいという。

「しかし、行者さんが念を掛けなすった木のことです。今も実を成らせていても、不思議なことやないかもしれません。えっと、なんでしたかな。アヤノコ……?」
 坂井が口を開く前に、道長がスパリと訂正する。
「神の庭アマガハラノ」
「そうそう。それです!」
と、西脇は角刈りの頭を威勢よく振った。

 この男、なかなか抜け目のない目つきはしているが、どことなく生気に乏しい。
 精一杯ざっくばらんさを装っているが、理知的な印象を受けないことでそう感じるだけのことかもしれない。
 ただ、この蒸し暑い中、ただひとり黒いジャケットを羽織っていた。岩穴座談会への参加も営業活動の一環という意識があるのだろう。

 久米のアトリエ工事では、六島建設の下請け業者として名を連ねていた。地鎮祭の会場設営はこの西脇の会社が行ったものだった。
 猫の首事件は彼の不手際ではなかったのだろうが、六島建設からはもちろんその費用は支払ってもらえなかったはずだ。
 しかも結局は、工事全体が中止になっている。運がなかったといえばそれまでだが、それしきのことでも、零細な工事業者にとってはダメージとなったことだろう。
 その点では、生駒はこの営業スマイルの男になんとなく同情してしまうのだった。
「それがどこなのか、明日にでも探しに行ってきますか……。お、そや! 皆さんもいかがです? ご一緒に! ご都合がよければ」
 西脇がひょうきんな顔を作って座を見回した。
「行くわ」

 驚いたことに、真っ先に賛意を表したのは道長だ。作り話であると決めつけておきながら、やはり歴史家の先生ではある。
 久米はもちろん行く気満々。生駒もその気になった。優の目も輝いている。

 西脇が上機嫌で提案した。
「それじゃ、朝飯を済ませてから」
「うむ」
「八時ごろに出発するということでどうです?」
 久米が頷くのを待って、ますます声を張り上げた。
「それにしてもおもしろいことになってきましたな! その佐吉という子。それからどうなったんです? さぞかし、村で鼻が高かったやろうし、その立派な栗の分け前も一番多かったことでしょうな」
 やおら背筋を伸ばす。
「おっ、待てよ。そうか!」
 羽織っていたジャケットを脱ぐと腕を組み、ふんぞり返った。自分の思いつきが気に入ったようだ。
「佐吉の、さという音は、采家のさの音と同じですな。これはもしかすると」
 さすがに頓珍漢だろう。
 健治がフッと笑った。しかし西脇の饒舌はおさまるどころか、あらぬ方へと展開していく。
「全国にある栗の産地の木は、佐吉の栗の木が種木になったものかもしれませんな。それで采家は途方もない財を成したと。違いますやろか」
「ハハハ。ありえます」
 久米が受けてやったというように、手を叩いた。

 蛍の舞う夜。
 岩穴の中で行われる酒会での話題。
 想像を膨らませた思いつきの新説披露に名を借りた営業トーク。
 浅薄さに倦んで、生駒は興味がなくなってきた。
 思考は再び一年前のあの日に戻っていく。



 地鎮祭は延期になった。
 震え上がった久米はパニック状態になった。六島建設の森口としては、翌日にでもやり直しを申し出たいようだったが、いつのまにか施主である久米の姿が現場から消えてしまった。
 困った森口が、宮司である健治に何度も頭を下げた。しかし健治は建設会社の不首尾を責めるわけでもなく、上の空というふうで、バケツの中の猫の首をいつまでも見下ろしていたかと思うと、誰かを探すかのように辺りを見回すのだった。

 地鎮祭が中止なら、生駒には屋敷にとどまる用はなかった。
 工事上のことで六島建設の担当者と打ち合わせることはあったが、とてもそんな状況ではない。
 直会なおらいのために用意されていた折り詰めと缶ビールを受け取って、とりあえずはと母屋の縁側に腰を落ち着けたのだった。

 大葉仙吉が暖かいお絞りを持ってきてくれた。
 いつも久米やその来客の世話をしてくれる村の農夫だ。久米や生駒は「仙吉さん」と名を呼んで親しみを込めている。
 仙吉は特にその日は地鎮祭ということで、雨の降る中を、朝早くから門の前や庭の掃除をしたりして張り切っていた。

「生駒先生、えらいことになりましたなぁ」
 軒下に立ったまま、その言葉とは裏腹に、仙吉は目じりに皺を寄せていつもの人懐こい笑顔をみせた。
 歳は五十七だという。しかし頭はほとんど禿げ上がり、なんとなく曲がった背のせいでずいぶん老けて見える。無精ひげを生やした頬はこけ、節くれだった手が長い貧乏暮らしを物語っていた。ただ、農作業で鍛えられた体は生駒よりよほど健康的な色をしていて、痩せた腕に秘められた怪力を時として見せてくれるのだった。

「あの猫は?」
 話好きな仙吉と話題に困ることはない。それにずいぶん親しくもなっている。
 生駒は気になっていることを聞いてみたのだが、これにはさすがの仙吉の顔も曇らせた。
「野良猫ですがな。佳代子さんがかわいがってるやつでんな」
「へえ。佳代子さんの猫か……」

 宅見佳代子。
 以前から采家に住み、今は久米の留守を預かるお手伝い兼管理人のようなことをしている若い女性だ。

 いわれてみれば、佳代子が庭で黒い猫に餌をやっている姿を見かけたことがあった。
「そういえば、今日は佳代子さんを見かけませんね」
 地鎮祭の手伝いをしている村の婦人たちの中に、佳代子の姿はなかった。
「そうでしたか? そこらにいるんじゃないですかな」
 仙吉はちょっと首を傾げ、
「ビール、冷えたんを持ってきますわ」と、立ち去っていく。

 生駒の眼の前には、がらんとした庭がある。その中央に据えられた大きな平石が雨に濡れている。
 地鎮祭の列席者はもうほとんど引き上げてしまって、なんとなく空虚な雰囲気だ。生駒もそろそろ退出したいと思ったが、ビールを口にしてしまったからには、しばらくここで酔いが醒めるのを待つしかない。

 仙吉がトレイに缶ビールを載せて戻ってきた。
「久米さんはどちらに?」
「はあ。車で出かけられましたけど」
「え? どこへ?」
「さあ」
「いつ?」
「あのことがあってすぐに……」
 久米は慌てふためいて逃げ出してしまったというのだろうか。
「猫の首にびっくりして?」
「はあ……」
 咎めるような生駒の問いかけにあいまいな相槌をうちながら、仙吉がビールを差し出した。
 たかが野良猫の首ひとつ、と言いかけてやめた。仙吉が、
「なかなか久米先生も微妙な立場ですからなぁ」
と、口にしたからだった。

 久米はこの村にとっては部外者である。
 生駒の目にも、まだ久米が村に溶け込めないでいることがわかった。
 久米がそう努めていないというわけではない。村人が久米をまだ受け入れていないのだ。
 都会から来た羽振りのいい画家。しかも元は中央の国家公務員。村人にとっては、どう付き合っていいのか、まったくわからない存在なのだろう。
 久米が連れてきた都会人という意味では生駒も同じだ。生駒にしても、村人が向けてくる刺すような視線を感じたことは、一度や二度のことではなかったのだ。

 そんな中で、村の誰かが久米に嫌がらせをしたとしても、それほど不自然なことではないのかもしれない。
 久米は村人のそんな敵意を敏感に感じ取って、とりあえず今日のところは退散しておこうということなのかもしれない。

「それにしても、いたずらにしてはあくどすぎますよね。地鎮祭の盛砂の中に死んだ猫の首ってのは」
「まったく、けしからんですなぁ」
 仙吉がビールに手を伸ばした。
「どこのどいつの仕業かわかりませんが。あの六島建設の森口という所長、部下に相当嫌われているんとちがいますやろか」
 なるほど、そういう見方もあるのかもしれない。
 しかし生駒は、仙吉が村人を嫌疑の外に出すため、矛先を六島建設内部に向けたのだろうと思った。

 地鎮祭の準備は昨日から始められていたが、盛砂自体は今朝早く作られたものだ。
 作ったのは西脇工務店が雇った職人だが、誰も盛砂に近づけなかったかというとそうでもない。屋敷には多くの人が出入りしていた。工事業者の社員に混じって仕出し屋や久米が呼んだ遠来の来賓などもいた。しかし、そのほとんどは村人である。久米は多くの村人を招待していたし、手伝いに来ていたものも多かった。

 猫の首を盛砂に入れたのは村人に違いない。
 敵意の強さを感じる。
 生駒はそう思い始めていた。

 仙吉は雨が上がったといって、庭の片隅で草抜きを始めている。善良なだけがとりえの腰の低いこの男にそんな意見を披露しても、そんなことはないだろうとあいまいな笑みを浮かべるだけだろう。
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